吉田家無名舎〜最後の吉田塾 - 2021.12.12 Sun
洛中にかろうじて残る伝統的な表家造りの京町家、最近は絶滅危惧種になりつつある。大きなお屋敷が一晩にして更地になってしまうさまを何度も見てきた。

北観音山の鉾町のランドマーク的存在が吉田家住宅だ。ながらく山鉾連合会の会長をつとめられ、前祭後祭の復活の推進力となった吉田孝次郎先生はいまなおかくしゃくと、山鉾巡行全行程を裃つけて歩かれる。
この家はNPO法人の管理もはいり、いずれ京都市に寄贈されるため、町家は残ることに一安心だが、京町家の伝統的な暮らしや文化は継承されていくのだろうか。
(ここで餅つきをした)
それを残しておこう伝えて行こう、と9年前から孝次郎先生のお話を聞く会、吉田塾は始まった。数年前から参加させていただき、いろんなことを教えていただいた。
年末には餅つき、納豆餅を初めてしったのもここだし、祇園祭の山鉾巡行をここの二階から眺め、北観音山の曳き初めもさせてもらった。
宵山の宵に念願の奥座敷でご飯をいただくこともできた。↓ (なつかし〜〜)
一番印象に残るのが、2年前ここでひらかせてもらった新旧乙女茶会である。孝次郎先生もお道具を出してくださったり、炉があくのは10年ぶりだとおっしゃったり、楽しかった〜。
(薄茶席の様子 ↓ )
その孝次郎先生もまだまだお元気ではあるが、少々お疲れやすくなられたこととか、諸般の事情で吉田塾、今回が最終回となった。来年以降はまた新たなこころみをNPOの方々が考えておられるようだが、かなり残念である。後半はコロナであまり参加できなかったし、講座の後の表の間での懇親会が楽しかったのに、それもできなくなっている。
今回は吉田家の建物と先生の歴史を漫談的にお話くださった。
昭和50年ころまで、この大きな表家が看板建築になって下宿屋になっていたとは知らなかった。それを少しずつ元の姿に戻していかれたのが孝次郎先生である。5人兄弟の末っ子で次男だったのに、最終的に最後まで家を守られたのが先生だったのだ。
東京の美術大学で絵画を学び、その審美眼でもって天神市や弘法市で掘り出し物を見つけられる話は何度聞いてもおもしろい。(きっとあちこちの市で先生のお姿は今後も見られると思う。)中でもヨーロッパになくて日本に3枚だけ残されている(北観音山、函谷鉾所有)八つ星メダリオン絨毯の4枚目を発見された話は忘れられない。
(吉田塾の主な開催場所であり懇親会場でもあった表の間)
いつも奥座敷の一番良い場所で晩酌していたお父上が、少し話し相手がほしくなるとベルを鳴らし、相手をすると引き出しにかくしてあったバターをスライスしてご褒美にくれるのが楽しみだった、というお話も印象的だった。
そして!
吉田家で一番私が好きな場所は、、、、
ここなんである。
走り庭。
実は京都に移住する10数年前、一度予約してここのおうちを拝見させてもらった。今より10歳ほどお若い孝次郎先生みずから案内とお話をしてくださったのだ。当時京都に町家風の家を建てるにあたっていろんな町家を見て回っていて、ここの走り庭にどれだけ憧れたことか。残念ながらこんな走り庭は造れなかったが、、、、
それでもこの火袋の準棟纂冪(じゅんとうさんぺき・寺院建築に準じて木組みを見せる工法)は少しだけ取り入れることができた。
このじんとぎの流しも、来年からのイベントとかに備えて新しいユニットを入れることに先生は積極的だ。機能は上がると思うがちょっと惜しい、、、ので写真に残しておこう。
走り庭に面しただいどこの間。昔は使用人がここでご飯を食べた場所だが、この奥の舞良戸に先生の茶道具コレクションがぎっしりなのを知っている。
流しの横には火の用心のお札や正体不明のお札がならぶ。町家のだいどこらしい風景だ。
そして今も現役のおくどさんもこの日は静かにお休み中であった。
現代的機能的生活は快適である。反対に町家での暑い寒いの暮らしは面倒なことも多い。生活していくための作業は多く煩わしい、けれどそこで培われる生活の、ひいては生きるための知恵はなんらかの形で継承していかねばと思う。かといって寒がりの自分に町家暮らしはちょっともう厳しいかなともおもってしまうのだが(^_^;
吉田塾終了で気軽におじゃまできることはできなくなると思うが、また何らかの形でおたずねしたいと強く希望している。
町家ゲストハウスの草分け〜五条通の錺屋さん - 2020.01.31 Fri
錺屋(かざりや)さんという、人気のある古い町家のゲストハウスの存在は知っていた。京都好きブロガーさんたちも宿泊されているようだし。でも市内に住んでいると宿泊する機会も無いので、見る機会もなかろうかと思っていたが、一日限りのオープンハウスデイがあるという情報をMちゃんからキャッチ。そちらのほう(五条室町)にでかけるつてもあって、ようやく見参いたす!

どこにあるのか正確な場所を知らずに交通量の多い五条通り(国道1号線)を歩いていたら、あら、なんだか目を惹くえらいレトロな看板が。
「六神丸」「亀田利三郎」、、、、、
と思ったらここが錺屋さんだった!
なんとほんまに五条通りに面しているのね。こんな大通りに面している町家はもう絶滅危惧種だから、看板がなかったらスルーしてたかも。
玄関=フロント、からいきなり大正時代のカフェー的な和服割烹着の、あまりに雰囲気にマッチしたスタッフさんが迎えてくれてびっくりした。(後にこの方以前陶々舎でお目にかかっていたことが判明)
いつもは宿泊客しか入れないけれど年に何回か、プチちとせ市と称する蚤の市とオープンハウスをされているよし、玄関スペースにアンティーク着物などいろいろ展示。
この町家は大正期の京町家で、建具や照明器具、家具などできるだけ当時のモノを残すようにされているとか。
この町家の所有者は「亀田六神丸」の代々の亀田利三郎さん。現在はここには住んでおられないが、六神丸の会社としては健在である。
当時ここを建てた大正期の利三郎さん、かなりの普請数寄だったらしく、現在客室になっているそれぞれの座敷にスキモノのテイストが残っている。
天井も網代があったり鏡板だったり、、、
この竹が通してあるの、かつては槍とかかかってたりして(^_^;
二重の落とし掛けにも普請数寄を感じるわ。こういうパターン、表千家系の茶室でみたことあるような気がするが、最近記憶があいまいで〜(^_^;
気になったのが、中庭にある茶室?!
腰掛け待合いまである。
のぞいてみると二畳向切中板の席ではないか。
なんでも今はおられないお茶好きのスタッフが自分で考えて、物置かなにかを手作り改修した茶室なんだそうだ。待庵に憧れてそれに似せたとか。(待庵は隅炉だけれど) 天井も竹を使った真行草に準じた材を投入。ここでちょっと茶会のまねごとなどしてみたいね。
こちらは玄関脇の洋室(京町家でよくあるパターン)を客室にしたもの。確かに窓の外の一号線は若干ウルサイかもだが、それも楽しめそうなかわいいお部屋である。私なら爆睡できる。
バスタブはユニットにしてあるが、浴室のタイルは大正期のものとか、これは今では貴重。
二階の客室の窓からは、京都タワーも見える。京都駅がほぼ徒歩圏内というのも、旅行者には魅力的だ。
そして忘れてならないのがキッチン。ここは宿泊客が共同で使えるようになっているのだが、これを一躍有名にしたが某少年週刊誌の漫画。このキッチンが舞台なんですってよ。という前に人研ぎ以前のタイルの流しに萌える。リアルタイム経験者だからね。
大阪ガス製ながらもう廃版になったとおぼしきガスコンロも現役で健在。イマドキの若い人は、このダイヤル式の着火スイッチや、自動湯沸かし器の使い方もわからないと聞く。ああ、昭和は遠くなりにけり。
家の中じゅう、さきほどの割烹着のスタッフさん(町家への愛にあふれておられました)が丁寧に案内してくれたあと、一番いい客室とおぼしき縁側のある部屋へ。本日のみここは喫茶室として解放。
この部屋はかつてご隠居さんの部屋だったそうで、ここにも普請数寄。
さきほどの漫画がおいてあって、それぞれ知らない人同士が漫画を読みながらおしゃべり。飲み物、お菓子いずれも100円とあって、私はハーブティーをいただく。ここのファンの若い方がすてきに着物をお召になっていらしてたのが、雰囲気に妙にマッチ。
こちらは100円のお菓子、いや〜!懐かしいホワイトロリータ!源氏パイ!これ私が学生の時からある定番よね。そうこうするうちにMちゃんつながりのお友達も来て、お菓子をつまみながらさながら女子会になって長居をしてしまった。
ちなみにこの六神丸をみせてもらった。
成分は麝香とか、牛黄とか、熊胆みたいにワシントン条約で手に入らないモノもある(在庫がたっぷりあるらしい)。効能はめまい、息切れ、気付け(気付けってどういう効能かな?)、食あたりなど。しかし値段にもびっくり!まあ、貴重な生薬使っているからね。
(亀田六神丸について詳しくはコチラ)
ちなみに錺屋のこの看板は六神丸の看板をなぞって作ったモノ。そう言えば同じテイスト。
最後に大正レトロの絵から抜け出たようなスタッフさんにお見送りいただいた。
宿泊する機会はないだろうが、ミニ茶会とかのイベントでまた使ってみたいものである。
野口家住宅花洛庵〜cafe FUDAN - 2019.09.19 Thu
油小路四条上ル、京都市指定文化財の野口家住宅・花洛庵が一般公開されると聞いて最終日にすべりこんだ。

野口家は享保年間から代々呉服商を営んでいるお家で、りっぱな表家造りだ。
しかしなんだか様子が違うな、と思ったら、今回の公開は兵庫県立人と自然の博物館企画のWhere culture meets natureの展示会場としての公開だったらしい。
おもての板の間の座敷は京町家らしい良い感じであったが、、、
うぬぬぬ、、、イノシシとか鹿に見つめられるって、、、、
茶室にニホンカモシカがいた日には、、、
これはちょっとどうも(^_^;
このお屋敷のあちこちに展示されている動物の剥製は上記博物館のもの、コンセプトが
<歴史的建造物がもつ空間の趣と自然史標本のもつ美しさを融合させ、日本の自然と文化の関わりを伝える>のだそうだ。純粋に町家を見に来た人にはちょっと仰天の組み合わせだわ。
センチコガネの自然の色の個体差をグラデーションで展示した、これはよかったが。
今回のテーマはJapan colorだそうだし。
残念ながら小堀遠州の伏見屋敷の座敷を移築した、といわれる奥座敷ははいれなかったが、二階にあがれた。
こちらではテーマのJapan colorをメインに、岩絵の具とその原料鉱物の展示がきれい。
そして自然がくれた草木染めで染めた布とその染料となった植物の展示、ここのパートは染司よしおかさんがかんでいるらしい。関連セミナーもあったようだ。確かにこの布は美しい。
呉服商らしい展示としてはこの紅花染めの振袖。
染料となる紅花の展示も
野口家に伝わる大福帳、雑用帳などにも興味がある。
まあ、ちょっと動物剥製はおいといて、町家の雰囲気が味わえたのはよかった。いつか奥座敷も公開されるといいなあ。
野口家をでてすぐのところにある亀屋良長(御池煎餅は亀屋良永)さんの醒ヶ井の地下水をいただく。ここは紙コップまで用意してくれてはる。
もともと名水・佐女牛井(さめがい)は堀河五条あたりにあったのだが、同じ水脈になるのだろう。
さらに足をのばして(バスに乗ったけどね〜)、寺町の古美術いもとさん(わたくし大好き李朝〜民藝系)の奥様がこの9月に開店されたばかりという堀川丸太町近くのカフェへ。
民藝と古い器のcafe FUDAN さんへ。
まだ出来たばかりの新しいカフェ、内装はシンプルでさりげなく河井寛次郎の版画がかかってたりするし、なにげに釣瓶の花入れなども。
お食事メニューも充実、そしてなによりお一人様シートの居心地の良さ。
ちょっと生活圏はずれるけれど、またランチをいただきに来たいわ。
町家でレセプション〜大西常商店 - 2017.05.18 Thu
町家でお能やお茶を楽しむ会として、松原通りの京町家商店大西常商店(扇子製造卸)さんが常の会をたちあげはったのが二年前の祗園祭のころやった。
素謡いの会の田茂井さんや味方圓さんなどの能楽師シテ方のパフォーマンスが見られる他、お茶室でお茶をいただけるうえ、大きな町家を楽しむことができるので、第一回常の会から参加させてもらっている。
年末にはファンであるところの山本太朗画伯のトークもおじゃましたわ。
大西常さんとこでは常の会発足前に二階の座敷(常の会の会場)をきれいにして耐震工事もされたのだが、町家は古いだけあって日々のメインテナンスが欠かせない。今回ふたたび改修を続けるのにかなりの資金がかかることから、資金調達の為、若いお嬢さん(次期当主)がクラウドファウンディングをたちあげはった。

いろいろお悩みもあったようだが、同じく町家を愛してやまないおはりばこさんとか、いろいろな方に背中をおされての立ち上げ。
私も常の会を楽しませていただいているので、ささやかではあるが参加させていただいた。
成立するかどうかご心配だったと思うが、予想以上の多くの方の賛同を得て、見事に成立、しかも達成目標金額をはるかに越える寄付が集まった。町家を愛して、それが日々消えていくのをだまって見るしかないはがゆい思いをしている京町家ファンは大勢いるのです。

改修は早速おこなわれ、そのお披露目と、賛同してくれた人たちを御礼に招くレセプションがおこなわれ、私も末席を汚す。
最初改修を担当しはった田中昭義左官KKの社長さんと大西常のお嬢さん(一児の母、若いよ〜)の今回の改修にまつわるお話を聞く。特に坪庭に面した渡り廊下の壁を大津磨きにした話がおもしろかった。狭い渡り廊下、どうしてもお客さまの帯がすれたりするので、ぴっかぴかつるつるの大津磨き(泥団子と同じ原理か)は家の人にもお客さんにもやさしいのだ。
しかし、技術的にかなりむつかしく、需要が少ないことから技術の継承が急がれる技法だと思う。(ちなみにうちのトイレの壁も大津磨き(^^))今回写真を撮ろうとしたが暗くて上手く写ってなかったのでご披露できない。残念。

(二階から見ただいどこ)
そのあとは下の座敷で宴会。
最初仕出し弁当でもとるのかな、と思っていたら、全くちがって昔の宴会スタイル。昭和の初めまで家でおこなわれていた祝言の宴会はこうだったのではないかな、と思わせるような感じで、お家の方、ボランティアスタッフの方ががんばって作ってくれはったようだ。これがうれしかったなあ。

なぜか知り合いやお茶友さんにもここでであって、お互いになんで〜???とビックリし合う。
京都は狭いよ、ほんと。でもおかげでおしゃべりもいろいろできて楽しかったことこの上ない。

町家好き、あるいは古典芸能が好き、そんな人たちなので、初対面の方でもなにやら通じてお話しができるのも楽しい。

〆は、ここのだいどこに残るおくどはんで炊いたご飯を浅漬けで美味しくいただいたあとのおこげ!!
これに漬け物+お白湯でかっこんだらどれだけ美味しいか!日本人でヨカッタ、とまた思う。

さらにお酒を片手に二階の座敷で薩摩琵琶の演奏も楽しんだ。端午の節句にちなんで武者モノ、那須与一の一節。
薩摩琵琶はどちらかというと三味線に近い。芸妓さんがつま弾く三味線に浪花節を足したような感じか。
そのあと、常の会の常連、こちらで能楽教室もされている田茂井先生も、舞台のあった岡山から急遽かけつけ髙砂の「四海波」の祝言を披露され、会はおひらきとなった。

年間800の町家が壊されていっている現実に、嘆きながら、住んでいる人のことを思えばつぶすなとも言いづらく、京町家の維持によいアイデアはないものかといつも思う。行政はあてにならない。
そんな中、苦労を承知でこうして町家をこのさき100年も200年も残していこうとされる大西常さんの試みはすばらしいと思う。そういう努力を若い世代の方がされているのには驚くと同時に敬意を払いたい。
私ができることは何一つないが、常の会に参加することでなにか少しでもお役にたてたら、と思った会であった。
素謡いの会の田茂井さんや味方圓さんなどの能楽師シテ方のパフォーマンスが見られる他、お茶室でお茶をいただけるうえ、大きな町家を楽しむことができるので、第一回常の会から参加させてもらっている。
年末にはファンであるところの山本太朗画伯のトークもおじゃましたわ。
大西常さんとこでは常の会発足前に二階の座敷(常の会の会場)をきれいにして耐震工事もされたのだが、町家は古いだけあって日々のメインテナンスが欠かせない。今回ふたたび改修を続けるのにかなりの資金がかかることから、資金調達の為、若いお嬢さん(次期当主)がクラウドファウンディングをたちあげはった。

いろいろお悩みもあったようだが、同じく町家を愛してやまないおはりばこさんとか、いろいろな方に背中をおされての立ち上げ。
私も常の会を楽しませていただいているので、ささやかではあるが参加させていただいた。
成立するかどうかご心配だったと思うが、予想以上の多くの方の賛同を得て、見事に成立、しかも達成目標金額をはるかに越える寄付が集まった。町家を愛して、それが日々消えていくのをだまって見るしかないはがゆい思いをしている京町家ファンは大勢いるのです。

改修は早速おこなわれ、そのお披露目と、賛同してくれた人たちを御礼に招くレセプションがおこなわれ、私も末席を汚す。
最初改修を担当しはった田中昭義左官KKの社長さんと大西常のお嬢さん(一児の母、若いよ〜)の今回の改修にまつわるお話を聞く。特に坪庭に面した渡り廊下の壁を大津磨きにした話がおもしろかった。狭い渡り廊下、どうしてもお客さまの帯がすれたりするので、ぴっかぴかつるつるの大津磨き(泥団子と同じ原理か)は家の人にもお客さんにもやさしいのだ。
しかし、技術的にかなりむつかしく、需要が少ないことから技術の継承が急がれる技法だと思う。(ちなみにうちのトイレの壁も大津磨き(^^))今回写真を撮ろうとしたが暗くて上手く写ってなかったのでご披露できない。残念。

(二階から見ただいどこ)
そのあとは下の座敷で宴会。
最初仕出し弁当でもとるのかな、と思っていたら、全くちがって昔の宴会スタイル。昭和の初めまで家でおこなわれていた祝言の宴会はこうだったのではないかな、と思わせるような感じで、お家の方、ボランティアスタッフの方ががんばって作ってくれはったようだ。これがうれしかったなあ。

なぜか知り合いやお茶友さんにもここでであって、お互いになんで〜???とビックリし合う。
京都は狭いよ、ほんと。でもおかげでおしゃべりもいろいろできて楽しかったことこの上ない。

町家好き、あるいは古典芸能が好き、そんな人たちなので、初対面の方でもなにやら通じてお話しができるのも楽しい。

〆は、ここのだいどこに残るおくどはんで炊いたご飯を浅漬けで美味しくいただいたあとのおこげ!!
これに漬け物+お白湯でかっこんだらどれだけ美味しいか!日本人でヨカッタ、とまた思う。

さらにお酒を片手に二階の座敷で薩摩琵琶の演奏も楽しんだ。端午の節句にちなんで武者モノ、那須与一の一節。
薩摩琵琶はどちらかというと三味線に近い。芸妓さんがつま弾く三味線に浪花節を足したような感じか。
そのあと、常の会の常連、こちらで能楽教室もされている田茂井先生も、舞台のあった岡山から急遽かけつけ髙砂の「四海波」の祝言を披露され、会はおひらきとなった。

年間800の町家が壊されていっている現実に、嘆きながら、住んでいる人のことを思えばつぶすなとも言いづらく、京町家の維持によいアイデアはないものかといつも思う。行政はあてにならない。
そんな中、苦労を承知でこうして町家をこのさき100年も200年も残していこうとされる大西常さんの試みはすばらしいと思う。そういう努力を若い世代の方がされているのには驚くと同時に敬意を払いたい。
私ができることは何一つないが、常の会に参加することでなにか少しでもお役にたてたら、と思った会であった。
吉田塾〜富岡鉄斎、、、というよりコロタイプ印刷勉強会^_^; - 2016.11.19 Sat
文化庁の有形文化財に登録されている新町六角下ルの堂々たる表家作りの無名舎・吉田家住宅。

というより、祗園祭の北観音山のご町内といった方がわかりやすい。ご当主は山鉾連合会の会長を長らく務められ、後祭復活をライフワークとされていた吉田孝次郎さん。(いつも山鉾巡行の先頭を裃姿で歩いておられるのがかっこいい)
ここで年に何回かひらかれるNPOうつくしい京都さん主催の「吉田孝次郎が語る連続講座吉田塾」に、やっと参加できた。(なかなか日曜日は忙しくてねえ、、、)

京都に移住する以前から京町家にいたく興味を持っていた私は、わざわざ見学予約をしてご当主のご案内の元、拝見したことがある。しらべてみたら9年前のことだった。
あれからイベントとかもあって、何回かお邪魔した。この家が一番輝くのは祗園祭期間中の屏風祭だろうな。表の格子を外して、ずっと奥の坪庭〜奥座敷までみえる涼しげなたたずまいは、「日本の美しい暮らし」を体現している。
(↓)

(今年の宵山の吉田家屏風飾)

表の間にて。
本日のテーマは「富岡鉄斎」。
鉄斎と言えば近代の人なのでなんとなく、なじみがある。幕末〜明治にかけての文人画家、儒学者。私は主に蓮月尼の元ですごした侍童の時代、彼女およびその人脈に受けた影響というのに興味がある。
鉄斎は三条衣棚あたりの法衣商の家に生まれたと言うから、まさにこのあたり、闊歩していたにちがいない。

まずは吉田家から新町通りをまっすぐ北に約1km、歩いたところの便利堂さんへ、吉田さんを先頭にみなぞろぞろと。(三条富小路の便利堂のショップの場所とはちがうよ)
おりしもそちらで鉄斎展をされていたとか。すでに終了した展示を特別にみせてもらうことになったのだ。
便利堂さんは日本で唯一コロタイプ印刷の技術を残しておられる歴史ある会社(明治20年創業)
便利堂と鉄斎は実はご縁が深くて、彼の画集の印刷を受注し、家族ぐるみのつきあいであったという。展示には便利堂さんに鉄斎自ら贈った原画の他、自社のコロタイプ印刷で複製した作品などが。

ここで我々、ちょっと鉄斎をはなれて、聞き慣れない「コロタイプ印刷」について興味津々。
コロタイプのコロはコロイド=ゼラチン、それの光による硬化性を利用した印刷技術で19世紀のなかばごろフランスで発明されたのだそうだ。
現代の一般印刷のオフセットでは、拡大すると網点という点々が見えるのだが、コロタイプは網点がなく実になめらか。見せていただいた鉄斎の特に水墨画はどうみても印刷にはみえない。
一番感動的だったのは、本物?と思った原稿用紙に薄い鉛筆で書かれた繊細で淡い文字が実は印刷だった!ということ。すごい技術だなあ。

(コロタイプ印刷機械)
しかしながら、なぜコロタイプが廃れたか、というとその厖大な手間!!
オフセットに取って代わられ次々と廃業していく同業者、そして日本で(もしかしたらいずれ世界でも)唯一の便利堂さんは、コロタイプを文化財複製に特化して生き残っただけでなく、見直されつつあるその技術を伝えていこうという試みもされているとか。
ちなみにモノクロが限界だったコロタイプに多色刷りを開発したのも便利堂さん。
美術館の絵はがき屋さん、、、くらいにしか認識していなかったなんて浅はかだったわ。良い勉強になった。

ふたたびてくてく歩いて吉田家に帰る。
ここは二階の板張りの間で宴会用につくらせたとか。ここにご当主のおじいさんが鉄斎に書いてもらったという「豊楽」の軸を拝見。鉄斎74歳の字。(鉄斎は89歳まで生きた)吉田家とも交流があったのだ。

その9年前にお邪魔したときにもここの障子は猫用、あるいは猫が自分であけた穴があったのだが、やはり今もある(^_^;
あの時は猫自体もいて、廊下で昼寝してたっけ、、、と思ったら、、、、

あはは、、、やっぱりいたいた。あの時の猫とは違うだろうけれど。
え?見えないって?では拡大して、、、

うちのシェルと柄がいっしょ。町家には猫がよく似合う。(たぶん)
さて、ふたたび表の間にもどって、吉田家にある鉄斎の軸をいくつか拝見。
ご当主曰わく「鉄斎はきたない絵を描き、へたな字を書く。」よって江戸時代から続くような旧家は(杉本家など)鉄斎の書画をきらって、もっぱら四条円山派などの優美な屏風など所蔵しているが、吉田家のように日清日露戦争以降に台頭した新しい時代の商家の気風にはかえってマッチしたのだ。

ご当主が子供だった時代には、おとなりの逓信病院は三井家の屋敷のひとつ、お向かいは(これは私も壊される前を知っている)松坂屋の大きな建物(↓)、新町あたりはたくさんの表家作りや小さな町家などが軒を連ね、そういう住環境で豊かな子供時代をおくることができた、とおっしゃる。

(2007年私が撮影)
それがつぎつぎと町家は壊され、甍の一文字がびしっと並んだ景色も失われた。
この日も南観音山にあった大きなお屋敷(料亭)が更地になったのを知ってショックだった。昔の暮らしがなにがなんでもよかったとは言わないが、町並みの美しさはもう壊滅状態だな、洛中。悲しい。

なんだか鉄斎の話よりコロタイプとか、洛中の町並みの話に流れてしまったが、吉田さんの講座はそれが面白いのだ。生きた洛中の昭和の暮らしを知ることができる貴重な講座である。
最後に鉄斎の「不言実行」の文字がかかれた盃でお酒をみんなで回し飲み、なんとか鉄斎でまとめてお開き(^_^;!

というより、祗園祭の北観音山のご町内といった方がわかりやすい。ご当主は山鉾連合会の会長を長らく務められ、後祭復活をライフワークとされていた吉田孝次郎さん。(いつも山鉾巡行の先頭を裃姿で歩いておられるのがかっこいい)
ここで年に何回かひらかれるNPOうつくしい京都さん主催の「吉田孝次郎が語る連続講座吉田塾」に、やっと参加できた。(なかなか日曜日は忙しくてねえ、、、)

京都に移住する以前から京町家にいたく興味を持っていた私は、わざわざ見学予約をしてご当主のご案内の元、拝見したことがある。しらべてみたら9年前のことだった。
あれからイベントとかもあって、何回かお邪魔した。この家が一番輝くのは祗園祭期間中の屏風祭だろうな。表の格子を外して、ずっと奥の坪庭〜奥座敷までみえる涼しげなたたずまいは、「日本の美しい暮らし」を体現している。
(↓)

(今年の宵山の吉田家屏風飾)

表の間にて。
本日のテーマは「富岡鉄斎」。
鉄斎と言えば近代の人なのでなんとなく、なじみがある。幕末〜明治にかけての文人画家、儒学者。私は主に蓮月尼の元ですごした侍童の時代、彼女およびその人脈に受けた影響というのに興味がある。
鉄斎は三条衣棚あたりの法衣商の家に生まれたと言うから、まさにこのあたり、闊歩していたにちがいない。

まずは吉田家から新町通りをまっすぐ北に約1km、歩いたところの便利堂さんへ、吉田さんを先頭にみなぞろぞろと。(三条富小路の便利堂のショップの場所とはちがうよ)
おりしもそちらで鉄斎展をされていたとか。すでに終了した展示を特別にみせてもらうことになったのだ。
便利堂さんは日本で唯一コロタイプ印刷の技術を残しておられる歴史ある会社(明治20年創業)
便利堂と鉄斎は実はご縁が深くて、彼の画集の印刷を受注し、家族ぐるみのつきあいであったという。展示には便利堂さんに鉄斎自ら贈った原画の他、自社のコロタイプ印刷で複製した作品などが。

ここで我々、ちょっと鉄斎をはなれて、聞き慣れない「コロタイプ印刷」について興味津々。
コロタイプのコロはコロイド=ゼラチン、それの光による硬化性を利用した印刷技術で19世紀のなかばごろフランスで発明されたのだそうだ。
現代の一般印刷のオフセットでは、拡大すると網点という点々が見えるのだが、コロタイプは網点がなく実になめらか。見せていただいた鉄斎の特に水墨画はどうみても印刷にはみえない。
一番感動的だったのは、本物?と思った原稿用紙に薄い鉛筆で書かれた繊細で淡い文字が実は印刷だった!ということ。すごい技術だなあ。

(コロタイプ印刷機械)
しかしながら、なぜコロタイプが廃れたか、というとその厖大な手間!!
オフセットに取って代わられ次々と廃業していく同業者、そして日本で(もしかしたらいずれ世界でも)唯一の便利堂さんは、コロタイプを文化財複製に特化して生き残っただけでなく、見直されつつあるその技術を伝えていこうという試みもされているとか。
ちなみにモノクロが限界だったコロタイプに多色刷りを開発したのも便利堂さん。
美術館の絵はがき屋さん、、、くらいにしか認識していなかったなんて浅はかだったわ。良い勉強になった。

ふたたびてくてく歩いて吉田家に帰る。
ここは二階の板張りの間で宴会用につくらせたとか。ここにご当主のおじいさんが鉄斎に書いてもらったという「豊楽」の軸を拝見。鉄斎74歳の字。(鉄斎は89歳まで生きた)吉田家とも交流があったのだ。

その9年前にお邪魔したときにもここの障子は猫用、あるいは猫が自分であけた穴があったのだが、やはり今もある(^_^;
あの時は猫自体もいて、廊下で昼寝してたっけ、、、と思ったら、、、、

あはは、、、やっぱりいたいた。あの時の猫とは違うだろうけれど。
え?見えないって?では拡大して、、、

うちのシェルと柄がいっしょ。町家には猫がよく似合う。(たぶん)
さて、ふたたび表の間にもどって、吉田家にある鉄斎の軸をいくつか拝見。
ご当主曰わく「鉄斎はきたない絵を描き、へたな字を書く。」よって江戸時代から続くような旧家は(杉本家など)鉄斎の書画をきらって、もっぱら四条円山派などの優美な屏風など所蔵しているが、吉田家のように日清日露戦争以降に台頭した新しい時代の商家の気風にはかえってマッチしたのだ。

ご当主が子供だった時代には、おとなりの逓信病院は三井家の屋敷のひとつ、お向かいは(これは私も壊される前を知っている)松坂屋の大きな建物(↓)、新町あたりはたくさんの表家作りや小さな町家などが軒を連ね、そういう住環境で豊かな子供時代をおくることができた、とおっしゃる。

(2007年私が撮影)
それがつぎつぎと町家は壊され、甍の一文字がびしっと並んだ景色も失われた。
この日も南観音山にあった大きなお屋敷(料亭)が更地になったのを知ってショックだった。昔の暮らしがなにがなんでもよかったとは言わないが、町並みの美しさはもう壊滅状態だな、洛中。悲しい。

なんだか鉄斎の話よりコロタイプとか、洛中の町並みの話に流れてしまったが、吉田さんの講座はそれが面白いのだ。生きた洛中の昭和の暮らしを知ることができる貴重な講座である。
最後に鉄斎の「不言実行」の文字がかかれた盃でお酒をみんなで回し飲み、なんとか鉄斎でまとめてお開き(^_^;!