壽聖院の襖絵〜妙心寺退蔵院方丈襖絵プロジェクト - 2013.08.30 Fri
嵐の中の観月茶会(!)@退蔵院 にでかけたのは昨年の9月でした。そのとき小耳にはさんだのが退蔵院方丈襖絵プロジェクト。

退蔵院は国宝「瓢鮎図」が有名な妙心寺の塔頭。このプロジェクトは2011年に発足。方丈に残る400年前の襖絵の痛みがはげしくなってきたので、それに代わる新たな襖絵を完成させよう、というものなのですが、、

ちなみにこれが現在の襖絵。安土桃山時代の絵師、狩野了慶・作(レプリカ)。たしかにちょっと、、、、

描いてもらうのも、普通の絵師や画家ではおもしろくない。若手で無名だけれど宗教文化に理解があり、さらに京都にゆかりのある芸術家の手で新たに水墨画を描かせよう。お若い副住職を中心に立ち上げられたプロジェクトは全国に類をみないものになったそうです。

このプロジェクトでは、絵師のみでなく、当時と同じ手法を現代によみがえらる、、というコンセプトなので、越前和紙、墨、筆などいままさに絶滅危惧種的な職人産業を支援する意味もあるのです。

そして選ばれた絵師は京都造形大学院卒の村林由貴さん。まだ20代のお嬢さんです。

退蔵院に住み込んで掃除などの作務や坐禅の修行を積み、茶道などの経験も重ねながら墨絵の技術を体得し(それまで墨絵は描かれたことがなかったそうです)襖絵の制作にとりかかっておられます。その数年がかりの完成までの過程をいろんなメディアで公開しつつ、未来に残るべき文化財がどのようにして作られるか、共有しようというなんとも遠大なプロジェクトなのですね。

今回、方丈の襖絵に取りかかる前の段階として制作された壽聖院(妙心寺内:副住職の弟さんがご住職)の襖絵30余枚が1週間前に完成した、ということで8日間だけ一般公開されました。(要予約)しかも村松さん御本人の解説付き!

壽聖院は石田三成一族のお墓のある塔頭です。(三成の墓は遺髪のみ。本体は大徳寺三玄院)三成の長男が出家してこの寺に入ったゆかりらしいです。
さて、その壽聖院、方丈、茶室、その奥の間の四季の襖絵!
すばらしかったです!
こればかりは拙文でうまくお伝えできませんが、墨絵ながらいままでの襖絵になかった躍動感。とにかく静止画像ではなく動いている、そんな感じです。
最初に取りかかった春の絵は彼女の学生の頃から得意だった曲線を多用した手法で桜〜天女〜鯉〜鳥〜牡丹などが描かれ、夏は2匹の上り鯉、下り鯉。この迫力がたまりません。茶室の秋は実ったカボチャ、トマト、ジャガイモ、葡萄、、そしてたくさんの虫たち。目を凝らせば蟻、カマキリ、羽化したての蟬、カブトムシ、、、
ところが冬だけ突然タッチがかわります。曲線はなく、厳しい直線。厳冬に雪をかぶって立つ松の木。荒々しいその幹。どこかストイックで、一段高い境地にあがったような感じです。
絵をいったん仕上げた、と思ったら一切加筆はしないそうです。ぎりぎりの線をいれてあるので、一点でもつけたすとそれはゴミになる、とおっしゃってました。
そして方丈のおもいきり余白を生かした絵は(ないしょにしときますね)また別の境地です。すごくすてき!

ちなみに撮影OKだった下絵。おそらく数百羽の雀の下絵を描かれたのでしょう。しかもその一羽一羽に名前がついている(ヨネスケちゃん、大吉ちゃん、ピーチチャン、鈴音ちゃん、、、など(^o^))、というのが若い娘さんらしくてとてもいい。たしかに全部ちがう表情、姿勢で、よ〜くみるとどの雀もとてもいとしくなってくるではありませんか。

息抜きにこんなコミカルな絵もかかれるのです(^-^)
だれかが、こんなに有名になるとは思わなかったでしょう?と聞いていましたが、「有名になってもならなくても私は描きたいから描いていると思う。」と。

こんなしゅっとしたかわいい方なのです。町を歩いていたらこんな繊細かつダイナミックな絵を描く人とはとても想像がつかないでしょう。
壽聖院が完成したので、いよいよ退蔵院の60余枚の襖絵の制作にこれからとりかかられます。お体に気をつけてますますのご活躍をお祈りします。

退蔵院は国宝「瓢鮎図」が有名な妙心寺の塔頭。このプロジェクトは2011年に発足。方丈に残る400年前の襖絵の痛みがはげしくなってきたので、それに代わる新たな襖絵を完成させよう、というものなのですが、、

ちなみにこれが現在の襖絵。安土桃山時代の絵師、狩野了慶・作(レプリカ)。たしかにちょっと、、、、

描いてもらうのも、普通の絵師や画家ではおもしろくない。若手で無名だけれど宗教文化に理解があり、さらに京都にゆかりのある芸術家の手で新たに水墨画を描かせよう。お若い副住職を中心に立ち上げられたプロジェクトは全国に類をみないものになったそうです。

このプロジェクトでは、絵師のみでなく、当時と同じ手法を現代によみがえらる、、というコンセプトなので、越前和紙、墨、筆などいままさに絶滅危惧種的な職人産業を支援する意味もあるのです。

そして選ばれた絵師は京都造形大学院卒の村林由貴さん。まだ20代のお嬢さんです。

退蔵院に住み込んで掃除などの作務や坐禅の修行を積み、茶道などの経験も重ねながら墨絵の技術を体得し(それまで墨絵は描かれたことがなかったそうです)襖絵の制作にとりかかっておられます。その数年がかりの完成までの過程をいろんなメディアで公開しつつ、未来に残るべき文化財がどのようにして作られるか、共有しようというなんとも遠大なプロジェクトなのですね。

今回、方丈の襖絵に取りかかる前の段階として制作された壽聖院(妙心寺内:副住職の弟さんがご住職)の襖絵30余枚が1週間前に完成した、ということで8日間だけ一般公開されました。(要予約)しかも村松さん御本人の解説付き!

壽聖院は石田三成一族のお墓のある塔頭です。(三成の墓は遺髪のみ。本体は大徳寺三玄院)三成の長男が出家してこの寺に入ったゆかりらしいです。
さて、その壽聖院、方丈、茶室、その奥の間の四季の襖絵!
すばらしかったです!
こればかりは拙文でうまくお伝えできませんが、墨絵ながらいままでの襖絵になかった躍動感。とにかく静止画像ではなく動いている、そんな感じです。
最初に取りかかった春の絵は彼女の学生の頃から得意だった曲線を多用した手法で桜〜天女〜鯉〜鳥〜牡丹などが描かれ、夏は2匹の上り鯉、下り鯉。この迫力がたまりません。茶室の秋は実ったカボチャ、トマト、ジャガイモ、葡萄、、そしてたくさんの虫たち。目を凝らせば蟻、カマキリ、羽化したての蟬、カブトムシ、、、
ところが冬だけ突然タッチがかわります。曲線はなく、厳しい直線。厳冬に雪をかぶって立つ松の木。荒々しいその幹。どこかストイックで、一段高い境地にあがったような感じです。
絵をいったん仕上げた、と思ったら一切加筆はしないそうです。ぎりぎりの線をいれてあるので、一点でもつけたすとそれはゴミになる、とおっしゃってました。
そして方丈のおもいきり余白を生かした絵は(ないしょにしときますね)また別の境地です。すごくすてき!

ちなみに撮影OKだった下絵。おそらく数百羽の雀の下絵を描かれたのでしょう。しかもその一羽一羽に名前がついている(ヨネスケちゃん、大吉ちゃん、ピーチチャン、鈴音ちゃん、、、など(^o^))、というのが若い娘さんらしくてとてもいい。たしかに全部ちがう表情、姿勢で、よ〜くみるとどの雀もとてもいとしくなってくるではありませんか。

息抜きにこんなコミカルな絵もかかれるのです(^-^)
だれかが、こんなに有名になるとは思わなかったでしょう?と聞いていましたが、「有名になってもならなくても私は描きたいから描いていると思う。」と。

こんなしゅっとしたかわいい方なのです。町を歩いていたらこんな繊細かつダイナミックな絵を描く人とはとても想像がつかないでしょう。
壽聖院が完成したので、いよいよ退蔵院の60余枚の襖絵の制作にこれからとりかかられます。お体に気をつけてますますのご活躍をお祈りします。
柄杓の柄の使い方 - 2013.08.27 Tue
先日べっぴんさんをお連れで拙宅へお越しのお坊様(^_^; 変な想像をしないように)、その節は箱に山盛りの玉ねぎをありがとうございました\(^O^)/。御礼といってはなんですが、茶縁の方ですので粗茶を一服さしあげよう。
これもせっかくだから小間の茶室で。(前日に灰型つくり必死!)さて、茶事の時には後座ですだれをスルする巻き上げるので、雨戸ははずしてすだれをかけるのだが、薄茶だけの時はどうしたものか。すだれ無しだと明るすぎるし、かけるとちょっと暗くて薄茶むきではない。
そこで思い出したのが、これ!

お茶をしている人なら、ああ、あれ、と思い当たるでしょ。柄杓の柄なんです。本来はこんな感じで合(水を汲む部分)がついている。

長らく使っていると合との接合部分がゆるんできて(接着剤など使っていない。差し込んであるだけ)一度濃茶を練っているときに追杓時ぽろっととれて、茶碗の中に合が落下した!、、という苦い経験が。さすがにこの柄杓はもう使えん、と捨てようとしたが、なんとなく柄の部分が何かに使えそうでとっておいたもの。
柄の部分の再利用としては裏千家の溜精棚が有名。

これは以前の社中でのお稽古のときの溜精棚の画像。
勝手付横板に柄杓の柄を組んでいる淡々斎好みの棚。 裏千家の溜精軒の風炉先にある使いふるしの柄杓の柄を組んだ下地窓「杓の柄窓」を写したもので、 柄杓も炉、風炉、差し通しの3種がお約束とか。
まあ、こんなりっぱな使い方ではありませんがね、ちょっとしたアイデア。

すだれではなく、雨戸を突き上げ窓風にするつっかい棒にしてみた。

ちょうど合にささっている部分の刳りが竹の連子にぴったりはまって、ちゃんと固定されるではないか。

で、明かりの具合はこんな風に。われながらええ感じや〜(自画自賛)これは茶事でもちょっと使えるかも。

で、お薄たてて召し上がっていただいた〜>^_^<
茶の湯を愛する人とのお茶の話題はつきることなく楽しゅうございました。ひとえに茶の結ぶ茶縁とはまことにありがたきもの。茶の徳にございますれば。
ちなみに画像はお帰りになられたあと、独座観念ならぬ独座自服時のもの。お湯の煮えがことのほかよかったのでおいしゅうございました(再び自画自賛)。
これもせっかくだから小間の茶室で。(前日に灰型つくり必死!)さて、茶事の時には後座ですだれをスルする巻き上げるので、雨戸ははずしてすだれをかけるのだが、薄茶だけの時はどうしたものか。すだれ無しだと明るすぎるし、かけるとちょっと暗くて薄茶むきではない。
そこで思い出したのが、これ!

お茶をしている人なら、ああ、あれ、と思い当たるでしょ。柄杓の柄なんです。本来はこんな感じで合(水を汲む部分)がついている。

長らく使っていると合との接合部分がゆるんできて(接着剤など使っていない。差し込んであるだけ)一度濃茶を練っているときに追杓時ぽろっととれて、茶碗の中に合が落下した!、、という苦い経験が。さすがにこの柄杓はもう使えん、と捨てようとしたが、なんとなく柄の部分が何かに使えそうでとっておいたもの。
柄の部分の再利用としては裏千家の溜精棚が有名。

これは以前の社中でのお稽古のときの溜精棚の画像。
勝手付横板に柄杓の柄を組んでいる淡々斎好みの棚。 裏千家の溜精軒の風炉先にある使いふるしの柄杓の柄を組んだ下地窓「杓の柄窓」を写したもので、 柄杓も炉、風炉、差し通しの3種がお約束とか。
まあ、こんなりっぱな使い方ではありませんがね、ちょっとしたアイデア。

すだれではなく、雨戸を突き上げ窓風にするつっかい棒にしてみた。

ちょうど合にささっている部分の刳りが竹の連子にぴったりはまって、ちゃんと固定されるではないか。

で、明かりの具合はこんな風に。われながらええ感じや〜(自画自賛)これは茶事でもちょっと使えるかも。

で、お薄たてて召し上がっていただいた〜>^_^<
茶の湯を愛する人とのお茶の話題はつきることなく楽しゅうございました。ひとえに茶の結ぶ茶縁とはまことにありがたきもの。茶の徳にございますれば。
ちなみに画像はお帰りになられたあと、独座観念ならぬ独座自服時のもの。お湯の煮えがことのほかよかったのでおいしゅうございました(再び自画自賛)。
嵐の中の化野念仏寺・千灯供養 2013 - 2013.08.25 Sun
嵐電嵐山の駅に降り立ったとき、夜のとばりはすっかり降りて、、、、だけじゃなくって!嵐の洗礼。

(嵐電嵐山駅のイルミネーション)
稲妻は嵐山の上に走るわ、大粒の雨は降るわ、これはどうしたものか。
でもせっかくここまで来た上は進まねばなるまい。幸い用意しておいたレインコートと傘がある。(長靴はない!)渡月橋と反対側、嵯峨野の方へ進むも、そちら方面に行く(ものずきな)人はいない。三々五々帰り道の人にあうのに勇気づけられて進む。

嵯峨野清涼寺の壁に沿って、道しるべともなる行灯が。
ほっと安心するなあ。あとはこの行灯をたどって歩いて行くだけでよい。目指すは化野(あだしの)念仏寺。

地域の人たちがそれぞれ工夫を凝らして絵を描いた、行灯の道をたどる。千灯供養の期間だけ、参拝の人たちを迎える愛宕古道道灯し。人は歩いていないけれど暗い夜道で灯りがどれほど頼りになるのかよくわかった。

ああ、それにしてもえらい雨だ。稲妻もときどき天を昼間のように照らして走るが、雷鳴は遠い。まだ大丈夫。(多分。こええよ〜)

化野は、東の鳥辺野(京都市東山区の清水寺南あたり)、北の蓮台野(千本釈迦堂あたり)、紫野(大徳寺あたり)とともに西の化野とよばれる風葬の地。(だいたい「野」がつく地名はほとんど昔墓場だったとか)

とりわけ嵯峨野の化野のあたりは明治頃まで死骸がごろごろころがっていた土地なんだそうだ。(名前だけでも「化野」って十分コワイ) 死者の供養のためまつられた石仏が、まつられては風化し、土に埋もれ、散乱していたのを明治中期に念仏寺境内に集めた。この無縁仏たちに毎年8月23日24日、地蔵盆の夕刻にろうそくをお供えする。それが千灯供養。

学生時代に来たときには、長い田んぼの中の道を歩いて行った記憶があるのだが、もうあたりはすっかり宅地化しているのには驚く。おかげで雨の夜でも田んぼの真ん中を歩くこわさはないので助かった。


やっとたどりついた、化野念仏寺。ほっと一息。でもこの雨でろうそくの火は消えてしまったかも、、、

日ごろの行いの良きをもって(←どの口が言うか!)このころには少し小降りになる。消えたろうそくを、お寺の方がまた丁寧につけなおしてはる。


だからだんだんまた明るくなってきた。

入り口でろうそくをもらって、西院(さい)の河原(野仏が集められているところ)で思い思いの野仏さんにお灯明を。

ろうそくは昔ながらのハゼの和ろうそくだから、きれいに燃焼する。
もしかしたら、先祖の先祖のそのまたご先祖さんと、つながっているかもしれないね。母方のご先祖さんは京都だし。そっと手をあわせる。

境内には読経の声がずっとながれているが、聞くともなしに聞いていると、この世に生まれることなく、光を見ることなく逝った子たちに手向けるお経のようだ。境内には水子地蔵もあるのだが、小さな野仏は幼子の姿を連想させるからなのかな。

いつもはたくさんの方がお参りされるのだろうが、この雷雨のおかげで(こわかったけど)ゆっくりしみじみお参りできた。帰る頃には再び雨脚がはげしくなってろうそくがまた消えてきたので、私はよほど日ごろの行いが良、、、(やめとこ^_^;)

野仏と 語らう如き 火影かな しぇる

(嵐電嵐山駅のイルミネーション)
稲妻は嵐山の上に走るわ、大粒の雨は降るわ、これはどうしたものか。
でもせっかくここまで来た上は進まねばなるまい。幸い用意しておいたレインコートと傘がある。(長靴はない!)渡月橋と反対側、嵯峨野の方へ進むも、そちら方面に行く(ものずきな)人はいない。三々五々帰り道の人にあうのに勇気づけられて進む。

嵯峨野清涼寺の壁に沿って、道しるべともなる行灯が。
ほっと安心するなあ。あとはこの行灯をたどって歩いて行くだけでよい。目指すは化野(あだしの)念仏寺。

地域の人たちがそれぞれ工夫を凝らして絵を描いた、行灯の道をたどる。千灯供養の期間だけ、参拝の人たちを迎える愛宕古道道灯し。人は歩いていないけれど暗い夜道で灯りがどれほど頼りになるのかよくわかった。

ああ、それにしてもえらい雨だ。稲妻もときどき天を昼間のように照らして走るが、雷鳴は遠い。まだ大丈夫。(多分。こええよ〜)

化野は、東の鳥辺野(京都市東山区の清水寺南あたり)、北の蓮台野(千本釈迦堂あたり)、紫野(大徳寺あたり)とともに西の化野とよばれる風葬の地。(だいたい「野」がつく地名はほとんど昔墓場だったとか)

とりわけ嵯峨野の化野のあたりは明治頃まで死骸がごろごろころがっていた土地なんだそうだ。(名前だけでも「化野」って十分コワイ) 死者の供養のためまつられた石仏が、まつられては風化し、土に埋もれ、散乱していたのを明治中期に念仏寺境内に集めた。この無縁仏たちに毎年8月23日24日、地蔵盆の夕刻にろうそくをお供えする。それが千灯供養。

学生時代に来たときには、長い田んぼの中の道を歩いて行った記憶があるのだが、もうあたりはすっかり宅地化しているのには驚く。おかげで雨の夜でも田んぼの真ん中を歩くこわさはないので助かった。


やっとたどりついた、化野念仏寺。ほっと一息。でもこの雨でろうそくの火は消えてしまったかも、、、

日ごろの行いの良きをもって(←どの口が言うか!)このころには少し小降りになる。消えたろうそくを、お寺の方がまた丁寧につけなおしてはる。


だからだんだんまた明るくなってきた。

入り口でろうそくをもらって、西院(さい)の河原(野仏が集められているところ)で思い思いの野仏さんにお灯明を。

ろうそくは昔ながらのハゼの和ろうそくだから、きれいに燃焼する。
もしかしたら、先祖の先祖のそのまたご先祖さんと、つながっているかもしれないね。母方のご先祖さんは京都だし。そっと手をあわせる。

境内には読経の声がずっとながれているが、聞くともなしに聞いていると、この世に生まれることなく、光を見ることなく逝った子たちに手向けるお経のようだ。境内には水子地蔵もあるのだが、小さな野仏は幼子の姿を連想させるからなのかな。

いつもはたくさんの方がお参りされるのだろうが、この雷雨のおかげで(こわかったけど)ゆっくりしみじみお参りできた。帰る頃には再び雨脚がはげしくなってろうそくがまた消えてきたので、私はよほど日ごろの行いが良、、、(やめとこ^_^;)

野仏と 語らう如き 火影かな しぇる
「八重の桜」展〜京都文化博物館 - 2013.08.23 Fri

京都文化博物館で開催中の「八重の桜」展。
大河ドラマの「八重の桜」とリンクしているわけですが、前半は敗者=会津の方から見た維新を描いていてとても見応えがありました。会津藩がおのれの思いとは別にどんどんおいつめられていく様子があまりにも悲惨。(まるで太平洋戦争にどんどん追い詰められていった日清・日露以降の日本のようだ)

今回の展示も八重の生涯というよりは、どちらかといえばあの動乱の時代背景に重きをおいたような印象です。
第1章は「会津の教え」
会津藩の「ご家訓(かきん)」。「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」藩祖・保科正之がさだめたものだが、これが将来会津藩をしばって進退窮まらせることになろうとは、思わなかっただろうなあ。
藩士の子弟教育の場の日新館も、ドラマにでてきていたがその図やオリジナルテキストもあって、「ならぬことはならぬのです。」など、江戸時代の精神的な教育はやはり背筋がとおってる、今の子に聞かせてやりたい、と思っちゃう。「明治維新は江戸の教育のたまもの、太平洋戦争は明治維新の失敗」ってだれが言った言葉だっけ。
松平容保の生活をしのばせる遺愛品もあって、能楽も愛した殿様らしく鼓や笛、扇、能面箱などをあしらった蒔絵の煙草盆がすばらしく見事。
第2章は「幕末の京都」
会津藩が京都守護職を拝命し黒谷さんに本陣を敷き、新撰組が守護職お預かりになり、孝明天皇がなみなみならぬ信頼を会津に寄せた時代の京都。
そして禁門の変、いわゆるどんど焼けで丸焼けになった京の町の絵図や資料。これは現在の地名になじみがあるので、ことに興味深い。
同志社社史資料センターに保管されている八重の兄、山本覚馬の「建白」(管見)も展示されていました。これは現在、同志社の建っている場所にあった薩摩藩藩邸で覚馬が幽閉されていたときに書いた物。
第3章 の「会津籠城」は涙無しでは見られません。
砲弾でぼこぼこにされてかたむいた会津城の大きなパネルをみると、ここに籠もって女も子供も戦ったと言うからどんな思いで、、、と胸がつまります。白虎隊の悲惨な最期は太平洋戦争の特攻で亡くなった若者のことを連想させる。罪状を一身にひきうけ切腹した家老・萱野権兵衛へ切腹当日宛てたとみられる容保の書状など、いかばかりの思いで綴り、また読まれたのでしょう。
明治にはいって書かれた会津藩戦死者名簿には八重の父、弟の名や、当時としてはめずらしく女性の名前ものっているのです。その名前一つ一つにそれぞれの人生、思いがあった。黒谷さんの会津藩殉難の碑にも同じ名前が刻まれているのでしょうか。
ここからがドラマでも始まったばかりの八重の京都時代、新しい時代の幕開けです。
第4章 古都復興 ー覚馬と襄ー 第5章 ハンサムウーマンへ
都を東京にもっていかれて面目を失い落ち込む京都に、新しい近代都市をつくりあげようとした人々の営みとその資料など。
近代化を牽引したのちの京都府知事である槇村正直、その懐刀となった八重の兄、覚馬。そして槇村を介してアメリカから帰国した新島襄と八重の結婚。
彼ら他多くの人々の英知によって、京都は死んだ「旧都」にはならなかったのね。槇村の次の北国府知事もよく琵琶湖疏水を作ったも作ったり!やんややんや\(^O^)/ 今もその血を受け継いで京都は進化しつつ雅な情景をわすれない町であってほしい。
やっと、八重さんの話にたどりつきました。ふ〜。
同志社を設立せんと奔走する襄の隣に八重はよりそっていたし、襄なきあとは日本赤十字社の正社員となって従軍したばかりでなく、看護婦の地位向上のために尽くすなど日本のナイチンゲール的活躍もしたのです。そして裏千家・圓能斎のもと茶道を学び、その他のすべての物を投げ捨てて、茶道の先生になった、というのもあまりにも有名な話。(え?裏千家関係者中だけ?)
ここで展示されているのは、圓能斎からの円真、円草の許状(以前茶道資料館で見た)など、ですがたくさんあったはずの八重の茶道具はほとんど散逸し、いまでは南蛮抱桶水指、自作の茶杓「㐂」、長楽の赤楽茶碗「壽」のみで、この3点が展示されています。少しさびしいような気もしますが、彼女は遺品で偲ぶ人ではなく、その生き様で偲ぶべき人なので、それも彼女らしくていいではありませんか。
これらの道具は保存するより、使ってこそという高配にて、いまでも同志社茶道部で使われているそうです。
新島襄が留学時代の恩人である、ハーディ夫人に送った手紙の一節。
「of coures she is not handsome at all, but what I know of her is that she is a person who does handsome.」
彼女は美人ではないけれど、彼女の立ち振る舞い、行い、がハンサムなのだ。
これが「ハンサムウーマン」の語源らしい。出会って、結婚するまでの手紙らしいので、この時点で八重さんはすでにハンサムな男前な人だったのだ。それは会津でのあの勝ち目のない戦を戦い抜き、戦後敗戦組であっても背筋を伸ばして生きてきた、そんな歴史が彼女をハンサムにしたてあげたのだろう。
展示の最後に大きなパネルがあって、昭和3年黒谷に集まった人々集合写真になっている。昭和天皇の弟・秩父宮に松平容保の孫、勢津子が嫁いだ記念写真。「逆賊」「朝敵」であった容保公の孫の入輿は、旧会津藩士の気持ちをどれだけ高ぶらせただろう。想像にかたくない。容保の嗣子・容大、勢津子妃殿下の父(容保の六男)はほんによく見る容保公の写真に似てる。山川大蔵の弟で東大・京大の総長をつとめた健次郎の姿もあり、最前列に、ちょこんと座っている八重の姿が。このとき御年82歳。
京都でハンサムウーマンの本領を発揮し、活躍した八重だけれど、その心はいつまでも会津と共にあった、、、というキャプションにおもわず泣きました。
おしょらいさんを送る朝茶事 - 2013.08.21 Wed
五山送り火の日、ご先祖様の御霊、お精霊(おしょらい)さんを送る日の朝、心づくしの朝茶事へお招きいただく。
朝茶は夏の候、朝6時頃からスタートして、あっさりさらさらすすめて9時頃、暑くなる前におひらき、、、というのが理想的。今回はやや遅めのスタートなので助かります。(だって早起き苦手〜)

待合の煙草盆には一閑人ならぬ唐子がのぞきこむ火入れが。かわいい。今回客は3名、わたくし以外は茶事の手練れのお茶人さん。理想的。

待合のお軸はまさにこの日にふさわしい大文字。この朝茶のためにわざわざ誂えてくださったもの。
おかげでこの日は二回、大文字さんをおがむことができましたわ。

お手入れのいきとどいた露地には水引草がそろそろ花を咲かせようとしていて、猛暑ながらもかすかな秋を感じます。
迎えつけのあと、いよいよお茶席へ。四畳半小間扱い。
本席のお軸は有馬頼底猊下の「夢」。亡き人を偲ぶのに似つかわしい軸です。
風炉の時期の茶事は懐石→初炭なのですが、朝茶事に限り初炭→懐石。
風炉中拝見もあり、正客はかえりに拝見にだされていた香合を自席へ持ち帰る。
この時の香合を出す位置は棚付の場所になるのはなぜでしょう?、、、と主客で問答になるのも楽しい。
結局正解はでなかったのですが。どなたかご存じかしら。
ちなみに香合は鬼灯を木から刳りだしたもの。鬼の灯とは、まさに亡き人の魂を連想させます。
灰型は二文字押し切り、美しかったです〜∈^0^∋

飯器の竹籠が涼しげですてきです。クマザサの葉をたっぷり敷いた上にご飯をこんもり。サトイモの葉や蓮の葉を使うこともあります。(この時期、仏壇のお供え用に蓮の葉はスーパーでも売ってますし)
今回の懐石はほとんど手作り。これがすごいしありがたい。
向付は朝茶事では生ものではなく、一夜干しや酢の物を使うのですが、今回は鰻の蒲焼きキュウリの塩揉み添え。おいしかった〜、これが!
汁は茄子の赤出汁。煮物椀は胡麻豆腐とお野菜、海老のたきあわせ。この煮物椀に入っていた人参がなんと!猫の抜き型だったんです!そう、ご亭主さんも実はと〜っても猫好きなんです。(ちなみに主客4人中3人が猫飼い)

とどめがこの香物(漬け物)の器。朝茶事では焼物をぬくかわりに香物を多目にしますが、ひとりひとりとっていくと現れたのがこの大きなにゃんこの顔!\(^O^)/
お菓子をいただいて、中立。
さて、後座のはじまりです。

おおっ!
これは名水点てではありませんか!
期待がたかまります。え〜〜っと、名水点ての時はどのタイミングでどこの名水と聞くのだったっけ、、、(←へなちょこ正客の私、、、)
下鴨神社の御神水をお心遣いくださいました。甘露なだけでなく、なにやらありがたい。

花入れは経筒、花は蓮のつぼみに白リンドウ。ここにも亡き人を偲ぶための道具が。
蓮の花は茶事に合わせて開かぬようご手配くださったものですが、大変だったと思います。お花だけはこちらが思うように動いてくれませんものね。
おいしいお練り加減の濃茶をいただき、朝茶は「時がうつろいましてはご迷惑をおかけしますので、、、」といって、続き薄にするのがお約束。早く終わらないと暑くなりますしね。

お干菓子も五山送り火。私はこの東山の大文字をいただきましたが、ほかにも妙法、舟形、左大文字、鳥居のもそろっていたんですよ。
赤膚焼きのお茶碗は、底に「大」の字が。これは京都では大文字、赤膚焼きの本場、奈良では東大寺らしい、、(^◇^;)
玄々斎花押の宗哲の真塗棗、拝見させていただきましたが、ほんとうに美しいお塗りでした。感動。
そして、、、、茶杓が位牌窓の共筒付、「泪」の茶杓の写し〜!
(利休が自らの遺品として古田織部に与え、織部は共筒を位牌にみたてて所持した。徳川美術館・蔵)
大文字の待合掛けからはじまって、今日はそれぞれの、今は亡き身内や親しかった人の御霊を偲ぶ茶事になりました。
そしてこの夜はお盆の間、此岸ですごされたおしょらいさんが彼岸へお帰りなさる足元を照らす送り火の日。それにふさわしいよい茶事でした。ご亭主様、御連客様、ありがとうございました。
夜、送り火点灯の時、しみじみ手をあわせましたよ。

う〜〜ん、これなら蓮の花の帯にでもすりゃよかったかな(・ε・` )
<おまけ>
ちなみに「大文字焼き」というと京都の人にはおこられます。でも私が学生の時(ウン十年も前)はまわりの京都人は普通に「大文字焼き」と言ってました。その後、京都市観光局が必死になって本来の意味である「五山送り火」という名称を定着させたようです。保存会でも古株の人の中には「大文字焼き」といまも言う人がいるそうです。また、大文字は左京区南部エリアなので、(妙法や、舟形を大文字焼きとよぶのは無理がある)その周辺の人たちだけが「大文字焼き」と言っていたのかもしれません。いずれにせよ、京都人の矜恃を尊重して、くれぐれも「大文字焼き」とは言われませんように。(^_^)b
朝茶は夏の候、朝6時頃からスタートして、あっさりさらさらすすめて9時頃、暑くなる前におひらき、、、というのが理想的。今回はやや遅めのスタートなので助かります。(だって早起き苦手〜)

待合の煙草盆には一閑人ならぬ唐子がのぞきこむ火入れが。かわいい。今回客は3名、わたくし以外は茶事の手練れのお茶人さん。理想的。

待合のお軸はまさにこの日にふさわしい大文字。この朝茶のためにわざわざ誂えてくださったもの。
おかげでこの日は二回、大文字さんをおがむことができましたわ。

お手入れのいきとどいた露地には水引草がそろそろ花を咲かせようとしていて、猛暑ながらもかすかな秋を感じます。
迎えつけのあと、いよいよお茶席へ。四畳半小間扱い。
本席のお軸は有馬頼底猊下の「夢」。亡き人を偲ぶのに似つかわしい軸です。
風炉の時期の茶事は懐石→初炭なのですが、朝茶事に限り初炭→懐石。
風炉中拝見もあり、正客はかえりに拝見にだされていた香合を自席へ持ち帰る。
この時の香合を出す位置は棚付の場所になるのはなぜでしょう?、、、と主客で問答になるのも楽しい。
結局正解はでなかったのですが。どなたかご存じかしら。
ちなみに香合は鬼灯を木から刳りだしたもの。鬼の灯とは、まさに亡き人の魂を連想させます。
灰型は二文字押し切り、美しかったです〜∈^0^∋

飯器の竹籠が涼しげですてきです。クマザサの葉をたっぷり敷いた上にご飯をこんもり。サトイモの葉や蓮の葉を使うこともあります。(この時期、仏壇のお供え用に蓮の葉はスーパーでも売ってますし)
今回の懐石はほとんど手作り。これがすごいしありがたい。
向付は朝茶事では生ものではなく、一夜干しや酢の物を使うのですが、今回は鰻の蒲焼きキュウリの塩揉み添え。おいしかった〜、これが!
汁は茄子の赤出汁。煮物椀は胡麻豆腐とお野菜、海老のたきあわせ。この煮物椀に入っていた人参がなんと!猫の抜き型だったんです!そう、ご亭主さんも実はと〜っても猫好きなんです。(ちなみに主客4人中3人が猫飼い)

とどめがこの香物(漬け物)の器。朝茶事では焼物をぬくかわりに香物を多目にしますが、ひとりひとりとっていくと現れたのがこの大きなにゃんこの顔!\(^O^)/
お菓子をいただいて、中立。
さて、後座のはじまりです。

おおっ!
これは名水点てではありませんか!
期待がたかまります。え〜〜っと、名水点ての時はどのタイミングでどこの名水と聞くのだったっけ、、、(←へなちょこ正客の私、、、)
下鴨神社の御神水をお心遣いくださいました。甘露なだけでなく、なにやらありがたい。

花入れは経筒、花は蓮のつぼみに白リンドウ。ここにも亡き人を偲ぶための道具が。
蓮の花は茶事に合わせて開かぬようご手配くださったものですが、大変だったと思います。お花だけはこちらが思うように動いてくれませんものね。
おいしいお練り加減の濃茶をいただき、朝茶は「時がうつろいましてはご迷惑をおかけしますので、、、」といって、続き薄にするのがお約束。早く終わらないと暑くなりますしね。

お干菓子も五山送り火。私はこの東山の大文字をいただきましたが、ほかにも妙法、舟形、左大文字、鳥居のもそろっていたんですよ。
赤膚焼きのお茶碗は、底に「大」の字が。これは京都では大文字、赤膚焼きの本場、奈良では東大寺らしい、、(^◇^;)
玄々斎花押の宗哲の真塗棗、拝見させていただきましたが、ほんとうに美しいお塗りでした。感動。
そして、、、、茶杓が位牌窓の共筒付、「泪」の茶杓の写し〜!
(利休が自らの遺品として古田織部に与え、織部は共筒を位牌にみたてて所持した。徳川美術館・蔵)
大文字の待合掛けからはじまって、今日はそれぞれの、今は亡き身内や親しかった人の御霊を偲ぶ茶事になりました。
そしてこの夜はお盆の間、此岸ですごされたおしょらいさんが彼岸へお帰りなさる足元を照らす送り火の日。それにふさわしいよい茶事でした。ご亭主様、御連客様、ありがとうございました。
夜、送り火点灯の時、しみじみ手をあわせましたよ。

う〜〜ん、これなら蓮の花の帯にでもすりゃよかったかな(・ε・` )
<おまけ>
ちなみに「大文字焼き」というと京都の人にはおこられます。でも私が学生の時(ウン十年も前)はまわりの京都人は普通に「大文字焼き」と言ってました。その後、京都市観光局が必死になって本来の意味である「五山送り火」という名称を定着させたようです。保存会でも古株の人の中には「大文字焼き」といまも言う人がいるそうです。また、大文字は左京区南部エリアなので、(妙法や、舟形を大文字焼きとよぶのは無理がある)その周辺の人たちだけが「大文字焼き」と言っていたのかもしれません。いずれにせよ、京都人の矜恃を尊重して、くれぐれも「大文字焼き」とは言われませんように。(^_^)b
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イスタンブール・カッパドキア紀行2013〜2)アヤソフィア+ブルーモスク - 2013.08.15 Thu
イスタンブール。
イスラム圏でもっとも早くもっとも良い形で政教分離が成功した町。
近代的な町ながら、日に数回あるお祈りの時間には町中に礼拝の呼びかけの放送が流れ、イスラムという宗教が色濃く残る町。
アッラーは偉大なり アッラーは偉大なり
アッラーの他に神はなし アッラーの他に神はなし
ムハンマドはアッラーの使徒なり ムハンマドはアッラーの使徒なり
礼拝のために来たれ! 礼拝のために来たれ!

町行く女性の多くはいまも髪をかくすヒジャブをつけ、なかには目しかのぞかないニカーブをつけている人も。
頭からすっぽり黒いチャドルを着ている女性も多くいたが、30度をこすこの暑さの中、いったいどういう体温調整システムになっているのだろう。
とにもかくにもイスタンブールの目玉、向かい合って建つ、アヤソフィアとブルーモスクことスルタン・アフメットジャミイ(以下ブルーモスク)へ。
<アヤソフィア>

京都は38度を記録したらしいが、ここも負けていない。日なたはけっこうじりじりする。

ご存じ、ここは4世紀にローマ帝国の首都がビザンティウム(現イスタンブール)におかれたときのギリシャ正教総本山として建てられた。

何度かの建て増し、焼失の歴史をへながら、ビザンチン芸術の最高峰たるきらびやかなモザイク画で当時は壁一面が埋め尽くされていたという。
しかし、1453年オスマントルコによりコンスタンティンノープル(これも現イスタンブール、ほんま世界史でもやったけど、何回名前変えるねん)は制圧され、キリスト教は排除、偶像崇拝を否定するイスラムのスルタンは壁をすべて漆喰で塗り固めてしまった。そして永いオスマントルコの時代、このモザイク画は日の目を見ることなく、存在すら忘れられていった。

1931年、アメリカの調査隊によって発見されたモザイク画はその後漆喰を剥がしながら修復がすすみ(今なおあちこち修復中)そののち博物館として公開され、今にいたる。

数奇な運命をたどったゆえか、真ん中に聖母と幼いキリストのモザイク画、そのわきにイスラムの大メダリオン(右がアッラーで左がムハンマド)という奇っ怪さ。

ちなみに二階から見たメダリオンの裏側はこんなになってるのよ。

キリスト教なら礼拝所になるべき中央から、メッカの方向に少しずれておかれたイスラムの礼拝所。

まだまだ修復は継続中。

二階にあるデーシスというモザイク画。アヤソフィアのなかで一番美しい最高傑作とされている。
デーシスとはビザンティン美術の伝統的なイコンで、玉座に座るキリスト、傍らに聖母マリヤと洗礼者ヨハネが立った姿で描かれる。
人間を救ってくれるよう、キリストに向かって嘆願するポーズだそうだ。

下半分は残念ながら災害や盗難などにあって消失したらしい。あまりの美しさにイスラム教徒ですら漆喰で上塗りせずカーテンで隠した、という説も。
ちなみにこの天井もかつてはすべてモザイクでうめつくされていたそうだ。どんなにきらめいて美しかったことだろう。想像するしかないが。

かすかにアーチの内側にのこるモザイク。きらきら。

願いの柱。
アヤソフィア一階の隅にある柱でなぜかいつもしっとり濡れている。言い伝えではこの柱には天使が住んで町を守っていたが、オスマントルコが攻めてくる数日前に去ってしまったので、制圧されてしまったとか。その際、イスラムの天使(天使というのか?)が、教会がメッカの方向に向いていないので、この柱の穴に指をいれてずらした、という伝説も。
穴の中に指を入れて手を360度まわせば願いが叶うとか。で、すごいすり減ってます。
私ももちろんやりました〜。

壁だけでなく、地面にもご注目を。様々な色の大理石で荘厳されています。これはビザンティン帝国の王様が戴冠した場所の床。
宗教への篤き情熱とはかくもすざまじくありなん。

夕暮れのアヤソフィア。興奮した熱を少しさまそう。
<ブルーモスク>
さてお向かいのブルーモスクへ。

17世紀初頭のスルタンアフメット1世によって作られた、今も現役のモスク。

両サイドに建つ尖塔はイスラム建築ではミナレットと呼ばれるが、ここのように6本なのはめずらしいのだそうだ。(アングルによっては全部は見えない)
一説ではアフメット1世が「黄金(アルトゥン)のミナレットを」と言ったのに、建築家が「6(アルトゥ)本のミナレット」と聞き違えた怪我の功名とも。

ちょうど1日5回あるお祈りの時間にあたったため、非ムスリムはしばらく終わるまで待たないといけなかった。しかも入り口も分けられている!
モスクの外でもお祈りしている敬虔な信者達。

ドレスコードもあり。要するに肌を露出してはいけない、女性は髪を隠さなくてはいけない。

露出過多の人は入り口でスカーフや腰巻き貸してくれる。

私はそれ用に持参したスカーフでニセヒジャブ。
イスラムでは、女性の髪は男を誘惑する物と考えられているので、夫以外の男性と接する家の外ではかくすのだそうだが、コチラの女性は髪がみえなくてもすごく美しく魅力的過ぎ!
目だけだしているニカーブ姿はかえってなまめかしく、むしろ蠱惑的なんだが。

それにしても世界各国からやってきたムスリム、非ムスリム、、、うじゃうじゃと多すぎないか?!
きけば前の日までラマザン(断食月・ムスリムのたいせつな行事)だったので、それが開けた楽しさに週末というのも加わって、現地の人も大勢きているそうな。もう人に酔いそうなくらいすごかった。大阪も真っ青なくらい。
ちなみにラマザン明けの3日間はシュケル・バイラム(砂糖祭)といって官公庁も、バザールもお休み。

こちらはすかすか?というなかれ。
ここは礼拝者用のスペースで観光客は入れないのだ。しかし、美しい絨毯。さすがトルコ。

内部に使われるイズニックタイルはブルーを基調にしたものが多いので、ブルーモスクと呼ばれるようになったが、

ブルーは淡く、全体的にみると「ブルー」という印象は薄い。

大ドームを支える4本の象の柱とよばれる巨大な柱。
近くで見るとチューリップのデザインが多い。スルタンが愛した花でもあり、実はトルコ原産の花。国の花にもなっている。町の土産物屋さんでうっているタイルもチューリップ模様が多いのに気づくはず。

とにかく天井のタイルが美しいので上ばかり見ているから首が痛くなる。

こちらは区切られている女性用礼拝所の天井。

もちろん、扉のアラベスクもお忘れ無く。

モスクの外には礼拝の時間表示が。太陽の位置などで計算するので毎日少しずつちがうらしい。

出口で寄付を募っていたので、無料で何回も入らせてもらったから、20TL(1000円くらい)寄付すると証明書のようなものをいただいた。(確定申告に使える?^_^;)

夕刻にはアヤソフィアとブルーモスクの間の公園は様々な屋台も出て、おそくまで家族連れや観光客で賑わっていた。

暮れの空のミナレットのわきに、トルコの国旗のような(正確には向き逆だが)三日月を発見。
そぞろ歩きに気持ちのよい宵であった。(屋台でいろいろ買い食いもしながら)
* 旅行記まだまだ続きます。しばらくおつきあい下さいマセ。
イスラム圏でもっとも早くもっとも良い形で政教分離が成功した町。
近代的な町ながら、日に数回あるお祈りの時間には町中に礼拝の呼びかけの放送が流れ、イスラムという宗教が色濃く残る町。
アッラーは偉大なり アッラーは偉大なり
アッラーの他に神はなし アッラーの他に神はなし
ムハンマドはアッラーの使徒なり ムハンマドはアッラーの使徒なり
礼拝のために来たれ! 礼拝のために来たれ!

町行く女性の多くはいまも髪をかくすヒジャブをつけ、なかには目しかのぞかないニカーブをつけている人も。
頭からすっぽり黒いチャドルを着ている女性も多くいたが、30度をこすこの暑さの中、いったいどういう体温調整システムになっているのだろう。
とにもかくにもイスタンブールの目玉、向かい合って建つ、アヤソフィアとブルーモスクことスルタン・アフメットジャミイ(以下ブルーモスク)へ。
<アヤソフィア>

京都は38度を記録したらしいが、ここも負けていない。日なたはけっこうじりじりする。

ご存じ、ここは4世紀にローマ帝国の首都がビザンティウム(現イスタンブール)におかれたときのギリシャ正教総本山として建てられた。

何度かの建て増し、焼失の歴史をへながら、ビザンチン芸術の最高峰たるきらびやかなモザイク画で当時は壁一面が埋め尽くされていたという。
しかし、1453年オスマントルコによりコンスタンティンノープル(これも現イスタンブール、ほんま世界史でもやったけど、何回名前変えるねん)は制圧され、キリスト教は排除、偶像崇拝を否定するイスラムのスルタンは壁をすべて漆喰で塗り固めてしまった。そして永いオスマントルコの時代、このモザイク画は日の目を見ることなく、存在すら忘れられていった。

1931年、アメリカの調査隊によって発見されたモザイク画はその後漆喰を剥がしながら修復がすすみ(今なおあちこち修復中)そののち博物館として公開され、今にいたる。

数奇な運命をたどったゆえか、真ん中に聖母と幼いキリストのモザイク画、そのわきにイスラムの大メダリオン(右がアッラーで左がムハンマド)という奇っ怪さ。

ちなみに二階から見たメダリオンの裏側はこんなになってるのよ。

キリスト教なら礼拝所になるべき中央から、メッカの方向に少しずれておかれたイスラムの礼拝所。

まだまだ修復は継続中。

二階にあるデーシスというモザイク画。アヤソフィアのなかで一番美しい最高傑作とされている。
デーシスとはビザンティン美術の伝統的なイコンで、玉座に座るキリスト、傍らに聖母マリヤと洗礼者ヨハネが立った姿で描かれる。
人間を救ってくれるよう、キリストに向かって嘆願するポーズだそうだ。

下半分は残念ながら災害や盗難などにあって消失したらしい。あまりの美しさにイスラム教徒ですら漆喰で上塗りせずカーテンで隠した、という説も。
ちなみにこの天井もかつてはすべてモザイクでうめつくされていたそうだ。どんなにきらめいて美しかったことだろう。想像するしかないが。

かすかにアーチの内側にのこるモザイク。きらきら。

願いの柱。
アヤソフィア一階の隅にある柱でなぜかいつもしっとり濡れている。言い伝えではこの柱には天使が住んで町を守っていたが、オスマントルコが攻めてくる数日前に去ってしまったので、制圧されてしまったとか。その際、イスラムの天使(天使というのか?)が、教会がメッカの方向に向いていないので、この柱の穴に指をいれてずらした、という伝説も。
穴の中に指を入れて手を360度まわせば願いが叶うとか。で、すごいすり減ってます。
私ももちろんやりました〜。

壁だけでなく、地面にもご注目を。様々な色の大理石で荘厳されています。これはビザンティン帝国の王様が戴冠した場所の床。
宗教への篤き情熱とはかくもすざまじくありなん。

夕暮れのアヤソフィア。興奮した熱を少しさまそう。
<ブルーモスク>
さてお向かいのブルーモスクへ。

17世紀初頭のスルタンアフメット1世によって作られた、今も現役のモスク。

両サイドに建つ尖塔はイスラム建築ではミナレットと呼ばれるが、ここのように6本なのはめずらしいのだそうだ。(アングルによっては全部は見えない)
一説ではアフメット1世が「黄金(アルトゥン)のミナレットを」と言ったのに、建築家が「6(アルトゥ)本のミナレット」と聞き違えた怪我の功名とも。

ちょうど1日5回あるお祈りの時間にあたったため、非ムスリムはしばらく終わるまで待たないといけなかった。しかも入り口も分けられている!
モスクの外でもお祈りしている敬虔な信者達。

ドレスコードもあり。要するに肌を露出してはいけない、女性は髪を隠さなくてはいけない。

露出過多の人は入り口でスカーフや腰巻き貸してくれる。

私はそれ用に持参したスカーフでニセヒジャブ。
イスラムでは、女性の髪は男を誘惑する物と考えられているので、夫以外の男性と接する家の外ではかくすのだそうだが、コチラの女性は髪がみえなくてもすごく美しく魅力的過ぎ!
目だけだしているニカーブ姿はかえってなまめかしく、むしろ蠱惑的なんだが。

それにしても世界各国からやってきたムスリム、非ムスリム、、、うじゃうじゃと多すぎないか?!
きけば前の日までラマザン(断食月・ムスリムのたいせつな行事)だったので、それが開けた楽しさに週末というのも加わって、現地の人も大勢きているそうな。もう人に酔いそうなくらいすごかった。大阪も真っ青なくらい。
ちなみにラマザン明けの3日間はシュケル・バイラム(砂糖祭)といって官公庁も、バザールもお休み。

こちらはすかすか?というなかれ。
ここは礼拝者用のスペースで観光客は入れないのだ。しかし、美しい絨毯。さすがトルコ。

内部に使われるイズニックタイルはブルーを基調にしたものが多いので、ブルーモスクと呼ばれるようになったが、

ブルーは淡く、全体的にみると「ブルー」という印象は薄い。

大ドームを支える4本の象の柱とよばれる巨大な柱。
近くで見るとチューリップのデザインが多い。スルタンが愛した花でもあり、実はトルコ原産の花。国の花にもなっている。町の土産物屋さんでうっているタイルもチューリップ模様が多いのに気づくはず。

とにかく天井のタイルが美しいので上ばかり見ているから首が痛くなる。

こちらは区切られている女性用礼拝所の天井。

もちろん、扉のアラベスクもお忘れ無く。

モスクの外には礼拝の時間表示が。太陽の位置などで計算するので毎日少しずつちがうらしい。

出口で寄付を募っていたので、無料で何回も入らせてもらったから、20TL(1000円くらい)寄付すると証明書のようなものをいただいた。(確定申告に使える?^_^;)

夕刻にはアヤソフィアとブルーモスクの間の公園は様々な屋台も出て、おそくまで家族連れや観光客で賑わっていた。

暮れの空のミナレットのわきに、トルコの国旗のような(正確には向き逆だが)三日月を発見。
そぞろ歩きに気持ちのよい宵であった。(屋台でいろいろ買い食いもしながら)
* 旅行記まだまだ続きます。しばらくおつきあい下さいマセ。
イスタンブール・カッパドキア紀行2013〜1)奇岩のカッパドキア - 2013.08.15 Thu
旅の初日はイスタンブールを通過してアナトリア地方のカッパドキアへ。

このように見晴るかす大地は奇妙な形の岩に覆われている。
唯一突出しているのは写真がとれず残念だが、カイセリ空港でみたエルジェス山・3917m。富士山よりちょっと高く、まわりにそれ級の山がないので、雲の上に頭を突き出してたっている孤高の姿がかっこよかった。

<三人姉妹の石、もしくは家族の岩とよばれる奇岩>
日帰りでイスタンブールから行けなくもない。ただし一人でまわるには交通網があまりに不便なので現地ツアーなどに参加するのがおすすめ。レンタバギーでまわっているつわものもいましたが。

これらの奇岩はすべて自然の造型。さきほどのエルジェス山が数億年前まだ活火山だったころ、噴火で堆積した凝灰岩、溶岩のうち柔らかい凝灰岩は早くに浸食され、硬い溶岩部分のみがのこってこんな奇っ怪な形になったもの。

<らくだ岩。ほんま、駱駝にみえるわ>
自然はモダンアートもびっくりの芸術家とみえる。

これが有名なトルコの邪視除けのお守り、ナザール・ボンジュー。邪視からこの目が守ってくれるといわれ、家の玄関口やアクセサリーとして身につけたり、いわゆる厄除け。ガラス製で割れるとよいことがあるのだそう。

なんだか奇妙で、なんだか滑稽。鬼太郎の父みたいにもみえる(^艸^)

かつてイスラムからの迫害をのがれるため、9世紀ごろからキリスト教徒たちがほりやすい凝灰岩の奇岩を掘って、あちこちに洞窟教会をたてた名残。これはギョレメ野外博物館のもの。

礼拝所、食堂、ワイナリーまで備え、かすかに壁にフレスコ画も残る。残骸だけ見るとこんなところよう住んでたな、と思えるが、

同じく岩をくりぬいた場所をカフェにしているのだが、トルコ絨毯やキリムを敷き詰めると案外居心地よさそうだ。

岩肌を見るまでは洞窟の中だということを忘れてしまう。

こちらは反対に地下に8層の地下都市をつくってしまった、というカイマクル地下都市。やはりイスラムからの迫害を逃れるためのもので、最盛期には5000人もの人が暮らしていた、というから驚き。

もちろんワイナリーもあり、これはおそらく石臼。見つからないように煮炊きの煙を隠す方法や、大きな円盤石でふさげる入り口、蟻の巣のように入り組んだ構造など、敵からの防御の工夫があちこちに施されている。昔の人は知恵があった。多分外敵もなくのほほんと暮らしている現代人よりは。
閉所恐怖症の人にはタマラんだろうなあ。しかも中は灯りがなければ真っ暗闇なわけだし。

しかしながら、こういう窓のある岩にはつい最近までロマなどの人が住んでいたそうな。国策で今はもう住むのは禁止され、生活のあとはすでになく、遺跡になってしまった。

お昼もやっぱり洞窟レストランで。

間口は狭いが、中はけっこう広い。ダンスもできるホールまであった。

肉、野菜、豆、スパイスを壺に封じ込めて3時間蒸し焼きにしたというこの地方の名物料理。まあ、イスタンブールもそうだけど、トルコって日本人にとって味にはずれがないと思うよ。トルコの味噌汁とも言うべきメジメッキ(レンズ豆のスープ)、ばかうま!唐辛子を入れるとうまさ倍増。

夕刻、予約をいれておいたサルハン・ケルバンサラユでセマー(旋舞)を見る。ここは13世紀のキャラバン宿だった建物。

中央のパティオに噴水があるのはなんとなくアルハンブラを思い出させる。同じイスラム文化圏だし。

さて、セマーはトルコといえば思い出す、あのくるくる信じられないくらい回転する、イスラム神秘主義教団の1派、メヴラーナ教団の儀式。 薄暗い建物の中で拝見。
町中でも観光用に一人で踊っているのはよくみかけますが、ここは一応宗教的儀式なので撮影禁止。小一時間の儀式の後、撮影用にちょっとだけ踊ってくれたのを撮りました。

楽士が4人、セマーゼン(踊り手)が5人に導師みたいな人が一人。
起立した詠い手の独唱の間、セマーゼン達は、黒いマントを羽織って瞑想しているかのように見える。
やがてマントを脱いで、それぞれにかろやかに歩きながら互礼。
はじめは肩を抱きかかえるようにした腕をゆっくりと上げていき、トップスピードにはいると右手は天を指し、左手は地を、心臓を中心に廻るので首は少し右にかたむけて。
神との一体化を求め、ひたすらくるくるくるくる軽やかに、途中でとまって祈りをささげまたくるくるとの繰り返し。
白いスカートのようなすそが翻るたびにふわ〜ふわ〜と風がおこります。

法悦の境地というのか、その表情はトランス状態にはいっていますな。坐禅のようなものかしら。
私なら直ぐに吐いてますな。一体どういう三半規管の鍛え方をしているのかしら。(←即物的考え方しかできない無宗教人なので)

なんとも不思議な儀式。始まりは13世紀ごろというからかなり古い。
おわったあとはまたパティオにもどって、カシスジュースのふるまい。

この日はカッパドキアの洞窟ホテルにて一泊。
なかなか素敵なホテルだったのでちょっとご紹介。

カッパドキア・ケイヴ・スイーツ。


いろんなタイプの部屋があるがすべての部屋の前にバルコニーがあり眺め抜群。


部屋の中もあちこちに民族細工がおいてあって、楽しい。
カッパドキアのむき出しの自然は美しいが、しばらくするとちと飽きてくるのも確か。でも、この景色は、、、、

朝日を浴びて次々とあがるバルーン。これは最高の美しさでした!
(6時AM〜の気球ツアーね。私は高所恐怖症だからいらない)

ゆっくりとホテルの岩山をすれすれに越えていくバルーン。熱い空気をうみだすランプのシューという音まで聞こえてくる。

奇岩に負けず劣らず奇妙だが、美しい光景。

肌寒いくらいの朝の空気を楽しんだ後、部屋に入ろうとするその入り口には、ここにも魔除けのボンジュー。

このように見晴るかす大地は奇妙な形の岩に覆われている。
唯一突出しているのは写真がとれず残念だが、カイセリ空港でみたエルジェス山・3917m。富士山よりちょっと高く、まわりにそれ級の山がないので、雲の上に頭を突き出してたっている孤高の姿がかっこよかった。

<三人姉妹の石、もしくは家族の岩とよばれる奇岩>
日帰りでイスタンブールから行けなくもない。ただし一人でまわるには交通網があまりに不便なので現地ツアーなどに参加するのがおすすめ。レンタバギーでまわっているつわものもいましたが。

これらの奇岩はすべて自然の造型。さきほどのエルジェス山が数億年前まだ活火山だったころ、噴火で堆積した凝灰岩、溶岩のうち柔らかい凝灰岩は早くに浸食され、硬い溶岩部分のみがのこってこんな奇っ怪な形になったもの。

<らくだ岩。ほんま、駱駝にみえるわ>
自然はモダンアートもびっくりの芸術家とみえる。

これが有名なトルコの邪視除けのお守り、ナザール・ボンジュー。邪視からこの目が守ってくれるといわれ、家の玄関口やアクセサリーとして身につけたり、いわゆる厄除け。ガラス製で割れるとよいことがあるのだそう。

なんだか奇妙で、なんだか滑稽。鬼太郎の父みたいにもみえる(^艸^)

かつてイスラムからの迫害をのがれるため、9世紀ごろからキリスト教徒たちがほりやすい凝灰岩の奇岩を掘って、あちこちに洞窟教会をたてた名残。これはギョレメ野外博物館のもの。

礼拝所、食堂、ワイナリーまで備え、かすかに壁にフレスコ画も残る。残骸だけ見るとこんなところよう住んでたな、と思えるが、

同じく岩をくりぬいた場所をカフェにしているのだが、トルコ絨毯やキリムを敷き詰めると案外居心地よさそうだ。

岩肌を見るまでは洞窟の中だということを忘れてしまう。

こちらは反対に地下に8層の地下都市をつくってしまった、というカイマクル地下都市。やはりイスラムからの迫害を逃れるためのもので、最盛期には5000人もの人が暮らしていた、というから驚き。

もちろんワイナリーもあり、これはおそらく石臼。見つからないように煮炊きの煙を隠す方法や、大きな円盤石でふさげる入り口、蟻の巣のように入り組んだ構造など、敵からの防御の工夫があちこちに施されている。昔の人は知恵があった。多分外敵もなくのほほんと暮らしている現代人よりは。
閉所恐怖症の人にはタマラんだろうなあ。しかも中は灯りがなければ真っ暗闇なわけだし。

しかしながら、こういう窓のある岩にはつい最近までロマなどの人が住んでいたそうな。国策で今はもう住むのは禁止され、生活のあとはすでになく、遺跡になってしまった。

お昼もやっぱり洞窟レストランで。

間口は狭いが、中はけっこう広い。ダンスもできるホールまであった。

肉、野菜、豆、スパイスを壺に封じ込めて3時間蒸し焼きにしたというこの地方の名物料理。まあ、イスタンブールもそうだけど、トルコって日本人にとって味にはずれがないと思うよ。トルコの味噌汁とも言うべきメジメッキ(レンズ豆のスープ)、ばかうま!唐辛子を入れるとうまさ倍増。

夕刻、予約をいれておいたサルハン・ケルバンサラユでセマー(旋舞)を見る。ここは13世紀のキャラバン宿だった建物。

中央のパティオに噴水があるのはなんとなくアルハンブラを思い出させる。同じイスラム文化圏だし。

さて、セマーはトルコといえば思い出す、あのくるくる信じられないくらい回転する、イスラム神秘主義教団の1派、メヴラーナ教団の儀式。 薄暗い建物の中で拝見。
町中でも観光用に一人で踊っているのはよくみかけますが、ここは一応宗教的儀式なので撮影禁止。小一時間の儀式の後、撮影用にちょっとだけ踊ってくれたのを撮りました。

楽士が4人、セマーゼン(踊り手)が5人に導師みたいな人が一人。
起立した詠い手の独唱の間、セマーゼン達は、黒いマントを羽織って瞑想しているかのように見える。
やがてマントを脱いで、それぞれにかろやかに歩きながら互礼。
はじめは肩を抱きかかえるようにした腕をゆっくりと上げていき、トップスピードにはいると右手は天を指し、左手は地を、心臓を中心に廻るので首は少し右にかたむけて。
神との一体化を求め、ひたすらくるくるくるくる軽やかに、途中でとまって祈りをささげまたくるくるとの繰り返し。
白いスカートのようなすそが翻るたびにふわ〜ふわ〜と風がおこります。

法悦の境地というのか、その表情はトランス状態にはいっていますな。坐禅のようなものかしら。
私なら直ぐに吐いてますな。一体どういう三半規管の鍛え方をしているのかしら。(←即物的考え方しかできない無宗教人なので)

なんとも不思議な儀式。始まりは13世紀ごろというからかなり古い。
おわったあとはまたパティオにもどって、カシスジュースのふるまい。

この日はカッパドキアの洞窟ホテルにて一泊。
なかなか素敵なホテルだったのでちょっとご紹介。

カッパドキア・ケイヴ・スイーツ。


いろんなタイプの部屋があるがすべての部屋の前にバルコニーがあり眺め抜群。


部屋の中もあちこちに民族細工がおいてあって、楽しい。
カッパドキアのむき出しの自然は美しいが、しばらくするとちと飽きてくるのも確か。でも、この景色は、、、、

朝日を浴びて次々とあがるバルーン。これは最高の美しさでした!
(6時AM〜の気球ツアーね。私は高所恐怖症だからいらない)

ゆっくりとホテルの岩山をすれすれに越えていくバルーン。熱い空気をうみだすランプのシューという音まで聞こえてくる。

奇岩に負けず劣らず奇妙だが、美しい光景。

肌寒いくらいの朝の空気を楽しんだ後、部屋に入ろうとするその入り口には、ここにも魔除けのボンジュー。
残暑お見舞い - 2013.08.07 Wed
いよいよ立秋です。
(なのになんなのだ!?この暑さは!(#`皿´) )
でも、七夕ですねえ。(旧暦七夕は今年は8月13日)私の地元でも七夕は8月にしていましたね。新暦の7月7日ではまだ梅雨のさなかですし、これも新暦の実生活からずれたところです。
伝統行事はやはり旧暦でやってほしいです。

七夕に、芋の葉に結んだ露で墨をすり、梶の葉に字をかいて習字の上達を祈ったとか。梶の葉は表面に細かい毛があるので墨がのりやすいのだそうです。やったことありませんが。

梶の葉を水盤に。
あれ?水盤に映して楽しむのは大文字でしたっけね?(。-_-。) ま、京の夏はお楽しみがいっぱいで、、、

うちの梶の木はようやくきれいに分葉してくれるようになり、葉蓋などのお茶に使えます。でも他にも使えそうな葉っぱがしらないうちに庭に生えていた、といううれしいこともありました。
これは南天。隣の家とのすきまにしらないうちに生えていました。日当たりが悪いせいか、まだ実は結びませんが、お料理の飾りとしても南天は重宝。
関西では(他の地域はどうなんでしょう?)家の鬼門(東北)と裏鬼門(南西)には、難を転ずるという意味で魔除けに南天をよく植えます。うちにも植えているのですが、そのこぼれ種がここまで飛んできたのか、鳥さんがはこんだのか?
もうひとつ、今年はラッキ〜な野草が生えてきました。なんだか普通の雑草とちょっと違う葉っぱだなあ、、と思って引っこ抜かずに隣家との間のすきまで大きくなるのを待ってみました。

すると花まで咲いて、、、、調べるとヤブミョウガであることが判明。ミョウガという名前ながら科はまったく違う植物だそうです。それでも若芽はゆでて食べられるそうですから茗荷という名前がついたのでしょうか。

花のアップ。
葉っぱも広くて立派なので、実はこの前の茶会では錦玉寒の下に敷いてお出ししました。
ちょっと植え替えて繁らそうかしらね。
さて、暑さ厳しき中、恒例の旅行にちょいと参ります。
しばらくブログもお休み、レスなどは遅くなりますがご容赦を。
皆様もよき残りの夏をお楽しみ下さいませ。
(なのになんなのだ!?この暑さは!(#`皿´) )
でも、七夕ですねえ。(旧暦七夕は今年は8月13日)私の地元でも七夕は8月にしていましたね。新暦の7月7日ではまだ梅雨のさなかですし、これも新暦の実生活からずれたところです。
伝統行事はやはり旧暦でやってほしいです。

七夕に、芋の葉に結んだ露で墨をすり、梶の葉に字をかいて習字の上達を祈ったとか。梶の葉は表面に細かい毛があるので墨がのりやすいのだそうです。やったことありませんが。

梶の葉を水盤に。
あれ?水盤に映して楽しむのは大文字でしたっけね?(。-_-。) ま、京の夏はお楽しみがいっぱいで、、、

うちの梶の木はようやくきれいに分葉してくれるようになり、葉蓋などのお茶に使えます。でも他にも使えそうな葉っぱがしらないうちに庭に生えていた、といううれしいこともありました。
これは南天。隣の家とのすきまにしらないうちに生えていました。日当たりが悪いせいか、まだ実は結びませんが、お料理の飾りとしても南天は重宝。
関西では(他の地域はどうなんでしょう?)家の鬼門(東北)と裏鬼門(南西)には、難を転ずるという意味で魔除けに南天をよく植えます。うちにも植えているのですが、そのこぼれ種がここまで飛んできたのか、鳥さんがはこんだのか?
もうひとつ、今年はラッキ〜な野草が生えてきました。なんだか普通の雑草とちょっと違う葉っぱだなあ、、と思って引っこ抜かずに隣家との間のすきまで大きくなるのを待ってみました。

すると花まで咲いて、、、、調べるとヤブミョウガであることが判明。ミョウガという名前ながら科はまったく違う植物だそうです。それでも若芽はゆでて食べられるそうですから茗荷という名前がついたのでしょうか。

花のアップ。
葉っぱも広くて立派なので、実はこの前の茶会では錦玉寒の下に敷いてお出ししました。
ちょっと植え替えて繁らそうかしらね。
さて、暑さ厳しき中、恒例の旅行にちょいと参ります。
しばらくブログもお休み、レスなどは遅くなりますがご容赦を。
皆様もよき残りの夏をお楽しみ下さいませ。
六道参りめぐり〜五条坂陶器まつり - 2013.08.07 Wed
今年もお盆がやってきました。毎年墓参りに帰省しない先祖不孝者なので、そのかわりにお盆の入りにはここで迎え鐘を、お盆の終わりには大文字さんを拝んでお精霊(おしょらい)さんのお見送りをしとります。

清水道から松原通り、ふだんは閑かな通りもこの期間、あちこち店開き。

六道珍皇寺。
六道の辻はあの世とこの世の分かれ道。(六道:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)お盆には多くの方がご先祖供養においでになります。(観光寺院ではなく、実用寺院とでもいいますか)

境内にはいると、お精霊さんがこれをつたって帰ってくるといわれる高野槙、酸漿、蓮の花など仏壇を荘厳するものを売るお店が並びます。

青々とした高野槙。これは強い葉で、長いことこの緑があせないのだそうです。

ミソハギと蓮とセットにしたお供花セットも。

井戸をつたって閻魔様のもとへ夜な夜なおつとめに行かれたという小野篁ゆかりのお寺でもあります。この時期だけ、篁さんの像をおがめます。(閻魔さんとツーショットで)

迎え鐘をつく順番を待つ列はとても長くて、境内からでてもまだまだ続きます。

こちらの迎え鐘は地下にあるので、音もなんとなく陰にこもって、地獄の門を開けるような感じでオトロシイ。これが間断なく鳴るものだから、お盆の雰囲気満喫です。
お年寄りの中には力がなくてひいても音がだせずに、綱に引っ張られてひっくりかえってしまう方も(^◇^;)
地下で鐘が揺れている様子が見えないので、鐘が撞木から離れているときについてしまうと、かすっというような音しかしません。なるたけ前の方がついてから時間をおいてからつくのがよい音を出すコツかと。(なにせ待っている人が多いのであまり時間はおけませんが)

薄い木の卒塔婆に供養する人の名前をかいてもらって、お線香に火をつけ、、、

卒塔婆を煙で清めて、

槇の枝で水をかける水回向。

小野篁公の冥界通勤ルートの往路は境内内にありますが、こちらは2011年発見された隣の民家にあった篁ゆかりの井戸で、冥界からの復路なんだそう。「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付けられています。
さて、ここから西へ少し行くと、、、

壇林皇后(空海に帰依した嵯峨天皇皇后)祈願所、西福寺。ここは子育てのお寺ともいわれ、初孫がお腹の中にいるときに娘といっしょにお参りにきましたよ。

これは昨年の祈願銭。いただいてかえると願い事がかなうといいます。
(ああっ!文字はスルーしてっ!!)

今年も古いのをおさめ、新しいのをいただいて帰りました。
こちらは壇林皇后九相図というおどろおどろしい有名な絵があるのですが、今年は出ていないっ!!
お寺の方に聞いてみると「ああ〜、そろそろださにゃならんなあ、、、」って、おいっ!!もうお盆だって。

もう一つ熊野観心十界図(極楽・地獄絵)も有名で、この地獄絵の絵解きが夜におこなわれています。いちどちらっとのぞきましたが楽士の生演奏も付いてそれはそれはこわい雰囲気をもりあげていました。
これはそのパンフ、猫付き。(さわってもなにしても決しておきませんでした)

こののんびりした雰囲気が好きなお寺です。

南下すると六波羅蜜寺。こちらはイマイチ人気がないのか、お参りの方は少なめ。

こちらの地下の迎え鐘は待ち時間ゼロでつけました。

このまま五条通まで、雰囲気の良い町家の並ぶ通りをとおって南下します。

五条坂は陶器まつりで大賑わいです。

屋台の店がたくさんでますが、もともと五条坂に軒をつらねる陶器のお店も期間中はセールしてるので、良い物がちょっとお安くゲットできるかも。

なかでもこの楽只苑は建物自体が文化財になってる大きな町家で、なかに井戸も釣瓶も高い火袋だってあるので、焼物だけでなく、建物も必見です。昭和40年ごろまではここは化学陶器所(化学陶器ってなんだ?)兼社長宅だったらしい。

地面近くの温度は今日、40度くらいあったそうで、暑いのなんの。くらくらします。こんな日はより熱いインド料理で対抗すべし!
清水道バス停の目の前にある、インド・ベンガル料理CHAKRAにて、ランチをお腹いっぱいいただく。これにスープ、チャイ+デザート付きで1250円はすごいお得です。コーンスープがすごくスパイシーで、並みのコーンスープとは全くちがうものになっていて、感激しました。(オーナーは日本語ぺらぺらのインドの方)

陶器まつりでこんな器をゲット。
毎年同じ事書いてるな〜と思いますが、それが貴重だと思うのです。去年の今ごろは、来年どうなっているか、生きているかどうかさえ、本当はわからないものであったのに、こうして無事にまたこさせてもらえた。それはなにか大きな存在(神とも仏とも、自然の摂理とも)への感謝の念を惹起してやみません。この歳になったからこそ、そう思えるのです。
どうか来年もまた元気で来ることができますように。ご先祖さんにもお願いしよ。
え?墓参りもせん不孝もののくせにって?
えへへ(^_^;

清水道から松原通り、ふだんは閑かな通りもこの期間、あちこち店開き。

六道珍皇寺。
六道の辻はあの世とこの世の分かれ道。(六道:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)お盆には多くの方がご先祖供養においでになります。(観光寺院ではなく、実用寺院とでもいいますか)

境内にはいると、お精霊さんがこれをつたって帰ってくるといわれる高野槙、酸漿、蓮の花など仏壇を荘厳するものを売るお店が並びます。

青々とした高野槙。これは強い葉で、長いことこの緑があせないのだそうです。

ミソハギと蓮とセットにしたお供花セットも。

井戸をつたって閻魔様のもとへ夜な夜なおつとめに行かれたという小野篁ゆかりのお寺でもあります。この時期だけ、篁さんの像をおがめます。(閻魔さんとツーショットで)

迎え鐘をつく順番を待つ列はとても長くて、境内からでてもまだまだ続きます。

こちらの迎え鐘は地下にあるので、音もなんとなく陰にこもって、地獄の門を開けるような感じでオトロシイ。これが間断なく鳴るものだから、お盆の雰囲気満喫です。
お年寄りの中には力がなくてひいても音がだせずに、綱に引っ張られてひっくりかえってしまう方も(^◇^;)
地下で鐘が揺れている様子が見えないので、鐘が撞木から離れているときについてしまうと、かすっというような音しかしません。なるたけ前の方がついてから時間をおいてからつくのがよい音を出すコツかと。(なにせ待っている人が多いのであまり時間はおけませんが)

薄い木の卒塔婆に供養する人の名前をかいてもらって、お線香に火をつけ、、、

卒塔婆を煙で清めて、

槇の枝で水をかける水回向。

小野篁公の冥界通勤ルートの往路は境内内にありますが、こちらは2011年発見された隣の民家にあった篁ゆかりの井戸で、冥界からの復路なんだそう。「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付けられています。
さて、ここから西へ少し行くと、、、

壇林皇后(空海に帰依した嵯峨天皇皇后)祈願所、西福寺。ここは子育てのお寺ともいわれ、初孫がお腹の中にいるときに娘といっしょにお参りにきましたよ。

これは昨年の祈願銭。いただいてかえると願い事がかなうといいます。
(ああっ!文字はスルーしてっ!!)

今年も古いのをおさめ、新しいのをいただいて帰りました。
こちらは壇林皇后九相図というおどろおどろしい有名な絵があるのですが、今年は出ていないっ!!
お寺の方に聞いてみると「ああ〜、そろそろださにゃならんなあ、、、」って、おいっ!!もうお盆だって。

もう一つ熊野観心十界図(極楽・地獄絵)も有名で、この地獄絵の絵解きが夜におこなわれています。いちどちらっとのぞきましたが楽士の生演奏も付いてそれはそれはこわい雰囲気をもりあげていました。
これはそのパンフ、猫付き。(さわってもなにしても決しておきませんでした)

こののんびりした雰囲気が好きなお寺です。

南下すると六波羅蜜寺。こちらはイマイチ人気がないのか、お参りの方は少なめ。

こちらの地下の迎え鐘は待ち時間ゼロでつけました。

このまま五条通まで、雰囲気の良い町家の並ぶ通りをとおって南下します。

五条坂は陶器まつりで大賑わいです。

屋台の店がたくさんでますが、もともと五条坂に軒をつらねる陶器のお店も期間中はセールしてるので、良い物がちょっとお安くゲットできるかも。

なかでもこの楽只苑は建物自体が文化財になってる大きな町家で、なかに井戸も釣瓶も高い火袋だってあるので、焼物だけでなく、建物も必見です。昭和40年ごろまではここは化学陶器所(化学陶器ってなんだ?)兼社長宅だったらしい。

地面近くの温度は今日、40度くらいあったそうで、暑いのなんの。くらくらします。こんな日はより熱いインド料理で対抗すべし!
清水道バス停の目の前にある、インド・ベンガル料理CHAKRAにて、ランチをお腹いっぱいいただく。これにスープ、チャイ+デザート付きで1250円はすごいお得です。コーンスープがすごくスパイシーで、並みのコーンスープとは全くちがうものになっていて、感激しました。(オーナーは日本語ぺらぺらのインドの方)

陶器まつりでこんな器をゲット。
毎年同じ事書いてるな〜と思いますが、それが貴重だと思うのです。去年の今ごろは、来年どうなっているか、生きているかどうかさえ、本当はわからないものであったのに、こうして無事にまたこさせてもらえた。それはなにか大きな存在(神とも仏とも、自然の摂理とも)への感謝の念を惹起してやみません。この歳になったからこそ、そう思えるのです。
どうか来年もまた元気で来ることができますように。ご先祖さんにもお願いしよ。
え?墓参りもせん不孝もののくせにって?
えへへ(^_^;
皇室のボンボニエール〜細見美術館 - 2013.08.06 Tue
岡崎の徒歩圏内、細見美術館。

今期の特別展は「皇室のボンボニエール〜ご慶事を彩る菓子器〜」。
ボンボニエール(bonbonniere)とはなにか?フランス語のボンボン(キャンディーなどの小さな砂糖菓子)からきた「美しくてしゃれた小型のキャンディー缶やつぼ」という意味。

皇室では明治以降、ヨーロッパの習慣にならって天皇家・宮家のご慶事の際に祝宴の記念品として、このボンボニエールを招待客に御下賜されます。
ほとんどは純銀製なのですが、その細工の細かくて、造形性、芸術性の高いこと!
ただし、戦後以降はほとんどシンプルな香合型で、それはそれで美しいのですが、おもしろみに欠ける。戦前戦後の皇室の社会における立ち位置を考えれば、当然のことかもしれません。
ちなみにご慶事というのは、上は天皇のご即位の御大典から、天皇家・宮家のご婚礼、ご外遊記念、お子様の誕生、お七夜、海外からのVIP招待記念など、、などです。

(細見美術館は1Fから地下に下りていく展示室配置)
それだけに名実ともに権勢のあった明治時代のボンボニエールはほんとにすごい!これ全部招待客分作ったのかとびっくりするくらい手の込んだ細工が多いです。
御所車型や、鶴亀像、でんでん太鼓や、印籠型、兜や貝櫃、本型、籠、香炉型、天皇の儀礼時の帽子、、、ただただすごい。この造型のアイデアのヴァリエーションは根付けの造型につながるものがあります。

(地下にはイタリアンレストランもあります)
興味深いのは、戦時中つくられたものがヘルメットだったり、複葉式戦闘機だったり、魚雷だったり。時代ですね。

(細見のミュージアムショップはすごく充実していて入館しなくてもおすすめ)
おもしろいのは檜扇型のもので扇の部分をひらくようにスライドさせるとボンボンを入れる部分があらわれるもの。
とくに戦前の造作のこまかいものは、どうやって中にボンボンをいれるのか、全然わからないものもあって、容量はどう考えても5㎜以下の金平糖2〜3個くらいだろう、という実用度外視ものが多かったです。まあ、なによりこれを御下賜いただける、ということが名誉だったわけですから。
展示には明治以降の各宮家の歴史・系図なども添えられていて、跡継ぎがなく次々断絶していった宮家の多いことにおどろかされます。皇室だって、現状のままではとだえかねないですものね。こういう宮中からつたわった習慣や伝統で保護されてきた芸術も多いと思うので、ここはなんとしてもつないでいってほしいものです。

さて、細見美術館の入館券はこのシール。曜日によって色違いで洋服に貼って入ります。
そのシールをみんなどうするか?

こが有名なシールの壁!
美術館に隣接するもと芝蘭会館あとの壁(というかボード)。まんなかあたりの銀河のようなものは、、、

はい、みなさんここに貼っていっちゃうんですよね〜。(^_^;
ここの所有者もあえて剥がさないようですので、これも岡崎あたりの景色かと、、、、

今期の特別展は「皇室のボンボニエール〜ご慶事を彩る菓子器〜」。
ボンボニエール(bonbonniere)とはなにか?フランス語のボンボン(キャンディーなどの小さな砂糖菓子)からきた「美しくてしゃれた小型のキャンディー缶やつぼ」という意味。

皇室では明治以降、ヨーロッパの習慣にならって天皇家・宮家のご慶事の際に祝宴の記念品として、このボンボニエールを招待客に御下賜されます。
ほとんどは純銀製なのですが、その細工の細かくて、造形性、芸術性の高いこと!
ただし、戦後以降はほとんどシンプルな香合型で、それはそれで美しいのですが、おもしろみに欠ける。戦前戦後の皇室の社会における立ち位置を考えれば、当然のことかもしれません。
ちなみにご慶事というのは、上は天皇のご即位の御大典から、天皇家・宮家のご婚礼、ご外遊記念、お子様の誕生、お七夜、海外からのVIP招待記念など、、などです。

(細見美術館は1Fから地下に下りていく展示室配置)
それだけに名実ともに権勢のあった明治時代のボンボニエールはほんとにすごい!これ全部招待客分作ったのかとびっくりするくらい手の込んだ細工が多いです。
御所車型や、鶴亀像、でんでん太鼓や、印籠型、兜や貝櫃、本型、籠、香炉型、天皇の儀礼時の帽子、、、ただただすごい。この造型のアイデアのヴァリエーションは根付けの造型につながるものがあります。

(地下にはイタリアンレストランもあります)
興味深いのは、戦時中つくられたものがヘルメットだったり、複葉式戦闘機だったり、魚雷だったり。時代ですね。

(細見のミュージアムショップはすごく充実していて入館しなくてもおすすめ)
おもしろいのは檜扇型のもので扇の部分をひらくようにスライドさせるとボンボンを入れる部分があらわれるもの。
とくに戦前の造作のこまかいものは、どうやって中にボンボンをいれるのか、全然わからないものもあって、容量はどう考えても5㎜以下の金平糖2〜3個くらいだろう、という実用度外視ものが多かったです。まあ、なによりこれを御下賜いただける、ということが名誉だったわけですから。
展示には明治以降の各宮家の歴史・系図なども添えられていて、跡継ぎがなく次々断絶していった宮家の多いことにおどろかされます。皇室だって、現状のままではとだえかねないですものね。こういう宮中からつたわった習慣や伝統で保護されてきた芸術も多いと思うので、ここはなんとしてもつないでいってほしいものです。

さて、細見美術館の入館券はこのシール。曜日によって色違いで洋服に貼って入ります。
そのシールをみんなどうするか?

こが有名なシールの壁!
美術館に隣接するもと芝蘭会館あとの壁(というかボード)。まんなかあたりの銀河のようなものは、、、

はい、みなさんここに貼っていっちゃうんですよね〜。(^_^;
ここの所有者もあえて剥がさないようですので、これも岡崎あたりの景色かと、、、、
地球研〜林鐘茶亭中国茶会 - 2013.08.04 Sun
ちきゅうけん、、、、???
最初聞いたときは???でした。
上賀茂の山奥に、大学以外のこんなすごい研究施設があったなんて!

精華大のほん近く、それは扇形の近未来的な建物で夏草繁る先に見えてきました。

正式名称は総合地球環境学研究所。大学共同利用機関法人・人間文化研究機構のひとつです。(書いていてなんのことだかさっぱり、、、(^_^; )
(ちなみに同メンバーには国立民族博物館とか、国立歴史民俗博物館とか、国際日本文化研究センターなど)

正式名称はなんだかすごいけれど、このゆるキャラは、、、、その名も「地球犬」!
大根に手足だ!

しかも相方が「賀茂なす子」ちゃんなんて、ゆるすぎるにもほどがある\(^O^)/
とはいえ、この日は一般に研究所を開放して、施設や研究内容をわかりやすく、特にちびっこたちに紹介するオープンハウスの日なので、それなりに人気者なのかも。

また、建物がすごくステキなんです。全体の形は近未来、パーツが、うだつのある古民家のような木造部分、明治時代モダンの象徴、煉瓦造り部分とあって、そのどれもが全体として調和がとれている印象。
建物探訪としてもおもしろいかも。(どこかの建築会社設計、聞いたけれど忘れた、、、)

長い長い扇形の回廊のさきには、、

鯉太郎というこの施設竣工時に保護されたおおきな鯉の居る池まであるんです。この先は水辺の茶会でもできそうな四阿も。

総合受付にも地球犬!

ここは水生生物、特にカエルの研究をしている所員の方のものでしょうか。

研究室は仕切りのない宏大な扇形のオープンスペースになっていて、普段はここで各自リサーチに励んでおられるのでしょう。この日は10余りのプロジェクト別ブースができていて、子どもたち対象にわかりやすく研究内容をプレゼンテーション。
地球研は、地球環境問題の根源を人間と自然系の相互作用にあるととらえ、その関係をとらえなおそう、というのがコンセプトなので(すみません、書いていて自分の理解能力越えてます、、、…>_<…)ここに集う研究者は理系、文系の枠をこえています。

ふつう環境問題と考えると理系的なものがうかぶのですが、ここには哲学をやっている人、言語学をやっている人などもおられるのです。
(分野としては:農政学、森林水文学、植物遺伝学、建築学!、文化人類学、考古学、情報学、哲学、などなど)

2001年発足時には京大の中にあって、その後廃校になった河原町丸太町の春日小学校に間借りしていた時代を経て、2006年にここに居を定めたそうです。

ここの棚は貝類の研究者ですかね。いや、ほんとうのところは研究員がみんな自分の趣味で飾っているのかも。
地球環境学研究所というと正体がわからない感じですが、英語名の”Research Institute for Humanity and Nature”と言われる方が納得できますね。
いいな〜、、、こんなオープンでリベラルな感じのラボで研究できるって、憧れるわ〜ヾ(*≧∀≦*)ノ(昔いた研究室はすごく旧態然としたとこだったので)

子供向けのワークショップながら、おとなにも十分楽しめる内容でこの「チリモン探し」のブースはおつれくださったP様がいたく気にいられて、参加希望だったのですが、希望者多数のため断念。
(チリモン:チリメンモンスター、チリメンジャコのなかに混じっているチリメン以外の海洋生物のちっこいの。蛸やら蟹やら海老やら、けっこう楽しいよね、これ)

さてさて、今回のほんとうの目的はこのすてきな近未来的でもあり、クラシックでもある回廊の先にある、風のよく通るお茶亭。

回廊の一角に、研究所員や、近くの精華大建築科学生有志の手になる茶亭登場。

この竹の結界は学生さん達が朝の4時までかかって手作りしたものなんですって。

材料の竹にはこのあたりことかかないだろうけれど、さぞやたいへんな作業だったことでしょう。
さすが建築科!

「林鐘茶亭」
林鐘は中国の旋律でいうG(ソ)の音で6月の異名でもあります。(姑洗も同じく音階ですが、茶の世界では3月の異名としてわりとよく使われます)
この日は旧暦6月でしたのでこの名を使われたそうです。

ホストは地球研のお若い哲学の教授。

亭主は中国茶コーディネーターの堀口一子さん。
まずは冷水でいれた竹葉青。
このしつらいがとてもすてきだわ。

これは大山崎山荘中国茶会でも定番、竹の葉っぱみたいな茶葉が独特。
溶け出した氷の水でじっくり抽出。自分ですくっていただきます。

これは茶葉も食べられるんよ。

その後、奥の力作茶亭へ。
この回廊は風がよく通って、暑い日だったのに、とてもさわやかです。

これが椅子になり、小テーブルになるのです。すごい!

これは堀口さんの室礼でしょうか。ガラスの大皿に盛られた涼しげな氷!
こんな室礼を茶室でもできないものかと考える。待合くらいでしかできないかな、、、

とても研究所の中とは思えない。蓮の花と籠がマッチして、ここはベトナムの小都市かどこか?というイリュージョン。

所作も美しいです。

いただいたのは黄茶の霍山黄芽。さわやかな香気。
ほんとうに中国茶のヴァリエーションの豊かさはいつもながらびっくりします。

お菓子は宮川町蒼穹さんの「あまこほり」。若い人がやっている新しいお店で、こちらのお菓子に目をつけるあたり、さすがですね。

一服の納涼のひとときでありました。
こういうのをなんとか自分の茶席で生かせないかといつも思うのですが、どうもオーソドックスなものになってしまうの。もっと勉強したいものです。
ホストの教授は、あちこちでいろいろなとても楽しい茶席の試みをされているそうなので、これはまた機会がありましたら是非行きたい!
、、、、というわけで、地球研も知ったし、茶亭も楽しめたし、一粒で二度美味しい(^_^;)この一日なのでありました。
最初聞いたときは???でした。
上賀茂の山奥に、大学以外のこんなすごい研究施設があったなんて!

精華大のほん近く、それは扇形の近未来的な建物で夏草繁る先に見えてきました。

正式名称は総合地球環境学研究所。大学共同利用機関法人・人間文化研究機構のひとつです。(書いていてなんのことだかさっぱり、、、(^_^; )
(ちなみに同メンバーには国立民族博物館とか、国立歴史民俗博物館とか、国際日本文化研究センターなど)

正式名称はなんだかすごいけれど、このゆるキャラは、、、、その名も「地球犬」!
大根に手足だ!

しかも相方が「賀茂なす子」ちゃんなんて、ゆるすぎるにもほどがある\(^O^)/
とはいえ、この日は一般に研究所を開放して、施設や研究内容をわかりやすく、特にちびっこたちに紹介するオープンハウスの日なので、それなりに人気者なのかも。

また、建物がすごくステキなんです。全体の形は近未来、パーツが、うだつのある古民家のような木造部分、明治時代モダンの象徴、煉瓦造り部分とあって、そのどれもが全体として調和がとれている印象。
建物探訪としてもおもしろいかも。(どこかの建築会社設計、聞いたけれど忘れた、、、)

長い長い扇形の回廊のさきには、、

鯉太郎というこの施設竣工時に保護されたおおきな鯉の居る池まであるんです。この先は水辺の茶会でもできそうな四阿も。

総合受付にも地球犬!

ここは水生生物、特にカエルの研究をしている所員の方のものでしょうか。

研究室は仕切りのない宏大な扇形のオープンスペースになっていて、普段はここで各自リサーチに励んでおられるのでしょう。この日は10余りのプロジェクト別ブースができていて、子どもたち対象にわかりやすく研究内容をプレゼンテーション。
地球研は、地球環境問題の根源を人間と自然系の相互作用にあるととらえ、その関係をとらえなおそう、というのがコンセプトなので(すみません、書いていて自分の理解能力越えてます、、、…>_<…)ここに集う研究者は理系、文系の枠をこえています。

ふつう環境問題と考えると理系的なものがうかぶのですが、ここには哲学をやっている人、言語学をやっている人などもおられるのです。
(分野としては:農政学、森林水文学、植物遺伝学、建築学!、文化人類学、考古学、情報学、哲学、などなど)

2001年発足時には京大の中にあって、その後廃校になった河原町丸太町の春日小学校に間借りしていた時代を経て、2006年にここに居を定めたそうです。

ここの棚は貝類の研究者ですかね。いや、ほんとうのところは研究員がみんな自分の趣味で飾っているのかも。
地球環境学研究所というと正体がわからない感じですが、英語名の”Research Institute for Humanity and Nature”と言われる方が納得できますね。
いいな〜、、、こんなオープンでリベラルな感じのラボで研究できるって、憧れるわ〜ヾ(*≧∀≦*)ノ(昔いた研究室はすごく旧態然としたとこだったので)

子供向けのワークショップながら、おとなにも十分楽しめる内容でこの「チリモン探し」のブースはおつれくださったP様がいたく気にいられて、参加希望だったのですが、希望者多数のため断念。
(チリモン:チリメンモンスター、チリメンジャコのなかに混じっているチリメン以外の海洋生物のちっこいの。蛸やら蟹やら海老やら、けっこう楽しいよね、これ)

さてさて、今回のほんとうの目的はこのすてきな近未来的でもあり、クラシックでもある回廊の先にある、風のよく通るお茶亭。

回廊の一角に、研究所員や、近くの精華大建築科学生有志の手になる茶亭登場。

この竹の結界は学生さん達が朝の4時までかかって手作りしたものなんですって。

材料の竹にはこのあたりことかかないだろうけれど、さぞやたいへんな作業だったことでしょう。
さすが建築科!

「林鐘茶亭」
林鐘は中国の旋律でいうG(ソ)の音で6月の異名でもあります。(姑洗も同じく音階ですが、茶の世界では3月の異名としてわりとよく使われます)
この日は旧暦6月でしたのでこの名を使われたそうです。

ホストは地球研のお若い哲学の教授。

亭主は中国茶コーディネーターの堀口一子さん。
まずは冷水でいれた竹葉青。
このしつらいがとてもすてきだわ。

これは大山崎山荘中国茶会でも定番、竹の葉っぱみたいな茶葉が独特。
溶け出した氷の水でじっくり抽出。自分ですくっていただきます。

これは茶葉も食べられるんよ。

その後、奥の力作茶亭へ。
この回廊は風がよく通って、暑い日だったのに、とてもさわやかです。

これが椅子になり、小テーブルになるのです。すごい!

これは堀口さんの室礼でしょうか。ガラスの大皿に盛られた涼しげな氷!
こんな室礼を茶室でもできないものかと考える。待合くらいでしかできないかな、、、

とても研究所の中とは思えない。蓮の花と籠がマッチして、ここはベトナムの小都市かどこか?というイリュージョン。

所作も美しいです。

いただいたのは黄茶の霍山黄芽。さわやかな香気。
ほんとうに中国茶のヴァリエーションの豊かさはいつもながらびっくりします。

お菓子は宮川町蒼穹さんの「あまこほり」。若い人がやっている新しいお店で、こちらのお菓子に目をつけるあたり、さすがですね。

一服の納涼のひとときでありました。
こういうのをなんとか自分の茶席で生かせないかといつも思うのですが、どうもオーソドックスなものになってしまうの。もっと勉強したいものです。
ホストの教授は、あちこちでいろいろなとても楽しい茶席の試みをされているそうなので、これはまた機会がありましたら是非行きたい!
、、、、というわけで、地球研も知ったし、茶亭も楽しめたし、一粒で二度美味しい(^_^;)この一日なのでありました。
「欧米が愛した輸出蒔絵の華ー芝山と杣田」〜清水三年坂美術館 - 2013.08.02 Fri
あまりにも観光化されすぎてかつての面影のない三年坂。

あまりここへは足を運ぶことはないのだけれど、久々にやってきたのはこちらの特別展を見たいがため。

清水三年坂美術館。幕末、明治の比較的新しい時代の七宝、金工、蒔絵、京薩摩を展示してはる美術館で、一度は行きたいと思いつつもあまりに観光地なので遠慮していた次第。

今回私の好きな蒔絵がテーマということで、久々に三年坂に足をむけたのです。
「欧米が愛した輸出蒔絵の華ー芝山と杣田」
明治の欧米文化流入で行き場をなくした伝統工芸品が、反対に欧米に流出することによって再評価されだした時代。政府の殖産興業政策によってそれまで需要を失っていた職人達が欧米好みの輸出品を作るようになった、そのころの作品群。

確かに意匠は欧米向きというか、日本人好みの侘びさび渋みとはちょっとちがう、なんというかキャッチーというか派手というかゴージャスというか。なのにそれらのなかにも、当時の職人の卓越した仰天ものの技術と古来からの伝統的美意識が、これでもか!というくらいせまってくる迫力があります。
芝山は千葉県芝山町出身の大野木専蔵の考案による技術で、のちに江戸で流行し「芝山象嵌」として有名に。刀の鍔などに好まれたそう。
貝、鼈甲、象牙、珊瑚などを細工して遠くから見れば絵のようにみえるのが、近づくとすべてこれらの細工でできているのでびっくりする。図柄は花鳥風月の中国絵画風なものが多いかな。大ぶりの貝細工などダイナミックにば〜んと貼り付けてあると思えば、5mmくらいの梅の花に細かいおしべまで彫り込まれるようなミクロの仕事まで。
こりゃ、すごいわ。日本の職人技はほんとうにどうしてこんなにすごいのだろう。驚け!当時の欧米人!(?)
当時の日本人が捨て去ろうとして、行き場のなくなった腕に、ここぞとばかりよりをかけたのだろう。その情熱が伝わってくるようだわ。
絢爛豪華と思えば、色数をおさえた印籠にぽつっと一つ、赤い珊瑚がひかるこの効果。これぞ日本の美意識だ。わかるか?当時の欧米人!(スミマセン^_^;)
対して杣田は超微細で幾何学的なミクロの青貝蒔絵細工。江戸初期の富山藩主が青貝師杣田清輔を京都より招請し,藩の青貝師として重用したことに始まります。
意匠は細かい幾何学模様を得意とするらしく、むしろアラベスクに近い。七宝繋ぎ(しかも1紋様が数ミリの大きさ)、青海波、六角の籠目、網目、ヨーロッパの美術館などでよくみるような装飾に似たデザインも。
そして青貝の光は静かで、妖しくもあり、七色にも見える。これどれだけ薄いんだろう。0.1㎜とかそんな感じ。昨年香雪美術館で見た江里佐代子さんの截金細工を思い出す。こういう伝統の上に江里さん(故人。人間国宝)の仕事も発展していったのだろうか。しかし、、、、こんな青貝の香合が一つ、、一つでいいから欲しい、、、。・゚ヾ(゚`ェ´゚)ノ。゚・。

しばし別天地に心を遊ばせ、観光客でにぎわう三年坂へ出る。でもこうしてみると、やはり京都らしいよい風景だなあ。(=だから観光客もたくさんくる=混雑がいやになる=行かない、、、の撞着)

二年坂も通り過ぎ、、、

うふふ。やっぱり最後は甘い物で締めないとね。
高台寺前の都路里にてかき氷。冷房の効いた店内で冷たいお茶を飲んだ後の氷、、、、完食できず。やはり氷は熱い外で食べるべき。(そういえば屋外の席もあったんだ。そういうことか)

あまりここへは足を運ぶことはないのだけれど、久々にやってきたのはこちらの特別展を見たいがため。

清水三年坂美術館。幕末、明治の比較的新しい時代の七宝、金工、蒔絵、京薩摩を展示してはる美術館で、一度は行きたいと思いつつもあまりに観光地なので遠慮していた次第。

今回私の好きな蒔絵がテーマということで、久々に三年坂に足をむけたのです。
「欧米が愛した輸出蒔絵の華ー芝山と杣田」
明治の欧米文化流入で行き場をなくした伝統工芸品が、反対に欧米に流出することによって再評価されだした時代。政府の殖産興業政策によってそれまで需要を失っていた職人達が欧米好みの輸出品を作るようになった、そのころの作品群。

確かに意匠は欧米向きというか、日本人好みの侘びさび渋みとはちょっとちがう、なんというかキャッチーというか派手というかゴージャスというか。なのにそれらのなかにも、当時の職人の卓越した仰天ものの技術と古来からの伝統的美意識が、これでもか!というくらいせまってくる迫力があります。
芝山は千葉県芝山町出身の大野木専蔵の考案による技術で、のちに江戸で流行し「芝山象嵌」として有名に。刀の鍔などに好まれたそう。
貝、鼈甲、象牙、珊瑚などを細工して遠くから見れば絵のようにみえるのが、近づくとすべてこれらの細工でできているのでびっくりする。図柄は花鳥風月の中国絵画風なものが多いかな。大ぶりの貝細工などダイナミックにば〜んと貼り付けてあると思えば、5mmくらいの梅の花に細かいおしべまで彫り込まれるようなミクロの仕事まで。
こりゃ、すごいわ。日本の職人技はほんとうにどうしてこんなにすごいのだろう。驚け!当時の欧米人!(?)
当時の日本人が捨て去ろうとして、行き場のなくなった腕に、ここぞとばかりよりをかけたのだろう。その情熱が伝わってくるようだわ。
絢爛豪華と思えば、色数をおさえた印籠にぽつっと一つ、赤い珊瑚がひかるこの効果。これぞ日本の美意識だ。わかるか?当時の欧米人!(スミマセン^_^;)
対して杣田は超微細で幾何学的なミクロの青貝蒔絵細工。江戸初期の富山藩主が青貝師杣田清輔を京都より招請し,藩の青貝師として重用したことに始まります。
意匠は細かい幾何学模様を得意とするらしく、むしろアラベスクに近い。七宝繋ぎ(しかも1紋様が数ミリの大きさ)、青海波、六角の籠目、網目、ヨーロッパの美術館などでよくみるような装飾に似たデザインも。
そして青貝の光は静かで、妖しくもあり、七色にも見える。これどれだけ薄いんだろう。0.1㎜とかそんな感じ。昨年香雪美術館で見た江里佐代子さんの截金細工を思い出す。こういう伝統の上に江里さん(故人。人間国宝)の仕事も発展していったのだろうか。しかし、、、、こんな青貝の香合が一つ、、一つでいいから欲しい、、、。・゚ヾ(゚`ェ´゚)ノ。゚・。

しばし別天地に心を遊ばせ、観光客でにぎわう三年坂へ出る。でもこうしてみると、やはり京都らしいよい風景だなあ。(=だから観光客もたくさんくる=混雑がいやになる=行かない、、、の撞着)

二年坂も通り過ぎ、、、

うふふ。やっぱり最後は甘い物で締めないとね。
高台寺前の都路里にてかき氷。冷房の効いた店内で冷たいお茶を飲んだ後の氷、、、、完食できず。やはり氷は熱い外で食べるべき。(そういえば屋外の席もあったんだ。そういうことか)