熊野三山弾丸巡り(後編)ちょっとだけ熊野古道〜熊野那智大社 - 2022.05.13 Fri
2日目はなんちゃって熊野古道ウォーク。本当は是が一番の目的。
新宮から大門坂へ。ここから約1.2kmの古道を歩いて熊野那智大社をめざす。これが熊野古道一番の初心者もしくは観光客向けコース。(中辺路・なかへち=田辺から熊野三山〜のごくごく一部)
ご当地の偉人といえばやはり南方熊楠(男前よ(*^_^*))、彼が3年間滞在して那智の植物研究をしたという大阪屋旅館も跡だけ残っている。廃仏毀釈の嵐にさらされた熊野三山の神社林を文字通り命を懸けて守り抜いた異能の博物学者をしのぶ。
熊野古道の入り口にもなっている夫婦杉のトンネルをとおりぬけ、、、
ひたすら歩きにくい石の道を歩く。
中辺路には、鎌倉時代に急増した九十九王子という神社が散在したそうで、参詣者の祈りの場となっていたそうだがそれ以降は衰退、地名と碑のみが残るが、ここは中辺路最後の王子である多富気王子(たふけおうじ)跡。ここまで来て参拝者は長い道のりを振り返りつつこの旅も終わりに近いことを知ったのだろう。
ちなみに王子とは御子神、あるいは熊野権現の分身とも。うちの近くに熊野若王子神社があるが、若王子の意味がやっとわかったわ。
山の気に包まれて、これでもかという大木が何本もはえている。
石段はまだまだ続くが、それほど急というわけではなく、景色を楽しみながらゆっくりのぼれば、しんどさは大文字山ほどでもない。
平安時代の壺装束のレンタルがあって、市女笠に垂衣姿で登る人もいるというが、今回は那智大社で約1名のみお見かけした。
石の割れ目に生えるシダ。こういうのも楽しみながら。
途中にどれだけ来たかの標識もあり。
もうまもなく那智大社という手前にお茶屋・空心庵さんがあって、僧侶でもあるご主人とTL友なのでお目にかかりたかったが、反対に京都のお寺に出張中とのことで残念。
ここにはかつてあまたの上皇、法皇が熊野参詣のたびに宿泊した実方院があった場所。現在は大社が経営する宿坊になっているそうだ。
やっと到着!熊野三山最後の熊野那智大社
主祭神は難しい名前だが、平たく言うと、伊弉冉(イザナミノミコト)である。ここは境内より、、、
もう、周りが絶景なのである。新緑の山の中!
やっぱり院や女院が何回もいきたくなるような場所だわ。この景色を見ながらベンチに座れば涼やかな風、鳥の声、、、ああ、昼寝したい。
ここにも八咫烏。
宝物館にも入ってみたら、レプリカとは言え、後鳥羽上皇の熊野懐紙(国宝)があったり、定家の「熊野御幸記(後鳥羽上皇にお供した)」(国宝)のコピーがあったり、出土した渡来物?の青磁器や、根来の瓶子、平安時代の経筒などもあったりして結構楽しめた。
境内に立つ樹齢850年(鎌倉時代からあった?!)の大樟は中に洞があって、通り抜けられるようになっている。
洞の中から外を見た景色。
ついで那智大社から下りたところ、那智の滝の飛滝神社への途中にある青岸渡寺へ。
お寺さんの花手水は生花で彩られ美しい。
神社はお社を遙拝するのみであっさりしているが、お寺はその仏像や荘厳を見ることができるので、やっぱりこっちの方が好きだな、私は。
開白は熊野大社と同じくらい昔で判然としないらしいが、廃仏毀釈の波をもろにうけて、復興されたのが明治年間だという。それにしても廃仏毀釈って、中共の文化大革命と同じくらい文化・歴史を殺すことだったのだなと思う。よく全国各地のお寺が生き残ってくれたこと!
勝浦や那智で一番たくさん広告を見る、、という那智黒(飴)、すっかり洗脳されてしまって黒飴ソフトを滝を見に行く前に食べちゃったよ。黒糖味でうまし。
ああ、見えてきた見えてきた、那智の滝。
やっとここまで来ることができた。
この滝をご神体とする飛滝神社の鳥居も見える。
上の方は三筋に分かれている。写真では見えにくいが(ほとんど見えないが(^_^;)落下口の真上に注連縄が張ってあり、毎年新しい物に替えるそうだが、こりゃ命がけだな。
落下する水は風を起こし、霧をおこし、そのスピードはカメラのSモードでも水滴が捕らえられない。
末ちさく落ちゆく那智の大滝のそのすゑつ方に湧ける霧雲 (若山牧水)
京都の帯の誉田屋さんが、この滝を見て帯に写し取りたいと何度もおとずれ完成させた、というTV番組を思い出した。
さてお土産は、、、かの有名な熊野牛王宝印。
この裏に起請文を書いて、違えれば熊野で烏が三羽死に、人は血を吐いて死ぬ、というやつ。遊郭で遊女が起請文を書くたびに烏が三羽死ぬ(遊女の言葉にまことなし)と揶揄されたのも有名。
これは那智大社のもの。(那智滝宝院と書かれているらしいが読めん)
こちらは速玉大社の。いずれも烏文字だが、デザインはかなり異なる。正月からこっち、いろんなところの牛王宝印ばかり集めてどうしようというのだろう(^_^;(でも好き)
帰りは紀伊勝浦から新大阪経由で帰洛。紀伊半島をぐるっと一周した計算。JRもバスも本数が極めて少なく、多分東京へ行く方がきっと楽。でも時間をかけて行く価値はあると思うよ。いにしえの院や女院にならって。
熊野三山弾丸巡り(前編)熊野速玉大社〜熊野本宮大社 - 2022.05.11 Wed
後白河法皇は33回(34回説も)も熊野詣でをした熊野オタクだったようだ。最後は行くのが面倒なときのために都に三熊野神社(熊野神社、新熊野神社、熊野若王子神社)まで作ったほどだ。そんなに熊野がよかったのかなあ、都からは遠く往復一ヶ月の道程だというのに。
そんなにいいのか熊野権現、とGWを利用して熊野三社巡り一泊二日の弾丸旅行を計画。それにしても熊野灘、浪荒いけどきれい。

名古屋廻りで新宮到着、なんと電車で行っても長い長い道のり、よう徒歩か騎馬、輿で行ったものだとびっくりする。
最初は熊野速玉大社
ここは新宮の駅から徒歩圏内というアクセスのよさ。
熊野の名前がでるのが日本書紀というから古さでは確かに別格。速玉社の主祭神が伊弉冉尊(イザナミノミコト)なので国生みまでさかのぼる。
そして熊野信仰と言えば梛の木。梛の木は金剛童子の化身の姿といわれ、中世活躍した熊野比丘尼(女性の宗教者、全国を歩いて熊野信仰を広めた)は行く先々で牛王法印やこの梛の葉を渡したという。
そういえば京都の六道珍皇寺の六道参りの時に公開される熊野観心十界図、あれ熊野比丘尼が教えを広めるためのテキストにしたと聞いたな。
そしてもう一つは八咫烏
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト・後の神武天皇)を熊野から大和橿原へ先導したと伝わるカラスで、日本サッカー協会のシンボルにもなっているけれど(^_^;もとは熊野権現さんのお使い。
境内に熊野御幸をされた歴代皇族の名前と回数を記した石碑が(入江侍従長のお手)
やっぱり後白河上皇突出!ついで後鳥羽上皇。彼は行く先々で歌会を開いた記録があり、定家なども伴っていて、後の世に茶席でも珍重される「熊野懐紙」を残すのだ。
待賢門院や美福門院、建春門院など平家物語をにぎわす女院の名前もあって、興味深い。
境内の売店で、熊野特産じゃばら(柑橘)のジュースいただく。さわやかで独特の香りだわ。
駅近くの香梅堂の名物<鈴焼>を買って頬張りながら次の目的地へ。(ちなみに鈴焼は鈴の形をしたベビーカステラと思っていただいてよい。)
次の目的地熊野本宮大社までは熊野川沿いに山へ入っていって、なんと1時間もバスでかかるのだ。その途中熊野川の景色がなかなか美しい。それにしてもバスなのに急カーブも減速せずすっごいスピードだす路線バス怖い〜〜(プロのドライバーやね)
熊野本宮大社、早速八咫烏がお出迎え。熊野三社の元締めだけあって、神社周辺の施設が整備されていて多くの方がご参拝。
さらにここから熊野古道の中辺路の出発点(またはゴール)になっているので、半日以上かかる過酷な道のりを歩こうとするフル装備の方もたくさん。熊野古道をゆっくり歩くのはまたの機会に是非と思っている。今回は時間があまりない、、、
さて早速参拝。
主な社は四社あって、それぞれに参拝の行列ができているのがすごいわ。もっぱら車で来ている人が多いので、後白河の時代とは隔世の感がある。
祭神はいろんな難しい名前があるが、わかりやすく言うと素戔嗚尊、伊弉諾、伊弉冉、天照大神である。(親子関係、、と言って良いのかも)それぞれに本地仏があってスサノオが阿弥陀如来になっているのが面白い。
境内の狛犬という狛犬が八咫烏のマークの入ったマスクをしていたのが笑えるが、境内の八咫烏ポストもおもしろいぞ。マスクをした八咫烏がのっている。今年正月信貴山で見た虎柄ポスト以来の萌えポイントやわ。
境内の一角に熊野古道の一部が残っているので、ちょっとだけ古道味わってみる。
ここからかつて本来の本宮大社があった大斎原(おおゆのはら)へむかう。平安神宮の大鳥居を黒くしたような大鳥居の向こうが大斎原。明治22年の大洪水で社殿はほぼ壊滅、以後現在の場所に上四社のみをおまつりしているという。ちなみにこの大鳥居は平成になってから。
ああ、しかし田植えの終わった水田が美しい。
いまから田植えという田もあり。
この景色を眺めながらご当地名物めはり寿司をお昼に。ご飯を漬けた高菜でくるんであって、なかなか美味しい。
大斎原には流失されたままの中四社、下四社を示す石碑だけが立つ。
そこから熊野川支流へおりたつ。
川の水は冷たく、空は青く、緑は新緑のパッチワーク、鳥の声、、、う〜ん、極楽往生(ここらへん神仏習合なんで、、)をねがって熊野詣でをくりかえした後白河法皇の気持ちがちょっとだけわかる気がした。
1時間かけてまた新宮にもどり、そこから電車で紀伊勝浦へ。そこで一泊です。