木屋町三条・瑞泉寺〜秀次一族悲劇の寺 - 2016.11.12 Sat
瑞泉寺、、、という名前を聞いたのは今年の春、社中で茶会をしたときに先輩の使われた茶杓の作者が瑞泉寺の何代目かのご住職だったのだ。その時に調べて、へ〜豊臣秀次の菩提寺なのかあ、、と初めて知ったのであった。
それがこの秋初の公開になるという。これは行かいでか。

木屋町三条の南の角にある瑞泉寺、木屋町のこのあたりは学生の時に夜な夜な飲みにいってブイブイゆわしてた(?)とこや〜。前は無数回通ってるはず。そういえば目の片隅に、あ、お寺あるわ、、と思っていたかいなかったか?

そういえば、ここは秀次一族(側室34人子供5人)が処刑された三条河原のほど近くではないか。
秀次が高野山へ追いやられ切腹させられた理由については諸説あるようで、秀頼を溺愛するあまり邪魔になった秀次を秀吉が陥れた、というのがいままでの説だった。今年の大河ドラマ「真田丸」では秀吉は秀次を死なせるつもりはさらさらなかったのに勝手に切腹した怒りが残された妻子にむかって爆発した、という新説をとっていた。
利休の賜死と同じく、秀吉との確執の中味はおそらく当人たちにしかわからないだろう。心の中まで記録に残すことはできないから。それに秀次事件を正当化するために彼が悪逆非道の関白だった、という後付け記録はあてにならないしなあ。

話はわき道にそれるが、ここのお寺のHPを見られただろうか。ポップな挿絵は画家でもあるここのご住職の手になる。
月刊「京都」の表紙でもお馴染み、すぐわかる画風。ここのご近所の裏寺町界隈のお寺のパンフの絵もてがけておられるよ。

さて、高野山で切腹した秀次、半月もたたぬうち、その妻子39人は三条河原で秀次の首の前にひきだされ、次々と命を落としていったのだ。
正室と同格の一の台さまは34歳、下は12歳の側室まで。なかでも憐れなのが(これも大河「独眼竜政宗」で知った)駒姫(別名、伊万・いま)。奥羽最上家の娘で、東国一の美少女だったんだそうな。側室になるため京にはいったとたん、まだ秀次にお目見えもしていないのに処刑されてしまう。

(これは写真だが、本物はお堂の中で拝見できる)
処刑された女性たちの肖像と辞世の歌が描かれている。
そのなかの駒姫の辞世
「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」
まだ15歳だったという。
さらに憐れなのが6歳を筆頭にまだ歩けぬ赤子まで5人の子供が無残に殺された。
この秀次事件で処刑された、あるいは切腹したのは一族だけでなく、家臣、乳母、お付きの女中までにわたっている一大残虐殺事件であったのだ。ほんまに秀頼出生以後の秀吉の言動は常軌を逸している。

(秀次公と妻子の供養塔)
三条河原で処刑された女子供の遺骸は大きな穴の中に次々とほうりこまれ、その後埋められた穴の跡に大きな塚が築かれ、頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとしたという。
その塚は「殺生塚」(のちに「ちくしょう塚」、ここらへん事件の正当化の意図が感じられる)の絵は洛中洛外図にも描かれていて、しばらくは三条河原にあったらしいが、そののち荒廃。
事件から16年後、秀吉もすでにない。
おりしも角倉了以による高瀬川を開削する工事中、荒廃した塚を発見、秀次公ご一族に同情していた了以がここに一族の菩提を弔う寺を建てたのが、今日の瑞泉寺という。(ちなみに瑞泉は秀次の法名・瑞泉院から)
医師であった了以の実弟は実は秀次の家臣であったという。連座は免れたが、秀次公一家への深い悼みの思いがあったのではないかというのがご住職の説。

境内に、亡き魂に手向けられたが如き白菊の花。
今はアベックの等間隔座りで有名な三条河原だが、そういう因縁の場所であることを思い出して今度はそっと手を合わせようと思う。
お寺の中では秀次公が着用した冠や直衣や太刀、一の台が着用した緋袴、そして側室方の肉筆の辞世の歌の掛け物も拝見できる。この何本かの軸は、当時の高貴なる女性たちが着用した小袖とおぼしき美しい裂地で表装されていたのが、また憐れであった。
庭から一歩向こうは喧噪の三条大橋、観光客が賑やかに行き交うのもまた、時代、忘れ去られそうな記憶も細い糸で繋いでいかなければ。それが京都人のつとめだと思うよ。(私は正確には京都人じゃないし〜)
<おまけ>

このすぐ近くに、最近できたばかりの本屋、一乗寺のホホホ座(元ガケ書房+α)の三条支店があった!
それがこの秋初の公開になるという。これは行かいでか。

木屋町三条の南の角にある瑞泉寺、木屋町のこのあたりは学生の時に夜な夜な飲みにいってブイブイゆわしてた(?)とこや〜。前は無数回通ってるはず。そういえば目の片隅に、あ、お寺あるわ、、と思っていたかいなかったか?

そういえば、ここは秀次一族(側室34人子供5人)が処刑された三条河原のほど近くではないか。
秀次が高野山へ追いやられ切腹させられた理由については諸説あるようで、秀頼を溺愛するあまり邪魔になった秀次を秀吉が陥れた、というのがいままでの説だった。今年の大河ドラマ「真田丸」では秀吉は秀次を死なせるつもりはさらさらなかったのに勝手に切腹した怒りが残された妻子にむかって爆発した、という新説をとっていた。
利休の賜死と同じく、秀吉との確執の中味はおそらく当人たちにしかわからないだろう。心の中まで記録に残すことはできないから。それに秀次事件を正当化するために彼が悪逆非道の関白だった、という後付け記録はあてにならないしなあ。

話はわき道にそれるが、ここのお寺のHPを見られただろうか。ポップな挿絵は画家でもあるここのご住職の手になる。
月刊「京都」の表紙でもお馴染み、すぐわかる画風。ここのご近所の裏寺町界隈のお寺のパンフの絵もてがけておられるよ。

さて、高野山で切腹した秀次、半月もたたぬうち、その妻子39人は三条河原で秀次の首の前にひきだされ、次々と命を落としていったのだ。
正室と同格の一の台さまは34歳、下は12歳の側室まで。なかでも憐れなのが(これも大河「独眼竜政宗」で知った)駒姫(別名、伊万・いま)。奥羽最上家の娘で、東国一の美少女だったんだそうな。側室になるため京にはいったとたん、まだ秀次にお目見えもしていないのに処刑されてしまう。

(これは写真だが、本物はお堂の中で拝見できる)
処刑された女性たちの肖像と辞世の歌が描かれている。
そのなかの駒姫の辞世
「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」
まだ15歳だったという。
さらに憐れなのが6歳を筆頭にまだ歩けぬ赤子まで5人の子供が無残に殺された。
この秀次事件で処刑された、あるいは切腹したのは一族だけでなく、家臣、乳母、お付きの女中までにわたっている一大残虐殺事件であったのだ。ほんまに秀頼出生以後の秀吉の言動は常軌を逸している。

(秀次公と妻子の供養塔)
三条河原で処刑された女子供の遺骸は大きな穴の中に次々とほうりこまれ、その後埋められた穴の跡に大きな塚が築かれ、頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとしたという。
その塚は「殺生塚」(のちに「ちくしょう塚」、ここらへん事件の正当化の意図が感じられる)の絵は洛中洛外図にも描かれていて、しばらくは三条河原にあったらしいが、そののち荒廃。
事件から16年後、秀吉もすでにない。
おりしも角倉了以による高瀬川を開削する工事中、荒廃した塚を発見、秀次公ご一族に同情していた了以がここに一族の菩提を弔う寺を建てたのが、今日の瑞泉寺という。(ちなみに瑞泉は秀次の法名・瑞泉院から)
医師であった了以の実弟は実は秀次の家臣であったという。連座は免れたが、秀次公一家への深い悼みの思いがあったのではないかというのがご住職の説。

境内に、亡き魂に手向けられたが如き白菊の花。
今はアベックの等間隔座りで有名な三条河原だが、そういう因縁の場所であることを思い出して今度はそっと手を合わせようと思う。
お寺の中では秀次公が着用した冠や直衣や太刀、一の台が着用した緋袴、そして側室方の肉筆の辞世の歌の掛け物も拝見できる。この何本かの軸は、当時の高貴なる女性たちが着用した小袖とおぼしき美しい裂地で表装されていたのが、また憐れであった。
庭から一歩向こうは喧噪の三条大橋、観光客が賑やかに行き交うのもまた、時代、忘れ去られそうな記憶も細い糸で繋いでいかなければ。それが京都人のつとめだと思うよ。(私は正確には京都人じゃないし〜)
<おまけ>

このすぐ近くに、最近できたばかりの本屋、一乗寺のホホホ座(元ガケ書房+α)の三条支店があった!