野村美術館講座〜「金碧画の金箔と現代の金箔〜光琳、燕子花図、紅白梅図の秘密」 - 2016.09.21 Wed
光琳、宗達、等伯らの金碧画の金箔にはなぜか細かいヒビ、というかシワがあるのに気づかれただろうか?意識して見なかったら絶対スルーしているが、そう言われてみれば真四角の金箔の中にミミズの這ったような線が。
現代の金箔はきれいな真四角で、そんな線はない。いったいこの線は何??
というところから西陣「箔屋野口」野口 康さんの話ははじまる。

(定点観測的な景色^_^; 碧雲荘脇の野村美術館への道)
箔屋とは?
金糸銀糸に輝く西陣帯、それに使われる「引箔」の地作りをする仕事。「引箔」というのは帯の中に織り込まれる横糸で、金箔を貼った和紙を0.3ミリ幅程度に細かく裁断し、糸状にしたもの。これを専門的につくるのが家業。先代くらいまでは金糸もつくっておられたそうだ。一口に引箔といってもただの金箔ではなく、金の色、質感、紋様までいろいろなバリエーションをこなされる。野口さんはその家業の4代目。

最初金碧画の金箔のこの線がなにを表すのかわからなかったそうだが、ある日はたと気づいたのはこういう制作過程。

金箔は金を薄く薄く叩いてたたいて引き延ばす。その過程で初め真四角だった金箔の元は4辺がふくらみをもってきて、膨張した四角形になる。
現代でははしっこを切って真四角に成形するのだが、当時、上図に示した方法ように
1)縦に直線に切る
2)左右を逆に辺が直線になるように
3)上下のハミダシを切って直線にする
4)切り端をスキマにうめる
この継ぎ重ねた跡が謎の金箔上の線だったのだ。(箔足という)
完璧な正方形より、この線が、ゆらぎ、日本人の美意識にとてもマッチする。(欧米人、古代中国人が好むパーフェクト、シンメトリーは日本人好みではない)
その継ぎ重ねの仕方がまちまちな絵もあるが、唯一光琳のみ、重ねの方向が見事に全図そろっているのだそうな。
これは光琳の強い意図があったと思われる。
ところが、、、
光琳の誰もが知っている紅白梅図、その技法については明治の頃からずっと議論が続いていたらしいが、2004年NHKの特別番組「光琳 解き明かされた国宝の謎」で「金地は金泥による偽装金箔、箔足は手描きによるもので光琳のだまし絵である」と東京文化財研究所が結論づけたのだ。
かつて写真家でもあり、日本画も学び、現に箔屋として日々金箔を扱っている野口さんとしてはこれはだまっておれなかった。これに反論し続け、ついに2010年、東京理大による物理光学的検査で金碧画の金地は金箔である、という断定を得たのだ。
専門家じゃないからどちらが正しいかとはよう言えんが、少なくとも宗達や等伯の金碧画にさえある箔足、それ手描き、、というのはどう考えてもおかしいよな。
ただ、東京理大のこの研究には新たな問題もあった。
紅白梅図の真ん中を流れる流水の部分。ここにも四角い箔足があるのに、この部分からはごく微量の銀しか検出されなかった。しかし理大は銀箔の上に墨で描き水流の部分は銀を硫黄の煙で変色させたもの、と結論づけた。
これにも野口さんは反論している。
1)銀箔を四角く切って糊で貼り合わせる(銀箔は金箔のように継ぎ重ねができない)
2)水流部分にのみ墨を引く
3)温水に浸すと糊がとけて銀箔は剥離、継ぎ目にのみ、しみこんだ墨の跡が四角く残り箔足のように見える
4)これに濃い膠液で水流を肉筆で描く
5)乾いた後上に墨を塗る
6)乾燥後、これを水に浸すと膠とその表面の墨はとけだし流紋となる
呉服・帯の仕事をしてその技法に熟知しているからこそ考えつく方法。
ろうけつ染めとか友禅の糊置きなどの技法に通じ、しかも、その光琳こそ呉服屋の御曹司だったではないか。
これもしろうとの私には正誤は断定できないが、どう考えても野口さんの勝ちだよなあ。机上の推論より実技を体得している方が強いもの。
これまた決着をみない美術史上の課題であるが、当の光琳はお墓の下で「ふっふっふ、、、解けるものなら解いてみよ」と笑っているかもしれない。
(野村美術館は改築のため来年からしばし長い休館にはいります。)
現代の金箔はきれいな真四角で、そんな線はない。いったいこの線は何??
というところから西陣「箔屋野口」野口 康さんの話ははじまる。

(定点観測的な景色^_^; 碧雲荘脇の野村美術館への道)
箔屋とは?
金糸銀糸に輝く西陣帯、それに使われる「引箔」の地作りをする仕事。「引箔」というのは帯の中に織り込まれる横糸で、金箔を貼った和紙を0.3ミリ幅程度に細かく裁断し、糸状にしたもの。これを専門的につくるのが家業。先代くらいまでは金糸もつくっておられたそうだ。一口に引箔といってもただの金箔ではなく、金の色、質感、紋様までいろいろなバリエーションをこなされる。野口さんはその家業の4代目。

最初金碧画の金箔のこの線がなにを表すのかわからなかったそうだが、ある日はたと気づいたのはこういう制作過程。

金箔は金を薄く薄く叩いてたたいて引き延ばす。その過程で初め真四角だった金箔の元は4辺がふくらみをもってきて、膨張した四角形になる。
現代でははしっこを切って真四角に成形するのだが、当時、上図に示した方法ように
1)縦に直線に切る
2)左右を逆に辺が直線になるように
3)上下のハミダシを切って直線にする
4)切り端をスキマにうめる
この継ぎ重ねた跡が謎の金箔上の線だったのだ。(箔足という)
完璧な正方形より、この線が、ゆらぎ、日本人の美意識にとてもマッチする。(欧米人、古代中国人が好むパーフェクト、シンメトリーは日本人好みではない)
その継ぎ重ねの仕方がまちまちな絵もあるが、唯一光琳のみ、重ねの方向が見事に全図そろっているのだそうな。
これは光琳の強い意図があったと思われる。
ところが、、、
光琳の誰もが知っている紅白梅図、その技法については明治の頃からずっと議論が続いていたらしいが、2004年NHKの特別番組「光琳 解き明かされた国宝の謎」で「金地は金泥による偽装金箔、箔足は手描きによるもので光琳のだまし絵である」と東京文化財研究所が結論づけたのだ。
かつて写真家でもあり、日本画も学び、現に箔屋として日々金箔を扱っている野口さんとしてはこれはだまっておれなかった。これに反論し続け、ついに2010年、東京理大による物理光学的検査で金碧画の金地は金箔である、という断定を得たのだ。
専門家じゃないからどちらが正しいかとはよう言えんが、少なくとも宗達や等伯の金碧画にさえある箔足、それ手描き、、というのはどう考えてもおかしいよな。
ただ、東京理大のこの研究には新たな問題もあった。
紅白梅図の真ん中を流れる流水の部分。ここにも四角い箔足があるのに、この部分からはごく微量の銀しか検出されなかった。しかし理大は銀箔の上に墨で描き水流の部分は銀を硫黄の煙で変色させたもの、と結論づけた。
これにも野口さんは反論している。
1)銀箔を四角く切って糊で貼り合わせる(銀箔は金箔のように継ぎ重ねができない)
2)水流部分にのみ墨を引く
3)温水に浸すと糊がとけて銀箔は剥離、継ぎ目にのみ、しみこんだ墨の跡が四角く残り箔足のように見える
4)これに濃い膠液で水流を肉筆で描く
5)乾いた後上に墨を塗る
6)乾燥後、これを水に浸すと膠とその表面の墨はとけだし流紋となる
呉服・帯の仕事をしてその技法に熟知しているからこそ考えつく方法。
ろうけつ染めとか友禅の糊置きなどの技法に通じ、しかも、その光琳こそ呉服屋の御曹司だったではないか。
これもしろうとの私には正誤は断定できないが、どう考えても野口さんの勝ちだよなあ。机上の推論より実技を体得している方が強いもの。
これまた決着をみない美術史上の課題であるが、当の光琳はお墓の下で「ふっふっふ、、、解けるものなら解いてみよ」と笑っているかもしれない。
(野村美術館は改築のため来年からしばし長い休館にはいります。)