幻の?六条通り - 2013.03.02 Sat
堀川通りから六条通を東へ。

う〜む、、、六条通ってこんなに狭い道なんだ。生活感ただよってるなあ、、、、

でも、こうしてみると町家がまだたくさん残っていて、感じの良い街並み。

これは六条通からは少しはなれるんだけれど、堂々とした典型的町家のイメージの町家。
出格子、バッタリ床机、ここだけ新しくしはったとおぼしき玄関戸は上半分がガラスで、商家によくあるタイプ。

う〜ん、、、憧れのバッタリ床机。
、、、ってなんでこんなところにいるかって?
この近所に所用あってでかけたのだけれど、実はこのあたりに来るのは初めて。用事がすんであたりをぶらぶらしていたら、昔日の京都を思い出させるような景色が目の前にひろがってきたのです。
昔日たって、そんな昔を知っているわけではないのですが、町家の瓦屋根がどこまでも続いたであろう時代の京都は、イメージとして思い描くことはできます。(やっぱり東山魁夷の「年暮る」のイメージですよね)

堀川通りからみおろす。う〜ん、もう瓦屋根がどこまでも続く景色なんて、京都から失われてしまったんだなあ。

すてきな町家の両側の建物のこの味気なさ、、、
そうそう、六条通にもどりましょう。

「六条通商店街」を東へ。この堀川にちかいあたりは商店街だった頃の名残がかろうじて、、という感じです。シャッターがおりていたり、ショウウインドウが空になっていたり、さびれた感じはぬぐえませんが。
法衣屋さんなど仏具にかんする店がちらほらあるのは西本願寺が近いせいでしょうね。

ところが西洞院をこえると、通りは急に商店街らしくなってきました。

自家製蒲鉾を売っているお店や、

お豆腐屋さん。

こちらはなんと、創業が江戸時代という老舗の麩屋さん、藤麩さん。
東洞院の麩料理をだしてくれる麩坊・雅六というお店もだしてはるとか。

この六条通、平安時代には貴族の大邸宅が軒を連ねていた大路だったとか。
(光源氏の六条院とか、、、あ、あれは物語か^_^; 実在は源融の河原院ね)
応仁の乱でこの六条大路は荒廃し、その後豊臣秀吉による洛中改造で再開され、江戸期には下魚棚通(七条通の一筋南の通)から魚市が移転したので魚棚(うおんたな)通とも呼ばれていたのだそうです。六条通商店街はその魚棚通りの名残だったんですって。

そうか、あの ♪姉三六角蛸錦〜の歌の後半、雪駄ちゃらちゃら魚の棚、、、はここのことだったのか!

おや、突き当たってしまったぞ。
地図によるとここは新町通りらしい。
一筋北の通りへいってみる。

立派な町家ショップ。

あ、こんなすてきなフレンチの町家レストランもある。
(ア・プ・プレお値段も手頃だし、いちど入ってみたいな)
でもこの通りは六条通ではありませんでした。通りの名前は不明ですが町名は銭屋町。この一本北が♪雪駄ちゃらちゃらのちゃらちゃら=鍵束の音→で、鍵屋町通り。

新町通りを少し南下したところから六条通り再開です。
町名は西魚屋町、さすが、魚棚通り。

う〜ん、独自のデコレーションをほどこした町家。住む人の個性がでているんですね。
この通りから烏丸に出る前にちょっと南下すると、、、

東浅井詰所。
今ではどなたでも宿泊できるお宿になっていますが、もともとは旧東浅井郡(滋賀県北東部)の門信徒(東本願寺の信者)の宿泊施設で、200年以上の歴史があるそうです。

正面にはもう、京都タワーをせおってど〜んと立つ、東本願寺さんどす。

六条通は烏丸を超えるともう普通の車が通る道路になっちゃってますね。
地図で確認するとこの通りも河原町通りで消失します。
いや〜、五条、七条通りがあまりにメジャーなので、六条通は一体どうなっているんだろう、と思ってきたのですが、今日その疑問がやっと解けましたわ。
私が暮らす鴨川以東には六条通がないので、よけいに幻だったんですねえ。

メデタシ、メデタシ。
じゃあ、藤麩さんで買った苺deなまふをいただこう。美味し!
(ホワイトチョココーティングの苺を餡と生麩でくるんだもの)

う〜む、、、六条通ってこんなに狭い道なんだ。生活感ただよってるなあ、、、、

でも、こうしてみると町家がまだたくさん残っていて、感じの良い街並み。

これは六条通からは少しはなれるんだけれど、堂々とした典型的町家のイメージの町家。
出格子、バッタリ床机、ここだけ新しくしはったとおぼしき玄関戸は上半分がガラスで、商家によくあるタイプ。

う〜ん、、、憧れのバッタリ床机。
、、、ってなんでこんなところにいるかって?
この近所に所用あってでかけたのだけれど、実はこのあたりに来るのは初めて。用事がすんであたりをぶらぶらしていたら、昔日の京都を思い出させるような景色が目の前にひろがってきたのです。
昔日たって、そんな昔を知っているわけではないのですが、町家の瓦屋根がどこまでも続いたであろう時代の京都は、イメージとして思い描くことはできます。(やっぱり東山魁夷の「年暮る」のイメージですよね)

堀川通りからみおろす。う〜ん、もう瓦屋根がどこまでも続く景色なんて、京都から失われてしまったんだなあ。

すてきな町家の両側の建物のこの味気なさ、、、
そうそう、六条通にもどりましょう。

「六条通商店街」を東へ。この堀川にちかいあたりは商店街だった頃の名残がかろうじて、、という感じです。シャッターがおりていたり、ショウウインドウが空になっていたり、さびれた感じはぬぐえませんが。
法衣屋さんなど仏具にかんする店がちらほらあるのは西本願寺が近いせいでしょうね。

ところが西洞院をこえると、通りは急に商店街らしくなってきました。

自家製蒲鉾を売っているお店や、

お豆腐屋さん。

こちらはなんと、創業が江戸時代という老舗の麩屋さん、藤麩さん。
東洞院の麩料理をだしてくれる麩坊・雅六というお店もだしてはるとか。

この六条通、平安時代には貴族の大邸宅が軒を連ねていた大路だったとか。
(光源氏の六条院とか、、、あ、あれは物語か^_^; 実在は源融の河原院ね)
応仁の乱でこの六条大路は荒廃し、その後豊臣秀吉による洛中改造で再開され、江戸期には下魚棚通(七条通の一筋南の通)から魚市が移転したので魚棚(うおんたな)通とも呼ばれていたのだそうです。六条通商店街はその魚棚通りの名残だったんですって。

そうか、あの ♪姉三六角蛸錦〜の歌の後半、雪駄ちゃらちゃら魚の棚、、、はここのことだったのか!

おや、突き当たってしまったぞ。
地図によるとここは新町通りらしい。
一筋北の通りへいってみる。

立派な町家ショップ。

あ、こんなすてきなフレンチの町家レストランもある。
(ア・プ・プレお値段も手頃だし、いちど入ってみたいな)
でもこの通りは六条通ではありませんでした。通りの名前は不明ですが町名は銭屋町。この一本北が♪雪駄ちゃらちゃらのちゃらちゃら=鍵束の音→で、鍵屋町通り。

新町通りを少し南下したところから六条通り再開です。
町名は西魚屋町、さすが、魚棚通り。

う〜ん、独自のデコレーションをほどこした町家。住む人の個性がでているんですね。
この通りから烏丸に出る前にちょっと南下すると、、、

東浅井詰所。
今ではどなたでも宿泊できるお宿になっていますが、もともとは旧東浅井郡(滋賀県北東部)の門信徒(東本願寺の信者)の宿泊施設で、200年以上の歴史があるそうです。

正面にはもう、京都タワーをせおってど〜んと立つ、東本願寺さんどす。

六条通は烏丸を超えるともう普通の車が通る道路になっちゃってますね。
地図で確認するとこの通りも河原町通りで消失します。
いや〜、五条、七条通りがあまりにメジャーなので、六条通は一体どうなっているんだろう、と思ってきたのですが、今日その疑問がやっと解けましたわ。
私が暮らす鴨川以東には六条通がないので、よけいに幻だったんですねえ。

メデタシ、メデタシ。
じゃあ、藤麩さんで買った苺deなまふをいただこう。美味し!
(ホワイトチョココーティングの苺を餡と生麩でくるんだもの)