「求塚」〜テアトル・ノウ京都公演 - 2016.11.09 Wed
、、、飛魄の鬼となって 笞を振り上げ追いたつれば
行かんとすれば前は海 後は火焔 左も右も 水火の責めに詰められて
詮方なくて 火宅の柱にすがりつきとりつけば 柱は即ち火焔となって、、、

今年最後のテアトル・ノウ(観世流能楽師・味方 玄師主催)観世会館公演の演目は「求塚」であった。
まずは恒例の作品解説、今回は軽妙な語り口の歌人の林 和清さん。
万葉集の高橋虫麻呂の長歌にいう葦屋の菟原処女(うないおとめ)の悲劇的伝説。二人の男性に同時に求愛され、どちらをえらぼうにもせんなくて、葛藤したあげく苦しんで自殺する話。
虫麻呂は下総国真間の手児奈という似たような長歌も残している。よほど好きだったのね、この手の乙女の話。現代の乙女にはまずありえん設定。(あ、脱線した)
平安時代に「大和物語」がこれを脚色して悲恋物語をつくり、それが後に生田川伝説になったとか。これをもとに観阿弥・世阿弥親子合作の能といわれる。
大和物語では単に二人の男がひとりの乙女を争うだけでなく、さらに罪深いことに生田川(摂津住吉のあたり)の鴛鴦を射て勝負し勝った方のものになろうときそわせ、二人の矢は同時に鴛鴦の命を奪う展開になる。
二人の男を争わせただけでなく、鴛鴦の命まで奪ったおのれの罪深さに、乙女は生田川に入水自殺した。(現在の生田川では浅すぎて入水自殺は不可能とのこと^_^;)
それを悲しんだ二人の男も乙女の墓の前で差し違えて死んでしまった。
ちなみに現在も阪神神戸線石屋川駅の近くに処女塚古墳、住吉駅近くに一方の男の東求塚古墳、西灘駅の近くに他方の男の求塚西古墳があるらしいが、もちろん、伝説、後付け。
前半、西国の旅の僧が生田の小野に至り、菜摘みする赤い着物に白い水衣の清楚な三人の乙女にであう。乙女たちはそれぞれ手に菜採り籠をさげ、「生田の若菜摘まうよ」と謡いながらまだ雪の消え残る小野にやってくる。
白い水衣が清々しく美しい。僧は彼女らに求塚というのはいずこ、とたずねる。
そんなのしらないわ、とこたえる乙女。ほぼ同じ装束ながら、だた一人だけ鬘帯が他二人の赤系とちがい白い乙女はたちさりあぐねている。
そしていぶかしがる僧に、先ほどお尋ねの求塚は実はここなんですよ、と示しながら菟原処女とふたりのおのこの悲話を語る。そしてその死後の魂を助けて欲しいと、僧に頼んで消えていく。
途中から主語が「我」となるため、この乙女が実は菟原処女の化身であることが観客にわかるのだ。
ここで狂言方による間があり、その間、舞台中央の火宅をあらわす作り物の中にはいった乙女がやせ衰えた霊となってあらわれる。そして生前の罪により、永劫続く責め苦を語る。
身を焼く火宅に永劫に囚われ今も魂は救われず、二人の男の亡霊に責めさいなまれ、鉄の怪鳥と化した鴛鴦は乙女の頭に鉄の爪でとまり頭をつつき割る、地獄の鬼は笞をふりあげ追い立てるが前は海、後は火焔、責め苦に耐えかね思わずすがりつく火宅の柱は火焔となってあまりの熱さにおもわず手を離す。
、、、、黒縄衆合叫喚大叫喚炎熱極熱無間の底に、、、
言葉を聞くだにおどろおどろしい責め苦の様子だが、実際はほとんど作り物=火宅の中で演じられ、所作は静かで抑制された感じ。
ただ、せんなくてすがりつく柱が炎の熱さで思わず手をぱっと離す、そこだけが動を感じて印象的。
普通ここで僧の読経に魂が救われるパターンが多いのだが、求塚では、乙女は救われず夜明けとともにまた火宅に帰って行く、、、という救いのないお話しになっている。これからまた未来永劫乙女の責め苦が続くのだろう。なんとも理不尽な気がする。
二人の男に言い寄られたのは己の罪ではない。
他にどんな救われる道があっただろうか。どちらか一方を選んでいたら救われたか?第3の男を選んでいたら救われたか?
どちらも選びがたくしてやむなく一番貴重な命まで捧げたのに。キリスト教みたいに自殺を禁じる宗教では、自殺者は天国へいけないらしいが、仏教はそんな教えはないと思うけれど。
まあ、そういう終わり方をするのが能らしいといえばそうなんだが。
味方師の抑制された鬘物(美女が主役)や雑能物(狂女や恨みつらみ)もよいが、この手の演目は、ちょっと意識を失うこともあるので^_^;、そろそろ師の修羅物(武将・主に源氏平家・が主役)も見たいなあ。
行かんとすれば前は海 後は火焔 左も右も 水火の責めに詰められて
詮方なくて 火宅の柱にすがりつきとりつけば 柱は即ち火焔となって、、、

今年最後のテアトル・ノウ(観世流能楽師・味方 玄師主催)観世会館公演の演目は「求塚」であった。
まずは恒例の作品解説、今回は軽妙な語り口の歌人の林 和清さん。
万葉集の高橋虫麻呂の長歌にいう葦屋の菟原処女(うないおとめ)の悲劇的伝説。二人の男性に同時に求愛され、どちらをえらぼうにもせんなくて、葛藤したあげく苦しんで自殺する話。
虫麻呂は下総国真間の手児奈という似たような長歌も残している。よほど好きだったのね、この手の乙女の話。現代の乙女にはまずありえん設定。(あ、脱線した)
平安時代に「大和物語」がこれを脚色して悲恋物語をつくり、それが後に生田川伝説になったとか。これをもとに観阿弥・世阿弥親子合作の能といわれる。
大和物語では単に二人の男がひとりの乙女を争うだけでなく、さらに罪深いことに生田川(摂津住吉のあたり)の鴛鴦を射て勝負し勝った方のものになろうときそわせ、二人の矢は同時に鴛鴦の命を奪う展開になる。
二人の男を争わせただけでなく、鴛鴦の命まで奪ったおのれの罪深さに、乙女は生田川に入水自殺した。(現在の生田川では浅すぎて入水自殺は不可能とのこと^_^;)
それを悲しんだ二人の男も乙女の墓の前で差し違えて死んでしまった。
ちなみに現在も阪神神戸線石屋川駅の近くに処女塚古墳、住吉駅近くに一方の男の東求塚古墳、西灘駅の近くに他方の男の求塚西古墳があるらしいが、もちろん、伝説、後付け。
前半、西国の旅の僧が生田の小野に至り、菜摘みする赤い着物に白い水衣の清楚な三人の乙女にであう。乙女たちはそれぞれ手に菜採り籠をさげ、「生田の若菜摘まうよ」と謡いながらまだ雪の消え残る小野にやってくる。
白い水衣が清々しく美しい。僧は彼女らに求塚というのはいずこ、とたずねる。
そんなのしらないわ、とこたえる乙女。ほぼ同じ装束ながら、だた一人だけ鬘帯が他二人の赤系とちがい白い乙女はたちさりあぐねている。
そしていぶかしがる僧に、先ほどお尋ねの求塚は実はここなんですよ、と示しながら菟原処女とふたりのおのこの悲話を語る。そしてその死後の魂を助けて欲しいと、僧に頼んで消えていく。
途中から主語が「我」となるため、この乙女が実は菟原処女の化身であることが観客にわかるのだ。
ここで狂言方による間があり、その間、舞台中央の火宅をあらわす作り物の中にはいった乙女がやせ衰えた霊となってあらわれる。そして生前の罪により、永劫続く責め苦を語る。
身を焼く火宅に永劫に囚われ今も魂は救われず、二人の男の亡霊に責めさいなまれ、鉄の怪鳥と化した鴛鴦は乙女の頭に鉄の爪でとまり頭をつつき割る、地獄の鬼は笞をふりあげ追い立てるが前は海、後は火焔、責め苦に耐えかね思わずすがりつく火宅の柱は火焔となってあまりの熱さにおもわず手を離す。
、、、、黒縄衆合叫喚大叫喚炎熱極熱無間の底に、、、
言葉を聞くだにおどろおどろしい責め苦の様子だが、実際はほとんど作り物=火宅の中で演じられ、所作は静かで抑制された感じ。
ただ、せんなくてすがりつく柱が炎の熱さで思わず手をぱっと離す、そこだけが動を感じて印象的。
普通ここで僧の読経に魂が救われるパターンが多いのだが、求塚では、乙女は救われず夜明けとともにまた火宅に帰って行く、、、という救いのないお話しになっている。これからまた未来永劫乙女の責め苦が続くのだろう。なんとも理不尽な気がする。
二人の男に言い寄られたのは己の罪ではない。
他にどんな救われる道があっただろうか。どちらか一方を選んでいたら救われたか?第3の男を選んでいたら救われたか?
どちらも選びがたくしてやむなく一番貴重な命まで捧げたのに。キリスト教みたいに自殺を禁じる宗教では、自殺者は天国へいけないらしいが、仏教はそんな教えはないと思うけれど。
まあ、そういう終わり方をするのが能らしいといえばそうなんだが。
味方師の抑制された鬘物(美女が主役)や雑能物(狂女や恨みつらみ)もよいが、この手の演目は、ちょっと意識を失うこともあるので^_^;、そろそろ師の修羅物(武将・主に源氏平家・が主役)も見たいなあ。