其一好みの「白椿に楽茶碗」に寄せて〜細見美術館鑑賞茶会 - 2017.02.14 Tue

1月に細見美術館の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」を堪能したが、この美術館には展示中のテーマに沿った鑑賞茶会が屋上の古香庵であるので、そちらも見逃すわけにはいかないのだ。

古香庵前の「露地」。みやこめっせのすぐそば。
今回選ばれたのが「白椿に楽茶碗花鋏図」。
まずはこれを床に掛けて、愛でつつお点前で薄茶一服。

お菓子は夏の錦玉・金魚鉢で有名な市役所近くの松彌さんの白侘助。
絵の中の白椿によく似た、お水取りの時の糊こぼしにもよく似たきれいなお菓子で芸が細かい。
ちなみに写真は食べたあとのもの〜(^_^; 想像で補ってね。

これは最後にいただいた絵はがきから似た雰囲気で撮ってみたもの。
軸としてはこちらで感じがわかると思う。
茶会のために椿を一枝、今切ってきました、、という風情。茶人にはしびれるよね、この画題。
お釜が越前芦屋釜、前面に椿の紋様が鋳出されているのがこの会にふさわしい。
お正客の茶碗が長次郎並みにかせてかせて、、、の宗入黒楽、確かに絵の中の黒楽茶碗に面影がにていること!細見の所蔵の中で一番にているものを出してくださったとか。(おりしも近くの近代美術館で楽の展示!〜12日まで)
あの茶碗、よかったなあ、、内側の銀河みたいな釉薬の小さな欠損、高台近くのがすっと削った部分、釉薬をかけるときにあたった挟みの跡、、、ついついなでまわしてしまった。
ちなみに其一の活躍した江戸後期、同時代の楽家といえば了入(九代)あたりになるそうだ。
いつもなら展示物であるところの物を惜しげもなく使ってくれるのが、ここ、細見の太っ腹というかうれしいところなのだ。先々代か先代か、良い物を見て、見る目を肥やすことが大切、その道場として自分のお宝コレクションをどんどん使って欲しいというポリシーのもと、若い人たちと勉強会などしておられたという。なんというご見識!
さて、お茶の後は学芸員さんによる絵の解説を拝聴す。

これは1月に行った折、展示されていた黒楽と白椿の別バージョンの絵はがき。
このように白椿と楽茶碗というのは師匠の酒井抱一も、他の絵師も、其一自身もたくさん描いている人気の画題だったらしい。
当時其一には江戸一番という富豪・蝋油問屋の松澤家のバックアップがあった。良質の群青や緑青(朝顔図!)をあれだけ大量に使えるのはその後ろ盾あってのこと。その松澤家がお得意様であったであろう茶人へのおつかいものとして、この画題をたくさん所望したのではないか、とのこと。
気になるのは其一自身はお茶を嗜んでいたのか?ということ。当時の知識人、教養人としては少々は嗜んでいたと思われるが、師匠の酒井抱一の兄ちゃん、姫路藩主の酒井宗雅は石州流のすごい茶人であったことなどを考えると、茶人好みの画題のツボをおさえていたと思われる。
この絵はがきのは鋏がないが、いままでの日本絵画では花と茶碗に鋏のような道具を添えることはほとんどなかったそうだ。中には道具を添える=西洋とくにオランダ絵画の影響、とする学者もいるそうで興味深い。江戸の後期ならそういう情報もたくさん日本に入ってきていただろうから。
最後に、とってもうれしい(個人的)気づきがあった。
同じ画題=黒楽に白椿の沖一峨(鳥取藩主池田家の御用絵師・狩野派から出発し酒井抱一に琳派の勉強もした幅広い作風の絵師)の絵もみせていただいたが、この賛に「碧雲引風吹不断」。
唐の詩人盧仝(ろどう)の「走筆謝孟諫議寄新茶」の一節、このあとに「白花光を浮かべて碗面を凝らす」と続く。
これはすなわち碗にいれたお茶の美しさを歌っているのだ。
盧仝、,盧仝、、、どこかで聞いたことが、、、そうだ!!
せんだって西翁院の庸軒の淀看席に行ったとき、「(庸軒は)幽閑淡泊 読書を好み 辞章を善くす 常に陸鴻漸(陸羽)玉川子(唐代の詩人・いずれも喫茶を愛した)の風を慕い 喫茶を嗜む」と聞いたではないか!陸羽は有名だとしてこの玉川子がイコール盧仝のことだったのだ!
しかも断片的に聞いたことのある、茶の功徳の詩(「七碗茶詩」部分下記)、これがまさにこの詩の一部分だったのだ。
知識を得ることはなんて楽しいことだろう(すぐ忘れるにせよ(^_^;)とひとりひそかに合点し、感動したのである。(そんなん常識!といわんといてね(^0^;) )
一碗 喉吻潤し (一碗目でのどをうるおし)
両碗 孤悶を破る (二碗目で孤独を忘れる)
三碗 枯腸を捜し 唯有り文字の五千巻 (三碗目で感動の言葉が腸まであふれ)
四碗 軽汗を発し 平生の不平の事、尽く毛孔に向かって散ず (四碗目で汗とともに日ごろの鬱憤がとんでいき)
五碗 肌骨清く (五碗目で体は清められ)
六碗 仙霊に通ず (六碗目で仙人のような境地)
七碗 吃するも得ざるなり
唯 両腋の習習として 清風の生ずるを覚ゆ
蓬萊山 何処にか在る (七碗目で無我の境地、蓬萊山はまさにここにある)
(お茶を愛する詩人も七碗までが限界だったようで、、、、^_^;)