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2019-05

初夏の大原〜勝林院・実光院2019 - 2019.05.30 Thu

ふっと時間があくと、ふらっと会いに行ける田園風景、大原へ。用もないのに(^_^;



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この景色!
手前はしば漬用の赤紫蘇の畑。これぞ大原。



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呂川のほとりを遡って、三千院はスルーして、律川の向こうの勝林院へ。
呂川、律川、あわせて呂律(ろれつ)、中国から来て雅楽に使われる音階が呂旋と律旋、これがあわないとろれつが回らなくなるのよね。
いかにも声明の根本道場・勝林院にふさわしい川の名前。



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今年の正月、声明を聞きに、こちらの修正会へ参加したのが雪の中であったが、もう今は緑も濃く、陽射しは暑い。

↓その時の涼しそうな写真も貼っておくね。

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この季節大原は観光客の姿は非常に少ないので、お寺の方も油断して(?)いつも流している天台声明のテープ流れてなくて、あわててスイッチいれにきてくれはった(^_^;

法然上人と、天台宗顕真をはじめ各宗派の重鎮による宗教教義に関する議論がここで一昼夜おこなわれたので「大原問答」とよばれる。末端まで数えると2000人を超すお坊さん方があつまったそうな。法然上人が難問をことごとく論破して、一躍その名を日本中にとどろかせたとか。




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正月には寒くて冷たかった床も今は風の通る気持ちよい場所になってるな。ここでしばし一休み。



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勝林院は現在常住のお坊さんはおられず、お隣の宝泉院、実光院(もと勝林院四坊のうちの2院)が寺務所になっている。だから前はあまり興味なくてスルーしててゴメン。
ここの境内は意外に広くて見所は多いというのに。

今の季節、池には河骨(コウホネ)の黄色い花が咲いていたり、、、



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池の上の紅葉の木にモリアオガエルの卵がみられたり、、、



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その親カエル?とおぼしきカエルもみられたりするよ。
大原の豊かな自然はいいなあ。これがうちから車で30分ほどだから!



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お庭が美しいといえば実光院、さきほどの勝林院のもと塔頭である。



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門をはいったとたんに、なんという甘い芳香!
正体はこの花であった。なんでもカラタネオガタマという中国原産の木の花であるという。ここには何回も来ているが、この花の季節は初めてだわ。



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こちらも額縁庭園が美しい。
ちなみにこの客殿は大正時代の建築。



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この庭園の景色を独り占めしながら格別のお茶をいただく。



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客殿から眺める庭も美しいが、やはりこちらの真骨頂は季節折々の花が咲く池泉回遊式(といってよいか?)庭園なのだ。小さな茶室もある庭をそぞろ歩こう。



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庭の池には杜若が盛りであり、その手前には、



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背の低い河骨。
うまいこと景色を作っている。


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苔むした蹲居には青紅葉が映る。



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いつか使ってみたいなあ、、と思わせる四畳半の茶室・理覚庵。
なんと昭和50年の建築なんだとか。そんなに新しいとは見えない壁のサビ方。建築資材はすべて大原の木を使用しているとか。



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この茶室にはちゃんとすてきな蹲居も添っている。



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石垣の横には大原菊。
それ以外にもたくさんたくさん、名前のわからない花も咲いていて、ここは園芸好きには天国。


実光院を出て、本参道の呂川沿いではなく律川沿いに降りていく。



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こちらは本来の大原らしい田園らしい景色が楽しめる。



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無造作に積み上げられた稲藁も、なんだか懐かしい風景。



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田植えも終わった大原の里は、のどかだ。
こんな景色に気が向けば会いに行ける距離がうれしい。
帰りには里の駅で柴漬けならぬ(大好きな)刻みすぐきを買って帰る。






野村美術館講座〜「黒田家のお仕事」 - 2019.05.28 Tue

琵琶湖疏水分線の散歩道、左手は野村碧雲荘。



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さて、今回の野村美術館講座の講師は、2014年に14代を襲名しはった黒田正玄さん。
千家十職の竹細工・柄杓師で先代の長女さんである。このところ千家十職も半分くらいが女性が嗣いでいるのではないかな。(なんでやろ?息子は嗣ぎたくない人が多いのかな)
12年前、やはりここの野村の講座で先代のお父上が講演されたそうで、私はその時は存じ上げないが、一回りしてお嬢さんがまたここで講義なさるというのも感慨深いのでは。


前半は一昨年亡くなられた隠居された先代が1年かけて作った「竹細工の材料ができるまで」のDVDを拝見。秋に竹林の下見にいって大小3000本の竹にあたりをつけ、11月に切りだし、傷つけないように竹の節に藁をまいて養生しながら運ぶ。この時期一番竹の水分が少ないのだそうだ。

黒田家にはこばれた竹はさらに水分を抜くために根を上にしてしばらく保管される。
年が明けた正月に、作品の大きさに合わせてすべての竹を切る、この作業にほぼ1ヶ月かかるのだそうだ。そののち、竹の油抜きの作業。炭を熾し、灰をかけてその上に竹をならべ、油抜き、竹は緑から鶯色にかわる。どこでやめるかは経験がものをいうそうだ。竹の油抜きは私もトライしたことがあるが、根気の要る仕事で途中でなげだしてしまった。

油抜きの終わった竹は2ヶ月間天日干し、屋外にずらっと竹がならんだ姿は壮観。
この半年のあいだに半分くらいは、ひびがいったり虫が食ったりで細工に使えなくなるのだそうだ。
こうしてできあがりかと思えば、まだまだ!5〜10年ねかせて、狂いのないものが初めて材料の竹となる。なんとも!気の長い話だ。

思えば茶碗の楽家の土も先代先々代、あるいはそれ以上の祖先が寝かせた土が材料となると聞いた。指物師の扱う木材も然り。千家十職のような世襲制のシステムが必要なのは、そういう材料を継代的に守っていかねばならないわけで、妙に納得した。

次に代々の黒田正玄についてのお話し。
初代は越前の丹羽家に仕えていたが、関ヶ原の敗戦にともない剃髪して大津へ移住、竹細工を作り始める。かつては刺し通しばかりであった柄杓(台子につかうやつ)を今われわれがよく使う月形の差し込みに買えたのが初代だったという。伏見奉行であった小堀遠州の目にとまり、注文をうけるにあたってその評判が茶の湯界にひろまっていったそうだ。
晩年は京都の瓜生山(造形大のあるとこね)あたりに住まいし、詩仙堂の石川丈山と親交をもったという。だから黒田家の暖簾は「大津(かつての住まいの名残)茶ひしゃく師 正玄」、丈山の筆になる。
初代の作った竹の一重切り花入「帰雁」は黒田家の精神的なご本尊なんやろうね。

三代から表千家に出仕するようになり、五代で御所西に移転し裏千家にも出仕、幕末の八代は、100年〜120年に一度の竹の自然枯(じねんこ・一斉に枯れる)にあたり、材料の調達が出来ず、「材料不足にて作品を納めるのをしばし待って欲しい」という書状をだしたとか。
(ちなみに洛西ニュータウンは、もともと竹林の名所であったが、この自然枯にあって一斉に枯れたため、一気に宅地開発が進んでできた町なんだそうだ。面白い!)

明治維新以降は茶の湯界の不振もあって、他家同様ずいぶん苦労されたそうだ。茶道具だけでなく生活用品も作っていたとか。また十二代は女性であったそうだが、襲名はしたが表千家に出仕していないため、一応女性初の黒田正玄はご当代ということになるらしい。

この出仕というシステムははじめてお聞きした。襲名する前に嗣ぐことが決まった段階で表千家に出仕、毎月1日に千家十職全員が家元と会合(?)、お茶をのんだり、いろんな話をしたり、、そこで連帯感を強めるのだろう。席順は出仕した順番でつい最近までご当代が末席だったそうだが、来年楽吉右衛門を嗣ぐ篤人さんが新しく入って、順番がひとつ上がったのですって。現在この出仕者の長老が永楽さんで、先代の正玄さんが亡くなった時も、親戚よりさきに永楽さんに連絡をいれ、そこから家元へ知らせが行く、という世間一般とはちょっとちがう独特の世界だ。

最後に竹の話。
日本には約60種類の竹があるそうで、小さい物から茶杓、柄杓、茶器、水指、、と用途に応じて使い分けがされている。
かつては竹林は日本のどこにでもあったし、油抜きの炭も簡単に手にはいったのだが、昨今の炭不足と高騰は身をもって知っているし、竹林も管理に手がかかるため、個人所有の物は次々となくなっていって、だんだん材料不足の危機感があるそうだ。自然枯の問題もあり、生き物を相手にする仕事はほんとうに大変。竹の植物学的知識も必要であり、たくさん勉強されておられるご様子である。

我々が手にする完成品は美しく、使い勝手がよいけれど、それが出来上がるまでの人の手と自然との闘いと、を考えると徒やおろそかにはできないなと思う。




祗園でお茶屋遊び2回目 - 2019.05.26 Sun

ブロ友の高兄さんにつれていってもらう祗園でお茶屋さん遊び♪2回目〜。


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花見小路の夜も更けて、、、


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上がったお茶屋さんは200年の歴史を持つ名茶屋、4年ぶりでした。
その時お座敷にきてくれはった舞妓ちゃんはもう引かれたとのことで、今回は昨年店出し(舞妓デビュー)したばかりの舞妓ちゃんが。時の移ろうのは早うございます。



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よんでいたお二人が、よそのお座敷からなかなか来られません。お茶屋さんが気をきかせくれはって、たまたまお茶屋さんに来てはった舞妓ちゃんをよんでくれはった。
店出しが去年の菜之葉ちゃん。



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ご本人はとてもかいらしいけど、おばさんはついつい「動く工芸品」とよばれる装飾品に眼がいってしまうのよね。わ〜♪かわいいポッチリ!(帯留め)



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それから地毛で結ってはる髪も。
二年目の舞妓ちゃんはおふく、という髪型なんやけど、菜之葉ちゃんはまだ割れしのぶを結うてはる。



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5月の簪は藤の花なんやねえ。
まだ1年目の長い簪、ほんとうは2年目は短いのをつけるのだけれど、藤の花はたれるのが身上だから、おかあさん(置屋の女将さん)がこれもええやろと言わはった、、とか。(もうウン十年若ければ〜〜つけてみたいわこの長い簪、、、)



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菜之葉ちゃんがしばらくお相手してくれて、そうこうするうち、ようやく地方の福奈美姐さんと、舞妓ちゃんの市紘ちゃんが登場。



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福奈美さんのお着物は季節柄、藤の花でとってもすてき。しろうとさんではちょっと着こなせない色かな。



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市紘ちゃんも昨年店出しの2年目さん、高兄さんのご贔屓(?)かな。まだ10代やろ、かいらしわ〜♪



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京舞「君に扇」
二枚の扇をくるくるまわしたり、なかなか難度の高そうな舞。



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  ♪ 君に扇のな 要の契り 雪の白地は 扇のえにし
      班女(はんにょ)が閨の花扇


歌詞に班女がでてくるあたり、井上流やねえ。(八千代さんの弟さんが片山九郎右衛門さん、「班女」は自分を用のない冬の扇にたとえる謡曲)



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舞っている時は大人の女の顔ですが、、、、



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素にもどるとあどけない少女の顔になりますねえ。



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こちらは2年目の短い藤の簪。
京ことばもお上手。若いけれど、お酒を注いだり話で場をまわす接客もこの子らはほんまプロなんや。



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高兄さんがモエのアイスインペリアル(氷をいれて飲むと美味しいシャンパン)をさしいれてくれはった♪ みんなで美味しくいただきました〜。

この日ご一緒したのはお茶屋遊びはじめてという神戸、大阪からの兄さんのブロ友さんたち。年代的に話題がばっちりあいまして、とても初対面とは思えないおしゃべりの弾み方でしたo(^▽^)o




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恒例のお座敷遊びは反射神経が問われる「金比羅舟々」、はじめてやった、という男性の方が2〜3回目で手練の舞妓ちゃんを打ち負かす、という快挙!?

あと、妙なメロディーが頭にしみついて脳内リピートしちゃう「ベロベロの神様」というお酒をのませちゃうお遊び。これ、もとは土佐のお座敷ではやった歌だそうです。


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 ♪ ベロベロの神様は 正直な神様で お酒(ささ)の方へとおもむきゃれ

と謡いながら当たった人はお酒を飲むという、、、(半端なく大酒飲みの多い土佐らしいわ)
見事杯をあけたら

 ♪ 兄さん(姐さん)はええ男(女)や お強い!

という囃子までついてくるので、けっこう笑っちゃいました。そして飲んじゃいましたね〜。




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集めた花名刺、シールになっているので財布に貼るとお金が貯まるとか(^_^;

久々のお茶屋遊び、京都の名士はこうやって夜な夜な祗園をはじめとする花街で、楽しんで、密談?をして、また度量の大きさをみせあったのかしらね。

貴重な機会をくださった高兄さんに深く感謝!
ごいっしょした皆様にもありがとうございました。楽しかったです(*^_^*)





興福寺薪御能2019 - 2019.05.23 Thu



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興福寺
今年ようやく再建され落慶法要がおこなわれた中金堂と東金堂、五重塔のそろい踏み。



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猿楽(能というのは明治以降の呼称)は大和が発祥の地であるからして、この奈良の地で薪能が行われるのはふさわしいことなのだね。
現在の金剛・宝生・観世・金春四流は大和猿楽四座から発展したものといわれる。



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開演前に、呈茶席でお茶をいただいたが、御茶碗も薪能と橋懸かりの松なので雰囲気が上がる。



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薪能は、平安時代から(貞観11年=869年)興福寺西金堂修二会に参勤したのをはじめとするそうで、その歴史は長いのだが、鎌倉以降の戦乱の中でたびたび廃絶、明治以降はおこなわれることがなかったという。
昭和になって散発的に復活、戦後さらに大々的に復活、現在では毎年この5月第3金曜土曜におこなわれるようになったのだそうだ。


平安神宮の薪能は舞台が座席よりも上にあるので見やすいのはいいのだが、ここは舞台が客席と同じ地面、もしくは客席より下にあるため、より演者との距離が近い感じがしてよかった。




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1日目
 午前中 咒師走りの儀:春日大社舞殿
 夕方  南大門の儀:興福寺南大門跡
2日目
 午前中 御社上がりの儀:春日大社若宮拝舎
 夕方  南大門の儀

名称までなんだかカッコイイ。



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夕刻の南大門の儀に行ったのだが、面白いのが「舞台あらため」という儀式。

開演に先立ち、舞台の前で興福寺衆徒(僧兵のイメーヂ)が懐から3枚重ねの紙をだし、これを下駄の足でふみつける。そして紙が湿っていないのを観衆に見せるという儀式。
かつて今のような舞台がなかったころ、芝生の上で演じられるため、芝生の湿り具合で能のあるなしを決めた名残とか。



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(暮れてゆく西の空、南円堂の屋根)


本日の出し物は
半能「老松」、狂言「千鳥」、能「鵜飼」

老松でシテを演じられたのが御年83才、矢来観世家ご当主にして人間国宝・観世善之師。まさに老いたる松の精にぴったりの時分の花であった。ちょうど演能の最中に入相の鐘が鳴って、さらに雰囲気をもりあげる。



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囃子方も、直垂?に武家烏帽子をまとっていたのは雰囲気が出ててよかった。

火入れ式のあとは狂言、茂山茂師、千五郎師、笑わせてもらいました。



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最後に金剛流宗家当代の永謹師がシテを演じられた「鵜飼」、迫力あったわ〜。お声もすごくよかった。

禁猟地で鵜飼を犯した老人を村人はよってたかって簀巻きにして淵に沈め(こえ〜よ〜(゚△゚;ノ)ノ)亡者となって現れる。後シテでなにが出てくるのかと思いきや、キンキラの神々しい衣裳をまとった地獄の鬼(鬼と言うよりは神に見える)、回向の僧に鵜飼いの魂は救われたと告げて舞い、消えていく。



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観客数はおそらく京都の薪能より少ないとは思われるが、それがかえって舞台に近しい感じがして印象に残る。



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(池らしく見えないけど)猿沢の池の上の月をみながら帰途につく。
京都の薪能で学習しているので、防寒対策万全(昼間の暑さにだまされてはイケナイ)でよかった。やはり陽が落ちると奈良も京都も5月6月はまだまだ寒いのだ。



<おまけ>

奈良に行ったら恒例の削氷(けずりひ・かき氷ともいう)

ことのまあかりさんで、本日は「橘三千代」という名前の氷


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橘にちなんでレモンシロップに柑橘系ジャム

橘三千代、県犬養三千代とも
不比等の後妻にして光明皇后の母、元正天皇に信頼された女傑であります。




皐月雑記2019 - 2019.05.21 Tue

東山、円山公園の山裾にある長楽寺。普段は京都市内が見渡せる眺望の良さがいいお寺という認識だが、今年はちょっと違う。



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新天皇の御即位もしくは御厄年のときのみ御開帳される勅封秘仏・准胝観音様を拝見できるのである。ちなみに准胝観音はすべての観音様(三十三変化されるという)の母といわれる観音様。



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いや、GWに行ったのがマチガイであったか、すごい行列であった。みなさん、よくご存じ。

ようやくお堂の中へはいって見上げた観音様は思ったよりちいさくかわいらしい。一面三眼十八臂(腕が18本)伝教大師入唐の折、海が荒れ、あわや難破というところにこの観音様が龍に乗って現れ海を鎮めた、というお姿なのだそうだ。



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次の拝見する機会があるかどうか、なのでしっかり拝んできましたよ。



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お堂をさらに上に、東山を登ると頼山陽の墓所近く、この絶景があります。



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下界に降りて、円山公園、新緑が美しい東山。
外国人観光客も多くざわついていますが、、、、



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円山公園内にひっそりと、知る人だけしってるこちらは入ると他にどなたもおられず、静かな時をすごせた。茶菓円山



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実はここは先日行った、未在さんが現在の場所に移転されるまでここにあったという場所。割烹の雰囲気が残っている。




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暑い日だったので、氷系が食べたく、ソルベの三種を。
柚子、夏蜜柑、生姜
生姜のソルベが美味しかったな。




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お茶もいろいろ選べて、しかも使う急須も選べるという贅沢。




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4月から毎月10日にはじまった平安神宮骨董市。
先月は大嵐だったので行けなかったが、5月は良い天気に恵まれる。



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ブロカンテ系のものが多いが、古裂会とかけっこう有名なアンティークのお店も。
たくさんあるので見て歩くだけでも楽しく時間がすぎてしまった。



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李朝のお寺にあったとおぼしき木製の蓮の蕾、なんと李青さんが出店してはったので、思わず買ってしまったわ。なんか良い感じ。同じく李朝のバンダジに当然ながらよく似合う。



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過日用事があって上御霊神社の前をとおりかかると、、あら!
イチハツの群生!



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境内のあちこちにも。
ここがイチハツの名所とはしらなかった。だれも見に来ていないし(このあたりは普段から人通り少ない)意外な穴場であった。来年はもっと良いカメラをもってこよう。




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紫野のブータン料理ブータン食堂チャロチャロ、ヴィーガン料理をしてはる。
今日は、英語のブラッシュアップのため、さらにキャリアアップのため渡英するお茶仲間Mちゃんの壮行会。



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ブータン料理ははじめてであるが、辛さからいったらタイ料理と良い勝負だと思う。これはブータン餃子のモモというもの。中身はお野菜とチーズでけっこう日本人好みかも。美味しかった。



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ダツィという大根、キノコ、小松菜のピリ辛チーズ煮、これもおいしい。

今日は少人数の内輪の女子会みたいになったけど、みんなで見送る。夏が終わるまで、向こうで英語だけでなくお茶の新展開も開拓してがんばって、とにかく無事に帰って来いよ〜!



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円山公園真葛が原西行庵
5月の保存会例会のご亭主は、名古屋の松尾流のお家元。



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この季節新緑も苔も美しい(お世話たいへんかとお察しいたします)西行庵の道貞囲いのある小間皆如庵にて濃茶と薄茶をいただく。
松尾流のお点前はあまり拝見したことがなく、家元直々のお点前はうれしい機会であった。以前から知り合いでもある半東のT和尚さまは、神業的美しい灰型をSNSにいつもアップしてられて、これの実物を拝見できるのも大きな楽しみ。

、、、、やっぱり神でした!
真ん中に折り目のはいったような珍しい灰型でしたがもうすばらしいとしか。使っている灰匙は同じのはずなのに〜〜。



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本日の点心は瓢亭さん。
いつも違ったところからとってくれるので、これも楽しみである。



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松尾流は、紹鷗の弟子であった辻玄哉の流れをくむ流派で、三代目が楽只の号を宗旦から拝領したとて、どこか千家系と同じにおいがして安心感があった。
濃茶の茶筅が荒穂で持ち手が細く長く、虎竹(お家元が寅年とか)、現在のお家元の好みでかがりの糸が緑色。


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本席の軸が西行の初夏の歌
少庵の茶杓が繊細で細くてすごい。

竹掛花入が庸軒作で大山蓮華がはいる。銘を「惟肖」、これ、似るくらいの意味か。利休が韮山で作った三本の竹花入れに似せて、という庸軒の利休への憧れがよみとれるようだ。

水指につかえるギリギリの小ささの、古瀬戸の片口の水指が渋い。銘を「明暮」
明け暮れにこれを眺めてお茶を飲めたら、幸せだろうなあ。




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さて、この日京都は30度超えの真夏日だったので、袷でありながら単衣より涼しいという、シルクのインドのサリーを着物に仕立てた着物を。涼しいのなんのって。40度超える国の衣裳だからね。



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(襦袢の袖長過ぎは眼をつぶって!)


八掛の色が鮮やかブルー。
生地は、アジアの布をあつかってはる姫路のギャラリーとーくさんで。



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最後にうちの蹲居
よ〜くご覧下さい。




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ひゃ〜〜!!




未在 - 2019.05.19 Sun

円山公園のはずれの一画にある未在さんは、予約が1年から2年待ちだと聞いた。
だから私には縁がないわ〜と思っていたが、なんたる僥倖、棚からぼた餅、知人グループの予約に空きができたと!



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(現在、新天皇即位の時のみ御開帳の秘仏・准胝観音さまが拝見できる長楽寺の近く。最初入り口がわからなかった)


お声かけいただき、初未在を楽しんできた。
行くにあたって、ウエストを締めない服、昼飯は抜くこと、のご指示あり。
あとでなるほどと、納得。



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未在入り口、お店の方が迎え付けしてくれて、、、、



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こちらの腰掛け待合いで汲み出しとお手拭きを。

店内の写真はOKだが、お料理はNG、献立書もないので、途中で食べるのに夢中であまり記憶が定かでないので、私の拙い筆では詳しくはお伝えできないし、若干記憶もあいまいなので間違ってたらゴメン。
とにかく室礼、味、食材、器、量、雰囲気、対応、いずれをとってもハイレベルであることは確か、なのは言うまでもありませんね。



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(五月なので、腰掛け待合いの屋根に菖蒲と蓬・これの古式のやつは5月に俵屋や炭屋で見られるよ)


最初折敷がでてきて、四つ碗に向付、ああ、これは茶懐石だとうれしい。胡麻白和えが入った向付が葵の皿で、皿の上にほんものの桂の葉が一枝、、、そうだ、まもなく葵祭だ(葵祭では牛車にフタバアオイと桂の葉を飾る)。
飯碗には煮えばなのご飯。懐石の時、このご飯の炊き具合がむつかしいの。
汁はもう赤出汁の季節。

お酒も最初は杯台ででてきて、菖蒲と蓬をそえた燗鍋で菖蒲酒をいただく。
あとは好きな酒杯を選んで。ミニミニバカラのグラスがかわいくてこれを選ぶ。



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次にでてきたお造りが感動モノの量と質、それぞれの器に盛った物だけでなく、鉢に氷を盛って、その上に何種ものお造りが。普通は3種くらいだよね、ここのは6〜7種あったと思う。鯛の皮を調理した物も。それにつけるタレが醤油だけでなく、鯛の肝ペーストとか、塩の水とか、感動的なのが醤油の煮こごり。これを割って刺身で巻いて食べると最高!



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主の石原仁司さんは、吉兆で湯木貞一から直接指導をうけた最後の世代と聞いた。京都吉兆で長らく料理長をされ、十数年前まで雲仙の料理旅館の料理長をされていた。

なので!先日光悦を触らせていただいた島原のM和尚様と御昵懇であることが事前わかっていたので、少しお話しをさせてもらった。光悦の話もでて、あの茶室を作った数寄屋大工は実は石原さんのご紹介だったとか。「未在」と書いた陶板をやかれたのが和尚様の窯(!!)だったと、あとで和尚様にお聞きして、この機会にここへ来られたのは偶然と言うには奇跡的だな、と思った次第。



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あまりにも次から次の文字通りご馳走、ビックリするようなコンビネーションや調理法ででてきて、器一つ一つにもこだわりがあって、すてき、、、そうそう、魯山人のお皿もあったよ(≧∀≦)
和牛には蜂蜜ソース、筍の姫皮には姫皮をおろしたジュレに真ん中に山葵のソルベとかびっくりするよね。



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焼きものの焼筍が、掘りたてで、灰汁抜きナシで食べられる物、あとでその抜いたままの筍のでっかいの(1mくらいはあろうか)、根付きをお皿に載せて見せていただく。これもまたご馳走。
なにかの付け合わせで岡山の黄ニラの甘酢漬けがでてきて、これが懐かしく美味しい。そう、郷里の岡山ではニラと言えば黄ニラだったの。

煮物椀がボタン鱧、付け合わせが緑色の球体で、これなに???と思ったら、青のりを葛かなにかで固めたもの、汁の中にいれるとくるっと丸まるのね。これに柚子の花が入って華やかな一品。




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(玄関にあった珍しい白花のフタバアオイ)


八寸がまた華やか、丸いヘギの上に何品並んでいたのだろう、覚えきれない。ウエストのない服で昼飯抜きの意味をあらためてかみしめる。美味しくて残すという選択肢はなかったよ。
小さいグラスにはいった翡翠豆の皮がきれいにむいてあったのに感動。ここまで手間をかけているんだ。

ごはんに湯桶がでてきて、3人で回す。ほんまに懐石そのもの。香物がまたはんぱない量と種類。美味しいので、ここでお湯を飲み過ぎたのが敗因であった。またもし、来ることがあったらお湯は控えめにしよう、なにせデザートが4品もあるのだから!



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「青山」の軸に鐙の花入、これだけの花がばらけることなくまとまっている。
そうか、武蔵鐙の季節だな。


さて、デザートその1、柏の葉でくるんだ葛餅で中の餡がずんだ(青豆)、これに石原さんが一人一人お茶を点ててくださる。お客様のイメージで茶碗を選ぶと聞いたが、私は黒の天目茶碗、多分着ている服の色。

デザートその2、フルーツの盛り合わせ 白い泡雪苺、サクランボの甘くて大きいの(産地忘れた)、黄金柑の中をくりぬいて寒天でかためたもの、その他多すぎて覚えきれず。

デザートその3、玉状フルーツの蜜かけ、マイクロトマトや西瓜を小さい玉にしたのや石榴やなんやらかんやら(^_^; こんなに味の色彩が押し寄せてくると手に負えない。

デザートその4,これはまだいける希望者のみ、私はギブアップで健啖な知人のをひとくちだけもらう。トマトのソルベにバジルシードに多分オリーブオイル、ほとんどイタリアン。



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全部で57品目の食材がでたそうだ。
なんとまあ、これだけを手間を掛け、思いがけないコンビネーションで、、、、これはやはり予約が1年もとれない訳だと、深く納得。



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食事を終えて、はちきれそうなお腹で外に出れば、円山公園はとっぷり暮れて、あかりもないので暗い。お見送りはお店の人が提灯で足元を照らしてくれた。お見送りまでがスタイリッシュ。

あわよくば、次回の予約を、、、と聞いてみたら来年の12月だって!(^_^;オリンピックおわってるやん。といいつつ、これを励みにがんばろうかな。







京都秦家のくらし体験会〜ひゃくいちの豆ご飯 - 2019.05.17 Fri

油小路仏光寺、祗園祭の太子山の秦家、明治2年に建てられた表屋作りの町家は昔から憧れで、なんどもお邪魔している好きな場所です。(京都市有形文化財)



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昔は薬問屋で創業は元禄時代、奇應丸などを製造していたしていた大きな商家でした。

こちらではくらしの体験会として、受け継がれてきた洛中の暮らしの文化を体験する催しがあります。
今回は、ひゃくいちと豆ご飯のお茶漬けの会に行って参りました。




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まずは今年の新茶を一杯いただきます。
湯飲みの底には秦家の「秦」の文字。これは暖簾にも染め抜かれているものです。


さて「ひゃくいち」とはなんでしょう???

秦家の台所で昔から漬けられていた漬物なんだそうです。



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これがそのひゃくいち
ひゃくいちは漬かるまで101日掛かるからだとか、お坊さんの持ち物が101だとか、いろんな説があるそうですが、語源は不明とか。

聖護院大根のような丸い大根と塩と、なんと茄子の葉っぱを年末から漬けて、今ごろの季節に食べられるようになる漬物、ひゃくいち。本日は漬物の口切りというか、開けたてをいただきます。




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茄子の葉を漬物に使うというのは、知らなかったのですが、他の地方にもあるようで、独特の風味をつけるそうです。

さて、今日はこれをおかずに旬の豆をたくさんいれた豆ご飯に新茶をかけていただきます。
秦家が商家であったころ、(当代のご当主が子供だった頃)家の物も奉公人もこれをかきこむのが朝ご飯だったとか。昔の商家は大店でも食事は質素だったのです。



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普通のたくあんに比べて発酵がさらにすすみ、スモーキー、あまりの美味しさに、お茶をかけたところを写す間もなく完食しました!ご飯もおかわりして(^_^;
お茶漬け食べるときはだれしも日本人でヨカッタ、、と思うのではないでしょうか。しかもこのひゃくいち、お酒も進みそうな味ですよ。



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これが切る前の大根
切ったところを全部いただいちゃいました。

茄子の葉は、昔はお祖母様の実家のあった山科の農家に、番頭さんがバイクで山盛り取りに行ったそうです。一時茄子の葉が手に入れられなくなって、秦家でも漬けるのがとだえたそうですが、ご当主ががんばって復活させ、「私が元気な間は続けようと思います。」とのこと。

おそらくかつての暮らしでは、このひゃくいちのような漬物がどこのお家にもあったと思います。でも現在ではたくあん漬けすらみたことのない人が多くなりました。実は私もぬか漬けで挫折してますし、、(^_^; 
おばあちゃんから、おかあさん、そして娘に伝えられるこういう台所の仕事は、もういずれ消えていく文化なのかもしれないと思うと切ないですが、その中、秦さんの取り組みは貴重です。
この美味しさは市販のものではだせないので、なんとか続けてほしい。




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最後に毎年秦家に嵯峨野のお坊さんがくださる、という特製大根の漬物を頂戴しました。なんというか、切り干し大根を古漬けにして大徳寺納豆で味付けした、、、みたいな味で、しかんでしかんで味を出す、という、そしてこれもお酒にぴったりのものでした。

貴重なものをありがとうございました。






歴史学者がお正客の夕ざり茶事〜O先生幽寂庵にて - 2019.05.14 Tue

雑誌「淡交」の「茶道心講」でおなじみ、社会心理学者のO先生と知己を得て10数年になる。その間、先生がご亭主の大寄せの茶会や茶事に何度か行かせてもらったことはある。しかし憧れていたご自宅・幽寂庵でのプライベート茶事はまだ経験がなく少々さびしかったのだが、苦節10年?(^_^;ようやく願いが叶い、お招きいただいた。東京へ。

しかもお正客が、最近利休に関する新書をだされたばかりの歴史学者のN先生であった。N先生のご専門は古代史(奈良〜平安)と最近では茶の湯の歴史についていろいろ御本を書かれている。参席するに当たり、事前に拝読させていただいたが、これがすごく面白かった!歴史学とは古文書をいかに読むか、今まで正しいとされていた歴史が古文書一つでひっくりかえされるとか、目からウロコのことばかり、世間で言われる歴史は案外うそばっかりのこともあるのだ、の感を深くした。ただそれゆえ、茶の湯の歴史の泰斗の方々からのご意見も色々あるようで、正解のない文系の学問はいろいろ大変だなと思う。(理系は比較的すっきりしてるんだけれどね)

始まる前からちゃっかり、御本へのサイン会?でご署名いただいてうれしい。



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待合は、大日本茶道学会を創立した田中仙樵が書いた宗旦の「世間の茶の湯は富貴にしてさはがしく貧賤にして静かなることなし、、、、」の有名な一節。
汲み出しは昨年の茶事で拝見した、敦煌で求められたという夜光杯(葡萄名酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催・王翰)にて。

お庭がうまく良い露地になっていて、いよいよお久しぶりのO先生の迎付。ちょっと興奮する。
本席は八畳、季節的にはもう風炉であるが、O先生考案のマンションなど浅い炉壇用の平蜘蛛の釜をN先生にお見せしたかったとのことで、炉で透木にて。

夕ざりの初座は花、O先生が最近興味を持たれているという川上不白の尺八花入れ、入れてあった花はツキヌキニンドウと(たぶん)開花した大山蓮華とあとひとつ(不明)
棚は糸巻棚であったが、あえて地板のない表千家の糸巻棚を使われ、水指が瀬戸であったがなかなか存在感があってよかった。(なにしろ銘が「在黒」)

天板に載っている八角薄器はこれも以前拝見したことのある待庵古材を使った薄器で、今回N先生の御本に「待庵を利休が作ったという根拠はどこにもない」という章があって、それに寄せたもののようです。

炭点前のあと拝見した香合はペルシャの焼物、没薬でも入れたのでしょうか、エキゾチックなもの。O先生の茶事は「和洋の境をまぎらかす」ですものね、と納得。



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(これはうちの庭のフタバアオイ)


しかし、一番「和洋の境をまぎら」かしたのは材料調達から調理まで(調理師免許もお持ちなのだと!)こなされた懐石であった。お手製のうわさの懐石をいただくのは初めてである。

マグロのたたきに味の違う三色トマトの向付からびっくりしっぱなしで、煮物椀の今年初鱧の骨切りまでご自分でされたと聞くともう脱帽以外にない。
美味しい純米酒のでたあとは、N先生の新書出版記念ということでお祝いのシャンパンもでてきた。ベーコンや野菜、クリームチーズなどをバゲットパンに埋め込んだのがとても美味しく、シャンパンに合う。これは一度中身を詰めてパンごと冷凍し、切ってから解凍という手間のかかったものであった。(ご著書「茶道を深める」にも出てました!)
この季節ヨーロッパでは必ず食卓に上るというホワイトアスパラのアスパラソース掛けというのもお酒がすすんでしまうではないか。

八寸にN先生のご出身地、和歌山の「南蛮焼(なんばやき)」といわれる肉厚のはごたえのある蒲鉾。茶事経験が少なく、肩のこらない茶事にしてほしいというN先生がリラックスできるようなお心遣いを所々に感じましたが、こんなところまでなんですね。

連客のわれわれは懐石の間中、いろいろ疑問に思っていた茶の湯の歴史のあれこれを(公ではちょっと聞きづらいような、、)N先生にお聞きしたらすごくクリアなお答えが帰ってきて、こちらも大いに興奮したのである。もう、こういう茶の湯の歴史の話大好き!

そして、どうして利休の本を書こうとおもわれたのですか?という質問に、今世界的に茶の湯に注目が集まっているが、佗茶=利休と決めつけられるのに危機感を抱かれたとか。佗茶の世界は利休だけが作ったものではない、利休の足跡と言われているもののなかには、他の人の業績もまじっている可能性もあり、もっと大きな時代のうねりの中でとらえないといけない、そういうことを言いたかったのです、と。


懐石の〆に主菓子が、ブランデー漬けの干し無花果などが入った羊羹で、美味しいのなんの。あとでお聞きして、絶対うちでも注文しようと思った。(wagashi asobi)




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後座は燈火にて。
すごいのは短檠の代わりに天上からぶら下げられた大きな古いランプ。これはオランダへ学会出張されたときに膝の上に大事に抱えて飛行機に乗って持ち帰られたものとか。上からなので仄かなやわらかい影を生みだしてすてきであった。

軸が、お祝いにと「山呼萬歳聲 皇紀二千六百年(昭和15年)」

O先生のお点前は豪快にして細心であった。練られた濃茶はだまひとつなく、なめらか、茶碗の底に残った濃茶の美しいこと。お祝いなのでお相伴、と言われて最後にわれわれと一緒に濃茶を飲まれた。主茶碗が了入の赤、次茶碗が白い釉薬の楽でこれはなんだろ?なんだろ?と首をひねっていたら、なんとO先生が盟友・吉村楽入さんところで手尽くねしはった茶碗であった。



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楽入さんといえば、この御著書の表紙を飾ったこの光悦・不二山写し、この茶碗も薄茶で登場してテンションあがった。過日機会を得て、楽入さんところで茶碗をひねったのもよき思い出である。
ビックリなのは、ご自分で絵付けされたというカキツバタの茶碗、金彩まではいった色絵!どこまでご多才なのであろうか。

茶碗で一番いいなと思ったのは鈍翁(もしくは鈍翁指導の陶芸家鈍阿かも)、光悦の黒写し。先だって本物の光悦でお茶をいただきお尻を撫でまくったあの興奮が蘇るようなええお尻のお茶碗でしたわ。



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クライマックスが薄茶の茶杓、これもだれのやろう?と思っていると、N先生のために削られた御自作で、最後にこれをN先生に共筒、箱とも贈呈されたのだ。しかも銘が「孤高の貴筆」。
こんなのを用意されてもらえるなんて、N先生はどれほどお喜びになったであろうか。

茶事を終えて帰る道すがら、N先生がほろ酔い加減で「楽しかった、ああ、楽しかった」とくりかえしおっしゃっていた言葉にすべてが集約できるのではなかろうか。





東大寺華厳茶会2019 - 2019.05.12 Sun

今年もさわやかな好天、東大寺・華厳茶会に参席。毎年故郷の茶友と行くのを楽しみにしている。



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残念なことに鵬雲斎大宗匠は一昨年をもって華厳大茶会を引かれ、昨年から御献茶は当代お家元に。



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長年拝見してきたが、周りがやめるように言ってもおやめにならなかった大仏様の前の階段を、天目台をもってのぼられる姿はもう拝見できない。



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というわけではないが、今年は献茶式はスルーして、、、



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久しぶりに大和茶の茶壺行列を見てみよう。
東大寺のお坊さん方に先導されて、、



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大和茶の茶壺行列。
お茶と言えば宇治に名声を奪われているが、宇治と奈良の茶葉は、ほとんど土地柄のちがわない場所で栽培されているのだ。



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お、来た来た。
大和茶の茶壺。この茶壺の茶葉を臼で挽いて大仏様への献茶のお茶とするのだ。
後に茶葉を持った大和茶業界の方も見える。



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茶壺が大仏殿におさまるといよいよ法要と献茶がおこなわれる。
大和茶がさらに世に周知され名前を上げますように。



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例年の如く、まずは大仏殿裏の副席へ。
今年はいつも奈良の茶会でお見かけする奈良の裏千家の重鎮の先生の席、お点前もお運びもすべて男性、十徳をお召しの方も多い。

本席のお軸が圓能斎の型破りな円相、円の中に圓能(心?)とあり、畳の目が墨にうつっているのが面白い。花入が備前藩家老であった伊木三猿斎の備前耳付き、私も友も岡山出身なので、これはうれしい。お花は雪持草、まだ咲いているんだ

たくさんのお道具を楽しんだが、よかったのはご当地、奥田木白の菖蒲絵の茶碗。灰色の釉薬に青一色の菖蒲、しぶい。
かの藤重の、常叟在判真中次はもっと拝見したかったがタイムアウト。




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次に東大寺本坊の今日庵席(濃茶)、全体に新しい御代を寿ぐような道具組。



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春慶大瀬戸茶入はでかかった。四耳がついていて、茶入と言うより、四耳壺のミニチュアみたい。

茶杓が圓能斎、大正天皇御大典記念に削った「束帯」、御大典の天皇のお衣装は衣冠束帯だしね。

赤楽茶碗が後水尾天皇手づくねという私にとってはめずらしいもの、しかも香淳皇后(良子皇后時代)のお歌つき。夕早苗という、陽が山に沈んでも早苗植える乙女らを歌った歌。これも皇室関連。

黒楽茶碗が(早世したので作品の少ない)得入、銘を「さざれ石」、ああ、「君が代」ね。

淡々斎在判橘香合は、内裏の右近の橘か。




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お菓子は躑躅きんとん。例年唐衣が多いのだが、今年はこれできたか。美味しかった。



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若草山を借景とする本坊の庭園には藤も咲いていた。



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それから毎年楽しみな花菖蒲も。



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同じく本坊にて辻留さんの点心。
今年の豆ご飯は御豆さんが特にいっぱい入っていてうれしい♪



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毎年最後の席になる東大寺席、勧学院にて。
ここは空海が東大寺別当に任じられたときに創建したという真言院の建物も境内にある。だからご本尊が密教の大日如来なのね。
東大寺学園の秀才たちのお母様方が、上野道善師の指導の下ひらかれる茶席で、今年もお元気そうな道善師におめにかかれてよかった。



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修二会の時に別火坊(修二会に入る前に潔斎をする場所、戒壇院)で茶を点てるのにつかわれる別火坊台子(柱に、蝋燭立てが左右についている)、その上にのっているのが修二会の須弥壇を飾った糊こぼしの造花よね♡

軸が道善師が東大寺別当に就任されたときに、同時に金剛峯寺の座主に就任した松長有慶師との合筆、「無碍(松長座主)」と「楽寿(上野別当)」。
これぞ華厳経と真言宗の勧学院にふさわしい軸で感動した。



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東大寺古材の枡に入れた花菖蒲の入れ方が美しくて、いつか真似してみたいなあ。
香合が大正天皇の高御座の余材というのも、御代代わりにふさわしい。
それからいつも正客にだされる菓子器、朱塗りの盥みたいなのだが、あれを布薩盥ということを今年はじめて知った。(修二会の時、練行衆が手をあらう水をうける盥)

今年も晴天で、各席とも見応えあり、久々に会った故郷の茶友と語らい、楽しい1日であった。


<おまけ>
帰りに今季二回目のことのまあかりの削氷


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上:「いちびこ」 苺の古名 苺のコンフィチュール
下:「大海人」 きな粉、黒蜜、葛餅(大海人皇子は吉野=葛の産地に一時隠棲してたからねえ)



鴨川をどり2019〜先斗町 - 2019.05.09 Thu

五花街のおどりのフィナーレは先斗町の鴨川をどり、初日に行ってきた。



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木屋町の飲み屋街のまんなかにある歌舞練場。
今年はおどりの魁、北野をどりと最後の鴨川をどりでしめる。(祗園東だけは秋)



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ここのところ北野をどり以外は行っていないので、ここもお久しぶり。



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入り口付近もすでに花街らしい雰囲気が。先斗町の歌舞練場は、こぢんまりしていて、かえっておちつく。
五花街それぞれにいろんな歴史があるが、先斗町は江戸初期の二条新地(遊郭・川端二条あたり)の出稼ぎ場所として、明治以降独立した花街なのだそうだ。




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鴨川に面した喫煙所ではすぐ隣に川床も出て、たいてい舞妓さんの姿が見られるのがいい。
それから、スタッフさん(女性)の平均年令が高くて、良い味だしているのも好き。



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今年は令和元年初日と時を同じくして開幕、始まる前に先斗町を代表する姐さん(久富美さんとあともう一方)と舞妓ちゃんの、令和を寿ぐ口上があった。

今年の出し物は、オペレッタが「わかよたれそ〜筒井筒」

伊勢物語の筒井筒をベースにしているが、そこは花街、突然直衣姿の光源氏がでてきたり、武官姿の業平がでてきたり、もう、王朝文化キラキラで華やかなの。

最後は、筒井筒の夫婦が共白髪になって、次の世代の婚礼の場面、新婚の二人の十二単に衣冠束帯という姿も、年老いた夫婦が手を取り合って祝う姿も、新たに即位された新天皇皇后と退位された上皇上皇后と重なってじーんとくる。



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(先斗町の紋章は鴨川ちどり)

第二幕の踊りシリーズは「艶姿祝新御代祭」
次々くりだされる踊りのシーン、特に「破邪の剣」がかっこよかった。黒の紋付き姿(芸妓さんの正装)で裾を少しからげ、きりっと剣を手にした七人の芸妓さんの男前なこと。

  この日の本に神代より 伝う宝剣 悪邪を祓う剣の舞

これも譲位とともに受け渡される三種の神器の草薙剣を思わせた。
フィナーレも新たな御代を寿ぎ、華やかにお開きです。



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めったに通ることのない先斗町をあるけば、お座敷に急ぐ舞妓ちゃんの姿もちらほら。
京都はよろしおすなあ〜(^-^)/





秀吉の夢の跡〜肥前名護屋城跡 - 2019.05.08 Wed

唐津から1〜2時間に1本しかない、途中バス停でないところでも停まってくれるローカル色豊かなバスにゆられて約40分、ようやく到着。



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昨年行きそびれた名護屋城跡である。
ご覧の通り大雨で、、、というより嵐のような風雨でビニールのレインコートが非常に役に立ったが、足元はレインブーツなのにびちょびちょ。



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利休賜死の1591年から、大陸をもわがものにせんと出兵を決意した秀吉が、その拠点として僅か数ヶ月で築城させたという城である。もちろん、城は完全に破却され、石垣がそれとなく残っているだけ(後に発掘された石垣も多い)であるが。



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仮の城だし、もっと簡単な構造の城かと想像していたが、城趾のお向かいにある佐賀県立名護屋城博物館にあるバーチャル名護屋城のCG画像を見ると、大阪城と規模でも遜色のないりっぱなお城だったのに驚いた。とても仮ごしらえとは思えない。



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(三の丸の井戸の跡)

秀吉は翌1592年、ここに入城し、臣下を過酷な戦に出兵させる一方で、城に茶室や能舞台まで作って楽しんでいたという。



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また、出兵の拠点は名護屋城だけかと思っていたら、この周辺、玄界灘の浜辺まで各大名の陣屋を作らせ、最盛期には20万人が駐留したと言うから、私の想像をはるかにこえる規模の出兵だったんだな〜、文禄慶長の役って。(当時の朝鮮半島の人にはえらい迷惑だっただろうな)



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本丸御殿跡、かつてこのあたりに五層七階の天守閣があったそうだ。
しかし、、、傘がぶっ飛ばされそうな風と雨で少々くじけそうになる。



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ここから玄界灘を望む。
晴れた日には対馬も(朝鮮半島も?)みえるらしいが、いかんせん、近くの島もかすむ。秀吉にはここから朝鮮に手が届きそうに見えたのだろうか。実際ここに滞在したのは約1年だけだったようだが。




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同じくここから各大名の陣跡が望め、それぞれを訪ねて歩くこともできるのだが、この風雨で断念。
彼らは秀吉が帰ってしまった後もあしかけ7年間、ここで苦労したのだ。歴史の授業ではさらっと終わる感じだが、全国の有力者がここに結集し四苦八苦したのは歴史的にも大きな出来事であったに違いない。



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1593年、講和使節として来日した明の沈維敬(遊撃将軍の使者)の宿舎があったので遊撃丸と名付けられた一画。
同年一旦は休戦したが、1597年和平交渉決裂で再開、1598年の秀吉の死とともに長い戦は終結したのだった。



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思えばなぜ秀吉は天下統一にあきたらず大陸まで手に入ると思ったのかな。老いがみせた幻影だったのか、本気でとれると思っていたのか。

名護屋城はその後島原の乱などを経て、反幕府軍などがたてこもるのをおそれ、人為的に破却された唯一の城だそうだ。今目に見える部分は土の中に埋まっていたものも多数あるらしい。
秀吉の大陸への夢の跡、今はむなしく石垣をさらすのみ。

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もう一つ忘れてならないのが、大阪城の山里丸ににせて作らせた名護屋城の山里丸。方向的にはこのあたりなのだが、なんにも見えない。茶室の跡、井戸の跡などもあるらしいのだが。

大阪城の山里丸には利休がこしらえた草庵の茶室があった。こちらは利休亡きあとなのだが、ここにひとつ謎がある。秀吉が名護屋滞在の時に母親の侍女に宛てた手紙に「きのふりきうの茶にて御せんもあかり、おもしろくめてたく候まま、、、(昨日、利休の茶にて御膳もあがりおもしろくめでたく)」の一文があること。この「りきうの茶」をどう解釈するか、歴史学者の間でも諸説あり、実は利休は切腹せずに生きて九州に流され(細川氏あたりに)庇護されていた、だから名護屋で、利休ゆかりの山里丸で茶会をした、という解釈がとても興味深い。




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お向かいの名護屋城博物館、H5年設立。
名護屋城跡及び陣跡の保存整備事業、調査研究の展示、特別展として朝鮮通信使の展示もあり楽しめた。
ここではバーチャル名護屋城ツアーと称して、タブレットを貸し出し、現地で当時の様子をCGで見られるという企画もあるのだが、この雨風ではちょっと無理であったのが残念。







唐津やきもん祭の町を歩く2019 - 2019.05.07 Tue

昨年のやきもん祭であちこち唐津の町を歩き回ったので、一年ぶりとは思えない、とてもなじみのある町になってしまった。



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やきもん祭の中心的通り、五福の縁結び通り



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道の両脇に唐津陶芸家によるまちなか展示販売所が連なる。



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ここをぶらぶらしながら器を物色するもまた楽し。


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お目当ての作家さんのは、超人気でほとんど残っていなかった(^_^;



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少し離れた場所にあるギャラリーで、(ここは昨年も良い雰囲気の建物で気に入っていたのだ)花入をひとつもとめた。大きいので送ってもらおう。



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今年も陶芸家が亭主をつとめる角打ちちょこバルも健在。昨年は飲みっぷりの良い九州女子と隣同士でおおいに飲んだっけ。



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唐津くんちで曳山が集う唐津神社や



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江戸時代の武家屋敷を取り囲んでいた石垣にその時代に思いを馳せたり、



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玄界灘の松林を愛でる。



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あいにくの雨模様だが、かなたに唐津城も見える。



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昨年も訪れて、屋敷内に茶室はおろか能舞台まであって感激した旧高取邸にも再訪。数寄の粋をつくしたディテールも堪能。



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庭園には藤の花

さて、お腹もすいたし腹ごしらえを。



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やきもん祭メインストリートの一つ、中町のhanaはな家さん。昨年もお世話になった。



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ここは元歯科医院だったという有形文化財の建物なのだ。



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やきもん祭の期間中、町中のあちらこちらで「食と器の縁結び」という催しがおこなわれているのだが、hanaはな家さんではこの日、唐津焼の窯元の作品をたくさん並べて、好きなのを好きなだけ選んでおばんざいを盛る、という楽しい趣向。



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大きさも形もさまざま、目移りしてしまう。



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主に野菜を中心としたおばんざいを盛る器も唐津焼。これに肉か魚のメインディッシュがつくの。



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どれも美味しかった。お豆腐もおいしかったよ〜。(ザル豆腐発祥のお店が近くにある)ごちそうさま!





唐津やきもん祭茶会2019〜民藝から茶の湯へ〜 - 2019.05.05 Sun

さて、いよいよ唐津やきもん祭茶会の当日、あいにくの雨模様であったが、会場・旧大島邸の庭園はかえって新緑が美しいのであった。



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旧大島邸(現・唐津市所有)
かの建築士辰野金吾と机を並べ、高橋是清に師事し、のちに唐津銀行をおこした大島小太郎の旧宅、明治中期の建築。



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建物もみどころ満載なのだが、それは昨年の記事にまかせて、お茶会へ。

今年はこの茶会に先立ち、お手伝いの方々その他、博多で出張たこ焼き茶事をされてチームワークをばっちり固めてこられたご様子である。



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風雨がややつよいので、四阿の李朝席はどうなるのだろうと心配していたが、ちゃんと手当てしてあって、さすが。なにがあってもこの四阿を李朝席に、というM和尚様の熱意を感じる。確かに二畳で二方向開け放し、もう一方向も大きな障子窓という開放感は、李朝の雰囲気に合う気がする。



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客は縁側の外に腰掛け、朝鮮人参の砂糖漬(韓国のお菓子)と棗茶をいただく。茶入は唐津の若い作家さんの物、かかれている文字はそれぞれだが、M和尚様とタライ・ラマ師の手によるとか。私のは「己亥(つちのとい)卯月」。年号が変わる最後の月。

床には「サバクヤ心 袱紗サバキツ」、、、おお、柳宗悦だ!
この茶会のテーマは「民藝から茶の湯」だったな。
柳の心偈(こころうた)の中の茶偈の一つ。(他にも「茶ノミ 茶カハ」、「茶ニテアレ 茶ニテナカレ」、「一服イカガ 茶モ忘レテ」、など)



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八角小盤の上には三島の扁壺に白蝋梅とおっしゃったか?
昨年拝見して、これはどうしても同じ物を手に入れたいと思いつつ、いまだ入手できずにいる李朝の鉄製火鉢を風炉にみたてたものに、今年もまた出会えた。そして2日前、お茶を飲むことが出来たあの垂涎の粉引にも再会。

「李朝が好きだが、唐津をみた時に李朝の匂いを感じた。」

素朴でどこか不完全な李朝の器、文禄慶長の役でつれてこられた朝鮮の陶工たちがその技法を伝え日用雑器として生まれ、後にこれこそ民藝と柳にとりあげられた唐津焼。そんな歴史に思いを馳せつつお話しを聞いて、つぎつぎくりだされる李朝の器や民具に和尚様の熱い思いを感じるのであった。

同じ李朝好きといってもレベルが違うのでちょっとへこたれるが、こんな先達(私よりお若いけど)がおられるのはなによりの励みになる。



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おや、これは!
2日前お酒をいれていた鉄釉だけの鶏龍山片口。のちに和尚様がこれに花を入れ替えたら、また不思議にぴったり合うのだ。懐の深い器。

お話しは、柳を朝鮮古陶磁に導いた浅川伯教や、窯にくべるための松の樹を伐採しすぎてはげ山になった朝鮮の山に松を植樹しようと、その発芽法を発見した弟の浅川巧にまで及んで、うれしい限りであった。



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この緑したたる庭園のなかの四阿に別れをつげて次は懐石席へ。



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今年も担当は京都の美山荘で修行されたというひら田さん。


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器はこの会のために改めて作ってもらったという唐津の現代作家さんのものばかり。これだけの協力を得られるとは、いままで培ってきたものの重みを感じる。

今年は本懐石に近い献立で、唐津の食と器を堪能した。



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かわいい八寸、お名前は覚えきれなかったが若い作家さんのものだと聞く。酒器も唐津で、お隣の方とさしつさされつでかなりいけてしまった(^_^; 
古唐津研究会で編集者の方とか、博多の有名和菓子屋の親子さんとか(博多たこ焼き茶事でお菓子を作らはった)、京都の李朝古美術店の主とか、唐津の作家さんのお母上とか、かなり濃いメンバーだったこの席、入れて光栄であるとともに今更ながらタライ・ラマ師のご人徳ご人脈おそるべし!




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タライ・ラマ師の本席に向かう途中、、、あ!やっぱりタライが!
(降らずとも笠の用意、降ったらタライの用意)
雨模様だったので、わざわざこちらで調達されたとか、どちらにいらしてもタライ・ラマの二つ名はついてまわる(^_^;



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本席の床には妙心寺管長もつとめられた山田無文師の「不二」
唯一不二というより無文さんなら不二の妙道、自他不二か。自己と他人は別人でありながら二つに分けられない、主観と客観も分けられない。
李朝の香りを残す唐津は民藝=庶民の器でありながら、茶の湯の道具にとけこんでいる。ラマ師曰わく、「和漢の境をまぎらかす」〜「民藝と茶の湯の境をまぎらかす」、自他不二、、、なのね。




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花はある陶工さんが数日前から手配してくれていたという大山蓮華。ナイスタイミングの蕾具合。

お点前は宗偏流(唐津は宗偏流が盛ん)の達人でもある陶芸家・藤ノ木土平さんがされた。端整なお点前であった。後見のラマ師のお話し上手、笑いの絶えない良い席になった。さらにお客様一人一人についてあらかじめもてなしの用意をされているところが心憎いのである。

先だってたこ焼き茶会の折に拝見した丹波の水指が鎮座していて、蓋の載る面と胴体をつなぐのに(ラマ師曰わく)餃子の皮を閉じるときのように、指で押してつないであるのだそうだ。これも「境をまぎらかす」の一つ。
茶杓が藪内比老斎、先代の有名な竹心作ゆきをまねて作った物で、歌銘が、鶯と思ったらホトトギス(托卵)云々と掛けている。これも「境をまぎらかす」かな。



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薄茶は、唐津の鶴丸商店さんが中里太郎右衛門さん監修の元で作ったおなじみ陶片煎餅(これ、爆買いして帰った(^_^;)お客にそれぞれ好きなのを選ばせて、それの元となった古唐津の茶碗でお茶をたてるというなんともうれしく楽しい御趣向。ということは、これも鶴丸さんに茶碗をみせて作らせた特注品なのね!
私が選んだのは沢瀉、はい、これもお馴染みの好きな茶碗になった、濡れると沢瀉が浮き上がる古唐津で。(乾いていくと沢瀉の模様は消えていくの)



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驚いたのは、石ハゼで穴が開いた青唐津(珍しい)の穴まで煎餅が再現していること。いい仕事だなあ〜、鶴丸さんもラマ師も。

かくして笑い声につつまれて和やかに今年のやきもん祭茶会はお開きとなった。スタッフのみなさま、ありがとうございました。
私は、楽しすぎて、明日から普通の生活に戻れるか不安なくらいだ。





島原にて光悦を愛でた宵 - 2019.05.03 Fri

はじめ暗い小間の茶室で、タライ・ラマ師が濃茶を練っている御茶碗を見るともなしに眺めていた。練りあがった茶碗を手のひらに載せた瞬間、その感触に思わず「あっ!!」と思わず声が出てしまった。
はじめて光悦の茶碗を掌に受けた瞬間であった。



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(この茶碗はまた別の大好きなやつ、、、)


ここは都を遠く離れた長崎は島原、タライ・ラマ師の心友、M和尚様のお寺である。少なくとも江戸初期までには遡れる古い歴史のお寺に、いつの頃からあったのか、いまではわからなくなった茶碗で、以前はご家族でこれにお茶を点ててよく飲まれていたとか。
今は亡き林屋晴三先生が、蓋を開けるなり本物、と断定され、15代楽さんのお墨付きも得た光悦の赤楽である。



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M和尚様がご自分で勉強されて作られたという三畳台目の席にて、この光悦で濃茶をいただく、これはなんという僥倖か。まさか我が身にそんなことがおこるとは思わなかった。

姿や色はガラス越しにしかみたことのない「乙御前」に似て、なんと柔らかい下半身のフォルム、めりこんでしまった高台がこの手に光悦、と思わせた柔らかさ。裏返すとその艶々とした色とあいまって、女性の豊かな健康的な乳房を連想させる。しまいこまれずにずっと使われてきたからこその艶であろうかと思う。
ふちは緩やかにうねり、見る方向によってシルエットが変わる。口造りは切れ味のよさが光悦なのだ、だから蓋をあけるなり本物だとわかったのだ、と聞いた。
人肌の色に近い赤楽に薄く白い釉薬がたなびく。正面に少し、中にたくさん。銘を「峯雲」と。
ああ、はじめて光悦に唇をつけてしまった。この端整な燈火の茶室で。




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毎年この時期に焼物の町、唐津で行われる唐津やきもん祭に、古唐津に造詣が深く厖大なコレクションもお持ちのタライ・ラマ師がイベントのひとつとして茶会を開かれるようになって4回目となる。私も昨年はじめて参席させてもらい、師と現地の陶芸家さん方をはじめ、さまざまな人たちとの温かい交流、絆を目のあたりにして感動した。
同じくその茶会で、庭の二畳の四阿の李朝席を持たれたM和尚様に初めてお目にかかった。そのハイレベルな李朝コレクション、造詣の深さ、李朝への愛情、自分も李朝の文物愛する心、人に遅れはとらないつもりでいたのだが、それは見事粉砕されたのだ。

そして今年、タライ・ラマ師の御供?で、唐津をこえてはるか島原まで、とうとう来てしまった!

昨年、李朝席で展覧されていた粉引のすごくいい茶碗を「いいな〜いいな〜」とヨダレをたらしていたのを覚えていて下さったのか、この茶碗で薄茶をよばれる、これまた僥倖にみまわれた。お心遣いが涙がでるほどうれしい。

茶杓も普通はさわらせてもらえんくらいのビッグネームの、しかも銘が「客僧」というようなあまりにぴったりのを手に取らしてもろうて、、、あ、きりないからこれくらいでやめとこ、、、(^_^;)




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濃茶、薄茶をいただいたあと、母屋にきてまたびっくり!!
こ、、これは!
小盤(ソバン・李朝の小卓)を折敷に、取皿、酒器が、高麗、古唐津、初期伊万里、古染、、、なんなのこれ。ひとつあれば十分うれしい本物で、懐石すべてをカバーしているなんて、うらやましすぎる。小盤を折敷の代わりにすることは私も考えた。けれど器で傷がつくしな〜とためらっていたのを、こんなに惜しげもなく、、、、

さらに心づくしのお料理も美味しくて、、、



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お酒もすすむ。
これも超レアという鉄釉のみの鶏龍山。こんなのははじめて見た。口がくるっと土をまるめてつけたとても小さいもので、液体のキレが抜群に良く、気持ちがいい。




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焼きものの話、お茶と仕事(僧職)の話、重い話も軽口も、すべてが楽しく忘れられぬ夜になった。



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島原名物「寒ざらし」もいただいた。
豊富な湧き水が有名な島原ならではのお菓子だが、こちらのお寺にも玄関の脇に湧き水があふれ、せせらぎを作っているのには驚いた。




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島原のホテルに一泊後、翌日のやきもん祭茶会の準備のため、ふたたびタライ・ラマ師と訪れる。お庭には季節の花が大事に育てられ、枝折り戸も。



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ふたたび茶室でお茶をいただく。朝の茶室はまた違う顔をみせる。
昨夜は、江月宗玩の厳しい「本来法」の一行がかかっていた床に、穏やかなお顔の小さな掛仏様が。なんて心憎いのか。



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また違った御茶碗でお茶をよばれ、朝日の中でふたたび光悦をためつすがめつ。



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出発する間際に、こうやってかわかしておく、とおっしゃって、タオルでぐるぐる巻きにされ、丸いタッパーにおさまった光悦を見て、またビックリあんぐり。貴重な物と腫れ物に触るが如くまつりあげられるのもよいが、こんな風な愛され方のなんてすてきな!


なにより、こんなご縁をいただいた私は果報者というべき。
李朝への愛情ひとつでうけいれてくださったM和尚様、ご縁をつないでくださったM和尚様の心友、タライ・ラマ師に心より感謝いたします。こんなすばらしい先達(私の方が年上やけど(^_^;)にふれてしまうと、自分と比べて困ったことになるが、そこはそれ、己は己の茶の道を突き進むのみ、とも思うのである。





国宝・一遍聖絵と時宗の名宝展〜京都国立博物館 - 2019.05.02 Thu

(令和元年 おめでとう〜!)

京博開催中、時宗の名宝展、厖大な一遍聖絵(一遍上人絵伝)が目玉。

時宗とか、一遍上人とか、一通り歴史の勉強はしたが、時宗っていまいちなじみがない。京都に時宗のお寺ってあるのかな、と調べてみたら、なんと!ご近所にもあるじゃないか。仁王門の聞名寺、円山音楽堂あたりにある正法寺や長楽寺、かの謡曲「東北」の舞台でもある比較的ご近所の東北院も時宗のお寺だったとは!(歴史に詳しいM女史によると、京都にはけっこうたくさんの時宗道場があるとのこと、シラナカッタ、、、)

今回の展示は一遍と十数年を遊行(ゆぎょう)をともにし、後を継いで(一遍は自分一代限りとしていたが)時宗の教団としての形を整えた二祖・真教上人700年遠忌にあたる企画。



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さて、圧巻の国宝、一遍聖絵
一遍の弟子が詞書きを草案、画僧・円伊(どんなひとかよくわからないらしい)が描いた一遍の生涯は歴史資料としても価値があるらしい。五色の詞書きの部分、当時の風俗がうかがい知れる絵、最後まで見たら(かなり疲れるけど、、)一遍の生涯がざっと頭に入る。

ちなみに所蔵は神奈川県の藤沢にある、時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)



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ざっくり絵伝の内容(一遍の生涯)を、、、

一遍は伊予国の人で、最初法然の孫弟子聖達上人から浄土宗西山派の教えを受けた。そののち一度は実家に帰るものの、一念発起し家を出て、信州善光寺に参詣、そこで「二河白道図(にがびゃくどうず)」に出会い生涯にわたり尊敬崇拝、自分の本尊にしたという。

(*二河白道図:貪りや執着を表す水の河と怒りや憎しみの火の河の間をまっすぐな白い道=願往生心が通り、亡くなった人が釈迦如来に送りだされ白い道を渡って阿弥陀如来の迎える浄土に行くことができる、という比喩を描いた絵)→2つ、展示あり。

一遍、35才にして、家も田畑も投げ捨て肉親とも縁を切り、遊行の旅にでる。
四天王寺で人々に念仏札(南無阿弥陀仏決定往生六十万人)を配り歩く時宗を特徴づける「賦算」をはじめる。
熊野権現の夢告げにて「信じない人も往生できる」という時宗独特の考えに開眼。
豊後国で後の二祖となる真教上人に出会い、弟子とし、他阿(弥陀仏)の名前を与える。(真教はよって他阿上人とも)
同行する僧や尼僧がだんだん増え、信濃小田切の里で、もうひとつの時宗独特の「踊り念仏」をはじめる。念仏を唱えながら踊るというのは阿弥陀仏と一体になること、という。



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(遊行寺のパンフから)


一行は訪れる各地で、踊屋という屋根の下、鉦や太鼓の音に南無阿弥陀仏の念仏を唱えながら、集団で踊り狂う。イヤホンガイドにその音声が入っていて、まるで踊る様が目に浮かぶようであった。なんともリズミカルな声明で、確かにこれは体を動かしたくなるよなあ。ちょっとトランス状態にさせる効果があるのかもしれなくて、これが後に盆踊りになったという説もうなづける。

   はねば跳ね 踊らばをどれ春駒の のりの道をば しるひとぞ知る

この教えは当時の民衆の心をつかみ全国に広がっていき、踊り念仏には貴賤老若をとわず、たくさんの民衆があつまったそうだ。

やがて15年の長きにわたる過酷な遊行の末、一遍上人は兵庫津観音堂にて51才の生涯を閉じた。
自分の教えは一代限り、寺院を建立することや教団を作る意志がないことを言い残したという。



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この聖絵は絵画としても面白く、隅々までみていくと当時の風俗が垣間見え、興味深い。粗末なあばら屋の屋根に穀物かなにかを笊で干していると烏?がこれをついばむ、こら〜っとばかり棒で追い払おうとする庶民の姿など、くすっと笑えるところもある。当時の男女の装束も面白い。多くの女性が当時外出するときに小袖を頭から被ってたのが印象的。髭も蓄え中年に見えるのに水干を着て牛を引く、大童?も当時いたんだな、とか。




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一遍の後を追おうとした真教上人であったが、時宗の教えを求める人たちのために思い直し、一遍の思惑とは違うが、教団を整えた。四祖呑海が藤沢に建立した清浄光寺(遊行寺)は現在に到るまで時宗の教えを伝えている。

すべてを捨てて遊行、、というのはもう出来る時代ではないけれど、今でも賦算は行われ、踊り念仏も保存会(多分地域の人)があって見ることができるそうだ。しかし、時宗の僧侶はいまでも踊り念仏をされているのだろうか。時宗寺院の存在に気づかないのはそれがおおっぴらにされてないからじゃないかしら。


浄土宗は信仰のあかしとして念仏を唱えれば往生出来ると説いた。
一遍は、信仰がなくても念仏を唱えれば往生できると説く。なぜなら信心のない人も阿弥陀如来の力ですべて救われる約束に始めからなっているからという。なんとすざまじい教義であることか。





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