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2024-02

「沈黙する伝承〜川上村における南朝皇胤追慕」 増田隆・著 - 2024.01.10 Wed

コロナ前までは、ならまちのはしっこ、璉珹寺(れんじょうじ)にて月一行われる京終さろんでさまざまな切り口の奈良学を拝聴していたが、コロナの3年間は主にオンライン参加であった。昨年末3年ぶり?4年ぶり?にリアル参加を果たした。


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夜はしんしんと冷え込む奈良、ましてやお寺の建築はどうしたって寒い。しかも廊下の席だったので戸外の寒さがじわじわしみてくる。ついに持参したホッカイロをあちこちにはりつけて拝聴と言う仕儀になったのだが、やっぱりいいね、リアル参加は。席はぎゅうぎゅう、満席である。


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この日の講師は増田隆氏、ちょっとだけ面識のある方である。なにやら吉野の山奥の村の話らしい、、、というくらい予備知識なく行ったのだが、もうお話聞いたら面白くて、知らないことがいっぱいでてきてついに講演の元ネタとなったご著書を購入。


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その本を読んでいて、川上村の話おもしろいよ、と通りすがりの相方に言うと、「川上村っておやじ(私には舅)の出身地」というではないか!その集落の大字まで本に載っていてなにやら運命を感じるのであった(おおげさか)。そういえば吉野の山奥出身とは聞いていたが、川上村だったとは!

しかるに川上村は吉野の山奥の集落である。
この地方は古くは中大兄皇子(天智帝)から逃れた大海人皇子(後の天武帝)が鸕野讃良(後の持統帝)とともに雌伏した場所であり、頼朝から逃れる義経と静御前との別れの場所であり、明治維新前夜の志士がかくまわれた場所でもある。吉野の人たちは時の権力に逆らうことになるのを承知の上で彼らを守り切ったのだが、唯一守り切れなかった、と現在にいたるまで悔いを残しているのが後南朝皇胤の若い二皇子。

そもそも<後南朝>って言葉を知らなかった。
後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、幾多の闘争ののちに南北朝が統一されてめでたしめでたし、で教科書は終わっている。南北朝がわかれたのも後醍醐天皇よりも以前にその種はくすぶっていた、というのも初めて知った。(持明院統とか大覚寺統とかそういえば習ったような気もするが、、、)

後醍醐天皇の孫にあたる後亀山天皇(南朝)が足利義満と図って南北朝統一のルールを取り決めたため、北朝は怒って「天皇は南朝北朝交互に」の約束を無視して北朝ばかり即位したため、後亀山帝怒る、そこに不満抱えた武士や公家が加担する、、、、南朝断絶を決めた六代将軍義教の赤松氏による暗殺の混乱。南朝皇胤(後亀山帝の子孫)によるいくつかの小さな蜂起の勃発、ついには禁裏への放火、三種の神器強奪、それに怒った幕府の南朝皇胤潰しは苛烈を極めた。

最終的に後亀山帝の玄孫にあたる一宮(川上村八幡平行宮で即位=自天王・北山宮 即位時14歳)、弟の二宮(河野宮 当時8歳)が吉野の奥で討ち取られ(1457年)南朝は断絶。(享年は不明ながらまだ10代の若さであったと思われる)

討ち取ったのは将軍義教を暗殺したかどでお家断絶されていた赤松家残党、家の復興を懸けて神璽奪還とともに両宮を殺害。両宮をお守りしていた川上村郷士は怒り狂い赤松党を討伐、神璽とともに自天王の首を奪還。

たぶんざっと言うとこんな感じか。(私の解釈なので間違ってるかもしれんし、歴史的には資料がなく不明なことも多いそうなので、興味のある方はこの本を読んでね)


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そして川上村に伝わる伝承の話になる。
両宮をお守りしていた川上村郷士たちは両宮を忘れず、忠誠の証として毎年2月5日(自天王即位の日)、朝拝式を行うこととしたのが翌年の1458年、それが現在にいたるまで行われているというすごさ。

両宮が行宮に移られて以降、いくえにもお守りしてきたのにわずかな油断で赤松党につけこまれ、在所が知られることになり、その若い尊い命を奪われてしまった、その後悔の念たるや、現在まで子々孫々に伝えられ、筆者によると、村の人たちはまるで自分で体験してきたかのようにその話を悔しそうにされるのだそうだ。

朝拝式は宮の御遺品(鎧、兜、太刀など)を前に、参列する郷士は裃姿(参列はかつて筋目とよばれる、赤松党から自天王の首と神璽を奪還した家系の男子のみであった。)、一堂に榊の葉が一枚ずつ渡される。それを口にくわえるのである。
自分たちの口が招いた禍、そのいましめに葉をくわえることにより「何も語らない、誰もしゃべらない」、黙して秘すことが御霊への慰めの姿なのだ。これがタイトル「沈黙する伝承」の意味なのだとわかった。

吉野の山奥でひっそりと、しかし絶えることなく、時代に合わせていくばくかの変化をしながらも続く朝拝式。かつては川上村出身者でなければ見ることもかなわなかったらしいが、平成になって国の無形文化財指定をうけ、式の存続保存のためにその門戸を開いている。筆者も拝見を許され、その体験を写真なども含めてレポートに一章をさかれているので、ご興味あれば是非。

川上村の人たちが近代になっても両宮への追慕、忠誠の念が強いというエピソードを一つ。
両宮の墓所は川上村の金剛寺とされ、宮内省も公認していたが、突然明治45年になって金剛寺は二宮の墓所、一宮=自天王の墓所は隣の上北山村と治定したのだ。川上村の人たちが怒り狂ったことといえば、当時の新聞の天声人語にも載っているくらいだった。(この変更の裏には市井の歴史研究家の運動があり、川上村の人たちは彼を討つべし!といきまいたそうだ。)そして宮内省の役人が無造作に宝篋印塔や墓石などを捨てたことを現在の住民までが憤って語るのだそうだ。

<京終さろん 講座の最後に 演者の言葉>

「榊の咥葉」

何が両宮の若い命を奪わせる結果を導いてしまったのか
自分たち川上郷士が別の土地からの来訪者を信用し
両宮の所在を軽々しく口にしたためである
川上の郷士は川上の者しか信用してはならない
軽々しくものごとを口にしてはならない
語るなかれ 沈黙を守るべし










「目利き〜谷松屋八代戸田露吟覚書」木津宗詮・著 - 2021.08.07 Sat

古美術、骨董のお店で敷居が高くてとてもとても入れないでいる所はたくさんあるが、大阪の谷松屋戸田商店はその最たるものである。というか、店の前を通ったことさえない。大阪美術倶楽部の催しでも、戸田商店のところはなんとなく入りにくくて遠慮しているくらいである。
なにしろ不昧公お出入りでもあった歴史ある道具商で(ご当代が13代目だそうである)かの有名な菊紋黒織部を所蔵しているお店であるし、楽茶碗なら6代宗入までしか扱わないとか、ほんとに敷居か高い。逆に言うとそれだけ超ハイレベルの道具を扱っているということで、古美術会でも茶道会でも一目もニ目もおかれている存在なのだ。

その谷松屋の8代目戸田露吟の覚書を中心に谷松屋の歴史、当時の大阪の様子、扱った道具の詳しい解説、などをまとめた本を木津宗匠が上梓された。


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題して「目利き」(河原書店)

明治維新の性急な西洋化によって日本の伝統文化、中でも茶道文化は苦難の時期を迎えた。道具商もしかりであったが、この時期をのりこえ、谷松屋の復興のみならず茶道文化の復興もその「目利き」の力をもってなしとげたのがこの露吟であるという。

現在も谷松屋がある大阪の伏見町(北浜と湯木美術館の間くらい)は、天正年間秀吉のころ、加賀から移住した唐物屋(文字通り唐物を扱っていた)加賀屋から始まる。その後大阪夏の陣後の復活事業として京都から町人を招致、ここに唐物問屋が集まったという。
その中でも別格とされたのが先述の加賀屋、広島屋、谷松屋三軒とその分家筋であり、「本竃(ほんがま)」とよばれた。(加賀屋、広島屋は廃絶し、現在となっては谷松屋しか残っていないのが逆にすごいな)

ここにおもしろいエピソードが載っている。先述三軒を中心に町内に唐物仲間(ギルド)を作っていたが、幕末になって新規加入がみとめられるようになってから、よその町内の道勝という道具屋が町内加入を希望した。むげにことわるのも角が立つだろうと、仲間三軒は(諦めるよう)法外な加入金を要求したところ道勝はそれをポンと払ってまんまと仲間入りをしたのである。それを悔しがって三軒は年末恒例の仲間「餅つき会」に道勝だけよばないことで溜飲を下げたとか(^_^;
その道勝の場所に春海バカラで有名なあの春海商店が入ったとはおもしろい!

しかし谷松屋も平坦な道をたどったのではなかったようで。
四代目休芳は不昧公御用命、相当な目利きであり多くの名品をおさめ大いに隆盛したが、はっきりした理由は不明ながら夭折した息子の代で谷松屋は人手にわたってしまうのである。
それをたてなおすべく養子に迎えられた6代目初代弥七(露吟の父)が事業を立てなおし谷松屋を買い戻しさらに発展させたという。
かくの如く戸田家は血筋にこだわらず有能な養子をむかえることでサバイブできた家といえる。

兄の後を継いで8代目となった露吟の時代、明治維新は先述したとおり道具屋にとって苦難の時代であった。他の道具屋が次々商売替えをしていく中でも道具屋にこだわり唯一生き残るのであるが、それはその確かな「目利き力」あってのことである。そしてそれは天賦の才能もあったであろうが、血のにじむような努力で培われた物であった。

京都の道具屋に丁稚奉公に出されたとき、奉公先は将来商売敵になるから良い道具は彼にみせないように封印していた。しかし印をみつけた彼は自分で封印紙を作り、封印をあけて物を見て、また封印してもどすをくりかえし勉強したと書いている(犯罪スレスレ?(^_^;)
何分母上の御薫陶がすごくて、5,6才の頃から寝物語に露吟に「道具屋は目利きでなければならない」と言い聞かせ、彼はそんなころから祥瑞と伊万里染付の区別がつかないことに悩んでいたというからすごいわ。

露吟が道具商になって最初の大商いが遠州ゆかりの小井戸茶碗「六地蔵」、借金をしまくって買ったのが弱冠24才の時だという。金沢の豪商?に売り、後に再び買い取り住友家に売る。(現在も住友家泉屋博古館所蔵)2回扱ったので六x2=12で「十二地蔵」とよんだそうだ。

ただ露吟の道も平坦ではなく、若い頃商売が順調なことに慢心して散財をくりかえし、一時文無しのその日暮らしになり、家名を返上逼塞した時代があった。後にその時のことをバネにして明治年間に伏見町谷松屋を買い戻し、商売を飛躍させることになる。祖父にあたる休芳といい、どうして金を持つと散財するかなあと、大金をつかんだことない身は思うのだが。

露吟曰わく、目利きになるには自分の目で見て、手に取り、道具を知ること。ほとんどの名器がガラスの向こうという時代にあって、それもなかなかむつかしい。それに才能もないんだなあと最近思うわ。

最後に戸田家と木津家との関係について。
初代木津宗詮は不昧公の知己を得て、武者小路千家五代の一啜斎の弟子になるが、戸田家4代休芳はこの初代宗詮に茶の湯を学んだ。
露吟も2代目宗詮に師事し、後に武者小路九代一指斎に入門。武者小路を一時預かっていた大阪の実業家・平瀬露香の愛顧もうけており、露吟の号も露香から与えられたという。代々にわたる深いおつきあいがあったから、木津宗匠がこれを上梓されたのもなるほどと思える。

露吟の覚書はそれほど長いものではないが、そこにでてくる道具や言葉の解説がくわしいのもありがたい(これに写真がついていれば教科書として最高!なんであるがそれは本書の趣旨と異なるので贅沢は言うまい)

最後に当代戸田博氏と宗匠の対談が興味深くおもしろかった。長く続く家柄といえど、当代がわかるのはせいぜい三代まで、というのは実感からでた言葉であろうな。






「酒場の京都学」加藤政洋・著〜片手に裏寺町を歩く - 2020.05.20 Wed

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自粛生活では日ごろ読めない本を読む時間ができる。
新刊「酒場の京都学」(ミネルヴァ書房・加藤政洋著)が、おもしろそうなので読んでみた。


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ちょっと行儀は悪いが、蚊もまだでないし、坪庭の縁側がここちよいので座椅子をもちだし読書。ある意味極楽。


京都における一杯飲み屋の系譜を随筆、文学作品、ガイドブック、地図を手がかりにたどった本であるが、懐かしい場所や店名がたくさんでてきて、そういえば、京都に最初にであって半世紀ちかくたつのだから、私自身も歴史の証人であるよな、などと思いつつ楽しく読めたのだった。

特に三高生が戦前集った酒場の話(三高生だった織田作之助、梶井基次郎他、京都帝大卒業生や教官達の随筆や作品など)は、市電が走り回り、学生に鷹揚寛容な京都の町の当時の雰囲気や、学生達のバンカラ気風や、真剣に人生や学問にむきあったであろう青春時代が描かれていて、なぜか懐かしい。(さすがにまだ生まれていないけど(^_^;)

お茶屋お座敷といった京都文化があったせいか、江戸では一般的だった庶民的な一杯飲み屋が、京都にあらわれるのは実は明治末〜大正初めであったとはしらなかった。それ以前は料理屋や茶屋が酒をのませていたそうで、美濃吉、中村楼、東洋亭、菊水など、この時代から現代まで生き残っていて、自分も利用している店の名前がたくさんでてきて、そうか、そんなに昔から、、、と感慨深い。現在は東華菜館になっているが、かつては矢尾政というビアレストランだったと聞いたが、ちょうどこの時代だったのだなあ。
四条大橋の袂のレストラン菊水は、今でもスタッフがクラシックな制服でサービスしてくれるので、往時をしのばせる雰囲気があって好きだが、ここの二階も出来た当初の大正初め、三高生でうめつくされたのだそうだ。

木屋町という一大飲み屋街ができたいきさつも語られていて、学生時代木屋町にいきつけの安い店があった身としてはこれもまた懐かしく思う。もうウン十年も木屋町界隈で飲んでいないなあ。


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(ゑり善と銀行のあいだの細い道が裏寺町の入り口)


一番興味をもって読めたのは、第5章の「<裏寺町>の空間文化誌」である。裏寺町は四条河原町からすぐ、というしょっちゅう行くエリアなので、ここの近代史をたどりながら歩くことができるのだ。
「裏寺町」という名前は以前はなかったのに最近言うようになったと言われる京都の方もおられるが、明治〜大正時代の随筆に「裏寺町通」という名前がでてくるので、正式名称ではなかったにしろ使われていたのは確かなようだ。



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本書から地図をお借りしよう。

京都帝大教官ドイツ文学者・成瀬無極のエッセイ
<この京で一番明るい新京極の裏には暗い京でも一番位通がある。裏寺町通といふのがそれである。。。(中略)。。明るく賑やかな京極通からふとこの裏町へ紛れ込むとまるで晴れやかな眩しいやうな宴会の広間から俄に暗い湿っぽい地下室へ降りたやうな気がする。。(中略)。。寺町といふ名に背かず、東側には寺が多いが西側には不思議な家が軒を並べてゐる。>

そう、ここにはお寺も多いがなんだがよくわからない戦前からあるとおぼしき建物が多い、と以前から思っていたのだ。地図をみて初めてここ、大善寺を中心に枡形になっているんだと知った。周りの貸席というのがおそらくその不思議な建物で、<ぼんや>とよばれた。まあ、どういう意味なのかいろいろさしさわりもあるので、詳しくは本書を読んでね(^_^;



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これが今も残る枡形の中心の大善寺。



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この建物が以前から気になっていたのだが、上記地図で貸席花の家にあたる場所である。現在は普通の民家と思われるがなんとなく昔の雰囲気が残る。



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枡形をぐるっと反時計回りに回ってみると、他にもいくつか名残の建物とおぼしき建築がいくつか。


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現在は一品料理屋になっている建物も、おそらく貸席であったのじゃないかな。



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そしてぐるっと回って大善寺の南側の通の正面にボーリング場。


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ここは地図上では西念寺というお寺になっているが、平成の初め沓掛の方へ移転されたというから、比較的最近までちゃんとお寺あったんだなあ。このエリア、昔ながらのたたずまいのお寺もあるが、ビルの上に引っ越したお寺もあって、新京極、河原町という賑わいの中、まあしょうがない選択かなと思う。


もひとつ、とても興味深かったのが柳小路。
四条からはいってほぼすぐの処にある細い小路だが、最近おしゃれな店がたくさんはいってプチ観光地となっているが、私が学生の時は場末感漂う妖しげな飲み屋街であった。



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ふたたび地図をお借りする。これは昭和9年の地図。
ここに伝説の?三高生御用達の飲み屋<正宗ホール>があったのだ。京都の草分け的な酒場で三高生の寮歌(「紅もゆる」)がガンガン鳴り響いていたという。

大正4年に三高を卒業し同校教授となった英文学者・山本修二のエッセイ「三高生の酒場」
<正宗ホールの経営者は、さる画家を夫としたおしんちゃんを頭として、お仲ちゃんお高ちゃんのチェホフではないが「三人姉妹」であった。江戸から流れてきたという触れ出しで。。(中略)。。素人だけに清潔な感じがあり、三高生がワンサワンサと押しかけたのでたちまち店が繁盛して、次第に酒場を拡張し、東京に支店が出るやうになったのも、みなこれ三高生のおかげであった。>

酒場で寮歌を高歌放吟しつつ酒を飲み、人生を学問を熱く語り、少々ハメをはずしても「(三高生はのちほとんど京都帝大へ)将来出世して日本をささえる人になる学生さんたちやさかいなあ。」と許してもらえた時代、、、(あくまでも想像の域をでないが)そんな学生時代にとても憧れる。



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その正宗ホールも昭和29年の戦後の地図では名前が消えている。



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その正宗ホールの時代の雰囲気が残っていないかと、柳小路へ行ってみる。



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右手のnanaco+のあたりが西館だったところだろうか、こちらは面影はない。



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東側のこの建物、これこれ、この雰囲気、そうちゃうか?


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上記の地図にもあった「静」という正宗ホールの隣にあったお店がまだ残っている!


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調べるとこの静というお店のオーナーが正宗ホールを買い取って店を拡張したとのこと、まさにここだったのだ。そして静の店の中に若かりし頃の有名人たちの落書きが壁にたくさん残っているという記事を読んで、あれ、行ったことあるわ!と、もうかなりぼやけている学生時代の記憶がかすかに蘇ってきたのだ。当時、このあたりもっとうさんくさい雰囲気だったなあ。



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柳小路をでるとお寺とビルの見慣れた風景。

本書で初めてしった「柳小路」の名前の由来。柳が入り口に植えてあるからではなく、柳本氏という方が所有した土地を開発してできた路地だったので、柳本小路だったのが、いつのまにか「本」の字が欠落した結果なんだそうである。こういう歴史を知って歩くとみなれた小路もとても面白いものだ。


(付記)
終章の「会館」
京都には四富会館とか折鶴会館とか、立ち飲み屋がぎゅうぎゅうにつまった建築がある。これもあやしげな雰囲気でなかなか一人で足をふみれられないのだが、お友達のぽんさんなどはホームグランドにしてはる。これは一軒の町家を細分化して利用した物で、ある意味町家の再利用。ぶっ潰して味家のないペンシルビルに建て替えるよりはるかに京都の町並み保存の役にたっているよし、なるほどと納得したのであった。こんど行ってみよう。





「柳宗悦と京都〜民藝のルーツを訪ねる」 - 2019.01.10 Thu

世の中にはこんな偶然もあるのかと、思った。たまたまある宴会でおとなりにすわった方と、やけに話があうので驚いたが、なかでも柳宗悦とか民藝とか、李朝陶磁の浅川兄弟とか、、、ちょっと私的にド・ストライクなんですけど、、、、の話に発展したのである。そして後日送っていただいたのがでたばかりのこの本であった。



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柳をはじめて知ったのは10年くらい前、大阪日本民藝館での「茶と美」展であった。それから主に柳と茶道に関する本、表題の「茶と美」をはじめ読みあさり、民藝を知り、ひいては李朝陶磁の美しさへ柳を開眼させた浅川兄弟を知り、(浅川巧さんの墓参りに遠くソウルまで行ったという、、、(^_^;)それが現在の李朝好き、高麗茶碗好きにつながっているのだから、私もかなり彼の影響を受けていると言っていい。
私はどちらかというと、民藝そのものより、柳と茶の湯の関わり方に一番興味がある。彼は茶の湯そのものには惹かれこそすれ否定しているわけではなく、当時の(現在も、だが)茶道のあり方についてはかなり強く批判してしている。それによって茶人のあいだでも賛否両論ある人なんだが。


民藝というと、東京での活動のイメージが強いのだが、柳は関東大震災のあと、大正13年から昭和8年までの約9年間、京都に住んでいたことは意外と知られていない。この時築いた人脈がのちに「民藝」として結実するもとになった、という柳・民藝と京都との関わりに特にスポットをあてた本である。
私も、柳が住んでいた吉田にある家(わりとご近所)が売りにだされた、というニュースが数年前、京都新聞に載って、え?柳って京都に住んでたの?と驚いたくらいの認識であった。

第一章は日本民芸館学芸部長・杉山享司氏による柳のバイオグラフィー的な章。
濱田庄司を介して河井寛次郎との出会い、黒田辰秋らと作った上賀茂民藝協団、最初で最後の「日本民藝品展覧会」、雑誌「工藝」の刊行など、すべて京都時代のことだったとは驚きである。

第二章は同志社大学文学部講師・土田眞紀氏による柳と同志社との関わりや、当時生まれたばかりの民藝を惜しみなく支援した京都人脈について。特に印象的なのが当時の毎日新聞京都支局長の岩井武俊の存在。自らも考古学者であり、学界、宗教界、政財界、広い分野で尊敬され影響力をもった人であるが、彼の初期民藝へのつよいプッシュなくして、民藝はここまで育たなかったのではないかと思う。

第三章は河井寛次郎の孫にして寛次郎記念館学芸員の鷺 珠江氏による柳と寛次郎の出会いと家族ぐるみの付き合いの思い出など。最初はお互いに反目していた二人だが、はじめて寛次郎が柳の家を訪ねた時、柳邸にあった木喰仏を前にして言葉も出せぬくらい感動し、以後意気投合して生涯分かちがたい民藝の同志となったエピソードは有名である。5年ほど前、鷺さんを囲んで寛次郎記念館で寛次郎の茶碗でお茶を楽しむという会があったのを思い出す。

第四章は私もときどきのぞきに行くしかまファインアーツのオーナーであり、京都民藝協会理事の四釜尚人氏による「京都民藝散歩」。柳ゆかりの京都の店や土地を写真付きで。実はこの章が一番面白かった。十二段屋とか進々堂京大北門前店とか鍵善とか、有名なところもあるが、え?ここも民藝ゆかり?柳ゆかり?とびっくりする場所もあって、興味深い。ご近所の和菓子屋・平安殿の扁額が富本憲吉だったとは。また、若者に人気のカフェアンデパンダンのある1928ビルが岩井武俊活躍したところの毎日新聞社京都支局の建物であったとは、これも彼を知った後に聞くと味わい深いなあ。



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(柳宗悦展にて  点茶心指  読めば読むほど、特に下の段、ドキッとする)


かくの如く人脈的に京都は柳にとって貴重な場所であったことはマチガイないが、歴史と景観のつまった京都という町は彼にとって、どうだっただろう。この人脈があれば別に京都でなくても他の都市でもよかったのではないかと思わせるそっけなさである。彼自身も「京都は美しい都市だ。場所としては日本中他に比べる所はないと思ふ。併し過去の町であるだけに、物足りない所も多い。」と書いている。結局合わなかったのではないかと思わせる。だから9年ちょっとで見切りをつけて東京へ戻っていったのかも。そこらへんがちょっと残念でもあり納得できるところでもある。


(この本をお送り下さった方と出会えたことに感謝)






「茶の湯の羽箒〜知られざる鳥の文化誌」〜下坂玉起・著 - 2018.12.24 Mon

下坂玉起



下坂さんと茶の湯の羽根については、茶道文化学会でうわさはよくお聞きし、彼女から自作の羽箒をもらった、という茶友もいて、ずいぶん親しみを覚えていたのだが、いまだ面識はないものの、ついに本を上梓されたか!と、待ちに待った、羽箒の本である。

茶道具としては、なにせ生物由来であるから古い物はあまり残っておらず、語られることはあまりなかったので、これは画期的な本だと思う。

「羽箒は茶人みずから作るもの」

利休の時代から、そういわれ、多くの茶人が茶杓と同じように自作していたものが、現在ではすたれてしまった。(遠州流宗家の先代など、自作されていた方もおられるようですが)

私はそういう意識無しで、たまたまよい羽根を手に入れたので作ってみようと思ったのだが、柄の留めをどうするのか、掛緒をつくるのか、羽根の重ね方はどうなのか、紐の結び方は???とわからないことだらけで、流儀のやり方はあるのだろうが、どこにも成書がなく、お稽古用の羽根を見ながらみようみまねで作ってみた。




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左の不細工な3本が自作、右の3本が買ったものである。
分厚い本にはさんで重しをかけてもまっすぐにならず、こんなにかしいだままであるが、プロはこれをどう処理しているのか、までがこの本にあったので、もっと早くに読んでいれば!と残念に思った。ところが、読んでいくうちに利休の時代にも羽根のカーブをそのまま生かした羽箒もあったと書いてあって、うれしくなった。もちろん、ここまではゆがんでなかったと思うが(^_^;

(ちなみに自作の両端はタンチョウの右羽、左羽、真ん中は木管楽器の中を掃除する白鳥の羽根、安かったんだ、これ)



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3枚羽根がそろわなかったので、真ん中に違う羽根をひそませたのだが、そういう作り方もあったとまで書いてあって、快哉を叫んでしまった。

下坂さんは茶人でもあるかたわら、日本野鳥の会元探鳥会リーダーであったという経歴ゆえ、茶の湯の羽箒の元の鳥種へのご興味が強く、それが病膏肓に入る(失礼!)レベルでの研究になり、その成果がこの本になったという方である。

単に羽箒として認識していたものを、鳥の解剖学から見てみると、というのは誰も思いつかなかったことだと思う。羽根に初列風切、次列風切、、などという名前があることすら知らなかった。鳥の種類によっては、どこの羽根かで全く別鳥、みたいな違いがあることも。

そして3枚の羽根の重ね方や、柄の竹皮の巻き方、巻き留めの位置、竹皮の折り返しの端の切り方や、捻ってとめるか、折り返すだけか、紐の結び目の位置は、掛緒の付け方や有無、それらの流派の違い、が図解された最初の数ページは茶人必携の資料ではないかと思う。

茶道史上有名な茶人の羽箒を文献的、あるいは数少ない現存するものを見ての考察は興味深く、これほど茶人達が茶杓と同じくらい心いれをして作ってきた羽箒が、なぜ今まであまり語られてこなかったのか、不思議なくらいである。
遠州なんか、羽箒をたのまれて作ったのに出来が良かったから1本ちょうだいね、なんていうエピソードにはほのぼのしちゃう。

自作して最後まで解決しなかった羽根をまっすぐにする方法が、熱を加える、のであって、熱を加えると痛みそうな気がしていたのに、コテまで使うとは知らなかったわ。

後半の章はその鳥種についての、バードウォッチャー、研究者としてのお話し。

炭手前では「お羽根は?」「鶴でございます。」などという問答があるのだが、鶴などわかりやすいのから、青鸞(せいらん)というナンの鳥か想像もつかないもの、唐国鳥(七面鳥)みたいに名前から鳥種を想像できないものなど、さまざま、その価値もわからないままであったが、言われたときにこの本を参考にすると、よくわかると思う。
個人的にはシマフクロウとか欲しいな。烏の名前が斎名の某お家元のところで見た烏の濡れ羽の羽箒も美しかったので、うちの近所に多数すくってる烏が羽根をおとさないか、狙っているのであるが。


この本を読んだことを機に、多くの茶人の羽箒への関心がさらに高まることを祈る。茶杓作り講習会もあるくらいなので、羽箒作り講習会も是非ひらいてもらいたいものだ。



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最後に、私が購入した、5寸の短めの両羽の羽箒、千家系(切留がとがっている)ではないのは確実だが、どこの流派かこの本と照らし合わせても依然不明。遠州か石州あたりだと思うが。結構ヴァリエーションはあると思われる。




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