半泥子の軸と茶碗を楽しむ茶会@旧三井家下鴨別邸 - 2019.01.30 Wed
お茶会を開いたり招かれたり、もうすっかりお馴染みの場所、旧三井家下鴨別邸であります。

ここのほんのお向かいというベストな立地のK美術さん、ここをご自分のお庭のように最近使いこなしておいでです。
今回こちらで、伊賀の笹山芳人さんの個展によせて、笹山さんが敬愛する川北半泥子の御茶碗とお軸をメインに据えて、それにご自分の骨董コレクション、御自作の器などとりまぜてささやかな茶会を開く亭主をさせていただきました。
以前ここで茶会をしたときにはいろんな物品が足りなくて苦労した記憶があるのですが、なんと!備品がバージョンアップしている!やはり借りやすいお値段設定ゆえ、希望者も多く、いろんなご意見があったことをふまえての改善かと、ありがたく思いました。(カセットコンロまであった!)
笹山さんとは、K美術さんのご縁で、伊賀丸柱の笹山窯をおたずねしたこともあり、さらに今回の主役の一人の半泥子の茶碗を手に入れられたばかりのころ、拙宅でこの茶碗でお茶を飲む、という半泥子茶会を開いたこともあります。
30代にしてサラリーマンを辞め陶芸を志したきっかけが半泥子の茶碗であった、という笹山さん。半泥子をめざして作陶の日々、半泥子ゆかりの方から「私が持っていてもしょうがないし、そんなに半泥子がお好きならどうぞ。」と(御礼のハガキ一枚で!)ころがりこんだ半泥子の御茶碗!
ころっと手の内におさまり、光悦の乙御前を小さくしたような、かわいらしい御茶碗。グレーの釉薬、内側に舌状にはいりこんだ白い長石釉に貫入、向いに火間、高台脇に「半泥子」とかろうじて読めるサイン(半泥子のサイン入りは少ないとのこと)、銘を「椎の実」
(笹山コレクションの鉄道用釘の蓋置を香合に見立てた。中にちゃんと練り香入ってます)
どちらかといえば、「欲袋」とか「無茶太朗」とか「猫なんちゅ」とかいった破格の命名が有名な半泥子ですが、本来は「現代の光悦」といわれた人、こんな端整な作品の方が多いそうです。
ちなみにこの作品は昭和47年の遺作展に出て以来、半世紀近くずっとお蔵の中にしまわれていたんですね。来るべきところへ来たのは茶碗の意志なのかもしれません。
笹山さんも、いずれは次世代の人へ手渡したいと、それまでの間自分とこにとどめておく、というお気持ちだそうです。
花入は笹山作品を、と思ったのですが、あまり土物ばかりもね〜と、先だっての茶会で水屋見舞に手作りの花入を茶友さんが持ってきてくださったのを青いうちに使おうと。(遠州好みの輪無二重切だそうです)花はレンギョウと、うちの庭の白玉。
さて、もう一つの主人公は軸。
これも同じ方から笹山さんの友人へ譲られた物で、この日茶会のためにお借りしたという半泥子最晩年の書、「分身」
(水指:笹山芳人 黒柿の蓋:木工作家さん作 舟板:現在の所有者は私、笹山窯に行ったときに頂戴した)
これは未発表のものだそうです。これを半泥子から贈られたのが、生涯半泥子につきそった番頭格であった藤田等風、長い間つきそってくれた等風へ、お前はわたしの「分身」に等しい、という御礼の気持ちではなかったかと想像します。そして、ご本人はご謙遜否定されますが、半泥子の分身たらんという笹山さんの気持ちもこめて、眺めると、ほんとうに良い字です。(箱見なかったら読めなかったけど、、、(^_^;)
半泥子についてはもう改めて説明するまでもありませんが、出自が伊勢の木綿問屋の豪商であったことから、木綿糸を連想させる物を、、と愛信堂さんと相談してできたお菓子がこちら。
銘を「木綿(ゆふ)」
中は黄味餡で、陶芸の窯の火を連想させる赤に。見た目も味も美味しく印象に残るお菓子になったのではないかと思います。
(炉端でランチちう 釣り釜も自在も笹山コレクション 炉縁は私)
今回は各席MAX5名でこぢんまりと、良い感じの距離感での小寄せ茶会になりました。これくらいが亭主も客も楽しいのではないでしょうか。
席頭、笹山さんにご登場願い、半泥子に対する思いや、御茶碗を入手されたいきさつなど語っていただき、お客様も笹山ファンから半泥子ファン、半泥子がだれかしらないけどお茶が好き、という方ばかりで身内の茶会みたいで楽しかったです。
急遽お手伝い下さった方、K美術のスタッフの皆様にはたくさん助けていただきました。その感謝とともにまたまた貴重な機会をくださったことに深く感謝いたします。
京町家・無名舎吉田家住宅にて新旧乙女茶会 - 2019.01.27 Sun
京都に移住する前から、京町家は憧れでありました。鉾町あたりににかろうじて残っている表家造りの大きな商家であった町家は特に。
昨今大きな町家が一夜にして更地になってしまう、という事象をあまりにも見慣れすぎて悲しい思いです。

六角新町、北観音山の鉾町であり、屏風まつりにひときわすばらしい景色をみせてくれる吉田家住宅(京都生活工藝館無名舎・吉田家)は、まだ京都に移住する前に見学に来て、ご当主の吉田孝次郎先生にご案内いただいたのを記憶しています。
京都に移住後は、祗園祭のおっかけをやっていることもあって、祗園祭と言えば吉田孝次郎(長年山鉾連合会の会長されてました)、吉田孝次郎といえば祗園祭(後祭を復活させた立役者)なので、年に数回の吉田塾にもせっせと通い、ある野望を胸に宿らせておりました。
「この大きな風情のある町家でいつか茶会を開きたい!」
初めは形もないくらいあやふやな願望でしたが、だんだん脇を固めて、さらに昨年吉田家住宅がいずれ京都市に寄贈されることが決まったこと、管理しているNPO法人うつくしい京都さんの体制が整ったこと、などに力を得て、NPOのAさんの多大なご協力の下、ついにその願望を実現させました。
そう、今まで何回かいっしょに茶会をいろんな場所でひらいてきた新旧乙女たちとともに。
今日は乙女たちと共に準備から当日まで、楽しく幸せだった二日間を追います。
まずは前日夕刻からの荷物搬入、室礼準備です。
当主の部屋であり、家の中で一番良い部屋である一階の奥座敷は濃茶席に。こちらはまあまあ早くすみました。
今回は不参加なれど、いつも新旧乙女茶会で煎茶席を担当してくれたFちゃん手作りの注連縄もつれてきました。自分で染めた草木染めのリボン付き。
問題は二階の薄茶席でした。
こちらはMさん発案の「湯立神事」の趣向で。この笹がなかなか立ってくれず、手こずりましたが、
笹を立てる糸巻きに石で重しをのっけて+ぶらさげてなんとか安定!ちなみに使った石は吉田家坪庭の蹲居の海にある平たいマグロ(真黒)石(^_^; 石も使いよう。
ちなみにこの結界の縄は、MさんとSちゃんが夜なべして綯ったものです。すごい!
そこから紫野TT舎に移動して、Eちゃんの御指導の下、主菓子の花びら餅作り。BGMはボヘミアンラプソディーでガンガン歌いながらノリノリで作ったので、きっとQUEEN風味。
一夜明けて朝からあいにくの小雨でしたが、雨のなかでこそ庭の風情は増します。ちなみに当日の庭の写真がなくて、これは数日前の奥庭の写真ですが、花期が半年もある白侘助が楚々として美しく、散り花もまた。
町家は寒い。夏は涼しいけれど冬は下手したら外の方が暖かいくらい寒い、、を通り越して冷たい。そんな寒い通り庭で種火を起こします。この通り庭、火袋、好きな景色だなあ。そういえばこの数日前、NHKの「美の壺」で町家がテーマの回に吉田家のこの景色、でてました。(孝次郎先生もご登場)
いまでも使える現役の通り庭のだいどこ(台所)、右手には大きな水屋。
かつてここは白生地を扱う商家で丁稚さんやらおなごし(女衆)さんやら住み込みで働いていたそうです。家で一番寒いだいどこで働くおなごしさんはさぞや大変だったと思いますが、下が石畳、というのは意外と便利だとも思いました。水も少々のゴミも下へおとして気にならないし。
今回待合にした洋間の表の間と座敷をつなぐ坪庭
これぞ THE 町家!のアイテムです。憧れです。ちなみにここの蹲居の石が先ほどの重しに、、、(^_^;
まずは濃茶席にご案内
いつも吉田塾で使っている部屋がまったく別の空間になりました。これが本来の町家の姿では、と思います。紺の毛氈は吉田家什器。
お正月の室礼で及台子(うちに唯一ある棚系)にして、お点前は4席ともKさんががんばってくれ、私は半東というかしゃべり役。もっぱら吉田家と北観音山について。
実はここに炉が切ってあることをNPOのスタッフもあまりご存じなかった。開けたのは実に10年以上ぶりとか、中の灰もカチカチでなかなか火が熾ってくれなかった。でも、久々に日の目を見て、炉もよろこんでいるはず、と勝手に解釈。
この釜と炉縁も吉田家什器。良い雰囲気の釜ですが、来歴詳細は不明、弘法市か天神市で先生がゲットされたものらしい。(上記市ではよく先生のお姿を見かけます(^_^;)
(あと、ダイドコの間の舞良戸を開けたら茶道具の吉田コレクションがぎっしり!で驚きました)
数ある鉾町の中で、唯一粽や手ぬぐいなどのグッズ販売をしていないのが北観音山。本来松坂屋や、三井がいた町内、潤っていたと思われます。なのでこの北観音山粽は非売品のレアもの、2年前に入手したものです。それに梅一枝で床の間の花としました。
香合は台子の上にのせて
くらたたまえさんのお多福さん。中に穴が開いているので、椿の葉に練り香をのせて上からかぽっとかぶせてみました。
QUEEN風味の花びら餅も大好評でした。なかでもEちゃんの炊いた牛蒡が絶品、今年の花びら餅の最高峰と思います。
ちなみに濃茶席の水屋にしたのは孝次郎先生の書斎の一画。狭くて寒い場所でしたが、Eちゃん、がんばってくれました。
席と席の間だは寒くてぶるぶる震えが来るので、大火鉢のまわりにみんな集まり離れることができません。
こちらはダイドコの間(台所に隣接する小上がりで奉公人がここでご飯を食べていた)、第2水屋として活躍。
ダイドコの間にさりげなくおかれた蜜柑がちょっと生活の味をだしていて絵になっていました。
吉田家には半分内猫半分外猫が我が物顔に走り回っています。建具にも猫の爪痕が、、、(^_^;
この子もその一人で昼過ぎになると「飯くれ」顔で、よそもののわれわれにもアピールしていました。
さて、薄茶席、昨夜の湯立神事席がどうなったでしょう。
おお!結界がバージョンアップして、なにやら清々しい気にみちている!五色の毛氈は、これも孝次郎先生がだしてくださったもの。床の間の亥の拓本も同じく。(十二支そろったこれは朝鮮半島のものらしい)
かわいい棗釜に舟板、上賀茂神社の鈴
ここでお点前する乙女はいうなれば巫女ね。
ちなみに竹の三脚はわたくしの労作(YouTubeを見ながら作った、、、)
乙女初参戦のMYさん、ただ今点前のイメトレ中。
香合が篠笛に薄器が琵琶だったので、席中に雅楽が流れる雰囲気で。これらは、残念ながらインフルで出席できなかった乙女Aさんのお道具。お道具で参加してもらいました。
席をのぞくと、お客さま方、ぎゅっと結界の中に膝つき合わせてみんな楽しそう。縄綯いコンビがお点前中。
笑いがはじけたのは、多分これ。これもMさんSちゃん、Mさんのお姉さんが夜なべして作ってくれた五色の辻占干菓子。中にいれる紙は乙女たちが分担して書きました。それぞれ個性が出て面白い。
だいたいこんな感じ(*^ ∇^*c)
下で濃茶席の準備をしていたら階上からお謡いが!
「げにさまざまの舞姫の〜聲も澄むなり住之江の〜♪」
おお!「髙砂」や!
巫女役のMさんのお謡い、良い声でした。意外な才能にびっくり。
しかもその後の席も、それぞれお謡いができるお客様がいて、必ず祝言を聞くことができたのがすばらしかったです。この吉田家に響く祝言は何年ぶりかだと思いますが、古い町家が往時の姿に息を吹き返したように思いました。
久々に 祝言の声のこだまして 古き町家の息吹きかえす (拙作)
最後のお客様をお見送りした後、吉田先生を湯立神事席にお招きして、みんなで一服いただきました。新乙女たちに囲まれて(ちなみに私も先生からみたら十分新乙女!)孝次郎先生、とてもご機嫌でいらしたので、ほっとしました。
使った御茶碗をふととりあげて「お、これは○○やな」と人間国宝の作者の名前をおっしゃる。え?!そうなの?気づかんかった!さすが、物を見る目の鍛え方が違う、と実感したのであります。
そして吉田先生からのお言葉
「お滞(とどこお)りのう」
ああ、こう言うのか。祗園祭山鉾巡行で今でも北観音山の世話役として歩き通される、孝次郎先生、きっと鉾が鉾町に帰ってきた時にもきっとこうおっしゃるのであろう、とじ〜んと来たのであります。
受付においた、乙女茶会のシンボル(?)陶俑さんたち。(全日根・作)
かくして乙女茶会無事おわりました。
この才能豊かで、お茶大好きな乙女たち、楽しみました、がんばりました。そして幸せな一日でした。
お客様のお一人から、こんな古歌をおくっていただきました。
「梅の花 手折りかざして遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり」
ああ、まさにこの心境です。
旧乙女はあまり変わり映えのない生活ですが、新乙女はそれぞれこれから環境もかわり、新たな世界をめざす乙女も。みんなこれからどんどん忙しくなるし、またそうなって欲しいし、、、ということで新旧乙女チームの茶会は一応これでおしまいです。(正確に言えば、祗園大茶会の野点席が最後です)
また違う形でみなさんにお目にかかれれば、と思います。
お茶で結びついたご縁に深く感謝。
そして締めくくりが我が愛する京町家・吉田家住宅であったことに観無量です。
<謝辞>
吉田孝次郎先生、NPOのAさん、ほんとうにありがとうございました。
木村宗慎さんの初釜2019〜大徳寺総見院 - 2019.01.25 Fri

茶人にとって特別な思い入れのある大徳寺も、日常は地元っ子の遊び場でもあり、通りぬけの生活の道でもあります。
昨年茶友さんにおさそいいただいて、ご縁をたまわった、木村宗慎さんの初釜へ。場所は総見院。
木村宗慎さんのお名前は有名だと思うので、いまさら説明はしませんが、「一日一菓」という和菓子と器の本をご存じの方も多いでしょう。
最初本でお名前を見た時に、このヒト一体何者???でしたが、21才のころからお弟子さんをとっておられるというスジガネ入りの方でした。本流を極めた上で、形にこだわらないその多彩・多才なお茶の活動は流儀にこだわる方にも魅力的だと思います。
しかし、、、それにしてもまだ40才台前半?!Σ( ̄。 ̄ノ)ノビックリ!(うちら無駄に年とって立つ瀬ないわ〜)
しかもお道具がね〜、お道具数寄の方にもすっごい魅力的だと思いますよ。美術館にあってもおかしくないような道具をお稽古の時にも使わせてくださるそうで、お弟子さん方がうらやましい。けれどそれは本当に貴重な物の扱い方を学ぶために必要とのこと。納得ですが度胸がいるはなしです。
待合で松花堂昭乗と澤庵のコラボの梅の画賛に見守られて炭道具、茶入、煙草盆などいずれもビッグネームの道具がこれでもかと並びます。
香煎席では珍しいロンドンからお持ち帰りの紅茶を、やはりロンドンの骨董屋巡りでみつけてきたティーボウルで。カップでなくボウルなのは、ハンドルが付く以前の時代(18世紀末以前)のものだからで、柿右衛門様式や染付、いずれもイギリスから景徳鎮へ注文した品という貴重なもの。シルバーのティーポットセットもあわせて、ここだけロンドン♪
(なんでも木村宗慎さんのこのロンドン骨董屋巡り?のTV番組があったそうで、、見損ねたが)
主菓子は聚洸さんの紅白おだまき、中に小豆と大徳寺納豆という大徳寺+めでたい=良い仕事のお菓子でした。
濃茶席は木村先生のお点前。
花の川瀬敏郎さんと仲良し、といわれるだけあって、昨年も花と花器に感動しましたが、今年もまたすばらしい!
松竹梅、、のモチーフながら、壁の無双釘に、掘りあげてきた竹の根っこの部分の迫力ある花入れ+古梅、下に春日(大社)散米折敷(小卓)を置き、その上に込藁に挿した小松。
散米折敷の裏には「応仁元年(1467年)」の朱書きが!調べたらこれ、正木美術館にもあるやつ?顔がひきつるほどすごい物、さわらせてもらいましたわ。
濃茶点前はしゅくしゅくと。釜の蓋が大蓋なので、蓋置を手前に引きこむかと思いきや、かえって向こうへついて蓋置と釜の肩で蓋をささえるという離れ業。さすが!と心でうなりました。
釜が二代与次郎(慶長年間)で、本来大徳寺の鰐口(銅鑼)であったもので蓋をこしらえ、釜はそれにあわせて作った物とか。蓋に「龍宝山(=大徳寺の山号)」
主茶碗が(私の大好きな、そして手に入れられない)熊川(こもがい・高麗茶碗)。熊川は底に円形の「鏡」といわれる茶だまりがあるのがお約束で、これを鏡=光(今年のお題)とみたてたもの。釉薬の厚さの差が貫入ありなしの片身代わりみたいになって、とても素敵な茶碗でありました。
今回印象的だったのが反時計回りに組んだ一閑塗の炉縁。本来炉縁の四方の差し回しは時計回りなのですが、反時計回りにすると塗でも侘びているということで小間にも使えるのだとか。いつもはあまり気にもとめていなかったけれど、確かにちょっと違和感がある。人間いくつになっても勉強だなあ。
点心は瓢亭さんの三段弁当。
木村先生のお酌でお酒もいただきます。昨年飲み過ぎて燗鍋を次々に空にしてしまったことを反省し、今年は控えめにしておきました(^_^;
このとき、お話ししたお正客様、あとであっ!と思ったのですが、その道(どの道(^_^;?)で有名なぎゃるり百草のオーナーさんだったのですね。多治見の名前に反応できなかったのが残念。
薄茶席はお弟子さんのお点前に先生の半東。
お菓子は恒例だという松山銘菓「つるの子」。
お菓子をはじめ、お席は先生の郷里・宇和島伊達家への愛があふれる席でありました。
宇和島伊達家は独眼竜政宗の庶長子・秀宗から始まり、本家の奥州伊達家は嫡出の次男が継いだが、終生兄へのリスペクトを忘れなかったお話や、明治維新前後には藩主が新政府で活躍したことから侯爵に列せられたのに対し、本家は奥羽越列藩同盟のとがで伯爵止まりだったというお話しがとてもおもしろく、そのあとで宇和島伊達家の、竹に雀紋のついた見事な硯箱や文箱をみると感動も増すというもの。
主茶碗の御本・玄悦を見た時には御連客と「玄悦・茂三・弥平太(御本三作)」とハモってしまった(^_^; 御本は苦手ながら、高台のグリグリなど特徴を勉強できてよかったのであります。
かくして今年も眼福かつ勉強もできる楽しい初釜、楽しゅう御座いました。木村宗慎先生が一番楽しんでおられるご様子がなによりいいですね。
薬師寺花会式のつくり花〜つくり花を奉納される家 - 2019.01.22 Tue
ええ〜っと、これはまだ夕方の6時頃です(^_^;
人っ子一人いません。お店もたいがい閉まっています。これが奈良です。困ったところでもあり、良いところでもあるのです。
さて、今日は京終さろんという奈良にまつわる興味深い講座を聞きに、ならまちの南の端、璉城寺まで。
今回のテーマが薬師寺花会式(修二会)のつくり花を奉納されている二軒のお家の方のお話、ということで、どうしても聞きたかったのです。
花会式といえば、9年前には花会式法楽を見に行って、はじめて薬師如来を荘厳するおびただしい色鮮やかなつくり花を見て圧倒されたのでした。
東大寺の修二会(お水取り)は十一面観音悔過ですが、薬師寺は当然ながら薬師如来悔過、3月末に7日間行われ、結願の日には鬼追い式もあります。4年前、夕刻寒いお堂に1時間缶詰になって(法要の間出入り禁止)法要を見て、鬼追い式も見て、結願うどん(参籠者にふるまいがあります)食べて、松明の燃えさしをもらって帰ったのも思い出深いです。(花会式結願〜鬼追い式)
その本堂を飾るつくり花は10種、合計約1700本!その荘厳の様子は薬師寺HPで見てください。
これだけの花をたった二軒が作っておられる、ということにびっくりしませんか?私は衝撃をうけました。
まずは薬師寺の若いお坊さんから花会式の説明を聞きます。修二会は奈良時代から行われていたけれど、今の形に(花で荘厳する)なったのは1107年、堀川天皇の御代だったそうです。
いよいよ、実際に花をつくられている橋本家、増田家のお二人にお話しを聞きます。
(これは菊になる材料)
正暦寺(このまえ行った山辺の道に近い)近くにお住まいになる橋本家は当代で4代目、かつてはお寺の住職だった家柄、大正時代に帰俗して現在は兼業農家。ご家族が10人と、恵まれているので1月〜3月の農閑期に短期集中で花つくりをされるそうです。
ご担当は梅、山吹、椿、牡丹、菊、藤で合計996本
(菊の花の作る過程)
もう一軒の増田家は寺侍とか神主であった御家柄で、現在お母さんとまだお若いお嬢さんのおふたりで作られているそうで、人手が少ないため、1年を通して作業をされているとか。こちらも兼業農家で、お家は薬師寺のほん足元、お花を納めるのも徒歩圏内。できたたくさんのお花を持って薬師寺まで歩いて聞く景色がまた風情があるとか。
ご担当は桜、桃、杜若、百合の720本。
ここからは、それぞれお花を実際につくるところを拝見。
これは桃の花びらを型で抜いたあとの和紙。
橋本家では和紙を染めるところからされており、増田家では近年、お水取りの糊こぼしの紙を奉納していることで有名な京都の染司よしおかさんに染めは依頼されているとか。
材料の和紙一つ取っても、花の種類によって、美濃和紙、因州和紙、杉原紙、仙花紙、、、など変えているそうです。
接着剤も両家独特で、これは橋本家のご飯粒をつぶした糊(続飯・そくいい)。ふつうのご飯なのにすごい粘り気で今更ながら驚きました。しかも市販の糊にくらべるとすぐに固く接着する即効性があるのですね。
対して増田家では餅米の粉を水で溶かして、用途に応じて固くも柔らかくも作れるのだそうです。
これは増田家のお母さんが、一つ一つの花弁を手のひらで、いため棒という道具を使って、桃の花びらに丸みをつけているところ。桃だけで300それ掛ける5で、、、気の遠くなるような作業です。
花の茎には真竹を使うそうですが、荘厳したときに花が下を向かないように彎曲をつけられるような竹がなかなか入手しにくいとか。撓めているときにポキッといくとそれまでの作業がぱ〜になってしまうのです。
完成して奉納する直前の増田家の座敷、美しいわ〜。スライドで、搬出ときの両家の様子なども見ることができ、貴重な様子を拝見できました。橋本家のおじいちゃんが、搬出前に受け取りに来たお坊様と一緒に必ず手を合わせて送り出される様子が、ステキでした。このお役目に誇りと使命感を持ってはるんやな、と。どんなにたいへんな作業だとしても。
それから数種類のつくり花を実際に手に取ってみせてもらいました。
牡丹(赤)、他にピンク、霜降りもあり。
どうです?この花びらの襞。これも一つ一つ手でつけるのです。
百合(赤)他に白、ピンク、樺茶
花びらの土台となる部分の接着が漆なので、かぶれてたいへんだったこともあるそう。
めしべはタラの芯(タラノキ?)、おしべはおくどさんの煤で黒くしてあるとか。
紅梅白梅に紅桃白桃
白桃
このおしべ!
鹿のお尻の毛を束ねた先に黄蘗(キハダ・漢方の陀羅尼助の原料)の粉をつけたもの。
なんて繊細な!
こちらはつくり花用の道具の数々です。
これらのつくり花が、春の奈良、御堂を荘厳するさまを拝見するとき、これからはかならず両家のご家族のことを思い出すに違いありません。
春が待ち遠しい、、、。
薬師寺花会式(修二会):3月23日花さし〜24日〜31日お花が見られます。

レジュメの最後にどこにどの花が飾られるか、実際に花会式にきて書き込んでね、というページが。
今年の花会式はもう、じっくり花を見ないことにはおさまりませんね。行きますよ!
Afternoon tea〜Four-Seasons京都 - 2019.01.21 Mon
ブログ友だちの高兄さんにおさそいいただいて、フォーシーズンズ京都ホテルのカフェのアフタヌーンティーに行ってきました。

エントランスはちょっと根津美術館を思い出させる。
ここ、宿泊費はえらい高いけれど、レストランやカフェは比較的リーズナブル。とはいえ、アフタヌーンティーはそれなりのお値段(^_^;
まずはウェルカムドリンクの苺のムースみたいなので乾杯!
この季節は苺がメインのようですよ。
まずは前菜、スイーツ三昧の前にちょっとお腹を満たす感じで。
左からミニバーガー、安納芋のキッシュ、ズワイガニと根セロリのロワイヤル(卵豆腐みたいなもの)、サーモンマリネとブリアサヴァラン(生タイプチーズ)
いずれも一口でペロリといけて美味しい。
(しかし、フレンチ用語のむつかしさよ、、、)
さて!
いよいよスイーツのお出まし!
この時のために血糖値を下げて、お腹もすかせてきたのだ。
おお〜っ!!
なんとインスタ映えな!
さおりさんもさくらさんも、さっと取り出すカメラがまたでかくて良いカメラ、さすがのブロガー魂。しばし撮影タイムが続きます。
ちなみにこれは二人分です。
右、3時方向から時計回りに
アールグレイとミルクチョコレートのキューブ(これがヤバイくらいに甘かった)
ストロベリーロリポップチョコ
チョコレートカヌレ
ホワイトチョコレートと苺ブラマンジェ
あまおう苺マカロン(これ2番目にヤバかった)
これに飲み放題の紅茶かコーヒー、紅茶の種類もたくさん選べます。そこらへんはさすが、フォーシーズンズ。スタッフのマナーもきっちりしています。
3個くらいは軽く口にはいってしまいましたが、そこからが、けっこうヘビー。
血糖値もかなり上昇していたはず。
一番好きだったのはこのロリポップチョコ
しかし(年がら年中)ダイエット中なのに、こんなチョコレート三昧って美味しいけど罪深いわ〜。
クロッテッドクリームとジャムがついたスコーンもついてます。
甘さは、砂糖は、健康の敵ではありますが、ヒトの心を幸せにするものでもあります。
しかし若干摂取しすぎた。あと20年若ければこれくらいどってことなかっただろうなあ。
写真撮って、食べて、しゃべって、高兄さん、さくらさん、さおりさん、楽しいひとときをありがとうございました。
もっと京都のフォトジェニックな場所やお店の情報を交換できたらよかったのですが、用事のため中座し、失礼いたしました。
またお目にかかりましょう!
山辺の道三社巡り・その3 石上神宮 - 2019.01.19 Sat
三輪山をあとにして北上、山辺の道三社巡り最後は石上神宮、あたりは古墳がなにげにいっぱいある古代史の中心地点のひとつである。

古代豪族で鉄器・兵器の製造を得意とした軍事豪族、後に蘇我氏にほろぼされ没落した物部氏の総氏神の石上神宮。
こちらも初詣の時期が終わり、人の姿は少なく、鎮守の森はうっそうとして静かである。
石上坐布都御魂神社(いそのかみいますふつのみたまじんじゃ)とも。
さて、布都(ふつ)、、、布都、、、どこかで聞いたような、、、
あ!あれだ!
(「日出づる処の天子」 山岸涼子先生)
このひと、布都姫。
物語中では蘇我蝦夷の思い人にして厩戸皇子の最大の恋敵(厩戸皇子は蝦夷loveなの)。美人でいい人なのになぜか漫画のファンからは嫌われキャラという損なひとなのだが、この方、物部の姫で自分の一族をほろぼした蘇我氏への憎しみと蝦夷への恋情の板挟みで苦しむ設定なのだ。読み返したら「石上斎宮」になってたので、おお〜!と思ったよ。
手にしているのがこの国宝・七支刀。
最近の研究では、刀身に書かれた文字から西暦369年に製作されたことがわかったという。神功皇后に百済から贈られた「七枝刀(ななつさやのたち)」ではないかともいわれ、これも古代史ロマンを大いにかきたてるのである。
漫画とか小説とかで知った事が、実際の地でふにおちたりするのはとても楽しいことではないか。
しかし!
ここで一番楽しかったのはこいつらであります!
境内を縦横無尽に飛び(?)駆け回るニワトリ!
烏骨鶏らしき種類の子もいて、境内はコケーコッコッコ、コケーコッコッコとかしましい。
アマテラスの天岩戸かくれの際、暁の時を告げてアマテラスに「え?朝?」と思わせて岩戸をあけさせた功績もあるニワトリは神の使いでもあるのだ。この子たちを見てると時間を忘れて楽しい。
狸やイタチ、野良猫にねらわれるので、ある程度は鶏小屋に追い立てて保護しているそうだが、中には頑として鶏小屋拒否!の子もいて、ちょっと心配になる。
手水社には下に杉の葉が敷かれて清浄な気持ちになる。ここまでしている神社はあまりないだろう。
重要文化財の楼門は後醍醐天皇の時代(14世紀)の建立。
楼門の奥に見えるのが拝殿、鎌倉初期の建築
この拝殿の奥に本殿があるのだが、この神宮はもともと本殿はなく、拝殿の奥の土地を禁足地として祀っていたという。その禁足地にはご神体の布都御魂剣が埋まっているという言い伝えであったが、明治になって発掘調査がおこなわれ、実際に剣が発掘され(!)是を祀るための本殿を大正時代に作った、、という。
しかし、、、禁足地を掘り返すとは、ばちあたりな、科学の時代ってこわいね。
境内ではどんど焼の準備がされていたが、古い神棚みたいな物が多いのにはびっくり。みんな神棚毎年新しくするんだろうか?(うちには神棚も仏壇もないので、、、(^_^;)
久々におとずれた山辺の道周辺の各神社、もう道を歩き通す体力はないが、またの機会に他の神社も訪ね歩きたいものである。大好きな飛鳥も近いし。
山辺の道三社巡り・その2 大神神社(おおみわ) - 2019.01.18 Fri
談山神社を北上して大神神社(おおみわじんじゃ)へ。

国道沿いになんとまあ、平安神宮の鳥居もびっくりの大鳥居。
若い頃、山辺の道を歩いたときにその道沿いに寄ったので、この参道を知らず、深山幽谷のおもむきの神社という印象だったが、意外と町中なのにちょっとびっくり。
ご神体が三輪山であるところの大神神社
「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠さふべしや」 の、額田王の歌や、謡曲「三輪」の神婚潭など、古典文学的にはかくも有名、名前を聞くとロマンがわいてくるのだ。
記紀に言う、オオナムチ(後のオオクニヌシ)が、スクナヒコナが去ったあと、海からきた幸魂・奇魂(サキミタマ・クシミタマ)を受け入れて国作りを完成させたのだが、その国をあっさり天孫に譲って(出雲族と天孫族の争いが実際あったと思われる)その二つの魂とともに鎮まったのがこの三輪山であった、、、ということは、昨年6月出雲大社へ行ったときに学習した。
境内にそそりたつオオナムチの化身といわれる白蛇が住むと言われる巳の神杉
謡曲「三輪」では、毎夜おとなってくる男が朝には帰ってしまうので、不審に思った女が男の裾に糸を縫い付けて苧環(おだまき)を繰りながらこっそりあとを追ったところ、神垣の杉の下でとまったと。この時苧環にのこった糸が三巻きであったところから、三輪の名前がついたという。
男は実はオオモノヌシ(=オオナムチ=オオクニヌシ)であったとわかり、男は恥じてそのまま通ってこなくなった、、、というお話し。
結ぶや早玉のおのが力にささがに(=蜘蛛)の糸繰り返し行くほどに この山もとの神垣や
杉の下枝に止まりたり、、、、
やったよ〜この仕舞。
(神域との結界である、重要文化財の三ツ鳥居、お正月期間は拝見できず心残り)
ここからくすり道を通って摂社の狭井神社へお参り
その参道の途中にスクナヒコナ(オオナムチと一緒に国作りをしたがケンカ?して途中で常世国に帰っちゃった神様、医薬の神様でもあり、酒作りの神様でもある)を祀った磐座神社がある。ご神体は磐である。
狭井神社は三輪神の荒魂を祀る神社で、三輪山の登山口があり、かつ御神水が湧き万病を治すといわれたので、参道が「くすり道」というのだな。
(ちなみに古代神には荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四つの魂があったといわれる)
鳥居をくぐると鎮女池とその中にたつ市杵島姫神社(イチキシマヒメ)
この池には鯉がうじゃうじゃ
イチキシマヒメは水の女神でもあり、本地垂迹だと弁財天になるらしい。やはり水は豊かな地なのだな。
おお〜、、、
こちらの方が本社より深山幽谷のおもむきで好み。
本社の巳の神杉にもこちらにもなんで卵をお供えするんかな〜と思っていたが、卵=蛇の好物、ということらしい。
お酒はね、三輪の御祭神はお酒の神様でもあるから納得。味酒は三輪の枕言葉になっているくらい。
ちなみに酒屋の軒下に下げられる杉玉のルーツは三輪の神杉の杉葉なのだ。
味酒(うまさけ) 三輪の山 青丹よし奈良の山の 山のまにい隠るまで、、、、(額田王)
狭井神社の裏で、御神水をいただける。
消毒ケースに入ったコップ。
う〜ん、時代やなあ。
あまり味はしないけど、ありがたや、ありがたや。
三輪山の登山口。
三輪山はご神体そのものなので、かつては禁足地だったため、登山には受付、登拝之証の襷を身につけ、下山届なども必要とか。かなりの山らしいのでご遠慮した。
狭井神社をでたところから展望台へ。
ここから大和三山が一望できるのはうれしかったなあ。(右から耳成、畝傍、ちょっと離れて天香久山)さらに遠景に葛城山、二上山、生駒山、なども。雲間から光りがさして神々しい。しばし飛鳥時代の歴史ロマンの妄想にふける。
ふりかえればご神体そのものの三輪山
、、心あらなも隠さふべしや、、、、
さてさて、酒飲みとしてはその三輪の味酒を持ち帰らねば!
一度飲んですごく美味しかった、と記憶する「三諸杉」、大神神社の近くで360年近い歴史をもつ今西酒造さんのお酒。ちなみに三諸(みむろ)は三輪山の古来からの呼び名。
こちらでは利き酒体験や聖地巡杯ツアーを主催されていて、とても興味があるのだが、一人では参加できないのがつらいところ。
で、いろいろとりそろえて持ち帰った三諸杉であります(^_^;うしし
さて、次に行こう!
山辺の道三社巡り・その1 談山神社 - 2019.01.17 Thu
初詣の喧噪もすぎたころ、山辺の道(桜井〜天理)沿いの三社を訪ねた。桜も紅葉もないけど、人混みもないのが真冬の旅の特典やね。
談山神社は正確には山辺の道沿いとはいえないが、飛鳥時代の重要なモニュメントであるからして。
なにしろこんな山の中(多武峰)なので、、、、しかもこの時期、駐車場に車止まってません(^_^;
参道にならぶ灯籠。後醍醐天皇が寄進したというものもあり。
神社の前には観光ホテルがあるのだが、こんなシーズンオフに泊まる客はいるのだろうかと心配してしまう。

ここはもともと明治になるまで多武峰妙楽寺というお寺だったが、廃仏毀釈以降、神社部分(神仏混淆だからね)だけが残って談山神社になったという。
談山=談い山(かたらいやま)の名が示すとおり、ここは大化の改新前に中大兄皇子と中臣の鎌足が談合したという場所。後に鎌足没後、長男の定慧和尚が父の墓所をここに移し十三重塔を建てたのを起源とする。(ちなみに有名な不比等は次男)
なにしろ重要文化財の建築物が16もあるというからすごい。
これはその一つ、末社惣社本殿。17世紀の再建だそうだが、建物の造りがやはりクラシックだ。
蹴鞠の庭。
鎌足が中大兄皇子と面識を得たのが蹴鞠会というのは有名な話で、蹴鞠で飛ばした皇子の沓を鎌足が拾ってさしだしたとかなんとか。しかし実際に蹴鞠会があったのは近くの飛鳥寺であった。
この庭ではいまでも蹴鞠祭りなど行われているらしい。
そして右手奥に見えるのが、、、
談山神社のシンボル、十三重塔。
建立は701年だが、後に焼き討ちにあったりして再建、現存の物は1532年再建の物、それでも室町時代だから十分古い。
飛鳥の匂いの意匠、じ〜んとするわ。
これも重要文化財の楼門、本殿への入り口。
この灯籠が春日灯籠を思い出させる。
思えば春日大社は藤原家の氏神、その藤原姓を賜ったゆかりの地だからね、ここは。
これまた重文の、拝殿からの眺めもなかなかいい。桜や紅葉の季節はたしかに美しいだろうな、と思わせる。
ここから拝む鎌足公を祀る本殿、もちろん重要文化財。
三間社(柱と柱の間が三間)隅木入春日造り、、、、ってそれを示す屋根の写真がなかった、、ゴメン。柵の上の彫り物が美しい。日光東照宮のお手本になった、らしい。
拝殿の中には江戸時代に描かれた多武峰延喜の絵巻物などの展示。(よく教科書にある時代考証を無視した入鹿の首がとんでいるやつ)
こちらは神廟拝所(重文)、ここには鎌足公ご神像がお祀りされている。(御簾の中)
秘仏の如意輪観音は当然ながら厨子のなかでお目にかかれず。(6〜7月のみ公開)
そして、もうひとつ忘れてはならないのが、ここが大和猿楽発祥の地であること。(これまた、大切な権殿の写真がない、、、)
そういえば、昨年MIHO museumの「猿楽と面」展にいったときも、談山神社ゆかりの能面がたくさんあった。「延年の舞」は平安時代、帰属者会で長寿を願う余興であったのが室町にいたって流行したもので、猿楽のもとになったものだ、とその時学習した。
後日、古美術の雑誌「目の眼」で、談山神社の拝殿で見た無垢人(人形)と嘉吉祭の写真が展示が掲載されているのを発見!もっとよく見ておくべきであった。
タライ・ラマ師の「日本食」茶事 - 2019.01.14 Mon
昨年中はイタリアン茶事、たこ焼き茶事となんどこちらに通ったことでしょう。

訪れるたびにグレードアップする腰掛け待合い。
今年も新年早々お招きにあずかり恐悦至極でございます。
タライ・ラマ師こと二つ名を持つお寺のご住職、その意味は拙ブログをお読みの方ならもうご存じかと。(☆)
このたび、イタリアン、たこ焼きに加えてあらたな試み、「日本食」懐石をお出し下さるとのこと、そも、日本食とは如何?
いわゆる日本食(ラーメンとかカレーとかふくむ)と違って、こちらでの概念は、砂糖をあまり使わず素材の味を大切にする料理、自然食に近い?とお聞きしました。さてさて、、、
まずは藪内流の炭手前。
私の茶友さんの藪内率の高さは異様なので、なんだかすっかりお馴染みになっているこの霰灰と隅のハマグリ(四隅につける山みたいな)、パイナップルスライスみたいなかわいい輪炭。種炭と胴炭の間を埋めていくように炭をつぐのも独特。(ちなみに藪内の歴代宗匠のお名前も漢字で書けるぞ!裏千家の宗匠はうろ覚えなのに、、、(^_^;)
さて、いよいよ日本食懐石のはじまり。
ご飯が小豆入りの玄米、シャリシャリ感と噛めば噛むほど甘い。
汁は味噌でなく、塩麹を使ったもので、やさしい味でした。汁替えのときに浮き実が菜から絹さやにかわっていたのも芸がこまかい。
何回でも使える(^_^;マグネット式の樽もふたたび登場、お正客様による見事な?鏡開き。
お正客様の向付が垂涎の古染でありましたが、富士山の形という珍しい物。
私の向付が高取で釜が茄子釜、、、とくれば、「一富士二鷹三茄子!」おお!
ちなみに四が扇(末広)、五が煙草(煙は上昇する)、六が座頭(毛がない=怪我ない)なんだとか。
替え茶器になりそうなこれは細川家が作らせたという小代焼だったかな。中に入っているのはフグの白子o(^▽^)o お酒がすすんでこまります。これまた垂涎の鶏龍山の酒器(とっくり)は一体どれだけはいるのだろう、かなりたっぷり入っていましたが、酒飲み組できっちり空にしておきました。
ちなみに待合の掛け物が良寛さんの実弟・山本由之、本席のお軸が良寛さんの消息だったので、お二人の郷里・越後のお酒をご準備くださったよし、さすが米所のお酒は美味しいです。
日本一ピースサインが似合うご住職との異名もございます。おちゃめなタライ・ラマ師。
山芋を牛肉で巻いた物や、このミニ寿司や、、、
最高においしかったのがこのスッポンの煮物椀。
濃厚で、それでいてやさしく体もすっかり温まりました。
本日の懐石のご担当は板宿のたかはらさんということです。
自然食、というと粗食っぽいイメージだけれど、今回の食事は体を気づかいながらも食材や味わいは豊かでたいそう美味しかった、日本食というのがおぼろげながらイメージできるような、まだわからないような。
ということで、毎度イタリアンの時に心配しているブイヤベースの塩笥(絵唐津)は出てきませんでした(^_^;(油が貴重な古唐津にしみこまないかとみんな気をもんでいるの)
出光美術館にありそうな古唐津の大きな陶片の菓子皿で、花びら餅。
お正月に花びら餅を何回もいただけることはありがたいことです。本来裏千家限定ですが、本日のお客様はお正客様以外みな裏千家なので、うれしいです。
中立のあとのお鳴り物がこれ。お寺さんならでは。
もうすっかり(お酒で)できあがってしまって、以下の記憶は若干あいまいでございます、とお断り。
花は仏手柑。親交のある唐津の陶工さんが届けてくださったものだそうです。
古唐津のコレクションが嵩じて、あげくに唐津とのえにしを深く結ばれた和尚様なればこそ。
和尚様はここ数年、唐津やきもん祭で釜を掛けられており、昨年は参席がかないました。素晴らしかった!
花入はスマトラのバタク暦だったか?竹の筒にびっしり暦が書かれているめずらしいもの。
濃茶はどっしりした西本願寺伝来の真呉器でちょうだいしました。
茶杓が普通のものより長く、節無し、しゅっとした拭き漆?で、印象的。これは利休スタイルが定着する前の、竹の茶杓の揺籃期に作られたものだそうで、筒に「はねふち」。紹鷗の茶杓師・羽淵宗印のとだったでしょうか。
薄茶の干菓子が出てきたときにはもう、皆様歓声です。
これは唐津やきもん祭りの時にも使われ、私も買って帰ったところの唐津陶片煎餅!(中里太郎右衛門さん監修で作られた煎餅、味もしっかり美味しい)
さらに和尚様のお蔵の深いところではありますが、お客さまが選んだ陶片と同じ紋様の御茶碗をそれぞれに出して下さるという芸の細かさ。
そっくりの紋様のものもあれば、私が選んだ沢瀉のように(唐津で買ったお皿が沢瀉文だった。わりと絵唐津ではポピュラーな柄)、茶碗にお茶をいれると沢瀉が浮かび上がってくるものまで。
お茶を飲み干し、しばらくすると乾いて沢瀉が消えていくのです。
これは、唐津の土が砂岩であるという証明で、以前和尚様の古唐津の勉強会で拝見し、強く印象に残った物であります。また相まみえることができて非常にうれしい。
お点前を最近お茶を習い始めたご子息にまかせて、しばしお茶道具談義、火入れか何かの話で染付の話題になり、以前から区別がつかない染付と呉須(呉須青絵、もしくは呉州・福建省あたりの民窯で明末に焼かれたもの)の違いを尋ねたならば、、、、
なんと現物がでてきたではありませんか!
説明だけではわからないものも、百聞は一見にしかずとはこのこと。色も高台もずいぶん違うのね。たまたまお尋ねしただけなのに、それがさっと出てくるこの感激。
日本からの注文ではない古染が伊万里とどう違うのかのご説明も受け、ありがたいことであります。
さて、このように美術館クラスの茶道具を拝見できるのが通ってしまう理由の一つでありますが、そういうのをおしげも無く使って下さるという、太っ腹で、おちゃめな和尚様のお人柄がなにより魅力的であるから、というのは言うまでもありません。
本年もまた何度でもお招き下さいマセ〜!ありがとうございました。
十日ゑびす〜京都ゑびす神社 2019 - 2019.01.12 Sat
京都にも宮川町近くにえべっさんがいてはる。京都ゑびす神社である。
やっぱり正月の10日前後には十日ゑびすがあって大勢の参拝客でにぎわうのである。

今年は仕事がえりに宵のころお参りした。
えべっさんといえば、大阪の今宮ゑびすや西宮のが有名やけど、京都のはやっぱりなんとなく上品やねえ。(あ、大阪、西宮が下品といってるわけでは、、、(^_^;)
この参道は建仁寺西門があるし、畳屋や桶屋や草履屋など京都伝統産業のお店がたちならぶあたり、畳屋さんも参道に店開きしていて、いつもと違う雰囲気が楽しい。
忘れちゃならないのが、いつも京都一美味しい(個人の感想です)亥の子餅の鍵甚さんが、ゑびす焼の屋台を店先にださはること。売り切れ御免のこともあるの。
この日はけっこうな行列、1回に15個しか焼けないし、10個以上買っていく人もいて、なかなか順番がまわってこないので、じっくりその作業を拝見した。手でくるっとまるめるとゑびすさんの形になるのがマジック。となりではえべっさんのお顔の焼き印を押してはるとこ。
待ってる人は多いし、焼き印は直ぐ冷えるので温め直さないといけないので、時間がかかるから、「焼き印いる?」と聞かれた。まあ、そりゃ、味はいっしょだが、縁起もんやし、焼き印なかったらただの変形どら焼きですやん。というので、待って押してもらった。
外側カリッと、中もちもち、和菓子屋さんのあんこは上品でおいしく、一口サイズなのもいいわね。
普段はほとんど人の姿をみかけないゑびす神社、ぎょうさんの人でにぎわっている。
大阪のえべっさんは3日しかないが、京都はその前後に招福祭、撤福祭がつくので、つごう5日もあるのがありがたい。
縁起物の飾りをつけてもらう傘型のものは夜に見るとますます真っ赤の洪水でめでたい。
えべっさんは今では商売繁盛の神様だが、京都のえべっさんはもともと建仁寺建立の際、その鎮護のために最初に建てられた(13世紀)社ときく。歴史は古い。御祭神が事代主命、オオクニヌシ、スクナヒコと出雲系なのはなぜなのだろう??
社務所で笹をもらう。時間によってはこれが巫女さんじゃなくて、京都らしく舞妓ちゃんだったり太秦映画村の東映の女優さんだったりする。
ずらりとならんだ縁起物のお飾りをあれこれ好きなだけつけてもらって、商売繁盛のお守りにする。
えべっさんはお耳が遠いので、お参りしましたよ、の合図に西側にある板をトントンとたたくのがお約束。これはお参りする前にすべきか、あとにすべきか、悩むところ。
混雑するので本殿の鈴の綱はこの間だけ撤去、恒例の大マグロも奉納されていた。
ご祈祷の申し込みがひっきりなしにあるようで、参拝の間もお神楽が絶え間なく流れて、にぎにぎしい雰囲気を盛り上げていた。
熊手もあるようだが、笹派が圧倒的に多い。
お参りが済んで境内を通りぬけると、宮川町のランチスポット、京都検定受検者のたまり場(?)町家カフェろじうさぎさんがある。さすがにこの時間は閉まっていたけどね。
「柳宗悦と京都〜民藝のルーツを訪ねる」 - 2019.01.10 Thu
世の中にはこんな偶然もあるのかと、思った。たまたまある宴会でおとなりにすわった方と、やけに話があうので驚いたが、なかでも柳宗悦とか民藝とか、李朝陶磁の浅川兄弟とか、、、ちょっと私的にド・ストライクなんですけど、、、、の話に発展したのである。そして後日送っていただいたのがでたばかりのこの本であった。

柳をはじめて知ったのは10年くらい前、大阪日本民藝館での「茶と美」展であった。それから主に柳と茶道に関する本、表題の「茶と美」をはじめ読みあさり、民藝を知り、ひいては李朝陶磁の美しさへ柳を開眼させた浅川兄弟を知り、(浅川巧さんの墓参りに遠くソウルまで行ったという、、、(^_^;)それが現在の李朝好き、高麗茶碗好きにつながっているのだから、私もかなり彼の影響を受けていると言っていい。
私はどちらかというと、民藝そのものより、柳と茶の湯の関わり方に一番興味がある。彼は茶の湯そのものには惹かれこそすれ否定しているわけではなく、当時の(現在も、だが)茶道のあり方についてはかなり強く批判してしている。それによって茶人のあいだでも賛否両論ある人なんだが。
民藝というと、東京での活動のイメージが強いのだが、柳は関東大震災のあと、大正13年から昭和8年までの約9年間、京都に住んでいたことは意外と知られていない。この時築いた人脈がのちに「民藝」として結実するもとになった、という柳・民藝と京都との関わりに特にスポットをあてた本である。
私も、柳が住んでいた吉田にある家(わりとご近所)が売りにだされた、というニュースが数年前、京都新聞に載って、え?柳って京都に住んでたの?と驚いたくらいの認識であった。
第一章は日本民芸館学芸部長・杉山享司氏による柳のバイオグラフィー的な章。
濱田庄司を介して河井寛次郎との出会い、黒田辰秋らと作った上賀茂民藝協団、最初で最後の「日本民藝品展覧会」、雑誌「工藝」の刊行など、すべて京都時代のことだったとは驚きである。
第二章は同志社大学文学部講師・土田眞紀氏による柳と同志社との関わりや、当時生まれたばかりの民藝を惜しみなく支援した京都人脈について。特に印象的なのが当時の毎日新聞京都支局長の岩井武俊の存在。自らも考古学者であり、学界、宗教界、政財界、広い分野で尊敬され影響力をもった人であるが、彼の初期民藝へのつよいプッシュなくして、民藝はここまで育たなかったのではないかと思う。
第三章は河井寛次郎の孫にして寛次郎記念館学芸員の鷺 珠江氏による柳と寛次郎の出会いと家族ぐるみの付き合いの思い出など。最初はお互いに反目していた二人だが、はじめて寛次郎が柳の家を訪ねた時、柳邸にあった木喰仏を前にして言葉も出せぬくらい感動し、以後意気投合して生涯分かちがたい民藝の同志となったエピソードは有名である。5年ほど前、鷺さんを囲んで寛次郎記念館で寛次郎の茶碗でお茶を楽しむという会があったのを思い出す。
第四章は私もときどきのぞきに行くしかまファインアーツのオーナーであり、京都民藝協会理事の四釜尚人氏による「京都民藝散歩」。柳ゆかりの京都の店や土地を写真付きで。実はこの章が一番面白かった。十二段屋とか進々堂京大北門前店とか鍵善とか、有名なところもあるが、え?ここも民藝ゆかり?柳ゆかり?とびっくりする場所もあって、興味深い。ご近所の和菓子屋・平安殿の扁額が富本憲吉だったとは。また、若者に人気のカフェアンデパンダンのある1928ビルが岩井武俊活躍したところの毎日新聞社京都支局の建物であったとは、これも彼を知った後に聞くと味わい深いなあ。
(柳宗悦展にて 点茶心指 読めば読むほど、特に下の段、ドキッとする)
かくの如く人脈的に京都は柳にとって貴重な場所であったことはマチガイないが、歴史と景観のつまった京都という町は彼にとって、どうだっただろう。この人脈があれば別に京都でなくても他の都市でもよかったのではないかと思わせるそっけなさである。彼自身も「京都は美しい都市だ。場所としては日本中他に比べる所はないと思ふ。併し過去の町であるだけに、物足りない所も多い。」と書いている。結局合わなかったのではないかと思わせる。だから9年ちょっとで見切りをつけて東京へ戻っていったのかも。そこらへんがちょっと残念でもあり納得できるところでもある。
(この本をお送り下さった方と出会えたことに感謝)
淡く、長いおつきあいの、、、F太朗さんの茶事 - 2019.01.07 Mon
招いてくれたご亭主は、「淡く、長いおつきあいの方々を、、、」と記した。

待合の井戸もある土間で、お手製の注連縄+餅花が迎えてくれる。
亭主のF太朗さんが陶々舎を出て、静かな上賀茂の、古い農民家を補修しながら住むようになってから早2年近い。
農家の造りで、昭和のにおいが色濃いお宅は、雨漏りとか、壁のシミとか、いろいろ補修がたいへんだったと聞くが、また寂びた良い感じの土壁になったな。朝の光をやわらかく反射して美しい。
はじめて入る茶室の床の間や脇床、仏間だったらしいスペースは、不思議なオブジェとともに、いずれもF太朗ワールドになっていた。
いつか茶事によんでねと、しつこくお願いしていたが、それもきっと忘れ去られたであろうな〜と半ば諦めていたころ、、、、前日連絡の新年早々のおさそいとなったのは、さらに強く強くプッシュした乙女のAちゃんのお力のたまもの、同じく乙女のMちゃんとお相伴にあずかる。
ずっと以前から、シンプルな美しさを茶の道に追求してきた(私的解釈)亭主であるから、茶事といってもいきなり八寸ではじまる、、、、で、お酒、八寸、お酒、お酒、八寸、、、わ〜い、なにこれ、楽しい〜♪
これは牡蠣を醤油で軽く火をとおしたもの、酒がすすんでしまうではないか。
お酒好きの三人の乙女の懐にいきなりはいりますな。
お酒は種類も変えて、冷酒、熱燗。
皿はなく、それぞれの懐紙に手渡しで肴をとりわけるシンプルな懐石。客の所望に懐から杯をだし、さしつさされつ。
じっくり向き合い主客のまじわりに一番重きをおく茶事なのだ。これはいつも真似できないなと思う。
F太朗さんにはじめて興味をもったのは、私がまだ京都に移住する前後だから、かれこれ10年近く前にもなろうか。
鴨ん会と称して、鴨川べりでゲリラ的にお茶をする(鴨茶の元祖は実はF太朗さんなのだ)若者、という認識、お茶のイベントでお姿を何度か見たあと、やっと互いに挨拶をかわしたのは下鴨のK美術の片庇の茶席だった。
それから直ぐに、彼はお茶を愛する三人でシェアする陶々舎に住み始め、そこから茶人としての快進撃がはじまる。豊かな人脈にめぐまれ、たくさんの良き友人にめぐまれ、それもひとえに彼のお茶の魅力と人柄によるものであろうが、今ではお茶の世界ですっかり有名になった感がある。うれしいけれど、ちょっとさびしい、というのが本音。
決して俺が俺が、というタイプではなく、どちらかと言えば素朴で朴訥な感じさえするのは、昔と変わらない。今でも鴨ん会として、花を飾り、茶をひっそりと点てていたころの姿が忘れられない。
F太朗さんのふるさと(関東)風のお雑煮(焼餅、おすまし)で締めて中立。
ああ〜、すっかりできあがっちゃった。
中立の部屋では、F太朗さんが自作した白茶(微発酵中国茶)をのみながら、最近はまっているという碁石を置く、、、ただ置いて、回収するというお遊びをいっしょに。
意味もなく、白黒の碁石やネコヤナギの花芽、茶の実を並べるだけなのだが、それぞれの個性がでるのは如何?なんだか面白い模様がテーブルの上に現れ、、、そして回収、消えていく、それだけなんだが、ちょっと真剣になってしまうのは何故?自分との対話をさせられているような感じ。
これを茶事に持ってくるか、さすがF太朗。
中立の終わりにでてきた、干し柿+とけたバターのお手製菓子が、異常に美味しくて悶絶する。これはなんだ?!これはずるすぎるぞ。普通の菓子がだせなくなるじゃないか。
濃茶は4人共通の知人でもあるAS君の最新作の黒楽茶碗で。
あいかわらず背筋ぴしっと姿勢良く、点前も端整である。
薄茶のお菓子は北陸の砂糖菓子「辻占」、中に占いの小さな紙がはいっている。
(私的解釈)「くよくよせずに(仕事も)辛抱すれば、金がたまって想いのまま(茶道具が買える)になる」
ヤッタ!
思えばAちゃんもMちゃんも陶々舎始まって以来のけっこう長いお付き合いになる。しょっちゅう会うこともあれば、たまにしか会わないときもある若い茶友である。
席中、三人でなにを話したのか、酔っ払って思い出せない。おそらくたわいもないことで盛り上がったとおもわれ、それが幸せな時間というものではないだろうかと強く思う。
F太朗さんとも、いっしょに主催した大覚寺舟遊び茶会の思い出など忘れられないが、ガチで付き合うというわけではなく、つかず離れず、のおつきあい、まさに「淡交」、「淡くて、長い」おつきあいである。そういうつきあいであると、認識してもらったこともまた、うれしいことなのである。
天台声明を聞きに〜大原・勝林院修正会 - 2019.01.05 Sat
正月の大原はしょぼしょぼ寒い雨が降っていたが、

年末に降った雪がまだ残っているところが大原だな。
三千院に続く呂川添いの道にも溶け残る雪
正月ゆえ人の姿はまばらであるが、それでもみんな来るんだねえ、大原へ(自分は棚上げ)
三千院を通り越してさらに奥へ、ここは大原魚山流天台声明道場、勝林院、ここも雪景色。
ちなみに魚山とは中国の声明の聖地の名前をとったと聞く。
1月3日にここで修正会の法要があると聞き、心静かに今年の正月は声明にひたろうではないかとでかけた。
ちなみにここは法然上人が天台座主の招きにより浄土の宗義について論議したという「大原問答」の場所でもある。
法要は15時過ぎから、板張りのお堂の中は石油ストーブがいくつかあるとは言え、寒い。
ナントカテックやらレッグウォーマーやらたくさん着こんで防寒対策していったが、堂内で吐く息が白いのだ。
ご本尊の阿弥陀如来さまは金色にかがやく。(脇侍が不動明王と毘沙門天というコンビは初めて見るが?)
法要の開始は5人の近隣の寺院のお坊様がそろわれてから、まずはソロパート。
東洋のグレゴリオチャントと言われる音楽的な声明。聞き惚れる参拝者は10人前後と少ないのが良い感じだ。
次第に他のお坊様の声があわさって、堂内をぐるりとゆっくり回りながらの声明。
(2013年10月)
そういえば前にここで声明三昧したのはもう5年前、千年紀慶讃法要の時であったことを思いだし、懐かしく思う。あれほどたくさんの声明を聞いたことがほかにない。天台宗だけでなく、真言宗、浄土宗もつどっての声明法要であった。
途中、袴姿で裸足の(この冷たい板張りに!)の若者が6人横飛びしながら輪を描き、ササラや木を、太鼓と鉦の音に合わせてうちならすけったいな乱入あり。宮座による「魔おどし」とか「三十三度」とかよばれるものらしいが、魔おどしはなんとなくわかるものの、三十三度の意味が調べてもわからない。三十三回忌とか西国三十三ヵ所とか33は仏教では意味のある数字なんだろうと思うが、それ以上は不明。
ちなみに宮座とは地域の各家の長男達からなる組織で、もともと神事をとりしきる組織なのだそうだ。
意味不明なところも含めて、非常に興味深い。そろそろ寒くて冬眠しそうになった頭と痺れてきた足をリフレッシュしてくれた。
散華があったり、宝木(最初それとわからず。「牛」の字だけが見えたので、牛王札かなと思ったが)を持ってお堂を一周したり、しんしん冷えてだんだん暗くなる堂内に不思議な空間ができたようだった。(寺の中のヒトによると前半は悔過法要《東大寺の修二会もそう》、後半は牛王導師作法だそうだ)
東大寺修二会でお堂に数時間こもったことを思いだし、あれにくらべればまだしんどくない、、、と思いつつも、そろそろ限界、、、と思った1時間半、法要は終了。
松風鳥聲は天地の唄音なり 歌唄讃佛は人天の聖楽なり (天台声明全集序文)
最後に参拝客にそれぞれ宝木(牛王宝印を木にはさんである)、散華をたまわり、頭に牛王印を押してもらって(形だけだが)これで今年も厄除け無病息災。
外に出れば17時前後とて日は暮れかかり、観光客の姿もない雪の大原
ふりかえれば灯明に照らし出された阿弥陀様の金色に輝くお姿
駐車場へ向かう川添いには人の影もなく、土産物屋も店じまい。こんな時分の大原は初めて見る。
帰宅して牛王法印をありがたく拝し、床の間に飾ったのであった。
心清らかに(^_^;すごした、今年の正月であった。
2018大晦日から2019元旦へ - 2019.01.03 Thu
今年の年末年始は、娘孫一家が婿の実家ですごすので、静かな年越しになった。

大晦日、今年は東本願寺の近くにある料理旅館井筒安さんにお一人様用お節を3つ、お願いした。ここはランチに料理だけでもいただけるし、リーズナブルで美味しい懐石がでるのだ。
受け取りに行くとすっかり迎春の室礼、なかでも見事なこの日陰(苔の1種)は若い衆が山で採取し、F子ちゃん(うちの注連縄を作ってくれた)がこの形にしたもの。こんなりっぱな日陰はそうそう見られないよ。(裏千家の初釜でそういえば、、、)
大晦日と言えば、やっぱり来てしまう新京極の蛸薬師さん
大晦日の大根炊きをいただかないと。
夕方だったので、まだあるかな〜と思ったら、どうやらお揚げがなくなったらしい鍋、、、(;д;)
でもご心配なく、新しい鍋との交換、、というめったに見られない景色をみちゃった。
今年はこの鍋とあと一つの鍋でもう終わりとか。ああ、大根炊き、どうしてこんなに美味しいのかしらo(≧ω≦)o
お堂の横のベンチで食べているといやでも目に入る、この標語みたいなのが、毎年楽しいのよね。
ごちそうさま〜♪
日も暮れてきた頃八坂神社へ
もう白朮火(おけらび)をもらう吉兆縄を売り出しはじめている。
境内にもお参りの人がたくさん
今年は外人さんがやけに多い。
白朮火点火は18時なので、まだ燃えていないのを横目で見ながら、、、
円山音楽堂よこの石畳の道を行く。
さすがに大晦日の夕方、ここを歩く観光客はいない。
土間にともる灯りはいつもお世話になっている西行庵
こちらでジルベスター土間茶と銘打った除夜釜をされるのだ。
ちなみにジルベスターとは聖人の名前でその聖ジルベスターの日がたまたま12月31日だったことから=大晦日、、、という使われ方をするそうだ。(若奥様は教会でパイプオルガンを弾かれるクリスチャン)
西行さんと小文法師をお祀りする四畳半でまずお酒とそのあてをいただいて、
三畳の小間で第九(庵主のお好み)を聞きながら、お善哉。
お餅かと思いきや、なんと中にはいっていたのはお手製、蕎麦がき!
年越し蕎麦を食べ損なっても大丈夫、というご配慮。意外と合うのね、善哉に。
そして土間にて、若奥様の薄茶のおふるまい、妹のMちゃんもお手伝い。
欧米ではクリスマスツリーってすぐには片付けないらしい。なんだかこの土間にしっくりくるツリー。
オマケにほぼ最後の客だったので、蕎麦アレルギーの方の為に作っておいたというお手製和菓子までいただいた。今時なかなか手に入らない白小豆の白餡(一般的には白餡は手芒豆)に中に黒豆が一粒、白餡なのにしっかり小豆の味がして、とっても美味しくラッキーであった。(餡から作るという奥様、プロ級!)
帰りには西行庵ご一家(猫のくぅちゃんも含む)と楽しいお話しもできてよい除夜釜になった。感謝です。
八坂神社にもどれば白朮火はもうともっていて、吉兆縄に火をもらおうとする人だかり。おしあいへしあい。
おすすめは境内にはいって左手、西側にある白朮火。
こちらの方は例年ほとんど人だかりなし。
こうやって縄をまわしながら灯が消えないように、持って帰る。昔はこれで雑煮を作る竃の種火にしたというが、持って帰るにもバスは持ち込み禁止だし、竃のある家なんてほぼないし、一体どうするのだろう。だから見てるだけで私はもう火はつけないの。
孫のチビたちがいないので、紅白歌合戦を何年ぶりかで見たあと、近所の黑谷さん(金戒光明寺)へ除夜の鐘を撞きに行く。
京都タワーもみえる高台になる。
23時過ぎから鐘撞き整理券配布があって、これもってないとあやうく撞き損ねるとこだった。
これも例年の如く、順番を待っている間に新年は明けちゃったよ。
若い人は力任せに撞くから、音が割れて美しくないので、私は侘びさびを感じさせる(??)程度の強さで撞いたよ。
お堂では新年の法要が早速営まれ、読経と太鼓の音をBGMに見る渡海文殊菩薩像(善財童子はじめ4人の従者を従え獅子に騎乗する)はやはり美しくかっこいいなあ。
夜も明けて徒歩圏内の平安神宮へ、今年も初詣で。
手水舎の水も心地良いくらい温かい元旦であった。
そして雲一つない快晴
この空のように、この一年、災厄もなく明るく楽しくみんなすごせますように。
その足でこれまた直ぐ近くの観世会館の初謡式へ(無料です!)
うちの師匠の高砂の謡から始まる片山宗家の舞囃子、仕舞、茂山七五三一門による珍しい狂言小舞、、、客席はほぼ満席という能人口の多い京都。
最後に、狂言師全員が舞台に斜めにずらっとならび、その頂点にすわる片山九郎右衛門師、祝言「四海波」、迫力あったわ〜。
このあと平安神宮へ出演される方が移動、13時から舞殿で式三番なので。
お開きになってでてくると入り口でお酒と昆布とスルメのおふるまい、うれしい♪
そして我が家へ帰り、井筒安さんの一人分ずつのお節をいただく。美味しゅう御座いました。それに一人用って、案外便利。
ちなみに京都はお雑煮、白味噌がデフォルトだが、うちは岡山式なのでおすましだよ。あと丸餅で煮餅はいっしょ。