小間で口切茶事 - 2013.11.30 Sat
11月は茶人の正月♪
ほんまにあちこち忙しかった。(うれしい悲鳴、でも体はほんとの悲鳴、、、)
中でも5月に製茶された新茶を、茶壺の中で半年の熟成期間を経て封印を切り、石臼でひいていただく口切茶事は別格。

お稽古で茶じょうごや挽家を使ってまね事はしたことあるのですが、実際の口切茶事は実は初めて。
口切は茶事としては厳かで格式が高いものなので、本来は主客とも紋服(三つ紋とか五つ紋?)、十徳着用におよばないといけないらしい。

なので床の掛け物は墨蹟をもって第一とす。この日の軸は道元の正法眼蔵からの一行、たしかに重い。同時に網にはいった茶壺が飾られていて、この中に濃茶入りの半袋3種、薄茶になる詰茶がいっぱい入って封をされているはず。もっとも内口切りといって茶家では客に出す前に家内で試し挽き試し飲みすることもあったそうです。

かつてはこの半袋に入った濃茶しか、その1年に使えるお茶はなかったので、どのお客に濃茶をのませてあげようか、と考えるのは非常に重い意味をもっており、呼ばれる方もそれをしっかり受け止めなければならなかったのです。今はいいですね、お店ですぐ買えちゃうんだから(^_^; だから濃茶をいただくときの覚悟がどだい昔とちがうのね。

御茶入日記を客は拝見し、どの濃茶にするか談義するのですが、まあそこはおまかせで。だって詰茶をいっぱいに詰めてある中から半袋をほじくりだすのはなかなか大変なんですもの。いちばん取り出しやすい物で。
いよいよ御入刃、、、というか小刀で封印の紙をじょりじょり切っていきます。やはり口切りは小間がいいですね。切る音がしっかり聞こえます。茶じょうごにあけられた碾茶の美しい色!

取り出された半袋は挽屋にいれられ水屋で石臼で挽かれる予定。(もっとも濃茶40g挽くのに電動石臼でも1時間だから、最近は早くに挽いておくのだそうです)そして茶壺はふたたび紙と糊で封印され、封印の真ん中に印を押す。
その後茶壺拝見。手の熱が中の茶葉に伝わって変性しないように、茶壺を持つ指は最小面積で触れるように。(「蜘蛛の手」とかおそわったな)この拝見の仕方とか、壺飾付花月でやったけれど、それはこれのための割稽古だったのね。茶匠によると揺り動かすのすら茶葉にはよくないそうで、茶壺は慎重に回す。そんなに繊細なものなのか!

続く初炭。炭斗は瓢がお約束。瓢は古来より魔除けの意味があったそうで。香合が大きな玄猪包。十文字に紐をかけた小箱に銀杏の葉をはさんだ意匠で、宮中へ亥の子餅など届けるときにつかわれた様式。
さて、懐石。汁は白味噌で中にこれまた魔除けの小豆が1〜2個。煮物椀にもお祝いの小餅がはいり、口切りってほんとうに「茶人の正月」なんだなあと実感。いずれもとてもおいしかった♪
伏見の御酒がこれまたおいしくて、あまりたしなまれない方が多い中、お隣さんがいける口、ふたりで酒盛りしてしまいましたわ。(^-^) もちろん千鳥もきっちりいただきました!(ご亭主がさらにうわばみ?)

中立中は茶室内をザッザッと箒で掃く音もして、これもご馳走。
後入りの時は床に観賞用のホンモノのルソンの壺が!きっちり真行草に紐で飾られています。(これ苦手なんだ→参照)花は白玉椿と照葉、花器は楽で一入。
いよいよ濃茶点前が始まります。この一服のための口切りです。(酒盛り)懐石から気持ちを切り替えて、しんと張りつめた空気の中、小間では釜の松籟だけがよう聞こえますね。そしてご亭主の帛紗さばきの美しいこと。
茶碗が、、、えらくかせた黒楽、長次郎写しかな、と思ったら、、、、長次郎そのものでした〜!!\(◎o◎)/!きゃ〜!!手の中にちょうじろぉ〜〜(←ちょっと壊れた)

釜が古淨味の尻張り、少庵が大徳寺公用にと寄付した物とくれば茶杓は道安と、(義)兄弟そろい踏み。
濃茶はおいしく、実際は前もって挽いてあったものだそうですが、とてもまろやかで、石臼で挽いたのはマズイという先入観を改めねばなりません。
後炭では初炭の炭の流れ方がことのほか美しく、もうあえて炭をつぎたさなくてもよいくらいです。ほんとに炉中の炭火は美しくて茶席で心惹かれる物のひとつです。
薄茶では茶碗は六代大樋の飴釉、御本鶴雲ときて、私にまわってきたのが枇杷色の光悦の不二に似た形。口作りが厚くて(当代の楽さんほどではないけど)、つい飲む場所間違えると口の端からお茶をこぼしてしまいそうな茶碗で、、、、「これは?」とお聞きすると「光悦」\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!きゃ〜!きゃ〜!
おりしもこのまえ五島美術館で光悦祭したところだったので、二度目に壊れる、、、

長次郎でのんだな〜、光悦でのんだな〜、、、それだけでええのや、と席主さんはおっしゃる。あえて主題を決めんかて。でも、長次郎や光悦なんて持ってない人のほうが圧倒的多数なんでそんなこといわれても、、、。あの亭主のお茶のめてよなったな〜、と思うのでもええと。なるほど。でもそう言ってもらえる亭主になるには茶の湯だけでなく人間的修養がちと足りませんわ。
いや、まとこに結構な口切り茶事デビュー、させていただきましたm(__)m

(長久堂さんのこなしの和菓子)
ほんまにあちこち忙しかった。(うれしい悲鳴、でも体はほんとの悲鳴、、、)
中でも5月に製茶された新茶を、茶壺の中で半年の熟成期間を経て封印を切り、石臼でひいていただく口切茶事は別格。

お稽古で茶じょうごや挽家を使ってまね事はしたことあるのですが、実際の口切茶事は実は初めて。
口切は茶事としては厳かで格式が高いものなので、本来は主客とも紋服(三つ紋とか五つ紋?)、十徳着用におよばないといけないらしい。

なので床の掛け物は墨蹟をもって第一とす。この日の軸は道元の正法眼蔵からの一行、たしかに重い。同時に網にはいった茶壺が飾られていて、この中に濃茶入りの半袋3種、薄茶になる詰茶がいっぱい入って封をされているはず。もっとも内口切りといって茶家では客に出す前に家内で試し挽き試し飲みすることもあったそうです。

かつてはこの半袋に入った濃茶しか、その1年に使えるお茶はなかったので、どのお客に濃茶をのませてあげようか、と考えるのは非常に重い意味をもっており、呼ばれる方もそれをしっかり受け止めなければならなかったのです。今はいいですね、お店ですぐ買えちゃうんだから(^_^; だから濃茶をいただくときの覚悟がどだい昔とちがうのね。

御茶入日記を客は拝見し、どの濃茶にするか談義するのですが、まあそこはおまかせで。だって詰茶をいっぱいに詰めてある中から半袋をほじくりだすのはなかなか大変なんですもの。いちばん取り出しやすい物で。
いよいよ御入刃、、、というか小刀で封印の紙をじょりじょり切っていきます。やはり口切りは小間がいいですね。切る音がしっかり聞こえます。茶じょうごにあけられた碾茶の美しい色!

取り出された半袋は挽屋にいれられ水屋で石臼で挽かれる予定。(もっとも濃茶40g挽くのに電動石臼でも1時間だから、最近は早くに挽いておくのだそうです)そして茶壺はふたたび紙と糊で封印され、封印の真ん中に印を押す。
その後茶壺拝見。手の熱が中の茶葉に伝わって変性しないように、茶壺を持つ指は最小面積で触れるように。(「蜘蛛の手」とかおそわったな)この拝見の仕方とか、壺飾付花月でやったけれど、それはこれのための割稽古だったのね。茶匠によると揺り動かすのすら茶葉にはよくないそうで、茶壺は慎重に回す。そんなに繊細なものなのか!

続く初炭。炭斗は瓢がお約束。瓢は古来より魔除けの意味があったそうで。香合が大きな玄猪包。十文字に紐をかけた小箱に銀杏の葉をはさんだ意匠で、宮中へ亥の子餅など届けるときにつかわれた様式。
さて、懐石。汁は白味噌で中にこれまた魔除けの小豆が1〜2個。煮物椀にもお祝いの小餅がはいり、口切りってほんとうに「茶人の正月」なんだなあと実感。いずれもとてもおいしかった♪
伏見の御酒がこれまたおいしくて、あまりたしなまれない方が多い中、お隣さんがいける口、ふたりで酒盛りしてしまいましたわ。(^-^) もちろん千鳥もきっちりいただきました!(ご亭主がさらにうわばみ?)

中立中は茶室内をザッザッと箒で掃く音もして、これもご馳走。
後入りの時は床に観賞用のホンモノのルソンの壺が!きっちり真行草に紐で飾られています。(これ苦手なんだ→参照)花は白玉椿と照葉、花器は楽で一入。
いよいよ濃茶点前が始まります。この一服のための口切りです。(酒盛り)懐石から気持ちを切り替えて、しんと張りつめた空気の中、小間では釜の松籟だけがよう聞こえますね。そしてご亭主の帛紗さばきの美しいこと。
茶碗が、、、えらくかせた黒楽、長次郎写しかな、と思ったら、、、、長次郎そのものでした〜!!\(◎o◎)/!きゃ〜!!手の中にちょうじろぉ〜〜(←ちょっと壊れた)

釜が古淨味の尻張り、少庵が大徳寺公用にと寄付した物とくれば茶杓は道安と、(義)兄弟そろい踏み。
濃茶はおいしく、実際は前もって挽いてあったものだそうですが、とてもまろやかで、石臼で挽いたのはマズイという先入観を改めねばなりません。
後炭では初炭の炭の流れ方がことのほか美しく、もうあえて炭をつぎたさなくてもよいくらいです。ほんとに炉中の炭火は美しくて茶席で心惹かれる物のひとつです。
薄茶では茶碗は六代大樋の飴釉、御本鶴雲ときて、私にまわってきたのが枇杷色の光悦の不二に似た形。口作りが厚くて(当代の楽さんほどではないけど)、つい飲む場所間違えると口の端からお茶をこぼしてしまいそうな茶碗で、、、、「これは?」とお聞きすると「光悦」\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!きゃ〜!きゃ〜!
おりしもこのまえ五島美術館で光悦祭したところだったので、二度目に壊れる、、、

長次郎でのんだな〜、光悦でのんだな〜、、、それだけでええのや、と席主さんはおっしゃる。あえて主題を決めんかて。でも、長次郎や光悦なんて持ってない人のほうが圧倒的多数なんでそんなこといわれても、、、。あの亭主のお茶のめてよなったな〜、と思うのでもええと。なるほど。でもそう言ってもらえる亭主になるには茶の湯だけでなく人間的修養がちと足りませんわ。
いや、まとこに結構な口切り茶事デビュー、させていただきましたm(__)m

(長久堂さんのこなしの和菓子)
東京で(私的)茶碗祭・その3〜美濃茶碗・三井記念美術館 - 2013.11.26 Tue
東京茶碗祭、最後に時間ぎりぎりに訪れたのが三井記念美術館。

この美術館、来るのは二回目。そして他の2つの美術館の会期が12月までだったので、のんびりしていたら実はこの日が最終日だった!しかも閉館まで1時間のぎりぎりなんて、、、。あぶないとこだった(´・ω・`;A)

タイトルは「国宝・卯花墻と桃山の名陶」。
桃山時代に美濃で栄えた志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部を沢山集めたこれまたすばらしい展示だった。

まずはなんといっても国宝志野茶碗「卯花墻」。
志野ってなんとなく好みではなくて、使う機会もあまりないのだけれど、これはやっぱりすごいな。志野独特の釉薬の色もさることながら、惹かれたのはその形。篦でぐいぐい削った削り方が思い切りよくて、口縁は無骨にゆがんで飲みにくそうで、、、、これどこかでみたことが、、、ああ、そうだ!当代の楽さんの焼抜き茶碗がこんな感じだ。
卯花墻の銘は石州がつけたもの。箱の裏に書きしるされた歌に
「山里の 卯花墻の中つ路 雪踏みわけし 心地こそすれ」
志野のくすりは長石を砕いた白い長石釉、酸化鉄(鬼板といわれる)の赤が特徴なのだが、鼠志野とよばれるグレーの志野は、鬼板を掻き落として文様を描き、あとを長石釉で白く埋めたものをいう。この技法が高麗の三島に似ていて(そういや色も)来歴になんらかのつながりがあるのでは、といわれているのが面白く感じられた。九州につれてこられた朝鮮陶工が唐津、萩を作ったように、実は鼠志野も朝鮮陶工が関わっていたとしたらおもしろいな。
黄瀬戸。
油揚げのような黄色い肌に彫り文様、グリーンの胆礬(たんぱん)がきれい。黄瀬戸はもともと食器として作られたので、茶碗として作られたものはほとんどなく、あくまで見立てとして使われているとか。形も冒険が無くシンプル。若い頃はあまり魅力を感じなかった黄瀬戸だけれど、最近その魅力がなんとなくわかってきたような気がっする。
瀬戸黒。
これは碁石のような茶碗。 焼成中に釉薬の溶け具合を見計らい引き出し急冷させて 発色させた「引き出し黒」といわれる色。瀬戸黒茶碗をひとつもっているが、これだけはいまだにその魅力がわからない。だいたい黒楽とどうちがうん?見た目。
織部。
う〜ん、やっぱり好き♪美濃焼最後に登場したまさに「楽しい」陶器。
白や茶色で絵を描いてちょいとグリーンの釉薬をたらせばできあがり!と思っていたが実は色の違う土、釉薬を使い分けることによって作られる高度な技法が用いられていることを初めて知った。底にグリーンの釉薬がつやつやと溜まって、まるで今たまり醤油をそこに注いだかに見える向付など最高。
赤と白でなんだかわからないけど面白い文様の鳴海織部がやっぱりいいな。
織部菊文茶碗を見て、つい「へうげもの」のワンシーンを思い出してしまう。漫画では、あの文様(上のポスターの左上に載っている茶碗)はハチワレの猫がくしゃみをしたかなにかの状景を古織が写し取ったことになっていた。たしかにハチワレの猫の顔だ!(^◇^)
最後の方は「まもなく閉館」のアナウンスにせかされ駆け足になってしまったが、最終日にまにあってヨカッタと思える展示であった。

鑑賞後は美術館のある日本橋三井タワー内、千疋屋のカフェでフルーツポンチをいただき、ヒートアップしたおつむをクールダウン、帰りの新幹線へ。
東京はなにせ京都にくらべて町がデカイので、三館めぐりはあわただしく、走って歩いて走ってまた歩いて、、という怒濤のスケジュールだったなあ。でも、がんばって行ってヨカッタ、と心底思えるよき1日でありました。

この美術館、来るのは二回目。そして他の2つの美術館の会期が12月までだったので、のんびりしていたら実はこの日が最終日だった!しかも閉館まで1時間のぎりぎりなんて、、、。あぶないとこだった(´・ω・`;A)

タイトルは「国宝・卯花墻と桃山の名陶」。
桃山時代に美濃で栄えた志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部を沢山集めたこれまたすばらしい展示だった。

まずはなんといっても国宝志野茶碗「卯花墻」。
志野ってなんとなく好みではなくて、使う機会もあまりないのだけれど、これはやっぱりすごいな。志野独特の釉薬の色もさることながら、惹かれたのはその形。篦でぐいぐい削った削り方が思い切りよくて、口縁は無骨にゆがんで飲みにくそうで、、、、これどこかでみたことが、、、ああ、そうだ!当代の楽さんの焼抜き茶碗がこんな感じだ。
卯花墻の銘は石州がつけたもの。箱の裏に書きしるされた歌に
「山里の 卯花墻の中つ路 雪踏みわけし 心地こそすれ」
志野のくすりは長石を砕いた白い長石釉、酸化鉄(鬼板といわれる)の赤が特徴なのだが、鼠志野とよばれるグレーの志野は、鬼板を掻き落として文様を描き、あとを長石釉で白く埋めたものをいう。この技法が高麗の三島に似ていて(そういや色も)来歴になんらかのつながりがあるのでは、といわれているのが面白く感じられた。九州につれてこられた朝鮮陶工が唐津、萩を作ったように、実は鼠志野も朝鮮陶工が関わっていたとしたらおもしろいな。
黄瀬戸。
油揚げのような黄色い肌に彫り文様、グリーンの胆礬(たんぱん)がきれい。黄瀬戸はもともと食器として作られたので、茶碗として作られたものはほとんどなく、あくまで見立てとして使われているとか。形も冒険が無くシンプル。若い頃はあまり魅力を感じなかった黄瀬戸だけれど、最近その魅力がなんとなくわかってきたような気がっする。
瀬戸黒。
これは碁石のような茶碗。 焼成中に釉薬の溶け具合を見計らい引き出し急冷させて 発色させた「引き出し黒」といわれる色。瀬戸黒茶碗をひとつもっているが、これだけはいまだにその魅力がわからない。だいたい黒楽とどうちがうん?見た目。
織部。
う〜ん、やっぱり好き♪美濃焼最後に登場したまさに「楽しい」陶器。
白や茶色で絵を描いてちょいとグリーンの釉薬をたらせばできあがり!と思っていたが実は色の違う土、釉薬を使い分けることによって作られる高度な技法が用いられていることを初めて知った。底にグリーンの釉薬がつやつやと溜まって、まるで今たまり醤油をそこに注いだかに見える向付など最高。
赤と白でなんだかわからないけど面白い文様の鳴海織部がやっぱりいいな。
織部菊文茶碗を見て、つい「へうげもの」のワンシーンを思い出してしまう。漫画では、あの文様(上のポスターの左上に載っている茶碗)はハチワレの猫がくしゃみをしたかなにかの状景を古織が写し取ったことになっていた。たしかにハチワレの猫の顔だ!(^◇^)
最後の方は「まもなく閉館」のアナウンスにせかされ駆け足になってしまったが、最終日にまにあってヨカッタと思える展示であった。

鑑賞後は美術館のある日本橋三井タワー内、千疋屋のカフェでフルーツポンチをいただき、ヒートアップしたおつむをクールダウン、帰りの新幹線へ。
東京はなにせ京都にくらべて町がデカイので、三館めぐりはあわただしく、走って歩いて走ってまた歩いて、、という怒濤のスケジュールだったなあ。でも、がんばって行ってヨカッタ、と心底思えるよき1日でありました。
東京で(私的)茶碗祭・その2〜光悦・五島美術館 - 2013.11.26 Tue
学生時代、光悦の「雨雲」を見た。
鳥肌が立ったのを覚えている。

当時なんとな〜く茶道はやっていたけれど、光悦の名前は教科書で知っている程度。そのころは光悦も今ほどさわがれることはなかったと思われ、思文閣かどこかの小さなミュージアムであったと記憶している。そんな二十歳そこそこのねえちゃんをもザワザワさせる黒い釉薬のむらむら。非定型であるからこそ不安をかきたてるような、、、「雨雲」は光悦自身のネーミングであろうか。まさに天才的。

あれから何回か見ていると思うのだけれど、よく似た「村雲」や「時雨」と混同しているかも。今回意識してはっきり、「雨雲」と再会。よけいな知識が入って、世故たけて(?)きたせいか、あのころのような初々しい感動はなかったけれど、この茶碗でお茶を、、、云々の気持ちは以前より強いと思う。

光悦は茶碗だけでなく(本職は刀の鑑定家)書、漆芸にもすぐれた多才の人であったので、今回の展示は半分が消息や和歌巻などだったけれど、今回は時間の問題もあって、しっかり見るのは茶碗のみに絞った。(光悦会で俵屋宗達下絵の和歌巻、ガラス無しで先日見たとこだし)

(庭の写真はすべて五島美術館内の庭園)
楽吉左衛門さんは光悦の茶碗への憧れがあるとおっしゃる。「乙御前」のような茶碗が作りたいとも。(その割りには焼抜の茶碗は乙御前とかけ離れてるけど、、)光悦の茶碗はほとんど楽家の窯で焼かれたらしく、楽家二代常慶や三代のんこう(道入)とお互いに影響を与えあっていたという。
乙御前は写真でみるとかわいいころっとした達磨さんのようなイメージだけれど、上から見るとけっこう洲浜型にゆがんでいるのね。

H22年、楽家で楽さんの還暦記念茶会に行った。その時「まだどこの美術館にもだしていません。」とおっしゃっていた光悦の白楽「冠雪」(命名は当代)を実際に手に取らせてもらった。
その「冠雪」にまたここで巡り会おうとは!

当時手に取った感想を書き写すと「白釉で、同じ光悦の国宝「不二山」に形は似て高台にかけてするどく削り取られ、胴は「乙御前」のようにどこかやわらかい曲線、手の中でぽってり、吸い付くような感じとでもいいましょうか。重さは重くなく、軽くなく。」
うわ〜!なんだかうれしい!

それにしても釉薬が綺麗だな。もう何百年もたっているのに釉薬の表面にニュートンリングのような虹があらわれてつやつや。
展示は低い位置のケースにはいっているので、茶碗の側面を見ようとすればいきおいしゃがみこまないといけないので、みんなしゃがんで横ばいに蟹歩きをしているのがなんだかおもしろかった。おかげで茶碗の茶だまりまで見ることができるのだけれど。

それにしても光悦は「ちゃわんや」というプロではないことをいいことに、ありとあらゆる造型、色、で融通無碍に茶碗をつくったこと!それはそのままで芸術作品なのだけれど、実際に茶の湯に使うとすればどうなんだろうと考える。茶碗の気配をむしろ消そうとしている長次郎の楽とは対極をいくような。

根津で重い図録を買ってしまったので、これ以上重い図録を持ち歩くのはいやだなあ、、、と思っていたらこんな小さな雑誌が。骨董の情報誌らしいが、光悦展が特集記事らしい。しかも先日行ったMIHOの根來の記事まであってずいぶん得した気分(^艸^)
鳥肌が立ったのを覚えている。

当時なんとな〜く茶道はやっていたけれど、光悦の名前は教科書で知っている程度。そのころは光悦も今ほどさわがれることはなかったと思われ、思文閣かどこかの小さなミュージアムであったと記憶している。そんな二十歳そこそこのねえちゃんをもザワザワさせる黒い釉薬のむらむら。非定型であるからこそ不安をかきたてるような、、、「雨雲」は光悦自身のネーミングであろうか。まさに天才的。

あれから何回か見ていると思うのだけれど、よく似た「村雲」や「時雨」と混同しているかも。今回意識してはっきり、「雨雲」と再会。よけいな知識が入って、世故たけて(?)きたせいか、あのころのような初々しい感動はなかったけれど、この茶碗でお茶を、、、云々の気持ちは以前より強いと思う。

光悦は茶碗だけでなく(本職は刀の鑑定家)書、漆芸にもすぐれた多才の人であったので、今回の展示は半分が消息や和歌巻などだったけれど、今回は時間の問題もあって、しっかり見るのは茶碗のみに絞った。(光悦会で俵屋宗達下絵の和歌巻、ガラス無しで先日見たとこだし)

(庭の写真はすべて五島美術館内の庭園)
楽吉左衛門さんは光悦の茶碗への憧れがあるとおっしゃる。「乙御前」のような茶碗が作りたいとも。(その割りには焼抜の茶碗は乙御前とかけ離れてるけど、、)光悦の茶碗はほとんど楽家の窯で焼かれたらしく、楽家二代常慶や三代のんこう(道入)とお互いに影響を与えあっていたという。
乙御前は写真でみるとかわいいころっとした達磨さんのようなイメージだけれど、上から見るとけっこう洲浜型にゆがんでいるのね。

H22年、楽家で楽さんの還暦記念茶会に行った。その時「まだどこの美術館にもだしていません。」とおっしゃっていた光悦の白楽「冠雪」(命名は当代)を実際に手に取らせてもらった。
その「冠雪」にまたここで巡り会おうとは!

当時手に取った感想を書き写すと「白釉で、同じ光悦の国宝「不二山」に形は似て高台にかけてするどく削り取られ、胴は「乙御前」のようにどこかやわらかい曲線、手の中でぽってり、吸い付くような感じとでもいいましょうか。重さは重くなく、軽くなく。」
うわ〜!なんだかうれしい!

それにしても釉薬が綺麗だな。もう何百年もたっているのに釉薬の表面にニュートンリングのような虹があらわれてつやつや。
展示は低い位置のケースにはいっているので、茶碗の側面を見ようとすればいきおいしゃがみこまないといけないので、みんなしゃがんで横ばいに蟹歩きをしているのがなんだかおもしろかった。おかげで茶碗の茶だまりまで見ることができるのだけれど。

それにしても光悦は「ちゃわんや」というプロではないことをいいことに、ありとあらゆる造型、色、で融通無碍に茶碗をつくったこと!それはそのままで芸術作品なのだけれど、実際に茶の湯に使うとすればどうなんだろうと考える。茶碗の気配をむしろ消そうとしている長次郎の楽とは対極をいくような。

根津で重い図録を買ってしまったので、これ以上重い図録を持ち歩くのはいやだなあ、、、と思っていたらこんな小さな雑誌が。骨董の情報誌らしいが、光悦展が特集記事らしい。しかも先日行ったMIHOの根來の記事まであってずいぶん得した気分(^艸^)
東京で(私的)茶碗祭・その1〜井戸茶碗・根津美術館 - 2013.11.26 Tue
東京の三井記念・五島・根津で三館合同キャンペーンの「茶陶三昧」なのである。東京へ日帰り、まる一日かけて三館を廻って個人的に頭の中は茶碗祭なのである。
そのしょっぱなは、やっぱりこれでしょう。

柳宗悦の著書「茶と美」におさめられた「喜左右衛門井戸を見る」を読んで、かつその表紙を飾る喜左右衛門井戸にいつかお目にかかりたいものだと思っていたから、思いはひとしお。

いや、ギャラリーのはしからはしまで、大井戸・小井戸・青井戸、そろいもそろった74碗の井戸には驚く。ひとつあっただけでヨダレをたらしているのに、これはいったいどういうリアクションをすればいいのか。

でもやはり一番に見たいのは国宝でもある喜左右衛門さん。
思ったより大きい。そしてたしかにかしいでる。かしぎ具合がなんともいえず心をそそる。竹節高台へ向けてぐっとしぼるように削られているカーブがこれまたたまらん、、、。裏の兜巾がみたい。梅花皮が、、梅花皮が、、、ハァハァ(*≧ω≦)♪、、、いかん、すっかりあやしいおっさんみたいになっとる。

維新までは松平様の許可なくして見ることがかなわなかった茶碗である。所持者には腫れ物が祟るという言い伝えがあり、最後の所持者であった松平不昧が腫れ物で亡くなり、その嗣子が同じく腫れ物を病むにいたり、奥方が菩提寺の大徳寺孤篷庵に寄贈した、という逸話付きである。

柳は河井寛次郎とつれもって孤篷庵にこの茶碗を昭和6年春に見にいっている。茶碗は五重の箱、綿入れの紫の布からとりだされ、実際に手にとってみたという。
「いい茶碗だーだが何という平凡きわまる物だ。」

それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使ふ茶碗である。
全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。
作る物は卑下して作ったのである。個性等ほこるどころではない。
使ふ者は無造作に作ったのである。
・・・・・・・・・・・
土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。
形に面倒は要らないのである。数がたくさんできた品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。
手はよごれたままである。釉をたらして高台にたらしてしまったのである。
室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。
引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。
またいられないのである。安物である。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。
・・・・・・・・・・・・
これほどざらにある当たり前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。

あくまで柳の想像である。
飯茶碗である、という説にも異論があって祭器だという説もあるが、どちらにしても貧しい人たちの粗末なうつわであったことは間違いないと思う。
こういうゆがみを美しいと思って韓国の陶工がわざとそうつくった、という説を唱える人もいるが、それは多分違うと思う。柳も云うようにこのゆがんだ造型は巧まずしてできたからこそ、作為がないからこそ美しく、それに美をみいだしたのはやはり日本の茶人達であったと思う。

細かい貫入〜梅花皮につながる景色、枇杷色の色調スケール、茶だまりがちょっとけばけばに見えるのは茶筅擦れかしら。持ちたい、手に持ってみたい。いっしょにガラスケースにかじりついてたお兄さんがため息をつくように「ああ、これでお茶飲みたい、、、」激しく賛同!

もちろん喜左右衛門さんだけでなく、他の井戸もそれぞれ個性があって、一口に大井戸といってもヴァリエーションがあるのだな。どうしてこれが国宝にならないのか?とおもうようなすごい茶碗もある。全部なめるように見ていたら、すっかり消耗してしまった。いかん、いかん、あと光悦も志野もみないといけないのに。
青井戸は青くないのに(青いのもある)なんで青井戸なんだろう、と思っていたけれど、「朝顔型で鉢割れ、高台低めの井戸」ということを初めて学習した。でも、小井戸と区別がつかないのもあるよな。

もし、自分が持つとしたら(まあ、一生そのチャンスはないと思われるが)小井戸かな。たしかにちっちゃいわ。女性の手のサイズにぴったり。大井戸は、、、やはり男性が扱ってこそ映えそうな気がする。

図録を買って、(観光客がいっぱいで歩くのも困難な京都ではなくて)美術館の広大な庭園で紅葉を楽しみ、ついでにNEDU Cafeでお昼をいただいて茶碗祭ひとつめ終了。
そのしょっぱなは、やっぱりこれでしょう。

柳宗悦の著書「茶と美」におさめられた「喜左右衛門井戸を見る」を読んで、かつその表紙を飾る喜左右衛門井戸にいつかお目にかかりたいものだと思っていたから、思いはひとしお。

いや、ギャラリーのはしからはしまで、大井戸・小井戸・青井戸、そろいもそろった74碗の井戸には驚く。ひとつあっただけでヨダレをたらしているのに、これはいったいどういうリアクションをすればいいのか。

でもやはり一番に見たいのは国宝でもある喜左右衛門さん。
思ったより大きい。そしてたしかにかしいでる。かしぎ具合がなんともいえず心をそそる。竹節高台へ向けてぐっとしぼるように削られているカーブがこれまたたまらん、、、。裏の兜巾がみたい。梅花皮が、、梅花皮が、、、ハァハァ(*≧ω≦)♪、、、いかん、すっかりあやしいおっさんみたいになっとる。

維新までは松平様の許可なくして見ることがかなわなかった茶碗である。所持者には腫れ物が祟るという言い伝えがあり、最後の所持者であった松平不昧が腫れ物で亡くなり、その嗣子が同じく腫れ物を病むにいたり、奥方が菩提寺の大徳寺孤篷庵に寄贈した、という逸話付きである。

柳は河井寛次郎とつれもって孤篷庵にこの茶碗を昭和6年春に見にいっている。茶碗は五重の箱、綿入れの紫の布からとりだされ、実際に手にとってみたという。
「いい茶碗だーだが何という平凡きわまる物だ。」

それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使ふ茶碗である。
全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。
作る物は卑下して作ったのである。個性等ほこるどころではない。
使ふ者は無造作に作ったのである。
・・・・・・・・・・・
土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。
形に面倒は要らないのである。数がたくさんできた品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。
手はよごれたままである。釉をたらして高台にたらしてしまったのである。
室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。
引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。
またいられないのである。安物である。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。
・・・・・・・・・・・・
これほどざらにある当たり前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。

あくまで柳の想像である。
飯茶碗である、という説にも異論があって祭器だという説もあるが、どちらにしても貧しい人たちの粗末なうつわであったことは間違いないと思う。
こういうゆがみを美しいと思って韓国の陶工がわざとそうつくった、という説を唱える人もいるが、それは多分違うと思う。柳も云うようにこのゆがんだ造型は巧まずしてできたからこそ、作為がないからこそ美しく、それに美をみいだしたのはやはり日本の茶人達であったと思う。

細かい貫入〜梅花皮につながる景色、枇杷色の色調スケール、茶だまりがちょっとけばけばに見えるのは茶筅擦れかしら。持ちたい、手に持ってみたい。いっしょにガラスケースにかじりついてたお兄さんがため息をつくように「ああ、これでお茶飲みたい、、、」激しく賛同!

もちろん喜左右衛門さんだけでなく、他の井戸もそれぞれ個性があって、一口に大井戸といってもヴァリエーションがあるのだな。どうしてこれが国宝にならないのか?とおもうようなすごい茶碗もある。全部なめるように見ていたら、すっかり消耗してしまった。いかん、いかん、あと光悦も志野もみないといけないのに。
青井戸は青くないのに(青いのもある)なんで青井戸なんだろう、と思っていたけれど、「朝顔型で鉢割れ、高台低めの井戸」ということを初めて学習した。でも、小井戸と区別がつかないのもあるよな。

もし、自分が持つとしたら(まあ、一生そのチャンスはないと思われるが)小井戸かな。たしかにちっちゃいわ。女性の手のサイズにぴったり。大井戸は、、、やはり男性が扱ってこそ映えそうな気がする。

図録を買って、(観光客がいっぱいで歩くのも困難な京都ではなくて)美術館の広大な庭園で紅葉を楽しみ、ついでにNEDU Cafeでお昼をいただいて茶碗祭ひとつめ終了。
「ようこそ、観阿弥さん〜通小町」〜京都芸術センター - 2013.11.24 Sun
さらば 煩悩の犬となって 打たるると 離れじ

元明倫小学校、現京都芸術センターで、今宵も素謡(すうたい:能の演目の謡のみ)の会「ようこそ、観阿弥さん」、今回の演目は「通小町」。

今回の目玉は、注目の若手能楽師、味方玄・團兄弟のお父ちゃん、味方健さんの登場。能楽師としてだけでなく、能楽の研究者としても名高いお方だそうです。
前回はご長男の玄さん、今回は弟の團さんが共演されました。

(芸術センター内の前田珈琲)
まずは味方健さんによる「観阿弥と通小町」についてのプチ講義。能楽の歴史的なことから、観阿弥の芸について、話し出したらとまらない、、という感じで熱心に教えて下さいました。残念ながら能に関しては超・初心者ゆえ、テクニカルタームがよくわからず理解できない事が多くて、、、、

(前田珈琲のあちこちに教室だった頃の名残がみてとれます)
さて、「通小町」、有名な深草の少将(四位の少将とも)の百夜通いの物語に題材をとっています。

(メニューは昔なつかし出席簿スタイル!)
素謡はツレ・僧が田茂井廣道さん、シテ・少将が味方健さん、ワキ・小町が味方團さんです。

こんな舞台で、同じ平面、直ぐ近くで、一流の能楽師の芸を拝めるのはなんとも贅沢なことであります。

八瀬の里で夏安居中の僧の元へ毎日木の実や爪木(柴)をもってくる女がいます。名を問うと女は、はっきりとは名乗らず、しかし小野小町とほのめかして消えていきます。
さては小町の幽霊か、と悟った僧は、市原野に住まいするという言葉をたよりに訪ね行き、供養をしていると小町の幽霊があらわれ授戒を乞います。(成仏させてくれ、ということですね)ところがここで地獄の底から聞こえてくるような声で「いや叶ふまじ。戒授けたまはば恨み申すべし」と深草少将登場。
これがね、声だけなのにこわいんですよ、ホント。目の前に蓬髪のやせこけた「痩男」の面をつけた少将がぼぉ〜っと立っているような、そんな気になりました。

二人そろって成仏せいというのに、少将は納得せず、いままでのうらみつらみを綿々と。まさにすざまじき妄執、「煩悩の犬となって打たるると離れじ」と小町の袖を引いてはなさないのは、元祖ストーカーの呈、コワイよこんなの。
それにしても味方健さん、御年80を越えているとお聞きしたが、にわかには信じがたい。一芸に精進される方は違うのだなあ。

僧はそこで「百夜通いの様を語ってみせよ」という。私の元に百日休まず通い続けることができたらあなたの愛を受け入れましょう、という小町の京都人っぽい言葉(考えときまひょ、、、、って断固お断り、の意味だよね、京都では^_^;)を真に受けて、雨の夜も風の夜も、雪の夜もひたすら通い続け、通った日だけ車の榻(しぢ:牛車のくびきをのせる台)に印をつける少将。
数えれば今日で九十九夜、明日の夜は烏帽子も衣も改めてでかけようぞ、、、、が、その満願の百日目に、今までの肉体的疲労が限界を超えたのか、思いをとげぬままむなしくなってしまった。
この百夜通いを追体験をさせることによって、ついにさしものしつこい少将も小町とともに成仏しましたとさ。
能はこういう成仏パターンが多い。なんでそれで成仏するん?と思わないでもないが、救いがあるほうがいいですよね。

今回もお供はこの謡本。なにしろ古語やむつかしい言葉は字面をみなければ全く意味がわからないので、やはりテキストは必要だなあ、、と私は思うのですが。
素謡のあとは、藤多流能笛奏者、竹市学さんの笛、仕舞を三番を楽しむ。仕舞の最後は味方團さんの「通小町」最後のクライマックスでありました。迫力ある〜。やはり能舞台で衣裳付きで見たいなあ、、、。

元明倫小学校、現京都芸術センターで、今宵も素謡(すうたい:能の演目の謡のみ)の会「ようこそ、観阿弥さん」、今回の演目は「通小町」。

今回の目玉は、注目の若手能楽師、味方玄・團兄弟のお父ちゃん、味方健さんの登場。能楽師としてだけでなく、能楽の研究者としても名高いお方だそうです。
前回はご長男の玄さん、今回は弟の團さんが共演されました。

(芸術センター内の前田珈琲)
まずは味方健さんによる「観阿弥と通小町」についてのプチ講義。能楽の歴史的なことから、観阿弥の芸について、話し出したらとまらない、、という感じで熱心に教えて下さいました。残念ながら能に関しては超・初心者ゆえ、テクニカルタームがよくわからず理解できない事が多くて、、、、

(前田珈琲のあちこちに教室だった頃の名残がみてとれます)
さて、「通小町」、有名な深草の少将(四位の少将とも)の百夜通いの物語に題材をとっています。

(メニューは昔なつかし出席簿スタイル!)
素謡はツレ・僧が田茂井廣道さん、シテ・少将が味方健さん、ワキ・小町が味方團さんです。

こんな舞台で、同じ平面、直ぐ近くで、一流の能楽師の芸を拝めるのはなんとも贅沢なことであります。

八瀬の里で夏安居中の僧の元へ毎日木の実や爪木(柴)をもってくる女がいます。名を問うと女は、はっきりとは名乗らず、しかし小野小町とほのめかして消えていきます。
さては小町の幽霊か、と悟った僧は、市原野に住まいするという言葉をたよりに訪ね行き、供養をしていると小町の幽霊があらわれ授戒を乞います。(成仏させてくれ、ということですね)ところがここで地獄の底から聞こえてくるような声で「いや叶ふまじ。戒授けたまはば恨み申すべし」と深草少将登場。
これがね、声だけなのにこわいんですよ、ホント。目の前に蓬髪のやせこけた「痩男」の面をつけた少将がぼぉ〜っと立っているような、そんな気になりました。

二人そろって成仏せいというのに、少将は納得せず、いままでのうらみつらみを綿々と。まさにすざまじき妄執、「煩悩の犬となって打たるると離れじ」と小町の袖を引いてはなさないのは、元祖ストーカーの呈、コワイよこんなの。
それにしても味方健さん、御年80を越えているとお聞きしたが、にわかには信じがたい。一芸に精進される方は違うのだなあ。

僧はそこで「百夜通いの様を語ってみせよ」という。私の元に百日休まず通い続けることができたらあなたの愛を受け入れましょう、という小町の京都人っぽい言葉(考えときまひょ、、、、って断固お断り、の意味だよね、京都では^_^;)を真に受けて、雨の夜も風の夜も、雪の夜もひたすら通い続け、通った日だけ車の榻(しぢ:牛車のくびきをのせる台)に印をつける少将。
数えれば今日で九十九夜、明日の夜は烏帽子も衣も改めてでかけようぞ、、、、が、その満願の百日目に、今までの肉体的疲労が限界を超えたのか、思いをとげぬままむなしくなってしまった。
この百夜通いを追体験をさせることによって、ついにさしものしつこい少将も小町とともに成仏しましたとさ。
能はこういう成仏パターンが多い。なんでそれで成仏するん?と思わないでもないが、救いがあるほうがいいですよね。

今回もお供はこの謡本。なにしろ古語やむつかしい言葉は字面をみなければ全く意味がわからないので、やはりテキストは必要だなあ、、と私は思うのですが。
素謡のあとは、藤多流能笛奏者、竹市学さんの笛、仕舞を三番を楽しむ。仕舞の最後は味方團さんの「通小町」最後のクライマックスでありました。迫力ある〜。やはり能舞台で衣裳付きで見たいなあ、、、。
根來!〜MIHOミュージアム - 2013.11.21 Thu
赤と黒。

だいたいみんなこのポスターにやられて、遙か甲賀の秘境まで足をのばすのね。かくいうわたくしも。

栗東からくねくね山道を、いったいいつになったら着くのだろうと不安一杯で走る間、対向車ほぼナシ。で、やっとたどりついたところは全山秋でした。おそるべしMIHOミュージアム!

たどりついたと思ったら、チケット売り場からさらに7〜8分歩けと、、、

どこに続くかわからない不安はまだまだ続く、こんなトンネルまであって。

やっと入り口に到着!
ここまでくると意外とたくさんのお客さんがお越しですが、中国人の団体さんがきてるのはなぜ?(こんな辺鄙な山の中まで?)

ルーブルのガラスのピラミッドを設計したヒト(ミン・ペイ氏)の設計だそうな。なるほど、どこかに相通ずる物が、、、。
それにしてもこんな秘境によくこれだけの建物たてたことだわ。(母体は某宗教団体)

「朱漆根來〜中世に咲いた華」。
根來はもともと繁栄をきわめた和歌山の根來寺の宿坊で、信者に使う什器だったそう。頻用に耐えうるように、木固め、布目、黒漆、その上に朱漆としっかり何層にも塗られた丈夫なものなのだ。
使い込むうちに朱漆が部分的にはがれて下の黒漆が顔を出す、それがまた景色となる。松永耳庵がもっていた大盤などはさらに下の布目、木の木目まででているのに、かえってそれが美しいとは!

1585年、秀吉の根來焼き討ちで本来の「根來塗」(根來寺で、根來漆によって作られた物:それ以外を「根來」とよぶのが現在の分類らしい)はほぼすべて焼失、「根來に根來なし」といわれたのだそうです。唯一残るはっきり「根來塗」と断定されるものが茨城・六地蔵寺に伝わる布薩盥なのだそうで。

展示室は暗幕がたれていて、つまずきそうなくらい暗く、展示品のみにスポットがあたっていて「赤と黒」が効果的に強調されています。ここらへん展示のセンス抜群。(ポスターもね)
根來の什器は主に盆、瓶子、机、盥、茶事でも活躍する折敷や湯斗、楪子、椀、茶人垂涎の輪花天目台、茶器、などなど。使い方によって、朱漆のはげかたは千変万化なので、お盆のまんなかにむらむらとあらわれる黒漆の形はロールシャッハみたい。
印象に残ったのは、二月堂修二会の練行衆が食堂作法の時に使う「練行衆盤」、別名「日の丸盆」とも。永仁6年(1298年)の作られた年号がはっきりわかるものが11枚のこっていて、いろんな美術館に分散しておさめられているのだが、会期中そのうちの3枚が見られます。
実は私、この永仁6年版日の丸盆の3分の2のレプリカ(作家もの)持っているんだ♪

これは二月堂の練行衆の食事を模して出してくれる宿の日の丸盆。まだ全然はげてないけどね。たぶん使い始めはこんな感じだったろうと思う。
それが使えば使うほどかえって美しくなるというのが根來の功徳、なんだかうらやましいような気がします。
根來の槍の鞘を花器に見立てて、蔓性の植物、花をいけたディスプレーがまたとても素敵だった。ほしい、、ほしい、、、ほしいなあ、、、(^_^;
今ならミュージアムのHPで実物の写真が見られるので、是非ごらんになってくださいませ。
赤と黒のコントラスト、歌舞伎の隈取りすら連想させ、これもまた日本人の美意識なんだ、漆は英語でjapanだ、どうだ!(って、私が自慢することでもないけど、、、)

信楽の里も近いです。私は狸の置物大小を鑑賞しつつ帰りましたわ。

だいたいみんなこのポスターにやられて、遙か甲賀の秘境まで足をのばすのね。かくいうわたくしも。

栗東からくねくね山道を、いったいいつになったら着くのだろうと不安一杯で走る間、対向車ほぼナシ。で、やっとたどりついたところは全山秋でした。おそるべしMIHOミュージアム!

たどりついたと思ったら、チケット売り場からさらに7〜8分歩けと、、、

どこに続くかわからない不安はまだまだ続く、こんなトンネルまであって。

やっと入り口に到着!
ここまでくると意外とたくさんのお客さんがお越しですが、中国人の団体さんがきてるのはなぜ?(こんな辺鄙な山の中まで?)

ルーブルのガラスのピラミッドを設計したヒト(ミン・ペイ氏)の設計だそうな。なるほど、どこかに相通ずる物が、、、。
それにしてもこんな秘境によくこれだけの建物たてたことだわ。(母体は某宗教団体)

「朱漆根來〜中世に咲いた華」。
根來はもともと繁栄をきわめた和歌山の根來寺の宿坊で、信者に使う什器だったそう。頻用に耐えうるように、木固め、布目、黒漆、その上に朱漆としっかり何層にも塗られた丈夫なものなのだ。
使い込むうちに朱漆が部分的にはがれて下の黒漆が顔を出す、それがまた景色となる。松永耳庵がもっていた大盤などはさらに下の布目、木の木目まででているのに、かえってそれが美しいとは!

1585年、秀吉の根來焼き討ちで本来の「根來塗」(根來寺で、根來漆によって作られた物:それ以外を「根來」とよぶのが現在の分類らしい)はほぼすべて焼失、「根來に根來なし」といわれたのだそうです。唯一残るはっきり「根來塗」と断定されるものが茨城・六地蔵寺に伝わる布薩盥なのだそうで。

展示室は暗幕がたれていて、つまずきそうなくらい暗く、展示品のみにスポットがあたっていて「赤と黒」が効果的に強調されています。ここらへん展示のセンス抜群。(ポスターもね)
根來の什器は主に盆、瓶子、机、盥、茶事でも活躍する折敷や湯斗、楪子、椀、茶人垂涎の輪花天目台、茶器、などなど。使い方によって、朱漆のはげかたは千変万化なので、お盆のまんなかにむらむらとあらわれる黒漆の形はロールシャッハみたい。
印象に残ったのは、二月堂修二会の練行衆が食堂作法の時に使う「練行衆盤」、別名「日の丸盆」とも。永仁6年(1298年)の作られた年号がはっきりわかるものが11枚のこっていて、いろんな美術館に分散しておさめられているのだが、会期中そのうちの3枚が見られます。
実は私、この永仁6年版日の丸盆の3分の2のレプリカ(作家もの)持っているんだ♪

これは二月堂の練行衆の食事を模して出してくれる宿の日の丸盆。まだ全然はげてないけどね。たぶん使い始めはこんな感じだったろうと思う。
それが使えば使うほどかえって美しくなるというのが根來の功徳、なんだかうらやましいような気がします。
根來の槍の鞘を花器に見立てて、蔓性の植物、花をいけたディスプレーがまたとても素敵だった。ほしい、、ほしい、、、ほしいなあ、、、(^_^;
今ならミュージアムのHPで実物の写真が見られるので、是非ごらんになってくださいませ。
赤と黒のコントラスト、歌舞伎の隈取りすら連想させ、これもまた日本人の美意識なんだ、漆は英語でjapanだ、どうだ!(って、私が自慢することでもないけど、、、)

信楽の里も近いです。私は狸の置物大小を鑑賞しつつ帰りましたわ。
和魂洋才フレンチ〜レストランよねむら - 2013.11.20 Wed
月イチグルメの会・例会(会員約2名^_^;)、今回はフレンチで。

レストランよねむら祗園さんの御門(南側)を少し下ったところ。このあたり料亭もひしめいて、よき雰囲気のある京都らしい場所です。

ろうじの奥に導かれてお店へ。やっぱり夕刻がええですねえ。

お店はこのような大きなカウンター。オープンキッチンの中でたくさんのスタッフがいそがしそうにくるくると。

ここからよねむら劇場はじまります。なにしろ味だけでなく、器や盛りつけもみせてくれるのでコース全部の写真をのせますね。
ただし食材に関しては記憶力が○○ですので、あまりつっこまないでね。(^◇^;)
いきなりスッポンのスープから。ウニをつかったおつまみもおいし♪

前菜がまたまた出てきた!このバリエーション!懐石で言えば八寸の品数が多い版。あれも酒のあてですものね。ついついワインがすすみました。(基本私は日本酒党ですが)
カモミール風味の醤油付きコンニャクが不思議なフレーバーで印象に残ったなあ。

蟹のクロケットにビーフシチュー。こんな小品にシチューできたか〜。

イチジク+α(忘れた、、、)に生ハム。おいしかったという記憶だけで食材は全然覚えてない〜^_^;

ついおいしくて、白ワインの後赤ワインもオーダー。オープンキッチンで、バターを小さめのパンでとかしている音がまた食欲をそそります。

牡蛎、オマール海老、ムール貝、チーズのこってりスープ。入れ物は、、、これ土鍋だよね、土鍋(◎-◎;)

蟹がたっぷりのった下には、なんとパスタが。これをトマトとバジリコで和えていただく。懐石みたいにちょっとずつ何品もでてくるのがうれしい。

メインディッシュのビーフはフィレとサーロイン。中まで暖かくジューシー。量が少ないようにみえますが、コース全体の量としては至適です。これ以上大きかったらもうお腹へはいらない!

〆がごはんで、私はカレーを、ダンナはじゃこご飯を。フレンチでカレーっていうのも珍しくてうれしい。

お口直しのソルベがまたよかった!青紫蘇の下にブラックベリーのソルベの二段かさね。お皿がミルフィオーレガラスなのもすてき。

デザートが6〜種類から選べるのもうれしい反面、悩ましい。結局お腹具合と相談して、軽めのグレープフルーツゼリー+黒糖アイス。もっとお腹が減っているときにたくさんいただきたかったワ。最後のデザートまでしっかり楽しめました。

珈琲のカップもスタイリッシュでしょ?

今回の例会(?)も満足のいく一店でありました。(^_^)b

レストランよねむら祗園さんの御門(南側)を少し下ったところ。このあたり料亭もひしめいて、よき雰囲気のある京都らしい場所です。

ろうじの奥に導かれてお店へ。やっぱり夕刻がええですねえ。

お店はこのような大きなカウンター。オープンキッチンの中でたくさんのスタッフがいそがしそうにくるくると。

ここからよねむら劇場はじまります。なにしろ味だけでなく、器や盛りつけもみせてくれるのでコース全部の写真をのせますね。
ただし食材に関しては記憶力が○○ですので、あまりつっこまないでね。(^◇^;)
いきなりスッポンのスープから。ウニをつかったおつまみもおいし♪

前菜がまたまた出てきた!このバリエーション!懐石で言えば八寸の品数が多い版。あれも酒のあてですものね。ついついワインがすすみました。(基本私は日本酒党ですが)
カモミール風味の醤油付きコンニャクが不思議なフレーバーで印象に残ったなあ。

蟹のクロケットにビーフシチュー。こんな小品にシチューできたか〜。

イチジク+α(忘れた、、、)に生ハム。おいしかったという記憶だけで食材は全然覚えてない〜^_^;

ついおいしくて、白ワインの後赤ワインもオーダー。オープンキッチンで、バターを小さめのパンでとかしている音がまた食欲をそそります。

牡蛎、オマール海老、ムール貝、チーズのこってりスープ。入れ物は、、、これ土鍋だよね、土鍋(◎-◎;)

蟹がたっぷりのった下には、なんとパスタが。これをトマトとバジリコで和えていただく。懐石みたいにちょっとずつ何品もでてくるのがうれしい。

メインディッシュのビーフはフィレとサーロイン。中まで暖かくジューシー。量が少ないようにみえますが、コース全体の量としては至適です。これ以上大きかったらもうお腹へはいらない!

〆がごはんで、私はカレーを、ダンナはじゃこご飯を。フレンチでカレーっていうのも珍しくてうれしい。

お口直しのソルベがまたよかった!青紫蘇の下にブラックベリーのソルベの二段かさね。お皿がミルフィオーレガラスなのもすてき。

デザートが6〜種類から選べるのもうれしい反面、悩ましい。結局お腹具合と相談して、軽めのグレープフルーツゼリー+黒糖アイス。もっとお腹が減っているときにたくさんいただきたかったワ。最後のデザートまでしっかり楽しめました。

珈琲のカップもスタイリッシュでしょ?

今回の例会(?)も満足のいく一店でありました。(^_^)b
真葛が原・西行庵にて - 2013.11.18 Mon
早朝四時半に起きて、まだ暗いうちにでかけた雨の八坂神社石段下、朝まだき。

四条通りはまだ人通りはありません。

人気のない八坂さんの境内は街灯だけが明るい。

八坂さんとこを南下して、円山公園の一角、真葛が原の西行庵へ。
西行法師がなくなった場所は河内国の弘川寺という説が一般的ですが、ここで亡くなったという説もあります。どちらにせよ、ここに庵を結び住まれていたことだけはたしかなようです。
入寂後、その供養に西行さんの木像をお祀りしたのが西行庵なのですが、明治維新の廃仏毀釈で無住の荒廃寺となって消滅しかかったところを、小文法師や、かの富岡鉄斎などが発起人となって現在の西行庵を再興したとか。
以後小文法師の茶の湯の弟子達が維持保存されて、現在の庵主さん、まだお若い男性、にいたります。

こちらでは毎日早朝に庵主さんによる、西行法師への献茶・献香がおこなわれ、希望者があればそれにご相伴させていただけるのです。
四畳半の浄妙庵は障子をあけはなつと八畳の間になる茶室ですが、室内は暗く和蝋燭の灯りが三本だけ。ゆらゆらゆれる燈火のもとで、まずは庵主さんの献香。志野流とも御家流とも違う所作で聞香炉の灰を整えていかれます。よい伽羅の香りがほのかに。宮廷に伝わる上つ方の流儀なんだそうです。まずは床の間の西行さんの絵の掛け物に献じられ、そのあとご相伴させていただく。
ちなみにこの絵は、謡曲「江口」にちなむもの。江口の遊女の家に宿借りをたのむ西行法師が、遊女と歌をかわし物語していると、その遊女は朝になって普賢菩薩であったことがわかる、、、、という場面。
ついでお茶を点てて御献茶、われわれもご相伴。流派は一見藪内のような、石州のような、、、、お聞きしたところ、基本は遠州だったそうですが、それに石州、藪内、などをとりいれて、元は北面の武士であった西行さんにふさわしい武家点前としてご自分で作り出した「円位流」なのだそうです。
西行庵の由来などお聞きしながらお茶をそれぞれ二服点てていただいている間に一番短い蝋燭がふっと燃え尽きてしまいました。その様を見ていてはっと気づくと、障子はほのかに明るくなり、夜明けがきたことを知りました。この瞬間がたまらなく、素敵でしたね。電灯に慣れた生活では味わうことのできない瞬間です。

お茶が終わってからも一時間以上、庵主さんの西行庵の由来、維持のご苦労など拝聴する。ここは建物もすごいのです。お茶をいただいた浄妙庵は、もともと大徳寺真珠庵の鷹ヶ峰の下舎だったもの。天井が竹を並べた簀の子天井なのは見所。

離れの小間=皆如庵も拝見させていただく。この茶室は桃山時代の茶室なんですよ〜。\(◎o◎)/!四畳で道安囲あり。久我家平野別邸より移築されたものだとか。この茶室が久我家にきた由来がまた歴史のヒストリア、、、みたいな物語があるんです。キリシタン大名であり、棄教しなかったため、最後には徳川によって国外追放され、彼の地で亡くなった高山右近・作の茶室だったといいます。
関係する家筋のかたに徳川様をはばかって、口伝で伝えられ、記録には残されなかったため、近年になってようやく右近との関係が判明したものとか。そういわれれば、床の間の真ん中に開いた円窓は、障子を閉めると、その桟がクルスに見えないこともない。
さらに貴人口と躙り口が並んでいるのもキリシタンの平等の教えをあらわしたものだとか。

このとんがった茅葺き屋根はかつて西行さんの木像をおさめた西行堂。
本来ならば西行庵の中の建物だったのですが、敷地権のトラブルで現在はやや離れた場所に移築されてしまい、その木像も行方不明なんだそうで、拝むこともできず残念です。京都の古い土地は確かに境界線があいまいで、よくもめる、、、というのは私自身も経験しましたし。

気がつけばもう9時、すっかり夜が明け朝になっていました。眠気もふっとび、つごう3時間もお邪魔したことになります。こちらでは春の西行忌には毎年茶会が皆如庵でひらかれるそうですが、これも是非参加いたしたいものです。

帰りの円山公園からみた東山。
紅葉も一歩一歩すすんでいるようですね。
願わくば 花のもとにて 春死なん
その如月の 望月の頃
そしてそのまま陰暦2月16日に入寂した西行さん、かっこよすぎる!
<西行庵>
2名以上で早朝の献茶・献香のお相伴をさせていただけます(電話で予約要)。おすすめです。今度は真夏の早朝をねらおうかな。真冬もいいかも〜。

四条通りはまだ人通りはありません。

人気のない八坂さんの境内は街灯だけが明るい。

八坂さんとこを南下して、円山公園の一角、真葛が原の西行庵へ。
西行法師がなくなった場所は河内国の弘川寺という説が一般的ですが、ここで亡くなったという説もあります。どちらにせよ、ここに庵を結び住まれていたことだけはたしかなようです。
入寂後、その供養に西行さんの木像をお祀りしたのが西行庵なのですが、明治維新の廃仏毀釈で無住の荒廃寺となって消滅しかかったところを、小文法師や、かの富岡鉄斎などが発起人となって現在の西行庵を再興したとか。
以後小文法師の茶の湯の弟子達が維持保存されて、現在の庵主さん、まだお若い男性、にいたります。

こちらでは毎日早朝に庵主さんによる、西行法師への献茶・献香がおこなわれ、希望者があればそれにご相伴させていただけるのです。
四畳半の浄妙庵は障子をあけはなつと八畳の間になる茶室ですが、室内は暗く和蝋燭の灯りが三本だけ。ゆらゆらゆれる燈火のもとで、まずは庵主さんの献香。志野流とも御家流とも違う所作で聞香炉の灰を整えていかれます。よい伽羅の香りがほのかに。宮廷に伝わる上つ方の流儀なんだそうです。まずは床の間の西行さんの絵の掛け物に献じられ、そのあとご相伴させていただく。
ちなみにこの絵は、謡曲「江口」にちなむもの。江口の遊女の家に宿借りをたのむ西行法師が、遊女と歌をかわし物語していると、その遊女は朝になって普賢菩薩であったことがわかる、、、、という場面。
ついでお茶を点てて御献茶、われわれもご相伴。流派は一見藪内のような、石州のような、、、、お聞きしたところ、基本は遠州だったそうですが、それに石州、藪内、などをとりいれて、元は北面の武士であった西行さんにふさわしい武家点前としてご自分で作り出した「円位流」なのだそうです。
西行庵の由来などお聞きしながらお茶をそれぞれ二服点てていただいている間に一番短い蝋燭がふっと燃え尽きてしまいました。その様を見ていてはっと気づくと、障子はほのかに明るくなり、夜明けがきたことを知りました。この瞬間がたまらなく、素敵でしたね。電灯に慣れた生活では味わうことのできない瞬間です。

お茶が終わってからも一時間以上、庵主さんの西行庵の由来、維持のご苦労など拝聴する。ここは建物もすごいのです。お茶をいただいた浄妙庵は、もともと大徳寺真珠庵の鷹ヶ峰の下舎だったもの。天井が竹を並べた簀の子天井なのは見所。

離れの小間=皆如庵も拝見させていただく。この茶室は桃山時代の茶室なんですよ〜。\(◎o◎)/!四畳で道安囲あり。久我家平野別邸より移築されたものだとか。この茶室が久我家にきた由来がまた歴史のヒストリア、、、みたいな物語があるんです。キリシタン大名であり、棄教しなかったため、最後には徳川によって国外追放され、彼の地で亡くなった高山右近・作の茶室だったといいます。
関係する家筋のかたに徳川様をはばかって、口伝で伝えられ、記録には残されなかったため、近年になってようやく右近との関係が判明したものとか。そういわれれば、床の間の真ん中に開いた円窓は、障子を閉めると、その桟がクルスに見えないこともない。
さらに貴人口と躙り口が並んでいるのもキリシタンの平等の教えをあらわしたものだとか。

このとんがった茅葺き屋根はかつて西行さんの木像をおさめた西行堂。
本来ならば西行庵の中の建物だったのですが、敷地権のトラブルで現在はやや離れた場所に移築されてしまい、その木像も行方不明なんだそうで、拝むこともできず残念です。京都の古い土地は確かに境界線があいまいで、よくもめる、、、というのは私自身も経験しましたし。

気がつけばもう9時、すっかり夜が明け朝になっていました。眠気もふっとび、つごう3時間もお邪魔したことになります。こちらでは春の西行忌には毎年茶会が皆如庵でひらかれるそうですが、これも是非参加いたしたいものです。

帰りの円山公園からみた東山。
紅葉も一歩一歩すすんでいるようですね。
願わくば 花のもとにて 春死なん
その如月の 望月の頃
そしてそのまま陰暦2月16日に入寂した西行さん、かっこよすぎる!
<西行庵>
2名以上で早朝の献茶・献香のお相伴をさせていただけます(電話で予約要)。おすすめです。今度は真夏の早朝をねらおうかな。真冬もいいかも〜。
下鴨・川口美術にて夕ざりの茶 - 2013.11.17 Sun
美しさを感じる嗜好は人それぞれだけれど、自分の好みの傾向はだいたいわかっている。
で、好みの美しさを求めて、出入りする場所もだいたい同じ傾向にある。するとやはり似たような嗜好を持っている人と出入りする場所がだいたいオーバーラップするので、なんだかどこかで見たような人にあちこちで出会うことになる。(^_^;
話しかけてみると、その人の知り合いが知り合いだったり、知り合いと知り合いが友人だったり、行きつけの店複数が実はネットワークでつながっているので同じような趣味の人が行きつけになっていたり、、、案外世間は狭い。
これを美しさの連鎖という、、、、というようなカッコイイ物ではなくて、芋づる式人間関係といふ。(たぶん、、)
下鴨神社の参道入り口にある川口美術もその芋づるにひっかかっているお気に入りの場所だ。主なおめあては李朝だが、市川孝さんを始め、やはり美のアンテナにひっかかる作家さんが多く個展をされている。

開店されて20周年をこの11月にむかえられたので、小雨の降る夕方におじゃました。夕刻見るショーウィンドウの景色はまた一幅の絵のようだ。

ちなみに別の日に訪れた明るいときの店の写真ものせておこう。
先だって20周年記念の案内をいただいたが、その中に一口に20年と言ってもいろいろご苦労があったことが偲ばれる文章もあったので、こうして同じ穴の狢が同好の志が集まるサロン的な場所へ発展されたことを心からお祝いしたい。(私は新参者なんだけどね)

ここのディスプレーはそのまま切り取って家に持って帰りたいといつも思うほど大好き。その室礼に文字通り花をそえるのが紫竹の花屋みたてさん。20周年記念の絵はがきシリーズの花をすべて担当されたそうだ。いわゆる町の花屋さんとちがって山野草、茶花、といった渋いラインナップ。
実はみたてさんも私の芋づるの中にしっかりはいっている。この日もまたまたここで偶然にみたてさんの奥様に出会う。マンサク君(みたてさんちの赤子)はお留守番らしい。
こういう出会いはとてもうれしい。
そして私は、1年前からねらっていたブツをゲットした、ついに。
茶事に使えそうな、、、むふふふふ、、、(^艸^)♪
一時は展示からなくなって、もう売れてしまったのか、、と気落ちしていたのだが、「アレ売れたんですか?」と聞くと、しまってあるのでまた出しておきます、とのこと。再び邂逅したからには連れて帰らずにはおかれませぬ。

そして芋づるのもうひとつうれしかったことは、川口美術の奥の庭、腰掛け待合いで謎の茶の湯集団・鴨ん会の中のヒト(以下K君とする)が野点をしてはって、初めてご挨拶できたこと。

時刻は暗くなり始め、ちょうど夕ざりの茶事がはじまる刻限、手燭の灯りがなにより美しい時間帯。何回かK君のお点前は見ていたし、ネットでコンタクトは細々とあったものの、意識してのご対面は初めて。
彼の茶へかける熱い思いを拝聴す。息子くらいの年代のK君から、こちらが元気とやる気をもらう。私は歳ははるかに上でも、とても見本となる背中は見せられないが、分相応でがんばるわ。彼のこれからの時間が長いことが実にうらやましくもあり、頼もしくもあり。

李朝時代の酒を醸すのに使われたという炉(?)で湯を沸かし、太っ腹な川口さんのお店の高麗茶碗を使って、手燭の灯りを楽しみつつ二服いただく。ここでもまたネットで細々とつながっていた芋づるさんたちの何人かと出会う。K君はどうも芋づるのなかの大きな親芋のひとつらしい。(^○^)
雨模様ながら、とても佳き宵となった。
灯をかこみ 茶を喫しつつ 語らへば
言葉はしみいる 雨の夕ざり
で、好みの美しさを求めて、出入りする場所もだいたい同じ傾向にある。するとやはり似たような嗜好を持っている人と出入りする場所がだいたいオーバーラップするので、なんだかどこかで見たような人にあちこちで出会うことになる。(^_^;
話しかけてみると、その人の知り合いが知り合いだったり、知り合いと知り合いが友人だったり、行きつけの店複数が実はネットワークでつながっているので同じような趣味の人が行きつけになっていたり、、、案外世間は狭い。
これを美しさの連鎖という、、、、というようなカッコイイ物ではなくて、芋づる式人間関係といふ。(たぶん、、)
下鴨神社の参道入り口にある川口美術もその芋づるにひっかかっているお気に入りの場所だ。主なおめあては李朝だが、市川孝さんを始め、やはり美のアンテナにひっかかる作家さんが多く個展をされている。

開店されて20周年をこの11月にむかえられたので、小雨の降る夕方におじゃました。夕刻見るショーウィンドウの景色はまた一幅の絵のようだ。

ちなみに別の日に訪れた明るいときの店の写真ものせておこう。
先だって20周年記念の案内をいただいたが、その中に一口に20年と言ってもいろいろご苦労があったことが偲ばれる文章もあったので、こうして

ここのディスプレーはそのまま切り取って家に持って帰りたいといつも思うほど大好き。その室礼に文字通り花をそえるのが紫竹の花屋みたてさん。20周年記念の絵はがきシリーズの花をすべて担当されたそうだ。いわゆる町の花屋さんとちがって山野草、茶花、といった渋いラインナップ。
実はみたてさんも私の芋づるの中にしっかりはいっている。この日もまたまたここで偶然にみたてさんの奥様に出会う。マンサク君(みたてさんちの赤子)はお留守番らしい。
こういう出会いはとてもうれしい。
そして私は、1年前からねらっていたブツをゲットした、ついに。
茶事に使えそうな、、、むふふふふ、、、(^艸^)♪
一時は展示からなくなって、もう売れてしまったのか、、と気落ちしていたのだが、「アレ売れたんですか?」と聞くと、しまってあるのでまた出しておきます、とのこと。再び邂逅したからには連れて帰らずにはおかれませぬ。

そして芋づるのもうひとつうれしかったことは、川口美術の奥の庭、腰掛け待合いで謎の茶の湯集団・鴨ん会の中のヒト(以下K君とする)が野点をしてはって、初めてご挨拶できたこと。

時刻は暗くなり始め、ちょうど夕ざりの茶事がはじまる刻限、手燭の灯りがなにより美しい時間帯。何回かK君のお点前は見ていたし、ネットでコンタクトは細々とあったものの、意識してのご対面は初めて。
彼の茶へかける熱い思いを拝聴す。息子くらいの年代のK君から、こちらが元気とやる気をもらう。私は歳ははるかに上でも、とても見本となる背中は見せられないが、分相応でがんばるわ。彼のこれからの時間が長いことが実にうらやましくもあり、頼もしくもあり。

李朝時代の酒を醸すのに使われたという炉(?)で湯を沸かし、太っ腹な川口さんのお店の高麗茶碗を使って、手燭の灯りを楽しみつつ二服いただく。ここでもまたネットで細々とつながっていた芋づるさんたちの何人かと出会う。K君はどうも芋づるのなかの大きな親芋のひとつらしい。(^○^)
雨模様ながら、とても佳き宵となった。
灯をかこみ 茶を喫しつつ 語らへば
言葉はしみいる 雨の夕ざり
光悦会・2013 - 2013.11.14 Thu
時雨の上がった洛北・鷹ヶ峯はまさに「時雨洗紅葉」の世界。
洛中は楓の紅葉は未だしなれど、標高の高いこのあたりは紅葉も一足お先に。

日ごろガラスのむこうでしかお目にかかれない素晴らしい茶道具の数々を、光悦寺の境内に点在する茶室をめぐりながら愛でることができる光悦会、今年は紅葉も愛でる会となりました。

東の大師会、西の光悦会といわれ、近代数寄者が創立に力を入れ、現在も大阪、京都、東京、金沢、名古屋の各美術倶楽部が総力を結集してすごい茶道具を出す、という格式の高い会です。
そう、本来ならわたくしごときが顔をだせるようなものではないのですが、一昨年に続いて、さる方の(^_^;)ご厚情を賜り、ワクワクしながら出かけましたの〜。

おいでになる方々のお着物もそれはそれは見るのが楽しみなくらい格調が高いので、これも楽しみのひとつです。まあ、私は先般誂えた桜鼠の色無地・一つ紋と、おそろいの生地でつくってもらったバッグにて。

8時過ぎに光悦寺についたのですが、もうすでに席ははじまっています。それにしても昨晩の雨でぬれた早朝の紅葉のひときわ美しい事よ。
短い時間の間にあまりにもたくさんの名物をみるので、消化しきれません。印象深かった物だけをすこしずつあげていきます。

まずは前回人気でなかなか入れなかった太虚庵の京都席へ。小間です。ちなみに光悦寺には境内にちらばる7つもの茶室があるんです。

ここの主人公はなんといっても存在感たっぷりの信楽矢筈水指「三夕」。雲州蔵帳にも載っている中興名物。肌はいかにも正しい信楽で、かたちも端整ではなく無骨。これが小間の畳の上にど〜んと鎮座されているのは迫力のある景色です。寂蓮・西行・定家の秋の夕暮歌に因み「三夕」。肌の赤い色から紅葉の連想とか。

茶入が名物、正意手(瀬戸の窯分けでは後窯の中のひとつ)「二祖」。禅宗では初祖が達磨大師なので二祖はそのあとを継いだ慧可禅師のことか。ずんぐりむっくりが坐禅の姿みたい。でもちょっと地味かな、、、
金海茶碗は猫掻きといわれるひっかいたあとが特徴といわれるけれど、底の方にちゃんとそれがある。でもなんの目的でこういう傷をつけたのだろう。上から見ると洲浜型でとてもきれいな白磁色。
お菓子は末富さんの「山路」。かるかんの生地でずんだ餡をくるんで大徳寺納豆をのせた、、という、末富さんにしてはめずらしいお菓子だったなあ。

ついで東京席は寄付・本阿弥庵、待合・自得軒、本席・騎牛庵。
書院飾りがなんと、かつて東博かどこかで見た物と同じ、俵屋宗達の下絵に光悦の和歌巻物!ガラスなしでおがめるとは!

待合の宗旦の花すすき画賛。呼応して本席の茶碗は「宗旦井戸」とよばれる青井戸。これ、手に取らせていただけました\(^O^)/
今東京の根津では井戸茶碗展してるし、見に行く予定ですが一足早く、ここで井戸祭!
さらに宗旦は続く。柳営御物・宗旦共筒茶杓「何似」。なにに例えようもない、、自分は唯一無二の存在、、、という意味でしょうか。

砧青磁の花器「大宮人」。これこそ「雨過天青」のフレーズがなっとくできるセラドンブルー。美しい。
中興名物茶入・瀬戸天目手(これも後窯)「小茄子」。名前のごとくほんとうにちっちゃいの。多分濃茶2人分くらいしか入らない。
こちらのお菓子は、金沢の吉はし屋さんのご主人がおいでになって、水屋でせっせとできたてを出して下さる贅沢さ。栗餡のとってもおいしいお菓子でした。銘「秋の霜」。

(光悦垣)
大阪席は徳友庵。本席の軸はなんと石山切・貫之集から、「ひとえたに きるはわひしき ふちころも かさぬるあきを おもいやらなむ」。石山切、徳川美術館で見たなあ、、、、。料紙と文字の美しさでは随一といわれています。

釜が与次郎の利休丸なら、茶器は大黒菴=武野紹鷗作の一閑張りのような小棗。これもにぎりこめそうなくらいかわいい。(今回は茶器・茶入は小ぶりが主流か?先日の野村碧雲荘で見た藤種肩衝が超でかかったのでよけいにそう思う。)

(くちなしの実)
またまた井戸祭、近衛豫楽院拝領の井戸「准后」。やや小ぶり。大井戸に対して一歩へりくだって「准后(皇后に準ずる身分)」か。
お菓子は中津川のすやさんの栗きんとん。

ここでちょっと点心をいただいて、ヒートアップした頭をクールダウン。だって綺羅星がこれでもか!これでもか!とでてくるのですもの。目、まわりそう。瓢亭さんも女将さんと若大将がきてはりました。

さて、最後の薄茶席は名古屋席・三巴亭。(名古屋と金沢は交代で出てるので、今年は名古屋)
香合がこれまた親指サイズの織部ミミズク。ミニチュアでかわいいけれど、織田有楽から近衛家熈(豫楽院)へわたったもので「槐記」にも記載されているというしろもの。

(本阿弥光悦のお墓)
名物・青磁香炉「千鳥」。これまた「雨過天青」のブルー。やっぱり最高手の青磁って青いんだ、緑っぽくないんだ。なんと透明感のあるブルー、、、、来歴がまた、義政〜今川〜信長〜秀吉〜姫路酒井家。歴史を見てきたんだな、、、。

そして、今回私的最高のものは、、、手にとって思わず「うえへへへへ〜」とあやしい笑みがでてしまった、のんこうの黒楽「山のは」。
なんというか、内側はぼこぼこ小さい穴が開いて、粗い作りになっている景色がなんともええのですわ〜∈^0^∋ 対して外側はわりとつやのある黒、そして上掛けした釉薬と下の釉薬の境にほのかにみえる白い色、、、これが銘の「山のは(山の端)」なんですね。私が持っている大樋の黒楽もこんな景色があります。そのルーツはここにすでにあったんですねえ。
お菓子は名古屋の両口屋さん「峯乃里」。つくね芋のきれいなお菓子でした。(紅葉と鹿の意匠)

いやもうすばらしいものばかりたくさん見せていただきました。名物、紅葉、ともに最高、そしてそんな光悦会に来る機会を得られたことにもいたく感動し、ご縁をくださったことを深く感謝いたします。
洛中は楓の紅葉は未だしなれど、標高の高いこのあたりは紅葉も一足お先に。

日ごろガラスのむこうでしかお目にかかれない素晴らしい茶道具の数々を、光悦寺の境内に点在する茶室をめぐりながら愛でることができる光悦会、今年は紅葉も愛でる会となりました。

東の大師会、西の光悦会といわれ、近代数寄者が創立に力を入れ、現在も大阪、京都、東京、金沢、名古屋の各美術倶楽部が総力を結集してすごい茶道具を出す、という格式の高い会です。
そう、本来ならわたくしごときが顔をだせるようなものではないのですが、一昨年に続いて、さる方の(^_^;)ご厚情を賜り、ワクワクしながら出かけましたの〜。

おいでになる方々のお着物もそれはそれは見るのが楽しみなくらい格調が高いので、これも楽しみのひとつです。まあ、私は先般誂えた桜鼠の色無地・一つ紋と、おそろいの生地でつくってもらったバッグにて。

8時過ぎに光悦寺についたのですが、もうすでに席ははじまっています。それにしても昨晩の雨でぬれた早朝の紅葉のひときわ美しい事よ。
短い時間の間にあまりにもたくさんの名物をみるので、消化しきれません。印象深かった物だけをすこしずつあげていきます。

まずは前回人気でなかなか入れなかった太虚庵の京都席へ。小間です。ちなみに光悦寺には境内にちらばる7つもの茶室があるんです。

ここの主人公はなんといっても存在感たっぷりの信楽矢筈水指「三夕」。雲州蔵帳にも載っている中興名物。肌はいかにも正しい信楽で、かたちも端整ではなく無骨。これが小間の畳の上にど〜んと鎮座されているのは迫力のある景色です。寂蓮・西行・定家の秋の夕暮歌に因み「三夕」。肌の赤い色から紅葉の連想とか。

茶入が名物、正意手(瀬戸の窯分けでは後窯の中のひとつ)「二祖」。禅宗では初祖が達磨大師なので二祖はそのあとを継いだ慧可禅師のことか。ずんぐりむっくりが坐禅の姿みたい。でもちょっと地味かな、、、
金海茶碗は猫掻きといわれるひっかいたあとが特徴といわれるけれど、底の方にちゃんとそれがある。でもなんの目的でこういう傷をつけたのだろう。上から見ると洲浜型でとてもきれいな白磁色。
お菓子は末富さんの「山路」。かるかんの生地でずんだ餡をくるんで大徳寺納豆をのせた、、という、末富さんにしてはめずらしいお菓子だったなあ。

ついで東京席は寄付・本阿弥庵、待合・自得軒、本席・騎牛庵。
書院飾りがなんと、かつて東博かどこかで見た物と同じ、俵屋宗達の下絵に光悦の和歌巻物!ガラスなしでおがめるとは!

待合の宗旦の花すすき画賛。呼応して本席の茶碗は「宗旦井戸」とよばれる青井戸。これ、手に取らせていただけました\(^O^)/
今東京の根津では井戸茶碗展してるし、見に行く予定ですが一足早く、ここで井戸祭!
さらに宗旦は続く。柳営御物・宗旦共筒茶杓「何似」。なにに例えようもない、、自分は唯一無二の存在、、、という意味でしょうか。

砧青磁の花器「大宮人」。これこそ「雨過天青」のフレーズがなっとくできるセラドンブルー。美しい。
中興名物茶入・瀬戸天目手(これも後窯)「小茄子」。名前のごとくほんとうにちっちゃいの。多分濃茶2人分くらいしか入らない。
こちらのお菓子は、金沢の吉はし屋さんのご主人がおいでになって、水屋でせっせとできたてを出して下さる贅沢さ。栗餡のとってもおいしいお菓子でした。銘「秋の霜」。

(光悦垣)
大阪席は徳友庵。本席の軸はなんと石山切・貫之集から、「ひとえたに きるはわひしき ふちころも かさぬるあきを おもいやらなむ」。石山切、徳川美術館で見たなあ、、、、。料紙と文字の美しさでは随一といわれています。

釜が与次郎の利休丸なら、茶器は大黒菴=武野紹鷗作の一閑張りのような小棗。これもにぎりこめそうなくらいかわいい。(今回は茶器・茶入は小ぶりが主流か?先日の野村碧雲荘で見た藤種肩衝が超でかかったのでよけいにそう思う。)

(くちなしの実)
またまた井戸祭、近衛豫楽院拝領の井戸「准后」。やや小ぶり。大井戸に対して一歩へりくだって「准后(皇后に準ずる身分)」か。
お菓子は中津川のすやさんの栗きんとん。

ここでちょっと点心をいただいて、ヒートアップした頭をクールダウン。だって綺羅星がこれでもか!これでもか!とでてくるのですもの。目、まわりそう。瓢亭さんも女将さんと若大将がきてはりました。

さて、最後の薄茶席は名古屋席・三巴亭。(名古屋と金沢は交代で出てるので、今年は名古屋)
香合がこれまた親指サイズの織部ミミズク。ミニチュアでかわいいけれど、織田有楽から近衛家熈(豫楽院)へわたったもので「槐記」にも記載されているというしろもの。

(本阿弥光悦のお墓)
名物・青磁香炉「千鳥」。これまた「雨過天青」のブルー。やっぱり最高手の青磁って青いんだ、緑っぽくないんだ。なんと透明感のあるブルー、、、、来歴がまた、義政〜今川〜信長〜秀吉〜姫路酒井家。歴史を見てきたんだな、、、。

そして、今回私的最高のものは、、、手にとって思わず「うえへへへへ〜」とあやしい笑みがでてしまった、のんこうの黒楽「山のは」。
なんというか、内側はぼこぼこ小さい穴が開いて、粗い作りになっている景色がなんともええのですわ〜∈^0^∋ 対して外側はわりとつやのある黒、そして上掛けした釉薬と下の釉薬の境にほのかにみえる白い色、、、これが銘の「山のは(山の端)」なんですね。私が持っている大樋の黒楽もこんな景色があります。そのルーツはここにすでにあったんですねえ。
お菓子は名古屋の両口屋さん「峯乃里」。つくね芋のきれいなお菓子でした。(紅葉と鹿の意匠)

いやもうすばらしいものばかりたくさん見せていただきました。名物、紅葉、ともに最高、そしてそんな光悦会に来る機会を得られたことにもいたく感動し、ご縁をくださったことを深く感謝いたします。
弘道館勧進〜宗一郎能あそび〜「巴」 - 2013.11.12 Tue
マンションになりかけた御所西の弘道館。公益法人化されてさらに維持のため老松の太田さんはじめ皆さんが奔走されています。
かつて寺社の造営・修復のため広く資材をあつめる勧進がおこなわれましたが、そのための能を勧進能といいました。それにならって弘道館維持のため、「弘道館勧進能」とでもいうべきイベントのひとつが「宗一郎の能あそび」。

いつも月釜は朝一にいっているので、こんなに暗くなってからの弘道館ははじめて。数寄屋のお屋敷の夜の景色ってほんとうに大好き。
ちなみにここは明るいときに行くとこんな感じです。

さて、このイベントのマスターは観世流能楽師シテ方・林宗一郎さん。江戸時代から唯一続く京都観世流名家の御曹司。(そしてイケメンどすぅ〜∈^0^∋)ややとっつきにくい能楽の敷居を低くして、多くの人に能楽の魅力をしってもらおうと活動されている若手のおひとり。(先日明倫の素謡の会でも拝見しましたわね。)

一日一つの演目をとりあげて、様々な角度から「能あそび」、〆は宗一郎さんのお仕舞いを拝見できるとてもおいしい会なのであります。

しかも呈茶付き。太田さんがお運びしてくれます。お菓子はこの日のテーマにちなんだ「巴」。そう、巴御前のお話なので、長刀なんですね〜。

しかも中の餡は巴の舞台となる琵琶湖の畔、粟津の海の色、だそうです。

いや〜、さすがに皆様、お着物姿がおおくて、気合い十分ですね。前回の「遊び」はグループにわかれて「山姥」の衣裳を好き好きにコーディネイトする、というものだったそうです。
今回は、、、、やはりグループ分けして、それぞれ4つの巴の中のシーンから一つ選んで実際に演じてみる、というものでした。

これはたいそうレベルの高い「遊び」ではありませんか。われわれのグループは前半、巴の幽霊が旅の僧に木曾義仲の供養を頼んで消えていく、という場面を。役者や語りの分担を決め、リハーサル(?)リハーサル。
発表では各グループ、たいそう上出来でした。義仲が追っ手から逃れるシーンを演じたグループは櫃を馬に見立て、走らす様、泥に足をとられて身動きできぬ様を能の様式で。いや、本格的。
また語りの部分をまさに謡いでされたグループもあり。僧の帽子をつけた和服の男性が(仮想)橋懸かりからでてくるところでは、宗一郎さんも興がのったのか「よっ!いよっ!いや〜〜ぁ!」とかけ声。
でもね、「入相の鐘が、、、」のところで大声で効果音「ごぉ〜〜〜ん」をいれたうちのグループが優勝だったの\(^O^)/(若干邪道のような気がするが)賞品は北野天満宮紅葉苑入場券!

最後に宗一郎さんの仕舞、巴が義仲に打ちかかる敵を長刀で追い払う場面を。
さすが、かっこいい!
長刀柄長くおっ取りのべて、四方を払ふ八方払ひ、一所にあたるを木の葉返し、嵐も落つるや花の滝波、、、

こうして夜は更け、会は予定時間を遙かにオーバーして楽しくお開きになりました。来年も6回の予定であるそうです。また来ようっと!
かつて寺社の造営・修復のため広く資材をあつめる勧進がおこなわれましたが、そのための能を勧進能といいました。それにならって弘道館維持のため、「弘道館勧進能」とでもいうべきイベントのひとつが「宗一郎の能あそび」。

いつも月釜は朝一にいっているので、こんなに暗くなってからの弘道館ははじめて。数寄屋のお屋敷の夜の景色ってほんとうに大好き。
ちなみにここは明るいときに行くとこんな感じです。

さて、このイベントのマスターは観世流能楽師シテ方・林宗一郎さん。江戸時代から唯一続く京都観世流名家の御曹司。(そしてイケメンどすぅ〜∈^0^∋)ややとっつきにくい能楽の敷居を低くして、多くの人に能楽の魅力をしってもらおうと活動されている若手のおひとり。(先日明倫の素謡の会でも拝見しましたわね。)

一日一つの演目をとりあげて、様々な角度から「能あそび」、〆は宗一郎さんのお仕舞いを拝見できるとてもおいしい会なのであります。

しかも呈茶付き。太田さんがお運びしてくれます。お菓子はこの日のテーマにちなんだ「巴」。そう、巴御前のお話なので、長刀なんですね〜。

しかも中の餡は巴の舞台となる琵琶湖の畔、粟津の海の色、だそうです。

いや〜、さすがに皆様、お着物姿がおおくて、気合い十分ですね。前回の「遊び」はグループにわかれて「山姥」の衣裳を好き好きにコーディネイトする、というものだったそうです。
今回は、、、、やはりグループ分けして、それぞれ4つの巴の中のシーンから一つ選んで実際に演じてみる、というものでした。

これはたいそうレベルの高い「遊び」ではありませんか。われわれのグループは前半、巴の幽霊が旅の僧に木曾義仲の供養を頼んで消えていく、という場面を。役者や語りの分担を決め、リハーサル(?)リハーサル。
発表では各グループ、たいそう上出来でした。義仲が追っ手から逃れるシーンを演じたグループは櫃を馬に見立て、走らす様、泥に足をとられて身動きできぬ様を能の様式で。いや、本格的。
また語りの部分をまさに謡いでされたグループもあり。僧の帽子をつけた和服の男性が(仮想)橋懸かりからでてくるところでは、宗一郎さんも興がのったのか「よっ!いよっ!いや〜〜ぁ!」とかけ声。
でもね、「入相の鐘が、、、」のところで大声で効果音「ごぉ〜〜〜ん」をいれたうちのグループが優勝だったの\(^O^)/(若干邪道のような気がするが)賞品は北野天満宮紅葉苑入場券!

最後に宗一郎さんの仕舞、巴が義仲に打ちかかる敵を長刀で追い払う場面を。
さすが、かっこいい!
長刀柄長くおっ取りのべて、四方を払ふ八方払ひ、一所にあたるを木の葉返し、嵐も落つるや花の滝波、、、

こうして夜は更け、会は予定時間を遙かにオーバーして楽しくお開きになりました。来年も6回の予定であるそうです。また来ようっと!
秋の奈良〜正倉院展2013〜籔内 佐斗司「やまとぢから」 - 2013.11.10 Sun
近鉄奈良の駅から出ると、あれ?なんだか違う。

駅前の行基さんとこ、屋根がついたのね。う〜む、いいような悪いような。
でも駅からここに出ると、ああ、奈良に来たってわくわくするんです。

いつもののどかな奈良公園の風景。

角伐りも終わったので、立派な角を失い、なんだかバランスわるいような居心地のわるいような顔をしている小男鹿(さをしか)。

恒例の秋の正倉院展です。日本人ってほんとうに正倉院展が好きなんだな〜といつも思ってしまう人の多さ!平日とて入館まではわりとスムーズにいったのですが、中は押し合いへし合いの通勤時間帯の大阪地下鉄もまっさおな状況。なにかDNAの中に残る日本人の祖先の血がさわぐのでしょうか。
それでもなんとかすきまからのぞいたり、割り込んだり(^_^; 、、、。いつもながら、中世の侘びさびなんてぶっ飛んでしまうような、鮮やかでかつ華やかな天平文様の数々、毎年思うがこの時代ですでにありとあらゆる意匠は完成していたのですね〜。

なかでもハイライトはこのポスターにもなった漆金薄絵盤。なにしろ最前列でみるのには20〜30分ほど並んだ。(それでもまだこの日はマシな方だったと思うよ)仏像へ手向けるお香をのせる台だったとのこと。金箔も豪華。描かれた文様は大陸の物とはまたちょっと違う印象。唐花、花喰い鳥、迦陵頻伽(人間の顔を持つ天上の鳥)、描かれて1300年たつのにあざやかな色彩にて。
この華やかな台にのせられた香盤にはこんなお香がのせられていた、というパネル解説写真がおもしろい。一筆書きの複雑な文様に沈香をかたどって、これに火をつけると(蚊取り線香の複雑版みたいなイメージ)沈香は7時間も消えずにもつという。

(博物館内の中庭、織部好みの茶席八窓席をのぞむ)
もう一つのハイライトは平螺鈿背円鏡。聖武天皇遺愛の鏡の背なんだが、これがまたウイリアム・モリスも真っ青、、、な意匠。特に二対の小鳥が向き合った姿がリースのように配されている所なんか。素材はヤコウガイの螺鈿や琥珀、ラピスラズリ、これらを埋め込んだ華やかさ。
もう一つ印象に残ったのは花喰鳥刺繍裂残片。昭和50年に整理中の唐櫃からくちゃくちゃになって発見された物で、それをよくぞここまでつづりあわせたものだと感心する。首に瓔珞を掛け、花をくわえた鳳凰のデザインも迫力満点であればその刺繍の技術もまたすごい。

(東大寺前から若草山を望む)
また今回初出展の唐櫃。点検のたびに貼り紙がされ「天保4年」とか「明治」とか。天平勝宝8年から今現在に到るまで1300年の間、連綿と御物を守ってきた古代の保管庫だと思うと感慨深い。(やはり昔から日本人は正倉院御物を大事に大事に愛してきたんだな〜)

正倉院展のあとは高畑のあーとさろん宮崎へ。いつものコース。今はくらたたまえさんの人形展してます。善財童子の人形にいたく惹かれる。

このコーナーで珈琲をいただく。ここの古民家のたたずまいもディスプレーもすてきなので、つい長居をしてしまう。

ご愛用奈良ランチの場所はいくつかあるのだけれど、この日はならまちのカナカナさんにしよう。

(食べかけゴメン)ほうれん草のグリーンカレー!

ならまちに来るといつも心配で前を通ってしまう空き家の町家。倒壊してへんか、更地になってへんか、、。「危険」の札はあるもとりあえず健在。ほっ。

その足で奈良県立美術館へ。あーとさろん宮崎さんでおしえてもらった籔内佐斗司展「やまとぢから」を見に。

籔内さんはかの、せんと君の作者。初見時はぶきみさから非難ごうごうの平城遷都1300年祭のキャラでしたが、いまではすっかり奈良を代表するキャラになりましたね。
ただし、マンガ化されたせんとくんはちょっとかわいすぎ。当初の不気味かわいい方が迫力あります。その原型をここで見る。

ここだけ撮影OKの平成伎楽団(奈良時代にはやった伎楽を平成の世によみがえらす活動を藪内さんはしてはる)コーナー、手招きされてついひきよせられちゃう。

籔内さん、は東京芸大で塑像を学びつつ仏像の修復もされていた、いわば仏師みたいな方だったんですね。そのすごい技術力と意匠の迫力はただものではない。せんとくんだけみて誤解してたらあかんわ。

画像は伎楽団だけのなので、せんとくんにちかいけれど、それ以外の作品の方がすごいので、是非足を運んでほしい。

右の桃太郎・真剣白刃どりには、、、、笑った。

駅前の行基さんとこ、屋根がついたのね。う〜む、いいような悪いような。
でも駅からここに出ると、ああ、奈良に来たってわくわくするんです。

いつもののどかな奈良公園の風景。

角伐りも終わったので、立派な角を失い、なんだかバランスわるいような居心地のわるいような顔をしている小男鹿(さをしか)。

恒例の秋の正倉院展です。日本人ってほんとうに正倉院展が好きなんだな〜といつも思ってしまう人の多さ!平日とて入館まではわりとスムーズにいったのですが、中は押し合いへし合いの通勤時間帯の大阪地下鉄もまっさおな状況。なにかDNAの中に残る日本人の祖先の血がさわぐのでしょうか。
それでもなんとかすきまからのぞいたり、割り込んだり(^_^; 、、、。いつもながら、中世の侘びさびなんてぶっ飛んでしまうような、鮮やかでかつ華やかな天平文様の数々、毎年思うがこの時代ですでにありとあらゆる意匠は完成していたのですね〜。

なかでもハイライトはこのポスターにもなった漆金薄絵盤。なにしろ最前列でみるのには20〜30分ほど並んだ。(それでもまだこの日はマシな方だったと思うよ)仏像へ手向けるお香をのせる台だったとのこと。金箔も豪華。描かれた文様は大陸の物とはまたちょっと違う印象。唐花、花喰い鳥、迦陵頻伽(人間の顔を持つ天上の鳥)、描かれて1300年たつのにあざやかな色彩にて。
この華やかな台にのせられた香盤にはこんなお香がのせられていた、というパネル解説写真がおもしろい。一筆書きの複雑な文様に沈香をかたどって、これに火をつけると(蚊取り線香の複雑版みたいなイメージ)沈香は7時間も消えずにもつという。

(博物館内の中庭、織部好みの茶席八窓席をのぞむ)
もう一つのハイライトは平螺鈿背円鏡。聖武天皇遺愛の鏡の背なんだが、これがまたウイリアム・モリスも真っ青、、、な意匠。特に二対の小鳥が向き合った姿がリースのように配されている所なんか。素材はヤコウガイの螺鈿や琥珀、ラピスラズリ、これらを埋め込んだ華やかさ。
もう一つ印象に残ったのは花喰鳥刺繍裂残片。昭和50年に整理中の唐櫃からくちゃくちゃになって発見された物で、それをよくぞここまでつづりあわせたものだと感心する。首に瓔珞を掛け、花をくわえた鳳凰のデザインも迫力満点であればその刺繍の技術もまたすごい。

(東大寺前から若草山を望む)
また今回初出展の唐櫃。点検のたびに貼り紙がされ「天保4年」とか「明治」とか。天平勝宝8年から今現在に到るまで1300年の間、連綿と御物を守ってきた古代の保管庫だと思うと感慨深い。(やはり昔から日本人は正倉院御物を大事に大事に愛してきたんだな〜)

正倉院展のあとは高畑のあーとさろん宮崎へ。いつものコース。今はくらたたまえさんの人形展してます。善財童子の人形にいたく惹かれる。

このコーナーで珈琲をいただく。ここの古民家のたたずまいもディスプレーもすてきなので、つい長居をしてしまう。

ご愛用奈良ランチの場所はいくつかあるのだけれど、この日はならまちのカナカナさんにしよう。

(食べかけゴメン)ほうれん草のグリーンカレー!

ならまちに来るといつも心配で前を通ってしまう空き家の町家。倒壊してへんか、更地になってへんか、、。「危険」の札はあるもとりあえず健在。ほっ。

その足で奈良県立美術館へ。あーとさろん宮崎さんでおしえてもらった籔内佐斗司展「やまとぢから」を見に。

籔内さんはかの、せんと君の作者。初見時はぶきみさから非難ごうごうの平城遷都1300年祭のキャラでしたが、いまではすっかり奈良を代表するキャラになりましたね。
ただし、マンガ化されたせんとくんはちょっとかわいすぎ。当初の不気味かわいい方が迫力あります。その原型をここで見る。

ここだけ撮影OKの平成伎楽団(奈良時代にはやった伎楽を平成の世によみがえらす活動を藪内さんはしてはる)コーナー、手招きされてついひきよせられちゃう。

籔内さん、は東京芸大で塑像を学びつつ仏像の修復もされていた、いわば仏師みたいな方だったんですね。そのすごい技術力と意匠の迫力はただものではない。せんとくんだけみて誤解してたらあかんわ。

画像は伎楽団だけのなので、せんとくんにちかいけれど、それ以外の作品の方がすごいので、是非足を運んでほしい。

右の桃太郎・真剣白刃どりには、、、、笑った。
手作り懐石の開炉の茶事 - 2013.11.07 Thu
はじめて手作り懐石料理の茶事に挑戦!
で、結果を先に言っておきます。
つ、、、疲れた、、、もう二度とせえへんわ、、、、へろへろ、、、、(@_@;)

前日に錦市場とデパ地下をかけずりまわって材料調達。思っていたメニューの食材が手に入らなくて、変更を余儀なくされたものも。この段階ですでにやや消耗。

夕食のあとに下ごしらえ開始。2時間以上びっちりかかった。日ごろの料理の手際も(^_^;、、、、なもので、、、
でも翌日は早起きしないといけないし、早くねよ。

当日朝は早くから水屋のお手伝いにひいらぎさんが来てくれた。手作り懐石茶事のベテランさん。前日に9割くらいはこしらえていたのだけれど、この日は私、料理関係はな〜んにもせずにすんだくらい、盛りつけからなにからほとんどやっていただいた。(物によっては手直しまで^_^;)
なのになんで疲れてるん?って聞かないで。それなりに気は使ったのよ。

ご挨拶のあとは今季初の初炭手前。(え?羽根の位置がちがう?、、、ほほほ、、、見なかったことに)家の小間は上がり台目なので台目の炭手前になります。道具を置く位置が少しずつちがう。五徳も真台子のときのようにまっすぐに据える。
軸は久松真一先生の「松老雲閑」。師匠黄檗のもとで修行した日々の心境を表した臨済義玄の言葉。(とてもそんな閑かなものではなく黄檗にしばかれまくってたらしいが^_^;)
この言葉から「雲閑席」というこの茶席の名をいただいた。開炉にふさわしいかな、と思って。

さあ、いよいよ懐石スタート!飯の一文字も切っていただいてあとはお運び人形と化すわたくし。
汁の具はサツマイモ。向付は鯛の昆布〆+加減酢(柚子+かぼす+スダチでがんばって作ったのよ)
一献目が終わってお次は煮物椀だ。

前日に蒸しておいた海老しんじょう。ホンシメジ、大根・人参(抜き型を有次で買っておいた)、オカヒジキ、柚子添え。ちょっとしんじょうが固かった。練りすぎたかな。かまぼこなみ。もっとふわっとさせたかったんだが。

(この火入れは先日の徳川茶会の記念品、志野の茶碗。あまりにあったかそうな感じが火入れにもいいかな、、と)
焼物は天ぷら。その場で揚げるので写真をとる余裕がなかった(>_<) 以前、割烹緒方さんでいただいて感動的においしかった葡萄の天ぷらを再現してみた。+帆立の天ぷら。

天ぷらの後は口をさわやかにするために柿なます。オカヒジキと柚子のすり下ろしをちらす。

炊き合わせは蕪、ひりょうず(嵯峨野の森嘉さんの。大好きなの)とほうれん草。
(ガンバレ!懐石もあとちょっとだ)

ちなみにこの日のお客さまは茶友ばかり4名様、失敗しても寛大なお心で許して下さる(はず)。猫好きのお正客さまのために猫の帯を締めた。

小吸物の吸口はとんぶり。八寸は山の物・むかご+ぎんなん(前日これヒマラヤスギの葉に突き刺すの苦労した)、海の物・カラスミ+大根スライス(これはひいらぎさんのアイデア)。
あ、香物の写真も忘れた。たくあん、キュウリ浅漬け、柴漬け三点セット。
は〜、、懐石やっと終わった、、、もうお茶事はすんだようなもの、、、ぢゃなくて!本当のお茶はこれから、というのになんだか消耗してしまって、、、
すこしべちゃべちゃのご飯の一文字をつくりたくて、何日も前から土鍋やらテフロンの鍋やらでいろいろ火加減、水加減、時間、の実験をくりかえしたけれど、結局役に立たず(v_v) ひいらぎさんに土鍋で炊き直してもらったし。へこむわ〜。

主菓子は愛用の北白川・山もとさんの特製亥の子餅。なにが特製かって、餡のなかにとろ〜りあまい柿のキューブが入っているのよ。これびっくりするくらいおいしかった。いつもほんとうに美味しいお菓子をありがとうございます。

中立のあと、さあ!後座に向けて気を引き締めるぞ。
備前の花入(岡山の実家にころがっていたものをくすねてもらってきた)に椿と山芍薬の照葉。山芍薬は我が家の庭のもの。
濃茶はまあ、わりと上手く練れたのではないかと。途中ひいらぎさんが簾をするすると静かに巻き上げてくださって陰から陽の席へ転換する雰囲気は、亭主ながらとてドラマチックに感ずる。
後炭はやはり炉だと見せ場なので省略せずに。この日は胴炭がきれいに火箸で割れました(^○^)。

続く最後の薄茶、干菓子は亀廣保さんの吹き寄せ。銀杏の中は餡になっていて手が込んでいる。ここの干菓子はほんとうにいいな。

水屋のひいらぎさんにも入ってもらって、お薄をのんでいただく。話がはずむ。大きな釜なのに(お炭で釜を上げるとき、「よっ!」と声がでるくらい、、、)お湯が半分になるまで、何服も飲んでいただいた。

躙り口からお見送りして、皆様がお帰りの後、後炭のおかげであまりに良いお湯がまだ沸いていたので自服す。
独座観念。ひとり反省会。
「疲れた〜〜〜」。
あまりに懐石への比重が大きかったので、道具組や点前がややおろそかになった感はいなめない。まだ懐石まで自作するキャパはないみたい。慣れれば大丈夫よと慰められるが、、、、当分はもうええわ〜。

外回りをかたづける。すっかり暗くなった露地、躙り口から茶室を見る。この景色がとても好きだ。水屋で道具に湯通しをするひとときも好き。釜のお湯をあけたときの匂いも好きだし、炉に残る練り香のかすかな香りがまたいいなあ。しんどいけど、またやっちゃうんだろうなあ、茶事。
で、片付けは、、、、

実は本日ただいま、まだ終わっておりません(^_^;
で、結果を先に言っておきます。
つ、、、疲れた、、、もう二度とせえへんわ、、、、へろへろ、、、、(@_@;)

前日に錦市場とデパ地下をかけずりまわって材料調達。思っていたメニューの食材が手に入らなくて、変更を余儀なくされたものも。この段階ですでにやや消耗。

夕食のあとに下ごしらえ開始。2時間以上びっちりかかった。日ごろの料理の手際も(^_^;、、、、なもので、、、
でも翌日は早起きしないといけないし、早くねよ。

当日朝は早くから水屋のお手伝いにひいらぎさんが来てくれた。手作り懐石茶事のベテランさん。前日に9割くらいはこしらえていたのだけれど、この日は私、料理関係はな〜んにもせずにすんだくらい、盛りつけからなにからほとんどやっていただいた。(物によっては手直しまで^_^;)
なのになんで疲れてるん?って聞かないで。それなりに気は使ったのよ。

ご挨拶のあとは今季初の初炭手前。(え?羽根の位置がちがう?、、、ほほほ、、、見なかったことに)家の小間は上がり台目なので台目の炭手前になります。道具を置く位置が少しずつちがう。五徳も真台子のときのようにまっすぐに据える。
軸は久松真一先生の「松老雲閑」。師匠黄檗のもとで修行した日々の心境を表した臨済義玄の言葉。(とてもそんな閑かなものではなく黄檗にしばかれまくってたらしいが^_^;)
この言葉から「雲閑席」というこの茶席の名をいただいた。開炉にふさわしいかな、と思って。

さあ、いよいよ懐石スタート!飯の一文字も切っていただいてあとはお運び人形と化すわたくし。
汁の具はサツマイモ。向付は鯛の昆布〆+加減酢(柚子+かぼす+スダチでがんばって作ったのよ)
一献目が終わってお次は煮物椀だ。

前日に蒸しておいた海老しんじょう。ホンシメジ、大根・人参(抜き型を有次で買っておいた)、オカヒジキ、柚子添え。ちょっとしんじょうが固かった。練りすぎたかな。かまぼこなみ。もっとふわっとさせたかったんだが。

(この火入れは先日の徳川茶会の記念品、志野の茶碗。あまりにあったかそうな感じが火入れにもいいかな、、と)
焼物は天ぷら。その場で揚げるので写真をとる余裕がなかった(>_<) 以前、割烹緒方さんでいただいて感動的においしかった葡萄の天ぷらを再現してみた。+帆立の天ぷら。

天ぷらの後は口をさわやかにするために柿なます。オカヒジキと柚子のすり下ろしをちらす。

炊き合わせは蕪、ひりょうず(嵯峨野の森嘉さんの。大好きなの)とほうれん草。
(ガンバレ!懐石もあとちょっとだ)

ちなみにこの日のお客さまは茶友ばかり4名様、失敗しても寛大なお心で許して下さる(はず)。猫好きのお正客さまのために猫の帯を締めた。

小吸物の吸口はとんぶり。八寸は山の物・むかご+ぎんなん(前日これヒマラヤスギの葉に突き刺すの苦労した)、海の物・カラスミ+大根スライス(これはひいらぎさんのアイデア)。
あ、香物の写真も忘れた。たくあん、キュウリ浅漬け、柴漬け三点セット。
は〜、、懐石やっと終わった、、、もうお茶事はすんだようなもの、、、ぢゃなくて!本当のお茶はこれから、というのになんだか消耗してしまって、、、
すこしべちゃべちゃのご飯の一文字をつくりたくて、何日も前から土鍋やらテフロンの鍋やらでいろいろ火加減、水加減、時間、の実験をくりかえしたけれど、結局役に立たず(v_v) ひいらぎさんに土鍋で炊き直してもらったし。へこむわ〜。

主菓子は愛用の北白川・山もとさんの特製亥の子餅。なにが特製かって、餡のなかにとろ〜りあまい柿のキューブが入っているのよ。これびっくりするくらいおいしかった。いつもほんとうに美味しいお菓子をありがとうございます。

中立のあと、さあ!後座に向けて気を引き締めるぞ。
備前の花入(岡山の実家にころがっていたものを
濃茶はまあ、わりと上手く練れたのではないかと。途中ひいらぎさんが簾をするすると静かに巻き上げてくださって陰から陽の席へ転換する雰囲気は、亭主ながらとてドラマチックに感ずる。
後炭はやはり炉だと見せ場なので省略せずに。この日は胴炭がきれいに火箸で割れました(^○^)。

続く最後の薄茶、干菓子は亀廣保さんの吹き寄せ。銀杏の中は餡になっていて手が込んでいる。ここの干菓子はほんとうにいいな。

水屋のひいらぎさんにも入ってもらって、お薄をのんでいただく。話がはずむ。大きな釜なのに(お炭で釜を上げるとき、「よっ!」と声がでるくらい、、、)お湯が半分になるまで、何服も飲んでいただいた。

躙り口からお見送りして、皆様がお帰りの後、後炭のおかげであまりに良いお湯がまだ沸いていたので自服す。
独座観念。ひとり反省会。
「疲れた〜〜〜」。
あまりに懐石への比重が大きかったので、道具組や点前がややおろそかになった感はいなめない。まだ懐石まで自作するキャパはないみたい。慣れれば大丈夫よと慰められるが、、、、当分はもうええわ〜。

外回りをかたづける。すっかり暗くなった露地、躙り口から茶室を見る。この景色がとても好きだ。水屋で道具に湯通しをするひとときも好き。釜のお湯をあけたときの匂いも好きだし、炉に残る練り香のかすかな香りがまたいいなあ。しんどいけど、またやっちゃうんだろうなあ、茶事。
で、片付けは、、、、

実は本日ただいま、まだ終わっておりません(^_^;
植物園大茶会2013〜心のひとつがね - 2013.11.05 Tue

ロンドン近郊、コッツウォルズの森に来ています。

バードウォッチング中です。
、、、、うそです(^◇^;) ここは京都府立植物園。市中の森とはここのことだわ。

今年で3回目になる北野大茶会ならぬ植物園大茶会(植物園お茶といけばなの祭典)です。
天正15年、秀吉がおこなった北野大茶会は「都鄙貴賤貧富の別なく,数寄者であればだれでも,手持ちの道具を持参し参加せよ。茶のない者はこがしでもよい。」とよびかけましたが、植物園大茶会も数寄者ならだれでも参加できるのです。
今年もたくさんのお茶のブースがでています。

毎年おじゃましているランディ先生のお席。お弟子さんであるぽんさんのお友達、というだけで握手してもらったわ。ぽんさんありがと\(^O^)/

今年もお菓子は欧米人でも好みそうな(欧米人はとにかく小豆キライが多いみたい)洋菓子系。でもお茶にもあうのはさすがランディ先生作。

さすがここにも布袋さん!(ランディ先生のカフェは「らん布袋」布袋グッズのコレクションであふれています)

唐突に鴨川で野点をする、、、という謎の茶の湯集団・鴨ん会さんは今年はパワーアップして4人のお茶人さんのラインナップ。
鴨・その1 釜のかわりにポットなのね〜。昨年の「待庵もびっくり!」からさらに進化してる!

鴨・その2 こちらはアルコールランプだし。敷物もなんだかわからんがヒガシマルだし。この風炉先すてきやわ〜。

鴨・その3と4 二人のお茶人さんが交代で。ならべてある井戸茶碗(ひとりのご亭主作!)から好きなのを選んでいただけます。

ご自作の大井戸もびっくりでしたが、この分福茶釜の水指にやられました。一体何リットル水がはいるんやろ???

ご亭主が作ってもらうのに苦労されたというお菓子、秋色で目にも舌にもおいしゅうございました。

こちらでは中学生のお茶人さんたちが一生懸命立礼棚を設営中。がんばれ〜!

こちら本格派、石州流大口派のみなさま。大徳寺芳春院でお稽古されているそうです。瓶掛けですね。遠目ながら茶箱か盆略?

お茶がとってもおいしい!と思ったのは煎茶の東仙流のほうじ茶!目の前で涼炉でお茶を焙じ、焙じたてをちょうだいします。

焙じたてのほうじ茶は別次元のおいしさでした。そういえば東仙流はせんだって萬福寺月見煎茶会で見事な蓮の花をお茶の中にさかせてくれたところでしたね。

さて、雰囲気はがらっとかわって紅茶や世界のお茶が飲めるブースばかりの洋風庭園ゾーン。

秋バラも美しく。

お目当てはご近所の好日居さん。いつもながらこんな狭い空間にすてきな室礼をしておられる。まねしたいな〜といつも思いつつなかなかセンスがおよばなくて。

本日の中国茶、いえ、タイのお茶でした!蜜香烏龍茶。ほんとうに蜜のように甘く、すがすがしい香り。タイでもこんなおいしいお茶が作られているなんて恥ずかしながらしりませんでしたわ。

さまざまなお茶を堪能してまた森をぬけて帰路につきます。
帰りつつ不肖わたくし考えた。
先日の徳川茶会では東山御物をはじめすごいお道具が次々でてきた。それも感動モノならこの日のありあわせの見立て道具でのお茶も感動モノだったのはなぜだろう。
書院の茶も草庵の茶も対極にありながらいずれにも惹かれる。思うにそこに共通する自分の思いは「美しい物への憧れ」。多くの人が認める美しさの大名物ももちろん美しい。でもゴミための中にだって美しいと感じる物を見つけることもある。こまめに手入れされ掃除された庭は美しい。きちんと礼ができてちゃんとした言葉遣いができる人は美しい。人に気配りできることも美しい。
そう軸足を決めれば、もうぶれることなく自分の茶の湯ができるような気がする。(気がするだけ〜)大名物は手に入る予定ナシ(^_^;だけど、箱書きのあるような道具も使えば、どこぞで拾った見立ての道具だって自由に使う。それが私の茶だ。
もしかしてもしかして(思い違いかもしれんが)尊敬する久松真一先生の「心のひとつがね」ってこういうことではないだろうか。ずっと意味がわからなかったのだが。その「ひとつがね」は人によって様々に異なるだろうけれど、私のひとつがねは「美しい物への憧れ」。、、、ということにしておこう。
今年も徳川様のお茶会へ〜徳川美術館2013 - 2013.11.01 Fri
(時節柄茶会ネタが続きます。スミマセン
)
昨年デビューした徳川美術館主催徳川茶会へ今年も行って参りました。
なにせ徳川様といえば東山御物から珠光・紹鷗・利休時代のものから、とにかく権力の最終地点ですから、ありとあらゆる名物をお持ちだったわけですよね。そのおこぼれのおこぼれ眼福をいただきに。

昨年はしとしとの雨模様だったのですが、今年は前日までの台風模様とはうってかわってさわやかな秋らしい一日となりました。

今年はやや遅めの到着(午前9時頃)だったせいか会館前の入り口には長蛇の列が、、、
徳川茶会は毎年7〜8日にわたって行われ、担当も表千家、裏千家、大日本茶道学会、宗偏流、石州流、、、と日替わりなのです。開館前にならんでも、結局6席目になる。この日の席主が今日庵文庫長の筒井紘一先生と、先生率いる桃夭会だったので、かなりの人気だった模様。

茶会後に回れる館内の展示は、今年「歌仙」のようですね。

美術館奥の茶室がある東側まで広い芝生の広場を通って、

三つ葉葵の幔幕の小径をたどり、まずは薄茶席、山ノ茶屋へ。

待合になった座敷でしばし待つ。開けられた障子からさ〜っとさわやかな(少し寒いくらいの)風が通ってここちよい。

天井板の意匠がおもしろかったので写真を一枚。
この建物は今年になってはじめて正確な素性が判明。それまで名古屋城内にあった茶室といわれていたそうですが、新たに棟札がみつかり、尾張徳川家の東京別邸に建てられていた座敷だったことがわかりました。

武家・大名の数寄屋建築。天井は他にも網代や煤竹をびっしり埋め込んだものやら変化に富んでとてもおもしろい。でもちょっとウルサイかも。侘び茶とはちと違う感じ。

薄茶席は筒井先生の奥方(超美人)様がご担当。数茶碗の出し方、采配、知らないことは知らないとやんわり学芸員さんにふったり、話題も適度に途切れることなく、いったいどうやったらあんなふうにエレガントなもてなしができるのかしら(◎-◎;)
床の掛け物は展示中の歌仙にちなんだ藤原興風(36歌仙のひとり)の興風切、伝源俊頼筆、歌三首。
真ん中の歌が
やまのゐ(井)は水なきことぞ みえわたる あきのもみぢの ちりてかくせば
この季節の歌ですね〜。しんしんと落ち葉だけが落ちる音がする、、そんな秋山の風景が目の前に浮かび上がってきました。

お菓子は鳴子のすはまにこの雀の有平糖。名古屋芳光さん製。頭までついているの。ちょっとかじるのがかわいそうかも。
花入は高麗三島・搔き落し槌型牡丹紋。この紋様と同じお茶碗、昨年ソウルで購入したっけ。釜が、鉄アレイの真ん中を太くしたようなごっつい釜で、それに負けじとごっつい伊賀の瓢水指が大迫力。この水指は松江松平家伝来の物山時代のものだそうです。ダイナミックな時代を映しているようでした。
茶杓は船越伊予守(徳川1〜3代に仕えた旗本)作、銘を「むら雀」。
西行の歌、
雪埋む そのの呉竹 折れふして ねぐら求むる むら雀かな
が共筒に書かれていました。あ、それで干菓子が雀だった?、、、のかな(^◇^;)
茶碗はいい色の熊川。替えが古染付、馬の絵。干支のさきどりらしい。「それに今日は天皇杯、、、」なんていう学芸員さんの軽口もでるような、そんな楽しいお席でした。

こちらは濃茶席・餘芳軒の待合。

こちらでいただいた主菓子は両口屋是清製「山里」。
本席の掛物はこれまた東山御物(@_@;) かの無準師範(13世紀、板渡しの墨跡書いた人ですよね。)賛の「達磨図」。すごい薄墨でちょっと近寄らないと何が描いてあるのかわからないくらいながら、近づくと廬葉にのった達磨さんの眼力がすごい。

あと花入がよかった〜。南宋時代12〜13世紀、龍泉窯の青磁。かの国宝砧青磁鳳凰耳花入「万声」とならぶくらいの名品らしいが、残念なことに落としたかなにかで胴体に、はでなにゅうがはいっています。でもかえってこの瑕疵がぐっと雰囲気を上げています。そこが侘び茶人のお眼鏡にかなったとか。
雨過天青の色とはこれか〜。

(四畳半茶室・心空庵)
古芦屋の擂座釜は室町時代の物。使ってええの〜?と思わず老婆心ながら。
茶入が「柳藤四郎」。この藤四郎は二代目なので窯分けとしては真中古にあたるもの。柳のしだれた姿を連想させる釉薬の垂れから来た名前だそうです。(そういえば昨年は「虫食い藤四郎」だったな)どちらかというと小ぶりながらちょっと薬器を思わせる形、高台付というめずらしさから印象に残るものでした。
茶杓なんか宗旦ですよ。銘「二人静」二本組。能・謡曲の「二人静」のごとく二人がシンクロしているイメージか。主茶碗は大名物・三島狂言袴「藤袴」。有楽の箱書きに「蘭茶碗」。蘭とは藤袴の異名だったのですね。初めて知った。
こちらの席では筒井先生がいろいろお話しをしてくださった。でも沢山の席数なのでちょっとお疲れのご様子、今年のお話しは短かったのが残念。

おいしい点心をいただいて、おささもいただいて、ほろ酔い気分で美術館の展示も拝見しました。歌仙はちょっと鑑賞がむつかしいです。仮名がよめないし、、、(^_^; なのでもっぱら常設の茶道具、香道具の方へ。あ、写しが昨年の茶会の記念品だった三島筒茶碗「高浜」も展示されてます。本歌はこんなのだったのか。

今年の記念品。
背戸窯の志野茶碗、そして重〜い「歌仙」の目録。茶碗はこれ、火入れにもなりそう。
今年も楽しませていただきました。京都〜名古屋間はのぞみで30数分なんです。近いし、また来年も行きますわよ〜。

昨年デビューした徳川美術館主催徳川茶会へ今年も行って参りました。
なにせ徳川様といえば東山御物から珠光・紹鷗・利休時代のものから、とにかく権力の最終地点ですから、ありとあらゆる名物をお持ちだったわけですよね。そのおこぼれのおこぼれ眼福をいただきに。

昨年はしとしとの雨模様だったのですが、今年は前日までの台風模様とはうってかわってさわやかな秋らしい一日となりました。

今年はやや遅めの到着(午前9時頃)だったせいか会館前の入り口には長蛇の列が、、、
徳川茶会は毎年7〜8日にわたって行われ、担当も表千家、裏千家、大日本茶道学会、宗偏流、石州流、、、と日替わりなのです。開館前にならんでも、結局6席目になる。この日の席主が今日庵文庫長の筒井紘一先生と、先生率いる桃夭会だったので、かなりの人気だった模様。

茶会後に回れる館内の展示は、今年「歌仙」のようですね。

美術館奥の茶室がある東側まで広い芝生の広場を通って、

三つ葉葵の幔幕の小径をたどり、まずは薄茶席、山ノ茶屋へ。

待合になった座敷でしばし待つ。開けられた障子からさ〜っとさわやかな(少し寒いくらいの)風が通ってここちよい。

天井板の意匠がおもしろかったので写真を一枚。
この建物は今年になってはじめて正確な素性が判明。それまで名古屋城内にあった茶室といわれていたそうですが、新たに棟札がみつかり、尾張徳川家の東京別邸に建てられていた座敷だったことがわかりました。

武家・大名の数寄屋建築。天井は他にも網代や煤竹をびっしり埋め込んだものやら変化に富んでとてもおもしろい。でもちょっとウルサイかも。侘び茶とはちと違う感じ。

薄茶席は筒井先生の奥方(超美人)様がご担当。数茶碗の出し方、采配、知らないことは知らないとやんわり学芸員さんにふったり、話題も適度に途切れることなく、いったいどうやったらあんなふうにエレガントなもてなしができるのかしら(◎-◎;)
床の掛け物は展示中の歌仙にちなんだ藤原興風(36歌仙のひとり)の興風切、伝源俊頼筆、歌三首。
真ん中の歌が
やまのゐ(井)は水なきことぞ みえわたる あきのもみぢの ちりてかくせば
この季節の歌ですね〜。しんしんと落ち葉だけが落ちる音がする、、そんな秋山の風景が目の前に浮かび上がってきました。

お菓子は鳴子のすはまにこの雀の有平糖。名古屋芳光さん製。頭までついているの。ちょっとかじるのがかわいそうかも。
花入は高麗三島・搔き落し槌型牡丹紋。この紋様と同じお茶碗、昨年ソウルで購入したっけ。釜が、鉄アレイの真ん中を太くしたようなごっつい釜で、それに負けじとごっつい伊賀の瓢水指が大迫力。この水指は松江松平家伝来の物山時代のものだそうです。ダイナミックな時代を映しているようでした。
茶杓は船越伊予守(徳川1〜3代に仕えた旗本)作、銘を「むら雀」。
西行の歌、
雪埋む そのの呉竹 折れふして ねぐら求むる むら雀かな
が共筒に書かれていました。あ、それで干菓子が雀だった?、、、のかな(^◇^;)
茶碗はいい色の熊川。替えが古染付、馬の絵。干支のさきどりらしい。「それに今日は天皇杯、、、」なんていう学芸員さんの軽口もでるような、そんな楽しいお席でした。

こちらは濃茶席・餘芳軒の待合。

こちらでいただいた主菓子は両口屋是清製「山里」。
本席の掛物はこれまた東山御物(@_@;) かの無準師範(13世紀、板渡しの墨跡書いた人ですよね。)賛の「達磨図」。すごい薄墨でちょっと近寄らないと何が描いてあるのかわからないくらいながら、近づくと廬葉にのった達磨さんの眼力がすごい。

あと花入がよかった〜。南宋時代12〜13世紀、龍泉窯の青磁。かの国宝砧青磁鳳凰耳花入「万声」とならぶくらいの名品らしいが、残念なことに落としたかなにかで胴体に、はでなにゅうがはいっています。でもかえってこの瑕疵がぐっと雰囲気を上げています。そこが侘び茶人のお眼鏡にかなったとか。
雨過天青の色とはこれか〜。

(四畳半茶室・心空庵)
古芦屋の擂座釜は室町時代の物。使ってええの〜?と思わず老婆心ながら。
茶入が「柳藤四郎」。この藤四郎は二代目なので窯分けとしては真中古にあたるもの。柳のしだれた姿を連想させる釉薬の垂れから来た名前だそうです。(そういえば昨年は「虫食い藤四郎」だったな)どちらかというと小ぶりながらちょっと薬器を思わせる形、高台付というめずらしさから印象に残るものでした。
茶杓なんか宗旦ですよ。銘「二人静」二本組。能・謡曲の「二人静」のごとく二人がシンクロしているイメージか。主茶碗は大名物・三島狂言袴「藤袴」。有楽の箱書きに「蘭茶碗」。蘭とは藤袴の異名だったのですね。初めて知った。
こちらの席では筒井先生がいろいろお話しをしてくださった。でも沢山の席数なのでちょっとお疲れのご様子、今年のお話しは短かったのが残念。

おいしい点心をいただいて、おささもいただいて、ほろ酔い気分で美術館の展示も拝見しました。歌仙はちょっと鑑賞がむつかしいです。仮名がよめないし、、、(^_^; なのでもっぱら常設の茶道具、香道具の方へ。あ、写しが昨年の茶会の記念品だった三島筒茶碗「高浜」も展示されてます。本歌はこんなのだったのか。

今年の記念品。
背戸窯の志野茶碗、そして重〜い「歌仙」の目録。茶碗はこれ、火入れにもなりそう。
今年も楽しませていただきました。京都〜名古屋間はのぞみで30数分なんです。近いし、また来年も行きますわよ〜。