さらば楽々荘〜Farewell 其中庵茶会 - 2017.01.29 Sun
洛中の雪はほぼ消えたが、亀岡ではまだ日陰のあちこちに雪がわだかまっている。
楽々荘へ、何回も通った道。
そしてこの日は楽々荘最後の茶会、茶狂会月釜。
ここは旧嵯峨野線を敷設した田中源太郎翁の旧邸(明治の建築)であり、洋館部分といい、広間の座敷といい、700坪の七代小川治兵衛の庭園といい、実にすばらしい場所なのだ。
こちらは洋館部分。
植治の庭園、まだ雪化粧。
ここのあるじはこの屋敷の一画に茶道具としては一番高価な持ち物=小間の茶室・其中庵を建てはった。
論語に曰わく、「子曰く、疏飯を食らい、水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り」
ここへ茶事に初めて伺ったのは約3年前のこと、ちょうど初風炉の候、躑躅の茶事であった。
(待合の洋館のマントルピース。いつもは遠慮して撮影はしなかったが、今回はお名残おしく、撮らせていただく。)
それからというもの、何回ここの茶事に伺っただろう。朝茶合宿なんてのもあったな。
(これも洋館。ただし最後の点心席)
毎回広い屋敷を縦横無尽に使ってくりだされる楽しい趣向、普通ならガラスの向こうの展示物級のお道具、なによりお茶が好きで好きで、茶狂を地でいき、そして人とのご縁を大切にしてくださるあるじとの出会いは、また、それに惹かれて集まる弩級のお茶数寄の方々との出会いは、私のお茶ライフに大きな影響を与えてくれた。
広間の薄茶席。
茶狂会の旗印、元祖・茶狂い益田鈍翁の「茶狂」。
花はいつもあるじが採取してきて手づからいれられる。この日の花もまた。
そう言えばあるじに初めてお目にかかったのも茶花がらみであった。
弘道館の花寄茶会、約5年前。
広間で茶狂会のメンバーのひとりでもある、サラリーマン陶芸家(!)こと、まさんど窯の平金さん。
石州流の武家点前で御自作の大大井戸で薄茶を。
柄杓が普通のサイズ、茶杓・薄器・茶碗のサイズを見よ!
最後に武家らしく、茶杓を左腰に差して帰る。
その茶杓の銘も「うつけ」!
だれのことだろう、、、(^_^;??
この広間の脇床に、何回かこちらで披露された平金さんの五輪の塔が静かにここでの最後の点前を見守っているようだった。
最後に老松さんの子持ち薯蕷〜一かけでお腹一杯になる〜をいただいていよいよ最後の其中庵、濃茶席へ。
ここの腰掛け待合いもお名残惜しい。ここで讃岐円座という、お尻に敷くより頭に載せたいくらいの価値の円座、使わせてもらったなあ。
其中庵の蹲居は屋根から落ちてきた雪にうもれている。
躙り口。
こちらの席も、ずっと今まで写真は遠慮していたが、今日は皆様にとっても最後なので撮影をおゆるしいただこう。
三畳台目下座床。
ここであんな茶事もあった、こんな茶会もあった、、と、この数年の想い出が蘇る。
点前座も撮らせてもらった。(写っているのは拝見中の御連客様)
床に掛けられた軸は、やはりここを名残惜しく思われる某家元家の若さまがご持参くださったというもの。
松花堂昭乗の描いた隻履西帰の達磨の後姿。
(達磨が中国で没した後、魏の宋雲が西域からの帰途、片方の草履を手にして西天に行くと言う達磨に会った。宋雲は後に達磨の墓を掘らせると片方の草履が残っていたという。)
その後姿がなんとなくあるじの後姿に重なる。
箱に曰わく「田中源太郎所蔵」!!
この館のもともとのあるじであった源太郎翁の軸が時を越えここにもどったのだ。
だから貸してくださったのだろうが、そういう茶人の精神的ハイレベルな交流ってすざまじい、と思う。
小間にすわっていると、ときどき屋根から落ちる雪の音を聞く。
ここを去るあるじによって練られた濃茶はあつあつで美味しい。茶碗の銘が「巌(いわお)」
「神さびて 巌に生ふる 松の根の 君が心そ 忘れかねつも(たぶん、、、汗)」
忘れかねつも、忘れられない、、、、
数年しかおじゃましていない私でさえ、いろんな思いが去来するのだから、ましてやここで生まれ育ったあるじには万感の思いがおありであろう。
しかし、すでに前を向いておられる。
楽々荘とはお別れだが、熱い茶への思い冷めかねて(あるいは業が深いゆえとご本人)、2月からは場所を祗園に移して、茶狂会はじめ茶事もきっとまだまだ続くのである。今後もよろしくおつきあい願いたい。
楽々荘へ、何回も通った道。
そしてこの日は楽々荘最後の茶会、茶狂会月釜。
ここは旧嵯峨野線を敷設した田中源太郎翁の旧邸(明治の建築)であり、洋館部分といい、広間の座敷といい、700坪の七代小川治兵衛の庭園といい、実にすばらしい場所なのだ。
こちらは洋館部分。
植治の庭園、まだ雪化粧。
ここのあるじはこの屋敷の一画に茶道具としては一番高価な持ち物=小間の茶室・其中庵を建てはった。
論語に曰わく、「子曰く、疏飯を食らい、水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り」
ここへ茶事に初めて伺ったのは約3年前のこと、ちょうど初風炉の候、躑躅の茶事であった。
(待合の洋館のマントルピース。いつもは遠慮して撮影はしなかったが、今回はお名残おしく、撮らせていただく。)
それからというもの、何回ここの茶事に伺っただろう。朝茶合宿なんてのもあったな。
(これも洋館。ただし最後の点心席)
毎回広い屋敷を縦横無尽に使ってくりだされる楽しい趣向、普通ならガラスの向こうの展示物級のお道具、なによりお茶が好きで好きで、茶狂を地でいき、そして人とのご縁を大切にしてくださるあるじとの出会いは、また、それに惹かれて集まる弩級のお茶数寄の方々との出会いは、私のお茶ライフに大きな影響を与えてくれた。
広間の薄茶席。
茶狂会の旗印、元祖・茶狂い益田鈍翁の「茶狂」。
花はいつもあるじが採取してきて手づからいれられる。この日の花もまた。
そう言えばあるじに初めてお目にかかったのも茶花がらみであった。
弘道館の花寄茶会、約5年前。
広間で茶狂会のメンバーのひとりでもある、サラリーマン陶芸家(!)こと、まさんど窯の平金さん。
石州流の武家点前で御自作の大大井戸で薄茶を。
柄杓が普通のサイズ、茶杓・薄器・茶碗のサイズを見よ!
最後に武家らしく、茶杓を左腰に差して帰る。
その茶杓の銘も「うつけ」!
だれのことだろう、、、(^_^;??
この広間の脇床に、何回かこちらで披露された平金さんの五輪の塔が静かにここでの最後の点前を見守っているようだった。
最後に老松さんの子持ち薯蕷〜一かけでお腹一杯になる〜をいただいていよいよ最後の其中庵、濃茶席へ。
ここの腰掛け待合いもお名残惜しい。ここで讃岐円座という、お尻に敷くより頭に載せたいくらいの価値の円座、使わせてもらったなあ。
其中庵の蹲居は屋根から落ちてきた雪にうもれている。
躙り口。
こちらの席も、ずっと今まで写真は遠慮していたが、今日は皆様にとっても最後なので撮影をおゆるしいただこう。
三畳台目下座床。
ここであんな茶事もあった、こんな茶会もあった、、と、この数年の想い出が蘇る。
点前座も撮らせてもらった。(写っているのは拝見中の御連客様)
床に掛けられた軸は、やはりここを名残惜しく思われる某家元家の若さまがご持参くださったというもの。
松花堂昭乗の描いた隻履西帰の達磨の後姿。
(達磨が中国で没した後、魏の宋雲が西域からの帰途、片方の草履を手にして西天に行くと言う達磨に会った。宋雲は後に達磨の墓を掘らせると片方の草履が残っていたという。)
その後姿がなんとなくあるじの後姿に重なる。
箱に曰わく「田中源太郎所蔵」!!
この館のもともとのあるじであった源太郎翁の軸が時を越えここにもどったのだ。
だから貸してくださったのだろうが、そういう茶人の精神的ハイレベルな交流ってすざまじい、と思う。
小間にすわっていると、ときどき屋根から落ちる雪の音を聞く。
ここを去るあるじによって練られた濃茶はあつあつで美味しい。茶碗の銘が「巌(いわお)」
「神さびて 巌に生ふる 松の根の 君が心そ 忘れかねつも(たぶん、、、汗)」
忘れかねつも、忘れられない、、、、
数年しかおじゃましていない私でさえ、いろんな思いが去来するのだから、ましてやここで生まれ育ったあるじには万感の思いがおありであろう。
しかし、すでに前を向いておられる。
楽々荘とはお別れだが、熱い茶への思い冷めかねて(あるいは業が深いゆえとご本人)、2月からは場所を祗園に移して、茶狂会はじめ茶事もきっとまだまだ続くのである。今後もよろしくおつきあい願いたい。