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2019-08

「柳宗悦と京都〜民藝のルーツを訪ねる」 - 2019.01.10 Thu

世の中にはこんな偶然もあるのかと、思った。たまたまある宴会でおとなりにすわった方と、やけに話があうので驚いたが、なかでも柳宗悦とか民藝とか、李朝陶磁の浅川兄弟とか、、、ちょっと私的にド・ストライクなんですけど、、、、の話に発展したのである。そして後日送っていただいたのがでたばかりのこの本であった。



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柳をはじめて知ったのは10年くらい前、大阪日本民藝館での「茶と美」展であった。それから主に柳と茶道に関する本、表題の「茶と美」をはじめ読みあさり、民藝を知り、ひいては李朝陶磁の美しさへ柳を開眼させた浅川兄弟を知り、(浅川巧さんの墓参りに遠くソウルまで行ったという、、、(^_^;)それが現在の李朝好き、高麗茶碗好きにつながっているのだから、私もかなり彼の影響を受けていると言っていい。
私はどちらかというと、民藝そのものより、柳と茶の湯の関わり方に一番興味がある。彼は茶の湯そのものには惹かれこそすれ否定しているわけではなく、当時の(現在も、だが)茶道のあり方についてはかなり強く批判してしている。それによって茶人のあいだでも賛否両論ある人なんだが。


民藝というと、東京での活動のイメージが強いのだが、柳は関東大震災のあと、大正13年から昭和8年までの約9年間、京都に住んでいたことは意外と知られていない。この時築いた人脈がのちに「民藝」として結実するもとになった、という柳・民藝と京都との関わりに特にスポットをあてた本である。
私も、柳が住んでいた吉田にある家(わりとご近所)が売りにだされた、というニュースが数年前、京都新聞に載って、え?柳って京都に住んでたの?と驚いたくらいの認識であった。

第一章は日本民芸館学芸部長・杉山享司氏による柳のバイオグラフィー的な章。
濱田庄司を介して河井寛次郎との出会い、黒田辰秋らと作った上賀茂民藝協団、最初で最後の「日本民藝品展覧会」、雑誌「工藝」の刊行など、すべて京都時代のことだったとは驚きである。

第二章は同志社大学文学部講師・土田眞紀氏による柳と同志社との関わりや、当時生まれたばかりの民藝を惜しみなく支援した京都人脈について。特に印象的なのが当時の毎日新聞京都支局長の岩井武俊の存在。自らも考古学者であり、学界、宗教界、政財界、広い分野で尊敬され影響力をもった人であるが、彼の初期民藝へのつよいプッシュなくして、民藝はここまで育たなかったのではないかと思う。

第三章は河井寛次郎の孫にして寛次郎記念館学芸員の鷺 珠江氏による柳と寛次郎の出会いと家族ぐるみの付き合いの思い出など。最初はお互いに反目していた二人だが、はじめて寛次郎が柳の家を訪ねた時、柳邸にあった木喰仏を前にして言葉も出せぬくらい感動し、以後意気投合して生涯分かちがたい民藝の同志となったエピソードは有名である。5年ほど前、鷺さんを囲んで寛次郎記念館で寛次郎の茶碗でお茶を楽しむという会があったのを思い出す。

第四章は私もときどきのぞきに行くしかまファインアーツのオーナーであり、京都民藝協会理事の四釜尚人氏による「京都民藝散歩」。柳ゆかりの京都の店や土地を写真付きで。実はこの章が一番面白かった。十二段屋とか進々堂京大北門前店とか鍵善とか、有名なところもあるが、え?ここも民藝ゆかり?柳ゆかり?とびっくりする場所もあって、興味深い。ご近所の和菓子屋・平安殿の扁額が富本憲吉だったとは。また、若者に人気のカフェアンデパンダンのある1928ビルが岩井武俊活躍したところの毎日新聞社京都支局の建物であったとは、これも彼を知った後に聞くと味わい深いなあ。



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(柳宗悦展にて  点茶心指  読めば読むほど、特に下の段、ドキッとする)


かくの如く人脈的に京都は柳にとって貴重な場所であったことはマチガイないが、歴史と景観のつまった京都という町は彼にとって、どうだっただろう。この人脈があれば別に京都でなくても他の都市でもよかったのではないかと思わせるそっけなさである。彼自身も「京都は美しい都市だ。場所としては日本中他に比べる所はないと思ふ。併し過去の町であるだけに、物足りない所も多い。」と書いている。結局合わなかったのではないかと思わせる。だから9年ちょっとで見切りをつけて東京へ戻っていったのかも。そこらへんがちょっと残念でもあり納得できるところでもある。


(この本をお送り下さった方と出会えたことに感謝)






「茶の湯の羽箒〜知られざる鳥の文化誌」〜下坂玉起・著 - 2018.12.24 Mon

下坂玉起



下坂さんと茶の湯の羽根については、茶道文化学会でうわさはよくお聞きし、彼女から自作の羽箒をもらった、という茶友もいて、ずいぶん親しみを覚えていたのだが、いまだ面識はないものの、ついに本を上梓されたか!と、待ちに待った、羽箒の本である。

茶道具としては、なにせ生物由来であるから古い物はあまり残っておらず、語られることはあまりなかったので、これは画期的な本だと思う。

「羽箒は茶人みずから作るもの」

利休の時代から、そういわれ、多くの茶人が茶杓と同じように自作していたものが、現在ではすたれてしまった。(遠州流宗家の先代など、自作されていた方もおられるようですが)

私はそういう意識無しで、たまたまよい羽根を手に入れたので作ってみようと思ったのだが、柄の留めをどうするのか、掛緒をつくるのか、羽根の重ね方はどうなのか、紐の結び方は???とわからないことだらけで、流儀のやり方はあるのだろうが、どこにも成書がなく、お稽古用の羽根を見ながらみようみまねで作ってみた。




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左の不細工な3本が自作、右の3本が買ったものである。
分厚い本にはさんで重しをかけてもまっすぐにならず、こんなにかしいだままであるが、プロはこれをどう処理しているのか、までがこの本にあったので、もっと早くに読んでいれば!と残念に思った。ところが、読んでいくうちに利休の時代にも羽根のカーブをそのまま生かした羽箒もあったと書いてあって、うれしくなった。もちろん、ここまではゆがんでなかったと思うが(^_^;

(ちなみに自作の両端はタンチョウの右羽、左羽、真ん中は木管楽器の中を掃除する白鳥の羽根、安かったんだ、これ)



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3枚羽根がそろわなかったので、真ん中に違う羽根をひそませたのだが、そういう作り方もあったとまで書いてあって、快哉を叫んでしまった。

下坂さんは茶人でもあるかたわら、日本野鳥の会元探鳥会リーダーであったという経歴ゆえ、茶の湯の羽箒の元の鳥種へのご興味が強く、それが病膏肓に入る(失礼!)レベルでの研究になり、その成果がこの本になったという方である。

単に羽箒として認識していたものを、鳥の解剖学から見てみると、というのは誰も思いつかなかったことだと思う。羽根に初列風切、次列風切、、などという名前があることすら知らなかった。鳥の種類によっては、どこの羽根かで全く別鳥、みたいな違いがあることも。

そして3枚の羽根の重ね方や、柄の竹皮の巻き方、巻き留めの位置、竹皮の折り返しの端の切り方や、捻ってとめるか、折り返すだけか、紐の結び目の位置は、掛緒の付け方や有無、それらの流派の違い、が図解された最初の数ページは茶人必携の資料ではないかと思う。

茶道史上有名な茶人の羽箒を文献的、あるいは数少ない現存するものを見ての考察は興味深く、これほど茶人達が茶杓と同じくらい心いれをして作ってきた羽箒が、なぜ今まであまり語られてこなかったのか、不思議なくらいである。
遠州なんか、羽箒をたのまれて作ったのに出来が良かったから1本ちょうだいね、なんていうエピソードにはほのぼのしちゃう。

自作して最後まで解決しなかった羽根をまっすぐにする方法が、熱を加える、のであって、熱を加えると痛みそうな気がしていたのに、コテまで使うとは知らなかったわ。

後半の章はその鳥種についての、バードウォッチャー、研究者としてのお話し。

炭手前では「お羽根は?」「鶴でございます。」などという問答があるのだが、鶴などわかりやすいのから、青鸞(せいらん)というナンの鳥か想像もつかないもの、唐国鳥(七面鳥)みたいに名前から鳥種を想像できないものなど、さまざま、その価値もわからないままであったが、言われたときにこの本を参考にすると、よくわかると思う。
個人的にはシマフクロウとか欲しいな。烏の名前が斎名の某お家元のところで見た烏の濡れ羽の羽箒も美しかったので、うちの近所に多数すくってる烏が羽根をおとさないか、狙っているのであるが。


この本を読んだことを機に、多くの茶人の羽箒への関心がさらに高まることを祈る。茶杓作り講習会もあるくらいなので、羽箒作り講習会も是非ひらいてもらいたいものだ。



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最後に、私が購入した、5寸の短めの両羽の羽箒、千家系(切留がとがっている)ではないのは確実だが、どこの流派かこの本と照らし合わせても依然不明。遠州か石州あたりだと思うが。結構ヴァリエーションはあると思われる。




「日本らしさと茶道」〜クリステン・スーラック著〜翻訳監修・廣田吉崇他 - 2018.06.16 Sat

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この本は、日本で10年間裏千家茶道を学び茶名ももっているアメリカの社会学者の学位論文で、原著は2014年、アメリカ社会学会アジア部門出版賞を受賞している。

これを翻訳・監修されたのが「近現代における茶の湯家元の研究」「お点前の研究〜茶の湯44流派の比較と分析」など興味深い研究をされている廣田吉崇さん。

基本、社会学の学術論文なので、「Nation Work」とか「文化ナショナリズム」とか社会学の門外漢には読んで理解するのがつらいところもあるが、この際、ムツカシイ序章は読み飛ばしてもいいと思う。最初ここで難解すぎてつまずいてしまったが、第一章からの日本における茶道の話はおもしろくておもしろくて一気読みしてしまった。あと最終章も後半は読み飛ばし、、、これもやや難解、学術論文としての内容はだから把握できていない(^_^; でもそういう読み方もありだと思う。面白いのだもの。


第1章の「茶を点てる」では茶室の説明から道具、茶会の様子、茶を点てる所作などの正確な客観的な説明。理系の論文を読んでいるような印象で、日本人なら畳とか障子とか、説明しなくてもわかることの解説が入るのが新鮮で、あらためて認識を新たにしたりする。(障子=木製の格子に貼られた紙障子とか)
筆者の茶の先生のお点前の指導の様子の記載もあり、ああ、そうだったのか、とあいまいにしか学習してこなかったこと(そして今更聞けないこと)なども指導されていて、これは日本文化に白紙に近い人だからこそ素直にうけいれられたのかなと思う。それにしても文章から知る限りよい師匠にめぐりあわれたようだ。
茶会の説明で、よくある正客の譲り合いを「積極的かつ精力的なそして面倒な駆け引きをとおしてこの不平等な空間における席が決まる」ヽ(≧∀≦)ノははは、、、
点前の描写もきっちり書かれた教科書よりさらにくわしく(茶道に出会ったことのない外国人への説明であるからして)日ごろの自分のユルイお点前を反省するのである。

外から見るがゆえに奇妙な日本人の思い込みについての指摘もするどい。「日本は四季がはっきりした国だから季節感を大切にしなければならないのに、西欧化した現代の生活は嘆かわしい」というのも、常々自分もそう思ってきたのだが、外からみれば滑稽な思い込みなのかも。
アニメや漫画について(日本の代表的サブカル)外人に質問されたら、知らない人はスルーすればよいが、茶道に関して質問されて答えられなければ自分を恥じないといけない、、というのもなんかするどい。

第2章は茶の湯の歴史について。
茶道が政治的権力者とむすびついていった戦国〜安土桃山、庶民にまで広まった江戸時代、近代の茶道〜近代数寄者、そして戦後の女性の時代へと。ここらへんは復習であるが、そこに社会学的視点がちょっと入るのである。しかし高谷宗範と高橋箒庵との論戦まで書かれているあたりさすがというか、、、(日本人でお茶やってる人でも知らない人の方が多いと思うよ)
そしていかにして茶道は日本の国民的象徴になったのかについて語られる。(、、、で茶道はそうなの??という疑問もありつつ、、)


第3章、4章は茶道の家元制度について。
実はこのふたつの章が一番おもしろかった!(*^_^*)
茶道の家元制度について、特に最大級の流派について、われわれ日本人がうすうす気づいていたけれどはっきり認識しなかったり、あるいははっきり口にだすのがはばかれるようなことをあからさまに書いているのにはちょっとびびった。(当該流派から「禁断の書」にされるかもしれない、、、(^_^; )ので、具体的にはよう書かんけど、現在の家元体制ができあがっていく歴史的要素、それに対する客観的評価などなど。許状制度の金額(挨拶料)の表まで掲載されているのにはびっくりした。

第5章では(後半ははしょった)現代の茶道について
我が愛読漫画「へうげもの」がとりあげられているのはうれしい。
若い富裕層向けの建築デザイン雑誌「pen」をとりあげて、<茶道は男たちが美意識を発露して客をもてなすクリエイティブな遊び>または<日本文化のトップモードだった茶の湯のパワーは次々と新しい創造を生み出していく>という私も日々感じている現代はやりの風潮をも取り上げている(批判的にか?)とはさすが。

というわけで、社会学としての部分ははしょりになったが、それでも非常に面白かった。日本人として教えられなくても感覚的に知っていることや、当たり前のこととして深く考えることのなかったことをあたらに教えてもらった感じだ。

このスーラック博士、ほんまに茶道のみならず日本のサブカルもふくめた文化や歴史についてほんまに造詣の深い方で、たった10年で、ここまで、と驚きを禁じ得ない。現在はロンドン大学で教鞭をとりつつさらなる研究をされているとか、ますますの発展をお祈りする。

そして、翻訳中、いろいろ苦戦されているご様子をちょっと垣間見て知っている私としては、そのご苦労が報われたことにお祝いと、この本にであわせてくれたこと、翻訳監修の廣田さまに深く感謝をいたします。


最後に序章から引用 〜

「今日の茶道は、観客がいないもののスポーツのような余暇活動であり、趣味でもあるものの厳格な階級組織に取り込まれている。儀礼であるがビジネスでもあり、芸術でもあるが決まり事でもある。作為的に日常生活から切り離されつつも、日本的なもののすべての統合体であると主張される。」


「心理学者の茶道発見」 岡本浩一・著 - 2018.01.19 Fri



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著者の岡本浩一先生は、社会心理学者であり裏千家茶道文化賞もとられた茶人でもある。現在裏千家雑誌淡交に「茶道心講」を連載しておられる。
茶道心講の連載は毎月楽しみで、それをまとめた「茶道を深める」、「茶道に憧れる」は茶の道に精進する上での心の座右の書であるのだが、本書は20年前の連載開始のころの最初のころのをまとめたもの。実はこれは未読であった。今回新書版として加筆修正された復刻版を読む機会を得た。

本書の読み始め、「茶道を深める」などとくらべると心理学的専門用語も多く、やや難解な印象もあったのだが、読み進めるうちにああ、やはりいつもの茶道心講だ、とうれしく感じた。むしろ茶道心講の、最初からキビシイ刃を突きつけられている感じではなく、ご自分の経験、日ごろお茶をしていて私たちも遭遇しがちな具体的な状景やなどからはいっていて、やさしい感じだ。ところが2回目読み直すと、こうした経験や具体的事例を、実は心理学的に解析し、より納得させてくれる本ではないかと思い始めた。

例えば、茶事茶会の亭主として、毎回いろんな失敗をくりかえして落ち込むことも多いという事例から、自己受容(不完全も受容する)という概念、自己受容からひいては他者受容、茶の湯は他者受容の場である、という解説、自分では言葉にしたくてもうまくいえない感情の動きも、理論的に解説されると、ああ、そういうことだったのか、と妙に納得がいくのである。そうなるとあれほどむつかしくてスルーした専門用語もなんとか理解しようと思えるのだ。

特に他者受容という概念。
「他者受容が高い人と接すると、自分一人でいるときよりも、自分のことが素直にわかる。ゆがみなくありのままに受容された自分の姿をその人の態度に感得するからである。その雰囲気の中にすわるだけで、自分の本心が自分にわかり、自己受容がはじまる。」
いっしょにいて楽しいのにあとで妙に疲れる人というのは他者受容の低い人なんだそうだ。なんとなくどきっとする。他者受容の低い人は自己受容も低いという。そして、数少ないけれど他者受容の高い方を何人か思い、ああいうふうになりたいなと思う。
それに比べ自分は、、、といじいじ悩むのだが。


もちろん学問的なことばかりではなく、お茶の稽古をするときや、茶事茶会の亭主となるときの自分を励ましてくれる座右の銘にしたい言葉がちりばめられている。

「個性発揮のためには型の習得が必要なのである。型にはまって個性が発揮されないように見える人は型の習得が未だ不十分なことがほとんど」

「稽古と平行して知的好奇心(茶道具にまつわるすべて)を充実させようとする人は、単に点前の手順だけ習えばよいという気持ちで稽古にのぞむ人とでは大きな差がついてくるのは当然である。その差はたんに知識や点前の差だけにとどまらない。全人格的な属性としての教養的態度に通じる。」

自分がめざすことはまちがっていない、言葉にあらわせなかったが、言いたかったことはこれだ、と思う一節。


背筋をのばしてまた勉強、そしてお茶の自己鍛錬をしようと改めて思う。ただ熱しやすくさめやすいのが欠点でいつまで続くか問題だが(自己受容(^_^;?)、本書がくれるような刺激を自分に継続的に与えていかないといけないようだ。




「107年の謎〜プサン迫間別邸の調査記録」木津宗詮(当代)・著 - 2016.12.22 Thu

武者小路千家の宗匠筋・木津宗詮家は初代が松平不昧公に師事し、その後武者小路千家八代一啜斎の門下となったことから始まる。

一番有名なのが、のちに一代限りの宗泉名を貞明皇后から授かった三代目宗詮(聿斎・いっさい)、明治から昭和戦前に茶人としてより、むしろ数寄屋建築家・造園家として活躍した人である。
私でも知っているのは、大宮御所に貞明皇后の命で作った茶室・秋泉亭の設計。後に淡々斎が好んだ秋泉棚(楓の透かしのあるやつ)もこの茶室の名に由来して作られた。


今回当代(七代)宗詮宗匠が上梓しはったこの本によると、宗泉が設計したのはそればかりではなく、よく知っている茶臼山の住友家・慶沢園、ご近所南禅寺畔の看松居(レストラン桜鶴園の中)、奈良高畑・山田安民(ロート製薬創始者)邸棲霞園、延暦寺大書院、興福寺茶室・静観寮、四天王寺茶室・払塵亭、、、などなどなんだかすごい人だったんだ、なんで今までしらなんだ、とびっくりする。


しかも茶人としては、一時武者小路千家家元を預かっていたという功績がある。先代がなくなり当時10歳だった武者小路千家12代(後に愈好斎)が表千家にひきとられ、後に成人して再興するまでの間、家元預かりだった(大阪最後の数寄人財閥といわれる)平瀬露香・息子の露秀からさらに預かったわけである。



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そんな彼が設計した数寄屋のひとつが、現在韓国・プサンにある。迫間房太郎別荘である。時代はおりしも韓国併合(1910年)直後のこと、そういう時代を背景に考えるとさらにこの数奇な運命をたどったこの建築の物語がおもしろい。

そもそも木津家に、聿斎が書いた迫間邸の図面が残っていたことから話ははじまるらしい。当代が聿斎が設計した建築の記録を残していく中で、時代に流され失われていく物、原形をとどめぬ物がいかに多いか、これは今のうちに可能な限り記録に残しておかねばと思われたそうだ。

中でも今年夏に、韓国における文化財指定をはずされ、いずれホテルに建て替えられるらしい迫間邸に関しては記録するには喫緊のタイミング、ということで急遽調査チームを組むことになり、その顛末を書かれたのが本著。



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(出版記念会)



現在旧迫間邸は東菜別荘という名の宮廷レストランになっている。戦後アメリカ軍に接収され、のちに民間払い下げ、高級キーセンハウスとなったりレストランになったりしているうちに改修、改装がかさねられ、一階部分は当時の面影はないそうだが。

ちなみに迫間房太郎という人はプサンで起業し大成功を収め、朝鮮一、二の大富豪になった実業家。(残念ながら歴史的軋轢国民感情もあり、韓国では評判わるいらしいが)

その調査をするのに、当代の獅子奮迅のマンパワー集めは講演会を聞いていてすざまじいものがあり、これだけ短期間にこんな各界のプロフェッショナルを招聘できたのはご人徳のたまものに他なるまい。
建築家、都市研究家、工務店、数寄屋大工、造園家、通訳、韓国の学生、、、などなど。中には当日初めましての方もいたというから、その緊急ぶりは推して知るべし。しかし、、、すごいメンツ!よくこれだけ集まられたものだ。


東菜別荘のオーナーとの交渉も現地の学者さんなどの尽力もあったらしいが、許された時間は約4時間、(しかも30万円要求されたらしい)この時間で、敷地3000坪、建坪200坪の調査を約20人で可能な限りおこなったという。皆が、この日本から来て、彼の地に歴史に翻弄されつつ残る数寄屋建築の記録への、なみなみならぬ情熱を持って、同じ方向を向いておこなったからできた離れ業だったのではないだろうか。

本によせられた調査に加わった人たちの証言はよんでいてその濃密さや時間との戦いの緊迫感が伝わってくる。



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(公演中の当代宗詮宗匠)



まず一番にしたことが棟札を発見すること。見つかった棟札(よく残ってたな〜〜)には昭和3年の上棟と書かれ、聿斎が設計した以後の増築であることがわかったらしい。(聿斎がこの建築のため渡朝したのは明治の末)
昭和3年と言えば、翌年、この屋敷が東本願寺大谷法主、数ヶ月後に閑院宮載仁親王の宿所になる晴れがましい時代の直前である。

調査内容は本著に詳しい。

撮影した文字通り無数の写真の解析で現在の建物の図面を引き、オリジナルの聿斎の設計図と現在のどこが重なり合うのか検討する。気が遠くなるような作業に思われる。

庭の植栽やこれも無数にある石造物、灯籠などの由来(日本製?朝鮮製?などもある程度判明)などもかなり専門的に記録、調査、され、かつての屋敷の姿が浮かび上がってくる様は圧巻。携わった方々の執念、情熱が熱い。



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これは記念会の呈茶席でだされた韓国にゆかりのあるお菓子(鶴屋製)。
銘を「松花(まつはな)」。
中の餡に、韓国でよく食される松の実の刻みが入り、上の黄色い粉は松の花粉とか。


この調査の前後、どうしても手に入らない物があった。迫間家の人々が暮らした時代の別邸の写真だ。

いろいろ手を尽くして(韓国の資料、占領していたアメリカにまで問い合わせ)さがしたにもかかわらずでてこなかったのだそうだ。最後に住んでいた迫間家の人々も、日本に帰ってきていたときに終戦を迎え、別邸に帰ることかなわず、アルバムさえ持ち出すことができなかったのだそうだ。(戦後別邸は略奪にあい、クッション2つ以外なにも残されていなかったとか)

ところがこの本の出版の直前、房太郎の直系のお孫さんがご存命で、奇跡的に連絡がとれたこと、房太郎の弟のお孫さんとも出会えたこと、であんなに探していた写真がでてきたのだ。大谷門主と房太郎の家族が、もう一枚には閑院宮と一族が、幻の母屋の前で記念撮影した写真が!
執念が実現させた感動的な瞬間であっただろうと推察申し上げる。

かくしてそのため、出版が遅れたそうだが、かえってよかったことになる。
運命は切り開くことができるもの、、、なのかもしれない。


現在の日韓関係を思う時、複雑微妙な気持ちになるのだが、そのはざまで消えていこうとする1つの歴史におおいな餞となる一冊であった。




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