彦根散歩〜彦根城界隈 - 2023.02.09 Thu

お多賀さんの帰りに懐かしの彦根に寄る。
学生時代彦根出身の友人がいて、よく遊びに来たのだ。もうほぼ半世紀も前の話。一度久しぶりに行きたいと思って数年前車ででかけたところ、彦根市街は積雪激しく、ノーマルタイヤゆえ即リタイヤとあいなった。やっとこのたび彦根にたどりつけたわけだ。
駅前の風景はもうほとんど記憶にない。この東海道線沿線の景色にいたっても、昔は田んぼばかりだったと記憶するが、すざまじい宅地化がすすんでいるのね。
駅からズドーンとまっすぐ、彦根城の城郭に入る。とはいえ、これはほんの入り口、城郭の中に高校もあれば民家もある。お城までは遠い。
お堀には白鳥やら(これは飼われているのかな)鴨やら鵜やらバードウォッチャーにはうれしい場所。
重要文化財の馬屋、文字通り馬を管理していた場所で、唯一現存する馬屋なのだそうだ。屋根が雪で真っ白。
天守をめざすが、これがけっこうな勾配の階段で息切れがする。こんなにしんどかったっけ、、、?まあ、20代の自分と比べてもはじまらないか(^_^;
来ました!半世紀ぶり!
国宝彦根城天守!
あの頃はひこにゃんなんて未だ居なくて、今ほど整備されていなかった。
天守の階段がまたくせ者、勾配急すぎる上、幅狭すぎ。降りるときがよりこわい。昔の自分はすたすた登っていったのだろうなあ、、、きっと。
上層に行くほど開けてくる展望の先に琵琶湖
そして最上層の琵琶湖側の窓の外(網があって手が届かないところ)
実はこれを見に来たのだ。
学生の時何度もここへ登って、木の部分にだれかが彫った文字「永へに清かれ」(ことしなへにきよかれ)、あれがまだ残っているかなどうかな、とドキドキしながら。
あった!まだ残っていました。(画像不鮮明でスミマセン)
半世紀の時を超えての再会。
これを彫ったのは仮名遣いからして戦前、あるいはもっと以前の人だったのだろうかな。
若かりし頃の思い出が一挙によみがえり、胸にせまるものあり。まだなにものでもなかったあの頃、、、、これからの人生がどうなるのか手探りだったあの頃、、、スタッフの人に不審がられるほどこれをガン見したのであります。(まあ、行き着いたさきが今の私ですがね)
胸のすく景色
多景島(たけしま)のシルエットも懐かしい。(竹生島はもっと右側にある)
京都に移住したときになんでもっと早くここに来なかったかなあ、、、
天守を降りてふりかえると、、、
ずっと何だろ?雀?と思っていた破風の金の飾りが実は橘だったことに気づいた。
湖国はほんに雪国であるなあ。
その足で玄宮園(井伊家の庭園)、池を前に天守を望む、、、この構図どこかで見たことある、、と思ったら、郷里の烏城(岡山城)と後楽園がこんな感じなんだ。
庭園の一角の四阿にて、
薄茶一服
なにしろ井伊直弼は「一期一会」「独座観念」、茶の湯の人・井伊宗鑑だからね。
お菓子もなんと「埋木舎」(直弼が部屋住みの頃過ごした場所)という銘であった。
冬季休業中と知りつつ、とりあえず見たかった埋木舎の門を見て帰洛の途についた。
お多賀さん〜多賀大社 - 2023.02.08 Wed

超ローカル線近江鉄道に乗って(それも途中で乗り換え)お多賀さんと親しまれている多賀大社へ。
一の鳥居
ここから参道が始まるが結構距離あるよ。(800mくらい)
参道はレトロな町並みでこれも良い感じ。
懐かしいタイル張りの昭和の家とか、、
昨年行った醒ヶ井も似たような町並みで、滋賀にはまだまだ古い民家が残っている。
多賀大社の前の太鼓橋(反橋)
御祭神は伊弉諾、伊弉冉(イザナギ、イザナミ)なのでお伊勢さんの天照大神の親神になる。古事記の世界やな、これは。かつては<お伊勢七度熊野へ三度お多賀さまへは月参り>と俗歌に歌われて伊勢神宮と肩を並べたそうだが、今はちょっと他府県者にはなじみがないかもしれない。
このあたりは犬上郡になるが、その地名の由来は遣隋使であった犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を祖とする豪族犬上氏であるという。みたすき、、、なんか昔日本史で習った懐かしい名前!
(本殿)
境内は広くて社内摂社末社がたくさんある。
一番大きい摂社が金咲稲荷。なんともお金持ちになれそうな名前のお稲荷さんである。
残念ながら滋賀県有形文化財の奥書院(六角氏が創建した当時の多賀大社神宮寺の建物)庭園は2月末まで冬季休業で見られなかった。
多賀大社で有名なのが、平重衡の南都焼き討ち後の東大寺再建に奔走した重源の逸話。
東大寺復興を発心したのは当時としては高齢の61歳、多賀大社に成功を祈願したところひとひらの柏の葉が落ちてきた。その葉の虫食いが「莚」の文字であった。この字は「艹(=廿 20)」と「延」に分解できるところから「20年の延命を得た!」と重源は喜んだという。そののち彼は見事東大寺復興を果たし、85歳まで生きたのだ。(人間年齢やないなあ、、、)
この石は重源が入寂の時に枕にしていた石と伝わる(寿命石)。
かたわらにある柏の木。
莚に見えなくもない??柏の葉の虫食い。
よってこの神社の社紋は柏の葉であり、御利益は延命長寿なのだ。
それにあやかってか、多賀名物糸切り餅の会社の名前が「莚寿堂」
味は柏餅の中身、、、って感じ。蒙古襲来のときの蒙古の旗になぞらえた三本線を弓の弦で切って戦勝を祈願したのが起源とか。江戸時代の力士・三縞を贔屓にした菓子屋が三縞が好きだった三味線の糸で切って作ったという説もあっておもしろい。
もひとつの名所?が神社前にある村山たかの生家(といわれる)。もう若い人はしらないかな、第一回大河ドラマの「花の生涯」(原作・舟橋聖一)、井伊直弼の生涯を描いたドラマだったが、そのヒロインが淡島千景さん演じる村山たか女。直弼とその腹心長野大膳の愛人であり間諜であったともいわれる。
桜田門外の変で井伊直弼惨殺後、勤王志士に捉えられ三条河原で三日三晩さらし者にされたというが、その美しさにだれもが手を出せなかったという。京都の一乗寺には、彼女が晩年を過ごした金福寺があるよ。
それから多賀大社名物杓子。
元正天皇というからまたえらい昔(女帝 氷高皇女 聖武天皇の伯母にあたる)、病気にかかられたときに宮司がシデの木で作った杓子でご飯をさしあげたところ快癒されたことから、お守りにもなっている。
お多賀杓子→おたがじゃくし→おたまじゃくし、、、の語源ってほんとうかな(^_^; 確かに形は似てるね。
しかし逸話がいちいちかなり上古にわたるから、やはり長い歴史と由緒のある神社なのだね。
この釜は江戸時代二度にわたる社殿修復造営時に将軍家より(たぶん)贈られた湯立神事用の釜。かくの如く徳川家からも彦根藩からも篤い庇護をうけていたそうだ。
帰り道、お土産物を物色。
まあ、糸切り餅は買ってその場で三個たいらげたが(^_^;
さすが、滋賀県、鮒寿司もちゃんと売られていた!(私はちょっとニガテ〜)
旧中山道醒ヶ井宿〜梅花藻の頃 - 2022.08.16 Tue
旧中山道醒ヶ井宿は京都から車で1時間ちょっとである。ちょうど梅花藻の見頃を迎えて、駅前駐車場(そう広くもない)は満車。みなさん、見所をよう知ってはるわ。

JRの駅でお散歩ガイドマップをもらって歩き出す。見所はかたまっているので、歩いてもせいぜい1時間もあれば回れる。鱒の甘露煮のお店、そういえば、少し先米原の方へ行くと醒ヶ井養鱒場があるのだ。(東洋一の規模だって)
駅から歩いてすぐの所にもう梅花藻ポイントが!
小さな小さな梅の花が水中から顔を出しているといった風情、そこに散りかかったサルスベリの赤い花びら。
湧水(居醒の清水)を水源とする地蔵川に沿う街道を歩くと、どこか懐かしい建物や景色に出会える。これは明治26年創建の醒ヶ井尋常高等小学校の玄関を、昭和になってここに移築したもの。元は松尾寺というお寺さんだったらしいが、現在このお寺はもっと北の方に移築され、この門だけが残る。
そこにつながれていたわんこ。お散歩に連れて行ってほしいのに、、という感じで少ししょぼくれてはった。
滋賀県だからやはりヴォーリーズの足跡あり。旧醒ヶ井郵便局。
昭和40年代まで実際郵便局として使われていたそうで現在は資料館になっている。とりあえず残してくれてよかった。
またある意味水郷みたいなので、あちこちに名水と呼ばれる取水スポットがあって、これは西行水。
西行を慕うあまり彼の飲み残した茶の泡を飲んで懐妊した茶屋の娘は子を産むが、西行が、我が子なら泡に戻れ、というと泡になったとか。、、、、?この伝説の教訓は何だろう???
こちらは平安時代の天台僧浄蔵によって開かれたという十王水。十王といえば地獄の入り口で亡者の審判をおこなう閻魔さまのお仲間なので、お盆になんだかふさわしい。
地蔵川の川端はどこも石段があるので、観光客も思い思いに水に足をつけられる。
かつては生活用水でもあったと思われ、これは何かに似ている、、と思ったら対岸の湖西高島の生水(しょうず)〜”川端(かばた)”だわ。
琵琶湖だけでなく豊富な雪解け水を擁する滋賀県はほんとうに水の国だ。
さて、この地蔵川の梅花藻の画像をいくつか。
水は冷たく、梅花藻は水温14℃が適温らしいので、そういう川にしか生息しない。記憶では九州の柳川でたくさんの梅花藻を見たっけ。
水上に顔を出す花もあれば水中でゆらゆらゆれる花もあって見ていて飽きない。
川に各家が自前の橋をかけてそれが並んでいる姿はちょっと上賀茂の社家にも似ているが、こちらの方がはるかに風情がある。
川沿いにある了徳寺は「御葉付銀杏」が有名らしい。
なんでも花筏のように葉っぱの真ん中に実がなるという一種の先祖返りらしいが、望遠でも確認できず。天然記念物だそうだ。ネットの写真を見たが、たしかに変!(^_^;
川に沿った道はこんなゆるゆるで、古い建物が続く。
この季節は野生のヤマユリがあちこちにてんでに咲いていて、さらに景色に色を添える。
名物?醤油ソフトクリーム。
まあ、醤油シロップがかけてあるだけなんだが、香ばしくて美味しい。
再び梅花藻の川にもどる。
この道沿いはどこを撮っても梅花藻の群生が美しい。
それにしても水の透明度の高さよ。
写真に撮るとそこになにも無いようにしか写らない。
こちらは問屋場(といやば)。かつて街道の宿場にはいくつかあった施設で、人足や馬の引き継ぎを行ったところ、17世紀の建築がまだここには残っているのだ。
中は資料館として使われているが、建物の構造はよくわかる。
今回一番お気に入りの画像がこちらである。赤子を抱えつつも果敢に川に足を入れて梅花藻を撮ろうとする若いお母さん。なんかすてき。
一般公開していないが醒ヶ井の旧公会堂は国の登録文化財である。(昭和11年建造)

さて、一番奥まで行き着くとそこには地蔵堂があり、「居醒の清水」といわれる湧水の源泉。名前の由来は「日本書紀」の日本武尊伝説で、伊吹山の神と戦い傷ついたミコトがここの湧水を飲むとたちまち怪我が癒えたと言う。平成名水百選にも選ばれているのだそうだ。
さらにその奥に加茂神社(別雷神社=上賀茂神社)が請来?されているとは!水つながり、、かな?創建時代は不明なんだそうだ。(戦後移築されたとか)
さて、そろそろ帰ろう。
なんか良いミニ旅行だったな、醒ヶ井、また来たい。
雪の比良山系に菜の花〜守山 - 2022.03.07 Mon
冬に雪をかぶっている山が突然現れると胸がすくような感じがする。
新幹線が琵琶湖を過ぎると突如あらわれる冠雪の伊吹はほんっと感動する。それにも負けないのが雪の比良山系である。

去年は湖西を北上してその冠雪の姿を間近にみることができた。今年は反対の湖東から琵琶湖をはさんで眺める。
やっぱりいいなあ。
関東の人には富士山なんだろうが、関西人にはちょっと遠すぎる。
さて、その山の手前にこの黄色!
最高にフォトジェニック!
ここは琵琶湖大橋東詰にある守山市第一なぎさ公園。(ピエリ守山も近いよ)28日で公園今季終了とのことで滑り込みで行ってみた。
利休忌もまだなのにもう終わり?と思ったら、ここの菜の花は「寒咲花菜」という早咲きの種類だそうだ。
周りは琵琶湖と唐突に立つマンションと、交通量の多い道路に挟まれているこんな場所なのである。
菜の花独特のあま〜い香りが一面にただよう。ああ、菜の花ってこんな匂いだった。
菜の花畑の真ん中で本来はお茶したいけど(^_^;それは無理なので、少し離れた場所で茶籠を広げる。やっぱり比良山はええなあ。
これみると山村暮鳥の「いちめんなのはないちめんなのはないちめんなのはないちめんなのはな、、、」の詩が誇張でないのがわかるような気がするわ。
春には黄色の花がよく似合う。
サンシュユも、マンサクも、蝋梅だって黄色だ。
土手にはこぼれ種で増えたとおぼしきたくましい菜の花。こちらは野性味があって、、、、なんだか食用菜の花に見えてきた。
しばし菜の花の香りに酔い茶に酔い比良山の姿に酔い、佳き早春のひととき。
坂本さんぽ②〜坂本の町並み〜西教寺(真盛豆〜!) - 2022.02.24 Thu
裏門から入ったので、律院の表門はどこかと一応探したら、おお!

これがかの有名な穴太(あのう)積み!実はこの石垣に囲まれた堂宇だったのね。
これを作った穴太衆は、寺社の石垣だけでなく、安土城はじめ城郭の石垣まで手がけた石工集団である。
自然石をそのまま使う野面積みとも。すごい!パズルみたい。
穴太積みの長い道を行くと京阪坂本駅のすぐそばに、一度見たかった日吉茶園がある。
伝教大師最澄が、唐・天台山から持ち帰った一握りの茶の種をここにまいたのが日本の茶園の嚆矢と言われる。
ほど近い鶴喜蕎麦さんでお昼を。
国の有形文化財になっている明治の建物がすてきだ。
お蕎麦はねっとり感があって美味しかった。
あたりは門前町として賑わったころの面影を残す町並みが続く。今は2月であり、コロナであるからだろうけれど、このひとけのなさはあまりにも寂しい。
こういう建物がずっと残ればいいね。
さて、ここから車で5分ほど行ったところが最終目的地西教寺。
山門は明智光秀が寄進した坂本城城門だという。
西教寺の名前を知ったのは真盛豆からである。茶人に人気の、マリモみたいな州浜と豆のお菓子だ。由来となる西教寺中興の祖、真盛上人(15世紀半ば)のお名前は以前京都国立博物館で開催された律宗展を見たときに確認した。
おりしも最近大津市歴史博物館で「西教寺展」もあり、滑り込みで拝見した。そこでやはりお寺まで実際に行かねば、と思った次第。
実際、びっくりした。
こんな壮麗な堂宇だとは思わなかった。三井寺に匹敵するくらいだが、立地から行ってここがあまり有名でないのが残念なくらい。
本堂は江戸時代のものだが、中がびっくり、ご本尊の丈六の阿弥陀如来様は金色に輝くし、荘厳の瓔珞などもキラキラ、施餓鬼供養に奉納された金文字の板(卒塔婆の一種?)がずらっと軒下に並ぶ景色、極楽浄土とはかくや?ちょっと感動した。
この日は(2月15日)お釈迦様が入滅された涅槃会の日だったので、堂内には涅槃図がかけられ、鉦をたたいてお坊さんがずっと読経をされていた。
こちらは室町時代の客殿、残念ながらビニール越しなので、中の書院などの様子がよく見えなかった。
西教寺は天台宗のお寺としてはめずらしく、行き場のなくなったお雛さまを供養されている。(阪神淡路大震災が契機らしい)
本堂の一角にあちこちから集まってきたおびただしいおひな様が供養されていたが、あれはこの1年に集まってきたもので、供養が終わった物で貴重な雛を、ここの書院でおひな様の季節にご披露されるそうだ。
お、台子があるぞ。
おひな様は江戸の享保雛からバブル期の御殿系のもの、平成にいたるまで新旧様々、持っている道具や衣装も破損したりなくなったり。たくさんのおひな様から似たものを組み合わせて道具も組み合わせて展示している、と、その場にいらしたひな人形研究家の藤原愛子さんに教えていただいた。
これは江戸時代の御殿系おひな様。
中には私のおひな様とそっくりの顔をしたものもあって、まあ大量生産品やしな、と思ったり、でも大事に今でも毎年飾っているよ。道具は散逸したものも多いけれど、うん十ウン歳だからけっこう年代物よ〜(^_^;
しかし、女の子の幸せを願って初節句に飾られたおひな様をどういう理由で手放さざるをえなかったのか、そこのこところが気になった。
庭に出てみよう。
「月さびよ 明智の妻の話せむ」 (芭蕉)
信長の比叡山焼き討ちで壊滅した西教寺であったが、ここ坂本に領地を与えられた光秀は寺の再建に尽力したという。(焼き討ちにも加わっていたのでマッチポンプ的な、、(^_^;)
その縁でここには明智一族の墓がある。
その横にひっそりと妻の煕子のお墓。浪々中の夫を自分の髪を売って支え、光秀もまた生涯側室を持たなかったという相思相愛の夫婦であったが、明智家の滅亡を見ることなく病でみまかったという。
その横の階段を上ると真盛上人の御廟である。さすがに階段登るのは遠慮して、下から手を合わせた。やっと真盛豆にたどりついた?感じ。
瓔珞のむこうに八王子山(多分、、、)
これは唐門、国の登録有形文化財である。というか、ここ西教寺、重文や登録文化財やら多過ぎ。

唐門の前から振り返ると琵琶湖である。
琵琶湖にダイブする感じで階段を下りて出口へ。
途中の坊の屋根に、さすが日吉大社のお膝元、猿の魔除けが鎮座している。日吉大社では、マサル(神猿)といって奈良の神鹿みたいに思われるが、実は墓場あらしなどの猿害に困っているそうで複雑な気持ち。
初の坂本さんぽ、心も頭もお腹も色々収穫あったわ。