正倉院展2019 - 2019.10.30 Wed

今年も日本人大好き正倉院展。
しかも東博でも正倉院の展示(「正倉院の世界」)をやっているというダブル展示、正倉院のお蔵は深いなあ。
今年ははじめてご縁をいただき前日の内覧会にいってきたので、いつもは大行列のこの回廊もすいているのである。しかもイヤホンガイド無料貸し出し、図録までついてくるという。(内覧会招待者はいつもこんないい目にあっていたのね)
先日の佐竹本三十六歌仙絵展でデビューし大活躍した単眼鏡、ふたたび大活躍、これいままで何見ていたのだろう、と思うくらい展示品の細部まで見られて世界が変わったような気がしたよ。
東京に持って行かれているので、点数は若干少ない気がしたが、それでもレベルの高さはかわらない。何度も見ているものもあるけれど、今回のお気に入りをいくつか。
まず圧倒されるのが図録の表紙にもなった<金銀平文琴>
紋様の形に截りとった金と銀のおびただしい数の薄板を貼り付け、上から漆でかためた、という気の遠くなるような作業がなされていて、ためいきがでるほど美しい。金銀の板の表面に彫られた細かい模様も見ることができたのも単眼鏡のおかげ(しつこい?(^_^;)
<七条刺納樹皮色袈裟>
遠目に見て、なんだこの現代的アブストラクト的色彩は!と驚くセンス。
近くで見て、刺し子の超絶細かさに嘆息する。
六扇まとめて見るのははじめて、教科書でもおなじみ<鳥毛立女屏風>、というか6枚もあったとはしらんかった。なぜ「鳥毛」なのかずっと謎で、頭が白いのは頭巾かなにか被っているのだろうと思い込んでいたが、本来髪の毛の部分などに山鳥の毛が貼り付けられていた、とわかってすべて解決納得。
ポスターなどで一番惹かれたのがこの<礼服御冠残欠>、これ以外にもおびただしい大小の残欠があって、いずれもきらきらでかわいくて、お花の残欠など女子の心をいたくくすぐる。
古文書より、これは天平勝宝四年東大寺大仏開眼会で聖武天皇、光明皇后、その娘の孝謙天皇いずれかが使われた冠だという。事故で大破(どんな事故やろ)してばらばらの状態で保存されているとのこと。
ポスター(下)に載っている<紫檀金鈿柄香炉>
これも見所満載、柄の所に巻いてある錦や糸が鮮やかで美しく、よくこの状態で残っていたなあと感心。
そして実は一番感動したのが<子日目利箒(ねのひめとぎほうき)>
なぜか?これがかの玉箒(たまはばき)であるからだ。
ならんで展示されているのが<子日手辛鋤(ねのひてからすき)>、正月最初の子の日に天皇が五穀豊穣を願って土を鋤く儀式につかわれたもので、箒の方が皇后が養蚕の成功を願って(皇后様が蚕を飼われるのは現代まで続く風習)この箒で養蚕所を子の日に掃く儀式に使われた。
コウヤボウキの茎を束ね、鹿革で包み金糸で巻いて把手とし、箒の先にはいくつかガラスの玉がさしこまれている。掃くたびにシャラっと音がしたであろうか。
万葉集の大伴家持の歌「初春の 初音の今日の玉箒(たまはばき) 手にとるからにゆらぐ玉の緒」、これが歌われた天平宝字二年正月にまさしく使われた箒であるとは!
茶友さんが「玉箒」の銘のある道具を持っていて、それで記憶にあった歌だが、こんなところで現物を見られるとは感激なのである。
今回いただいた図録についてきたのが平成時代の正倉院展ポスターをあつめたリーフレット。
行けない年もあったが、ここのところほぼ毎年いっているので、見て懐かしいポスターもたくさん。
これはお値打ちかも。
今年もハイレベル展示、胸いっぱい。
次にお腹いっぱいになるためならまちのはしっこの定食とカフェ・minamoさんへ。
古梅園のあるずっと南の方だが観光客はほとんどいないし、中途半端な時間でも定食が食べられるのがうれしい。
古民家を改修されたお店で、トイレや洗面所も古民家の面影がありツボにはまる。
この日は定食じゃなくて気分でカレーランチ!
佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美〜京都国立博物館 - 2019.10.28 Mon
やっと国博の佐竹本三十六歌仙絵展に行けたわ。(大雨の中)

お茶をやっている方には、そのまつわるエピソードもお馴染みの三十六歌仙絵
京都だけでも野村美術館(紀友則)、北村美術館(藤原仲文)、泉屋博古館(源信明)、承天閣美術館(源公忠)があるので、単発には何度も見ているのだが、分断された36の絵が一堂に(30だけど)再び会する。
改めて説明する必要もないと思うが簡単に。
鎌倉時代に描かれたこの三十六歌仙絵は下鴨神社に伝わったといわれる。その後奥羽の佐竹家に伝わり、大正期に売りたてに出され、今の貨幣価値で数十億の値がつけられた。一時実業家・山本唯三郎の手に渡るも、維持できずふたたび売りにだされる。しかしあまりの高値にひきとる者なく、あわや海外流出というところで断簡にして売ることを決意した当時の道具屋は采配を益田鈍翁に依頼。
値段に差をつけてくじ引きで、という取り決めで鈍翁の世話のもと、近代数寄者たちが一堂に会し、くじを引いて買い取りを決め、歌仙たちはばらばらに全国に散っていったのだ。
世話人の鈍翁に坊主(失礼!)があたって不機嫌になったために鈍翁がねらっていた最高額の「斎宮女御」を当てた人が譲ったというのも有名な逸話。残念ながら今回の展示では斎宮女御はお出ましにならない。(現在は個人蔵らしい)
その時のくじ引きの竹筒を花入れにしたものや、籤の棒、さらに当時そこ(鈍翁邸内・応挙館)にあった襖絵まで展示されている。分割の目撃者、というドラマチックな効果があって、くじ引きの息詰まるような場面が想像できるようだ。(鈍翁の名前の由来になった黒楽茶碗「鈍太郎」まででてた)
分断された歌仙絵はそれぞれの所有者により独自の表装がなされ、歌仙の歌の内容に合わせたものや、室町時代の絵画を切り取る!なんていうすごい軸装もあって、一枚でも十分見る価値があるものばかりである。
その後所有者を次々と変えた歌仙絵もあり、半分くらいが美術館、半分が個人蔵、といった感じか。個人蔵はなかなか出てこないよね〜。
それがこのようにまた集合するということに価値がある。
ちなみに切断する直前までの所有者、山本唯三郎には一枚「源宗于」が贈られている。保存状態でお顔があまりはっきりみえない多分不人気であったろう一枚で、まあしかたない、といった感じか。
さて、このたびわたくし、新兵器投入、といってもただの単眼鏡であるが、これの威力がすごかった。展示物に距離はあるし照明はやや暗いし、で肉眼であまり確認できないところまでくっきり!ちょっと感激。
展示は、それぞれの軸が紺のパネルを背景に、独立して掛かっているかのようで、パネルには歌の読み下しも大きく書かれていて、とてもよかった。
お顔の表情がどれも生き生きとして気品がある。視線も月を仰ぐ如く上を見たり、内省的に下をみたり、バリエーション豊か。数々描かれた三十六歌仙絵の中で出色というのもうなづける。絵の具が落剥してあまりよく見えない装束の紋様も、描かれた当時はどんなに美しかったのだろうかと想像する。今期、女性は小野小町だけなのが残念。(小中君は後期)
それぞれの軸装の美しさも、その所有者の美意識がうかがえて堪能。
そして、変体仮名の勉強をしていてほんとによかった、と思う。(まだ勝率6割だが)
歌仙絵の歌は人に見せることが目的で書かれているので、クセのない仮名は読みやすく、私でも8〜9割いけたのがうれしくて、ついつい絵のみならず歌まできっちり読んだので、かなり時間がかかってしまったが、これもしあわせな時間。よく知っている歌もあり、初めて見た歌もあり、、、
「桜散る 木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞふりける」
紀貫之のこの歌が一番お気に入りかなあ。
展示は佐竹本三十六歌仙絵のみならず、関連のものもたくさんあり、国宝もいくつかでてたので、お値打ちというかもうお腹一杯(^_^;
さすがにこれは欲しいな、と思ったので分厚い(約25mm)図録を購入。値段もゴージャスだが内容もゴージャス。
各歌仙の、全体図+本紙のみ+歌仙の顔、がセットになってます(*^_^*)b
淡路島にて名残の茶事 - 2019.10.27 Sun
ツバキ科の楚々と下を向く茶(チャ)の花も咲く名残の季節

明石海峡大橋を渡って晴天の淡路島へ。
今日は茶事によびつよばれつのお仲間でお招きの順番、亭主は師匠(私淑中)である。流派も裏千家、山荘流、紫野遠州流(仮)、藪ノ内流と多彩な面々。これがまた楽しい。
おりしもこの日は天皇即位礼の日であった。
半年ぶりの露地は樹木の落とす影が長い。
待合に益田孝(鈍翁)の軸、おお、そういえば現在京都国博で開催中の佐竹本三十六歌仙絵をぶった切った(^_^;)大立者だわ。またお正客様の山荘流流祖・高谷宗範とほぼ同時代の人でもある。
席入りすると、六歌仙の歌を色紙にちりばめた風炉先、軸が伝寂蓮右衛門切(先日の和楽茶会にもでていたがすっかり忘れてた!)佐竹本三十六歌仙絵につながる和歌の世界だ。「をみなへし(女郎花)」の歌であったが、まだ完璧には読めぬな。
色紙風炉の二文字押し切りのエッジがぴしっと立ってさすが。
(私は今年全部丸灰でお茶を濁してしまった)あまりに美しいので、初炭で風炉中拝見所望。
懐石も師匠お手製
向付が古染の写しで有名な村田森さんのザクロ。村田さんの古染写しは私も好きで何種かもっているが、現在ご病気療養中とのこと、早いご回復を祈りたい。
富山の万惣さん直伝のカニしんじょうはフワッフワで感動的。私のはどうしてもカマボコみたいになっちゃうしなあ。
石杯に「これでしょ?」と選んでくれたのは、うふふふ、、、大好き三島の盃、にんまりがとまらん。
強肴の鉢も以前から知っている来賓三島のかっこいいやつがでてきて、ニヤニヤしていたら連客に「あやしいですよ。」と言われた。
主菓子、美しい五色の糸のオダマキがこれまた師匠のお手製と聞いてまたびっくり。
銘が「揺蕩(たゆたふ)」(多分、、、(^_^;))当日即位礼で、皇族女性方がお召しのご装束や檜扇の飾り紐の連想でもある。(後日師匠より「天雲の たゆたいくれば ながつきの もみじの山も うつろひにけり」(万葉集・遣新羅使)の歌から、とご指摘ありました)
縁高が黒くてみえないが、実は結んだ干瓢が入っている。お正客が遠州系の流派なので、遠州流茶事にならったものなのだそうだ。
そういえば四つ頭なんかでも椎茸とかでてくるし、裏千家でも奥伝の菓子に蒟蒻とかでるときもあるから、その名残なんだろうか。
八寸の生栗は初めての食感。シャクっとしてあとでほんのり甘い。今後うちでも使えないかメモメモ。
後座
秋明菊を入れた竹の一重切は尾張徳川家12代知止斎(徳川斉荘)のものだったか。茶を裏千家の玄々斉に習ったという。その玄々斉の茶杓がでていたが、私始めて本物をじっくり見たかも。頭巾型の櫂先はよく見るが櫂先の裏の削りの迫力あること。
濃茶をそれぞれの流儀で飲むのが見ていて面白い。ちなみに濡れ小茶巾を使うのは裏千家だけ。茶碗手渡しありなしもそれぞれ違う。
干菓子がこれもお手製のピーナッツ州浜!+ドライイチジクのチョコレートかけ。
薄茶のお茶碗はとりどり、やはり土地柄、懐石の器もだけれど初代珉平(文政年間)の作品がたくさん見られるのはうれしい。あの独特のねっとりしたグレーの土味は、同じく淡路島特産の瓦の土からきていると知って、なるほどと納得した。絵付けも色も華やかな京焼と違う鄙びている感じが味になっている。残念ながら廃絶してしまった焼物。
茶事に慣れている師匠は重厚にも軽妙にも茶事を操れる。いつかあのようにさらさらと気負わずに水のようにできればな〜と思うが道遠し。そうこうするうちに体力の衰えも感じてきたしね。でもがんばろう。
帰り道、行きに明石海峡大橋を眺めた淡路SAの観覧車はライトアップされている。これを見ながら淡路島をあとにした。
小文法師忌2019〜西行庵 - 2019.10.25 Fri

観光客でごったがえす円山公園あたりも朝早くはこんなに静かだ。
真葛が原の西行法師ゆかりの西行庵、この季節は毎年、荒廃していたこの建物を救った宮田小文法師(嘉永5年〜昭和4年)の忌日茶会がもよおされる。
西行庵保存会に入って、こちらに通い出して何年になるだろうか。小文法師忌も回を重ねた。
そうこうするうちにこの建物はとうとう京都市の文化財指定を受けた。ここにご家族で暮らしつつ管理維持されている庵主さまのご苦労たるやいかばかりか、といつも思う。
寄付の丸炉のある小間で東山五条(+北白川)山もとさんのお菓子をいただく。
この小間はたまに釜が丸炉に懸かることがあって、好きな茶室。
外から皆如庵へ席入り。
二畳+道安囲+円相床とみどころの多い茶室で、作ったのは高山右近とされている。
円相床には障子がはいっていて、そこからの光りをバックに花が影になって見える様はいつみてもドラマチック。床の真ん中に窓があるため掛け軸は袖壁に懸ける。忌茶会にふさわしい阿字観音。(梵語の「阿(弥陀仏)」)
小文法は小堀遠州流(遠州流宗家と別)を学んだだけでなく、裏千家圓能斎とも親しく、大日本茶道学会の田中仙樵とも交流し流派を問わず、訪れる人に土間で一服お茶を差し上げていた。
浄土宗でありながら真言密教、臨済禅とこちらも宗派にとらわれず勉強されたそうだ。
その教養のみならず洒脱、風流を愛する心は人をして「京洛四奇人」の一人とよばさしめ、愛された方だったらしい。
柄杓をひいたあと、道安囲いの障子をあけ、下地窓の光りを背景にお点前される若い女性は一服の絵になっていて、BGMが庵主さまのご子息のあげられるお経、このひとときはお茶の美を堪能する幸せなひとときである。
お道具も、小文法師手づくねの茶碗だったり、法師が師事された小堀遠州流家元のだったり、宗教的に師事された建仁寺・黙雷和尚のものだったり、、、ゆかりの品がたくさん出された。
私の好みはやはり粉引ですね。雨漏りがたくさんはいってヨダレでそう(^_^;
続き薄で薄茶もいただいたあと、美味しい点心。西行庵の点心はいつもちがう仕出屋さんので楽しみなのだが、今日のはどちらのか聞くの忘れた!(←柿傳さんと判明)
影の庵主(?)ともいわれる猫のくーちゃん(本名・在中庵)に敬意を表して猫の帯を締めていったが、残念ながらご本猫には会えず(´・_・`)
令和最初の開炉 - 2019.10.24 Thu
ゲストハウス・月とさんでみのり菓子さんランチ - 2019.10.23 Wed
ご近所にある聖護院のゲストハウス月とさん。

オーナーのお祖父様、お祖母様のお家だったそうで築120年の町家である。かつては旅館、下宿屋だったそうだが、今は外国人観光客にも人気のゲストハウスになっている。
昨年こちらでひいお祖父様のコレクションだった月岡芳年の浮世絵を見せていただける会があって、それ以後もお茶のイベントなど、ときどきお邪魔している。
ちなみに「月と」は、お祖母様と交流があったという谷崎潤一郎の「月と狂言師」からきているとか。
(1Fのフリースペース)
このたびお茶イベントでお菓子を作ってくれているみのり菓子さん(若い女性です)が毎週金曜日限定でランチをここで供してくれることになった。高野の日替わりオーナー制リバーサイドカフェでランチとお菓子をだしてはるみのり菓子さんだが、月曜日なのでとうてい行けない、、、と思っていたところ。
キッチンの前にはきんとん篩いが。
メニューはランチ900円とお菓子も。
最初窓際の席にすわって坪庭の緑を楽しんでいたが、どうも庭の向こうの縁側が気になる、、、、
で、あつかましくもそちらの席に席替え。いままですわってた席を眺める。
町家の坪庭って大きいのも小さいのもほんとうにいい空間。ほっとするわ。
お庭は整備されたと思うが、残された人形とか、織部の風炉敷とか、大きな焼きものの鉢(金魚鉢?)とかは、きっとお祖父様お祖母様あるいはそれ以上昔のご先祖様が集めてきた堆積だろうな、と思うとなんだかいとしい。
縁側の席、おそらく左手のパーティションが本来はなくて、坪庭をのぞむ縁側のある部屋だったのだろうな。
この伏見人形とおぼしき人形のそばにWi-Fiとかあって、ここがゲストハウスだったことを思い出す。
お一人でされているので、準備できるまでゆっくり本でも読みながら待つよ。
ようやくでてきたランチプレートはおむすびがほろっとして美味しい。大根人参の酢漬けが美味い。いずれもお精進、味付けは控えめのヘルシーランチであった。
ごちそうさま!
食後月とさんの中をちょっと探検、なんとなつかしいタイルの洗面台!
こんなものに出会えるからここは好きやわ。こんな昭和なノスタルジックなゲストハウス、うちらにはただただ懐かしいけど、外国人観光客にはイメージの中の日本的生活が垣間見られて満足できるのではないかしら。
東大寺慶讃能2019 - 2019.10.21 Mon

10月15日
この日も東大寺は観光客やら修学旅行生やら鹿やらでおおにぎわい。
今をさかのぼること1277年前、天平15年のこの日、聖武天皇は毘盧遮那仏建造発願の詔を発した。
よってこの日は毎年午前中慶讃法要ならびに表千家による献茶式、午後から慶讃能が行われる。
、、、、あら?もう幡を仕舞うの?
法要、献茶式が終わると能がこれからなのにとっととしまっちゃうのね。でも滅多に見られないシーンを見てしまった。
能舞台は南大門を入ったところの鏡池に浮かぶ。
屋外の舞台であり、通りすがりの観光客も自由に見られ写真を撮ってもいい舞台なので、少々特殊な舞台である。
演能中の写真を撮れる機会は滅多にないから、がんばって望遠レンズを持っていく。(でもこれくらいがリミット)
仕舞「班女」「松虫」、謡い「蝉丸」と続いていよいよ本日お目当ての能「東北(とうぼく)」
これが始まる前に帰ってしまう外国人観光客に「これからが本番なのに〜〜」と引き留めたかったが、、、(^_^;
池の浮島にしつらえられたとおぼしき控え室から、まずは囃子方、地謡の方々が登場。
演目の「東北」は、、、、都の東北院(真如堂の近くで我が家からもまあまあ近い)の梅を旅の僧が愛でていると里女が、この梅は和泉式部がかつて手植えした梅で式部が軒端の梅と名付けて朝な夕なに愛でた梅である、と告げ読経を頼み消える、、、という前半はカットされ、後半のみ演じられる。
ちなみにこれが現在の東北院の軒端の梅である(4年前の2月に撮った)
梅の盛りでも、ほとんど人が見に来ないひっそりとした場所にある。梅の精が出てきてもっと見に来て愛でてよ、と言っても驚かないよ(^_^;
旅の僧はいまやワキ方としてひっぱりだこの(遠い後輩の)有松遼一師。
後シテの和泉式部、演じるはシテ方山中雅志師
朱の袴(緋大口)に長絹という高貴な姿である。
かつて関白藤原道長が東北院の門前を車で通りかかり、法華経を声高らかに誦したので、中にいた和泉式部が「門の外 法の車の音聞けば 我も火宅を出でにけるかな」と詠んだ。その功徳で死後歌舞の菩薩となった、といういきさつを語る。
(火宅云々は法華七喩の中の「三車火宅」をベースにしている)
♪ 春の夜の闇はあやなし 梅の花
色こそ見えね 香やは隠るる 香やは隠るる
(古今集 凡河内躬恒)
このように大仏殿を背景に見る能はちょっとタイムスリップしたような気持ちになる。
鏡池にほんのりうつる陰もまた美し。
浮島には東大寺の幔幕を張り巡らし控え室に。
すでに色づき始めた木々の色。
まあ、残念だったのは観光地ど真ん中で、能を初めて見たという人も多く、ざわざわと周りが騒がしすぎること。いいところで金切り声や怒声が響くからなあ。ロケーションとしてはしょうがないけど。
♪ 此処こそ花の台(うてな)に 和泉式部が臥所(ふしど)よとて
方丈の室に入ると見えし夢は 覚めにけり
和泉式部の魂は去って行きました。
帰り路
お約束の奈良の鹿
鹿煎餅も値上げされたそうだね。
最後は中川政七商店ならまち茶論にて、この季節鉄板の善哉とほうじ茶で締める。
西本願寺日曜講演+書院見学・御菓子丸さんのお菓子付き - 2019.10.19 Sat
西本願寺では月に一回日曜講座というのが開かれているらしい。申し込み不要、しかも無料、どなたでも、というのと今回の演題が今まさに京都国立博物館で開催中の「佐竹本三十六歌仙絵」、本願寺の書院で御菓子丸さんのお菓子付き、、、というのにいたくひかれてでかけて行ったのだが、、、、

Σ(゚д゚|||)
永青文庫の副館長もされている講師の橋本麻里さん、台風の影響で新幹線動かず、御入洛できなかったよし。(改めて東京って遠いなあ)残念だが、講師差し替えでされるらしいのでとにかく中へ入る。
場所は西本願寺の北の聞法会館(もんぽうかいかん)総会所。
ここでは毎日お西さんによる法話(常例布教)も行われているとか。なんと広い座敷だ。
本来は唐紙の実演で講演に花を添えるだけの予定だった(料紙の話もされる予定だったので)唐紙のかみ添の嘉戸浩さんが急遽講師に。
しかし、時間がもたない、ということで国博から出張してきたトラりんが、愛嬌をふりまいたり握手をしたり一緒に撮影大会をしたり、がんばってくれた(^_^;
ちなみにトラりんは光琳の「竹虎図」からうまれた京都国立博物館公式キャラクター。
自分で自分の似顔絵を描いたり大サービス。
本来のテーマである佐竹本三十六歌仙絵展のPRが目的であるが、十二分にその役目を果たしたと思うね。(この展示、期待してわくわくしているのだが、いつ行くか検討中)
そしてかみ添さん登場。
紫野の町家で、10年ほど前に出来たときからたまにのぞいたり、カードや便箋を買ったりしている唐紙のお店である。唐紙で有名な唐長で修行されたあと独立された。伝統的な版木だけでなく、印度更紗の型をつかったり斬新な型押しの紙製品を作っておられる。
唐紙には料紙(石山切なんかね)と室内装飾(襖など)があるが、かみ添さんは主に後者をされている。
実演してくれた型押しは襖の12分の1のサイズになるという。これを横2列縦6列に並べて一枚の襖が完成する。一見単純で簡単そうにみえる作業だが、そこにいくまでの準備や、季節や和紙の出来具合による微調整が必要だとかで、そこはやはり職人技が必要なのだ。
型押しに使われる道具と材料は
胡粉+雲母+フノリ+(色付けの顔料)
特徴的なのが版木に直接色を置かず、篩とよばれる団扇みたいな道具で色を置いていくところ。この篩はじめて近くで見たわ。ガーゼをフノリつきの紙テープで留めてあるのね。
摺り上がった鳥の子紙(襖に使う)と版木、雲母のせいでキラキラと美しい。
会場には、西本願寺の門前で本願寺はじめ文化財修復を手がける宇佐美松鶴堂さんもおられて、所有されている貴重な版木も展覧してくださった。これは絶対非公開の西本願寺黒書院(門主のプライベート空間)襖の版木なんだそうだ。あらかじめ和紙に墨をおき、金箔をはった上に型押し、、、というまことに手の込んだ唐紙だとか。
トラりんの活躍もあって、無事時間通り講演は終了したが、始まる前にお菓子丸さんのお菓子付き本願寺書院見学を申し込んでおいた(有料)ので、境内に移動。
修復中の阿弥陀堂〜御影堂を通りぬけるとき、必ず下を見る。
ここの床の埋木のバリエーションはほんま見ていて飽きないので、これは是非オススメする。(以前コレクションした埋木の記事はコチラ)
(遠くに本願寺伝道院、境内に近く始まる献菊祭の準備)
国宝や重文にあふれた書院建築群、能舞台は撮影禁止だが西本願寺のHPで写真をたっぷり見ることができるので是非!
桃山の建築群の中で特に印象深かったのは白書院の豪華絢爛欄間と北の能舞台(屋外に2つあるうちの1)、いずれも国宝。宗教者がこんなに贅沢してええんかいな、と私なぞは思うほどすごい。しかも修復につぐ修復が重ねられているとは言え、ここまで残っているのもすごい。
東狭屋の間の天井に描かれたおびただしい書物、その中に1匹だけいる小さな「八方にらみの猫」(鼠から書物を守る意)もお忘れなく。
書院は日ごろ結婚式や信者さん達の集会などでもつかわれているようで、この日も結婚式のカップルの撮影が二百畳敷の鴻の間でおこなわれていた。
最後にお待ちかね、北の能舞台が見える部屋で御菓子丸さんの特注和菓子をいただく。
銘を「黒衣(くろこ)」
「黒を纏った(竹炭)羊羹の中には季節の味が閉じ込められている 何が入っているのか、自分に問うお菓子」の説明が。
ほんのりラム酒、閉じ込められた季節はおそらく柑橘。美味しく美しくなんだか哲学的なお菓子である。
お菓子に添えられていたのは、先ほどかみ添さんが摺っていた唐紙。
裏に山口晃画伯(大好き)デザインの西本願寺参拝記念のハンコ、これは記念になるなあ。
そして見る角度によって色が変化する唐紙の真骨頂!
最後に修復を終えたばかりの国宝・飛雲閣を久々に拝見、外観だけだけど。
この左端が江戸時代に増築された部分で、藪内六代比老斎によるといわれる茶室・憶昔(いくじゃく)かな。
飛雲閣を最後に書院ツアーは終了、三十六歌仙絵の話は飛んでしまったが、けっこう充実した講座であった。
誉田屋にて源兵衛さんに帯の話を聞く〜神名舎イベント - 2019.10.16 Wed
誉田屋(こんだや)さんといったら、室町の中でも有名な存在感のある帯屋さんである。
祗園祭の黒主山のご町内なんで、山が巡行から帰ってきた時、表で「ごくろうさん、ごくろうさん」と役員さんや舁き手一人一人をねぎらっておられる当代(10代目)源兵衛さん。印象的な迫力あるお姿なので、一度見たら忘れられない。
この室町通りに立つ表家造りの大きな京町家は憧れの的であり、いつもは前を素通りするだけであったが、なんとこのたびこの中へ入ることを許され、なんとうれしいことであろうか。表では番頭さん?がちゃんとお迎えしてくれはる。
これは秋尾さん企画の神明舎A-studioのイベントなのである。なんて貴重な機会、ありがたい!一生あの中にへ入れることはないと思っていたからなあ。
トークセッションがおこなわれる奥座敷。私が今までたくさん見てきた表家造りの京町家の中で、ここは最大級といっていい。しかも糸偏業界らしい艶っぽさもあって、働く方々もかつての室町の最盛期そのままといった感じである。
つい最近、NHK・BSプレミアムで「究極の帯〜帯匠・山口源兵衛と仲間たち〜」を拝見したばかり。一流の織り職人を探し出し、まとめ、究極の帯を作っていく日常の姿から、今回鎌倉時代の名画「那智瀧図」を帯に織り上げるために奄美大島まで職人を訪ねて、何回も失敗を繰り返し、時には職人を追い詰め、ようやく完成させるまでのドキュメンタリーであった。
製作にあたって、実際の那智の滝を見に行って、職人たちと一緒に見入る姿が印象的であった。
まずは二階のギャラリーで、珠玉の帯を源兵衛さんの解説付きで拝見する。
(ひとつひとつの帯は誉田屋HPのギャラリーで見られます)
那智瀧図もそうだが、中国の古い墨絵の鯉を帯に映したり、絵画がもとになっているものが多い。しかもその技巧がまさに超絶、いったいどれだけ手間がかかっているのだろうかと思うような逸品ばかり。若冲の動植綵絵にあった菊の花の花弁の透ける様までこまかくこまかく写してもうため息しかでないのである。
この芭蕉の織りもすごいが、一点とまっているテントウムシが見えるだろうか。これはなんとルビーなんですよ〜♪。他にも蓮の葉に置く露がキラリとダイヤモンドだったり、そんな仕掛け、いままで一体誰が考えただろう。ラピスラズリを糸にしたフェルメールブルーの花の帯もすばらしかった。「和装の華・帯を劇的に変えた男」とは、言い過ぎではない。
誉田屋さんはいわば帯のプロデューサーであるので、この方面が得意な職人、あれが得意な職人、と帯制作を預ける職人を探し出すのも仕事である。頑固者の多い(^_^;職人との人間関係、信頼関係を築くのは、なみたいていのことではないと思う。長年断り続けられていた職人さんに、あるときふと引き受けてもらった瞬間もあったという。
これは一見黒っぽい帯にしか見えないが、やや暗い場所で見ると、玉虫色にキラキラ光るのである。見る方向で光の色が自在に変わるのだが、一体素材は、、、?
実は孔雀の羽根なんである。あの玉虫色の部分だけ、しかも同じ方向に織っていくためには、おびただしい羽根と熟練の技と、気の遠くなる根気が必要となる。
こんなのを締めた女性に会ったら惚れてまうやろ。
小石丸というのは日本在来種の古代繭で、紅葉山御養蚕所でのみ、皇后様御親蚕に使われる品種である。細くしなやかで上質の繭であるが一時は絶滅の危機にさらされた。正倉院染色品復元10ヶ年計画に採用され息を吹き返したという。さらに2002年小石丸養蚕が一般にも解禁され、誉田屋さんはすぐにその復興にとりかかったという。
これがその小石丸で織り上げ京紅色に染め上げた逸品である。手触りはわからないながら、見た目だけでとろんとした柔らかで軽やかな布であった。
一通り帯を拝見して、ため息をつきながら、次は奥座敷でみなさんと一献かたむけながらのトークになる。(いや、源兵衛さん、どこにいらしても独特のオーラがあるわ)
松花堂は、これも源兵衛さんとゆかりのある木乃婦さんの誉田屋スペシャルメニュー(食べかけです、ゴメン)。松茸の土瓶蒸しが美味しい♪
お近くに席をとれたので色々お話しが聞けた。
NHKの番組をみて疑問に思っていたのが、那智瀧図は滝だけに長く、帯として締めることはできるのか???と。これをお聞きすると「いやあ、帯として締めるもんやない」とのお言葉。本物の那智の滝がご神体であるがごとく、あれはご神体なんや、と。
自分なりに解釈すると、実用的に締めるものではなく、帯作りの技法を極限まで追い求め、高め、それらを後世に残すための「作品」、、、であろうか。
もちろん実用の帯もたくさん作っておられるので、それらの収入がこの「締められない」帯製作の費用になっているから、とはナビゲーターの秋尾さん。その誉田屋さんの帯を締めていらした。平家納経の女人往生を説いた「法華経」の一部分というから、実用といえどもすごいわ。
最後に2グループに分かれて誉田屋の奥深く、小間の茶室にいざなわれる。
蝋燭の灯りの下でこそ見て欲しいという帯は、かけてある白い布をとりはらうと、なんと立体的な刺繍をほどこした能の小面があらわれた。これがまた見る方向によってまったく表情をかえるのは実際の能面以上で鳥肌がたった。たしかにこれは蛍光灯の下で見たらあかんと思う。
刺繍職人はもう二度とこんな仕事はできない、と言っていたとか。それほど厳しい仕事であったのだろう。
最後に誉田屋さんの玄関はいったところ(人力車まである)で全員の記念撮影。
最大級の通り庭を通りぬけたところにあるお手洗いを借りたら、その奥はもう黒主山のお蔵になるのである。
裏から見る暖簾のレアな画像を置いておこう。
なんともうっとりしながらも、帯1本に懸ける源兵衛さんの、そしてたくさんの職人さんの情熱をしっかりかみしめた宵であった。
秋尾さん、神明舎さん、ありがとうございました。
野村美術館講座〜「羽箒にひかれて」下坂玉起さん - 2019.10.14 Mon
茶の湯の道具で意外とだれも研究してこなかったのが羽箒だ。生物由来ゆえ伝世がむつかしいということ、茶人は一般的に鳥そのものに興味を持つ人が少ない、、ということがあるだろう。ところが茶人でもあり、日本野鳥の会元探鳥会リーダーという二つを兼ね備えた方がいらしたんですねえ。

下坂玉起さん。
実はこの本を昨年末手に入れて記事にも書いた。茶友の何人かは実際に下坂さんにお目にかかったことがあったり、お手製の羽箒を拝領されたりしていて、おうわさはかねがね。けれどお目にかかったことがなかったので、野村の講座に講師としておいでになると知ってとてもうれしかった。
(野村美術館へいく道すがら、元・細川家お屋敷)
講演は御著書に沿った内容で、今までだれも見てこなかった羽箒からの茶の湯の視点がとても面白い。あらためて書かないが(是非ご一読を)印象に残ったことなど。
(毎度おなじみ碧雲荘脇の疏水分線の道)
古来、利休をはじめとして有名な茶人が、その肖像画に羽箒をもっていることが多いことや、江岑や如心斎が「帛紗と羽根」を同等に扱っていることなどから、羽箒は茶の湯の道具として重要な物と認識されていたこと。
羽箒は流派によって懐紙にはさんで席中にもってはいるなど、色々な物を清めるための道具であり、炭手前だけの道具ではなく、浄め、儀礼の道具であること。
かつては水屋道具だった羽箒が織部あたりから棚に飾る道具になったこと。
織部は12通りの吊り棚飾りを考案し、置あわせで道具の甲乙を示したこと。(←これを江岑はかなり皮肉って批判している)
その中に、自然の状態ではどうしても曲がる羽箒の安定性を確保するために鐶を枕のように置く、というのがあった。自作の羽根がどうしても置いたとき浮き上がってしまうので、これはいただきのアイデアだな。
(前期の展示では高麗茶碗のそろい踏みがすごいよ!)
さて、今回は講演だけでない。講演の後、茶室に御著書の中に出てきた珍しい羽箒はじめおびただしい羽根の実物(伝世あり、自作あり、羽根師杉本家作あり)を展覧、下坂さんの説明付き!という貴重な贅沢な講座となった。
本にもあった、当時知る人がほとんど限られていた青巒(せいらん)の羽根のCGか?と思うほど不思議な美しい羽根も間近に見ることができた。一般的にシマフクロウといわれている羽根は本当はワシミミズク、など、生物学的には違う名前をつけられている物も多いというのは目からウロコ。
また三千家の羽箒の違いとして三本並べられていたのも興味深い。(あまり違いがわからなかったが(^_^;)
茶箱用として様々な種類の小羽根がずらっとならべられていたのは圧巻だった。どれも美しくかわいく、ほしい!と思わずにはいられなかった。
(最後に御本にサインしていただいた!)
江戸時代の禁鳥制と現代の保護制度のはざま、エアポケットのような時代に、動物愛護家が目を剝きそうな乱獲が(当時支配していた)満州や朝鮮、東南アジアまで行われていて、同時代活躍した近代数寄者たちは競って珍しい鳥の羽箒を作ったという。
そのせいばかりでもないだろうが、羽箒に使われる鳥種はほとんど絶滅危惧種なんだそうだ。
日本の羽箒は世界に類を見ない伝統文化財であり、茶の湯と鳥類研究双方の歴史的資料であるので、今ある羽根は稽古用とかいわずに大切に使い傷んでも捨てないで後世に伝えて欲しい、それが下坂さんの最後の強いメッセージであった。
奈良坂・奈良豆比古神社〜翁舞 2019 - 2019.10.11 Fri
奈良市の北端、奈良坂にある奈良豆比古(ならづひこ)神社は万葉歌人で有名な志貴皇子を祀る。
誰でも知っている有名な「いわばしる 垂水の上のさわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」の作者であるが、好きな「采女の袖ひるがえす明日香風 みやこを遠み いたづらにふく」、、これも彼だったんよね。
10月8日はこの神社の宵宮祭、国の無形民俗文化財である翁舞がおこなわれるのだ。(20時〜)
朝から雨が降っていたが、夕方にはやんで雲も切れてきた。奈良坂あたりはまわりも真っ暗、そのなかでご近所の祭礼灯がほんのわずか灯る小さな神社である。

志貴皇子は歌人としては有名だが、天智天皇の息子でありながら(当時天皇は天武系が継いでいた)政治の表舞台に出ることがなく薨去された。しかし歴史のいたずらで彼の死後、天武系の後継者が絶え、皇子の六男・白壁王が光仁天皇として即位、「春日宮天皇」(もしくは田原天皇)の追号を送られている。
しかし後世に歌人として名を残した方が大きい功績だと私は思うよ。さわらび〜の歌はほんといい歌だしね。
19時半ごろには舞台とお社の間の松明に火がはいる。こんなローカルなお祭り、、と思ったが、外国人観光客もいて、19時には舞台まわりはびっしり人垣が(;゜0゜)
さてこの翁舞、志貴皇子の第二皇子・春日王が病を得た時、彼の息子ので歌舞音曲芸能好きであった浄人王が、父の病気平癒を祈って芸能を神に奉納したところ快癒したことが始まりとされている。
神社が有する面(おもて)の中には室町初期のものがあり、猿楽の黎明期と一致し、この翁舞はのちの猿楽能楽の原型であることは確かだということだ。
まず鼓や笛、地謡が舞台に上がり、お社に向かって拝礼する。だから舞も当然ながらお社に向かって演じられる。
ここの翁舞は三番叟の原型と言われ、現代の三番叟が千歳・翁・三番叟と三人で演じられるところ、古式のそれプラスαがあるのが見所である。
翁舞は翁が三人で舞うという特殊なもので、翁役の三人は翁らしく両手をひろげて舞台に上がる。
千歳は15歳までの男の子がつとめるのが決まりらしく、今年は10歳の子だと聞いた。翁の面がはいった面箱をうやうやしくささげて舞台にのぼる。
現代でも翁は「能にして能にあらず」といわれる特殊な舞であり、舞台で神懸かり状態になることを表す、むしろ古代宗教的呪術的な意味合いと言われる。だから現代でも翁だけは面を舞台上でつける習わしだ。
まずは前謡、かの有名な(意味不明でも有名な)
♪ とうとうたらりたらりろ たらりあがりららりろ、、、、
から始まる。
(とうとうたらり、、のちょっとあとから始まってます)
そして千歳の男の子
きりっとして登場。むつかしい謡をよくおぼえたね。
ゆっくりな脱力系のお囃子と共に舞台を四角く何周かするのだが、これは、、、うむ、「道成寺」の乱拍子(1m四方を15分以上かけて回る)を連想させるな。
次は一人翁の舞
♪ あげまきや とんどうや
の不思議な呪文があたまにこびりつく。
それにお囃子の ♪おんは〜〜 のところの脱力感がもうツボでツボで❤️
↓ とりあえず聞いてみてくだされ。
この一人翁のあとに、控えていた脇が二人でてきて他に類を見ない三人翁の舞になる。
この三人でてくる意味はわからないらしいが、かつてはこれが原型だったのかもしれない。
♪ 富貴栄華と守らせたまうこれ喜びの まんざいらく
まんざいらく まんざいらく まんざいらく
、、、で、すっかりめでたい心地がする。このあと面をはずして、神様に拝礼したあと、とっとと舞台下に退場するのも見所。
三番叟は動きが一番激しいので演じるのは若手だ。
出演者は氏子中で継承、しかし、ごたぶんにもれずここも後継者不足、保存会を作って維持されていると聞いた。
♪ 喜びありや 喜びありや
三番叟はセリフが口語に近く、所作もなんとなくユーモラス。
ひとくせ舞ったあと舞台上で黒式尉という(翁の面の黒バージョン)面をつけ、この翁舞独特の千歳との問答が始まる。
しかも問答とはいえ、問いかける方は相手の方を向くが、問われる方は神様の方を向く、という顔をあわせない不思議な形。
せりふは口がもつれそうな古語で、これはずっと伝承されてきたもので、室町の口語なのだろうか。狂言の言い回しにちょっと似ている。しかし、意味はあまりわからない💦
われらがなおうずるはじょうどんの前よりもってやすう候 まず御舞候え
ただ御直り候え さらば鈴を参らそう
鈴を千歳から受け取って三番叟はそれを持って舞う。現代の三番叟の鈴の段は、本来はこういう形だったのか。
三番叟が舞い終えるとお囃子も次々と下がっていき、舞台は空になる。
あ、月がでてきた。暗くて見えないとおもうけれど、その横にそびえる影は奈良県天然記念物の大樟(樹齢不明)である。春日王が病を得てこの地で療養した時の記録に「大木繁る平城山の一社に隠居さるる」の文言があり、まあ、その当時の木ではないだろうと思うが。
しかし、昭和27年に枯れてしまったが、万葉集にも歌われたコノテガシワ(児の手柏)樹齢1300年と断定された切り株が境内にあるので、油断はできない(^_^;)
21時にお開き、夜のバスは暗い道をすっとばして10分で近鉄奈良駅についたのであった。
猿楽の原型はとても印象強く、これは今後観能の時に思い出すだろうなあ。
東京神楽坂夕ざり茶事 - 2019.10.09 Wed
ここは東京の神楽坂。名前はよく聞くが来たのは初めて。なにやらオサレな町だわ。

お知り合いになってもう数年になるが、我が家の茶事にもお招きしたことのある東京の茶友のKさん、いつか茶事によんでね、といいつつ苦節(?!)何年、やっとお約束をいただいたのが昨年であった。そして待ちに待ったこの日である。
神楽坂にある某割烹のビルの中、良い感じの露地や茶室もあって、今回は二畳台目の小間を使ってのお茶事のご亭主である。いつもSNS等でリアルタムで拝見しているのだが、Kさんのお茶事のお稽古にかける情熱は真摯ですざまじい。私なら我流でいい加減ですませているところにも手を抜かない。お仕事をされながら空いている時間はすべてお茶に捧げているようにお見受けする。
京都の真珠庵で年に何回か禅をベースとしたお稽古もされているので、待合の真珠庵の和尚様の色紙を見て納得した。
「純一無雑」 ひとつのことに純粋に夢中になること、ととらえるとまさに彼女のお茶への姿勢そのものではないか。
今回は時間は正午であるものの、ビルの中ゆえ照明が調整できるのもあって、彼女のたっての希望で夕ざりの趣向となった。なんでも初めての試みらしいから、それに立ち会えるのは光栄なこと。
茶室は二畳台目中柱の小間である。床には白い花として秋明菊、名残の季節らしいおわりかけの尾花が良い感じである。
懐石もお酒も御連客様と楽しくお話ししながらいただいて、初炭点前となる。
ちらっとみえる灰型が、ご本人は謙遜されるがとても綺麗で、いつも灰型のお稽古を熱心にされているのを知っているのでアドリブで風炉中拝見所望。二文字押し切りがエッジがたってとてもきれいだった。
ちなみに名残の季節の釜らしく、わびた尾垂釜であったが、なんと淡路島の(共通の茶友である)師匠からの拝領品ときいて驚く。東京でお目にかかれるとは!
いがの中の栗、といった風情の主菓子をいただいて中立。
躙り口からでるとビルの中ながらほぼ真っ暗。手燭がちゃんと準備されていた。
(お見立ての煙草盆がかわいくてちょっと萌えた)
喚鐘の鳴り物で後入り、席中には短檠(竹檠がなかったということで)の灯り、床には「壺中日月長」の掛け物。灯りの届く範囲だけが自分たちの世界のように思える暗い茶室の中で、まさにうってつけの軸である。
禅の呼吸法を身につけておられるだけあって、お点前は姿勢良く呼吸のリズムでゆったりと。日ごろ自分ができているつもりでやっていた引柄杓が、全然ダメじゃん!と思うくらいきれいな引柄杓には感動した。
薄茶の干菓子がご友人の手作りで、左の大徳寺納豆のお菓子は素朴ながら後を引く味。(のちにお土産に一袋いただいたが、美味しくて一気食いしてしまった。)
旧暦重陽の節句にちなんで菓子器の盆も菊、薄器の立ち上がりにもびっしり菊の蒔絵、先ほどのお菓子は酈縣山(れっけんざん)であったか。ご亭主は、菊慈童の話は長寿を寿ぐというが、あまりにも悲しい話であるとおっしゃった。それは私も全く同感であり、あんな山の中で700年も一人でいるという孤独はあまりにも悲しい。壺中で、御連客方々、菊慈童に代わって、懐かしい方々に再会をはたしたいというお心。
御茶碗は現在育成中という那智黒で、内側が長次郎張りにかせて良い感じになっている。お道具は、気に入ったものを一つ一つ丁寧に集めていかれたもの、いずれもご亭主思い入れの道具である。
いくつか持参するのをお忘れになったとおっしゃる道具もあったが(^_^;、そこを臨機応変に対処するのも働きで、茶事はトータルで一つの世界観がつくれたら成功なのだ。佳き壺中のひとときはそんな世界の中でしめくくられた。
やっと念願のお茶事にお招きいただいて、ほんとうれしい。また末永くお茶付き合いをしていただきたいものである。お開きとなって、暗いビルから外へ出ると、あらま〜!外の神楽坂はまだ明るいではないか!そもそもそういう時間帯なのであるが、茶室にいてすっかり別の時間を生きてしまったようだ。確かに壺中別天地にいたのだなあ。
THE SPA at FOUR SEASONS HOTEL京都に潜入 - 2019.10.07 Mon
先日は誕生日だったので一人祝い、少々お高いがここは奮発してHotel Four Seasonsのスパに初めて潜入、ちょっと贅沢なリラクゼーションしてきた。

THE SPA at FOUR SEASONSは地階にある。ここはレセプション。
インテリアのコンセプトはかぐや姫かな?竹の意匠がメインであと月のモチーフも。施術に使うオイルのアロマを4種から選ばせてもらえるので、イランイランにしてみた。
さすが更衣室や施術後のリラクゼーション施設が充実、たぶん今まで行ったサロンの中では一番ゴージャス。(お値段もゴージャス(^_^;)
着替えの後のウェイティングルーム、お水とかも用意されている。今回はボディマッサージがメインの「禅セレモニー」というコースにしてみた。
施術部屋でまず足湯
お月様がうかぶボウルに足をいれて、そこに焙煎宇治茶をぱらぱらっと。お茶のいい香りがリラックス感をもりあげる。さらに丹波産竹塩で足をスクラブ。
道具をいれる箱やお盆もすてきである。外国人観光客にはうけるだろうな、京都を前面に出したイメージ。そういえば電話したらいきなり英語で話されて、よほど外国人ばかりなのかと思った。このホテルはそういえば外国人スタッフも多い。
マッサージのベッドはこちら。
ほとんどすっぽんぽん(^_^;でオイルマッサージを受ける。うつ伏せになったとき、下に見えるのも月の模様のお皿だった。
床もナグリで、おもわず裸足で歩きたくなった。
ここから心地良い夢見心地
* * *
ず〜っと全身、肩首を重点的にマッサージしてもらって気持ちのいいこと!へたにパックとかトリートメントとかはいらないの。
施術後のお茶はあったかい番茶をたのんだ。この茶杯は河原尚子さんのだ。ナッツとかおつまみもついてくる。
更衣室やちょっと横になれるスペースやパウダールームなど、広いなあ。
最後にお風呂にも入る。
桶や椅子も桧とは贅沢な。
あ〜気持ちよかった。
外気が気持ちいいのでオープンテラスのブラッスリーで食事をされた人も多かっただろうが、この時間にはまばらだ。
フロントはなんとなくハロウィンの室礼
なんとも贅沢なひととき、当分は無理やけど、今年の誕生日はご機嫌ですごせたわo(^▽^)o
法華大会・広義竪義初日の比叡山延暦寺を行く - 2019.10.05 Sat
おかざき真里さんの空海、最澄を主人公にした漫画「阿・吽」が面白い。
絵もとてもアーティスティックで美しい。もちろん多くはフィクションなのだが、史実、エピソードの類もきっちり描かれていて、彼らをとりまく時代の状況までよくわかる。今まで歴史の教科書以上には曖昧にしかしらなかった二人について大いに学習させてもらった。大陸から密教を持ち帰らんとした二人のあまりに対照的なそれぞれの生き様、にとても興味がわいて、これはいつか比叡山、高野山に改めていかねばなあ、と思った次第。
まずは京都にいればいつでも目に入り、朝夕拝むことのできる比叡山へ数十年ぶり。
我が家からだと車で30分くらいで行けるのな。久々に行くとあまりに近くてびっくりした。

延暦寺東塔エリアに着くとまず目に入るのは「元亀兵乱(信長焼討)殉難者鎮魂塚」
比叡山というと、どうも腐敗して、さらに信長に焼き討ちされた、というイメージが一番にきちゃう。
そして「一隅を照らす これ則ち国宝なり」という伝教大師最澄の現在にも生きている有名なお言葉。
漫画では、天才肌の空海にくらべ、密教を完成させるために努力すればするほど、誠実であろうとすればするほど己を傷つけ血を流すストイックな人物に描かれているが、実像はどんな方だったのだろう。
おりしも10月1日から4年に一度の法華大会・広学竪義(こうがくりゅうぎ)の初日で、大講堂は閉鎖され入ることができない。
法華大会は法華十講(法華経その他の経典を講師が講義する)、僧侶がどれくらい天台の教えを理解しているかの試験のような問答が広学竪義。これは夜まで続けられるそうだ。
10月4日には大講堂の前に探題(教学最高権威者)、已講(試験官)、勅使の三人が輿に乗って三方から出会い入堂するというちょっとした平安時代ページェントのような光景もみられるらしいが、行けず残念。
竪者という試験をうけるお坊さんが大講堂の横から中へはいっていく場面を目撃。この入り方にも流儀があるそうで、しらなかったので、そこまで観察できず。
大講堂の扉の前に座ると、扉から漏れてくる読経か講義か音楽のような僧侶の声が聞こえてくるので、しばしたたずんでこれを聞く。
そして延暦寺の中心的建物、現在は修復中の根本中堂。
最澄は785年、東大寺で具足戒をうけるも、飽き足らず比叡山に山林修行にはいる。現在でもすごい山の中だから獣もいるし夜は真っ暗だっただろう。3年後にここに草庵・一乗止観院を営む。これが今日の根本中堂の基となった。
むか〜し、来たことはあるがほとんど記憶になく、、、
修復中でなければこのような姿だったのね。
しかし、内部は拝観できるしむしろ修復中の屋根とか見ることができるのでかえってお得かも。
ライトがないと堂内はほとんど真っ暗、正面に1200年前からともるという不滅の法灯、最澄が一乗止観院を建立した時に本尊薬師如来に灯明を捧げて以来消えることはないという。
<あきらけく 後の仏の御世までも 光伝へよ 法のともしび>は最澄の歌と伝わる。
お香を手向けて坐せばそれなりに敬虔な気持ちになる。そう信心深いほうではないのだが。
(叡山焼討の時に法灯は消滅したが、山形県立石寺に分灯されたものを再分灯したとか)
お山の険しさを垣間見る文殊楼にいたるこの急な石段!
ここは延暦寺の山門になるという。中の階段を登れば二階に上がれるのだが、、、、なに?!この階段の急さ!どうみても80°あると思われ、、、登ってもおりるのがこわいので断念。お坊さんたちは僧衣を着てこれ、上り下りされているのだろうか???
文殊楼の上から色とりどりの衣をまとったお坊さんたちが。大きな法要(講義)がある時なので装いもどこか華やかだ。
左に東塔、右に阿弥陀堂
塔は昭和55年の再建で正式には法華総持院東塔
これを見て東塔エリアをあとにする。お山の上なので閉門が早いため、西塔エリアは今回はスルー(また紅葉のきれいなころに行こうかなあ)、車でさらに北へ10分ほどすすんだ横川(よかわ)エリアへ。
横川、、というと源氏物語の「横川の僧都」がでてくるな。
ここまで来ると観光客もまばらだ。ずいぶん奥にあると思ったが、滋賀県側の坂本からすればむしろこちらの方が近いのね。
横川の中心的建物である横川中堂。なんとコンクリートの再建だそうだが、そうは見えない。
最澄の遷化後(822年)、慈覚大師円仁が建立した寺院が発祥という。
最澄や空海たちが唐に渡った遣唐使船をモデルにしたという中堂は、懸崖作り、階段の苔むし具合が萌える。この横川には「往生要集」を著した源信僧都も隠棲したという。お堂の中には信者たちが納めたおびただしい数の金色の小さい仏さんがずらっと並んでいて圧倒された。
中堂からさらに奥へ、元三大師堂へ到る道を行く。
おお!こんなところに!
(ちなみに京大医学部のは黑谷さん・金戒光明寺の近くにある。)
ああ、これこれ。
この御札は洛中の古いお家のどこかに貼られている。ちなみにうちにもあるよ。角大師ともよばれる元三大師の魔除けの御札。
慈恵大師良源、またの名を元三大師(遷化が1月3日だったことによる)は延暦寺中興の祖といわれ、根本中堂の再建など大伽藍の基礎を作った方だ。また初めておみくじを考案したとも言われる。
この鬼のような姿は熱病にかかった大師自身の姿ともいわれ、この姿に恐れをなした疫病神が退散したことから、魔除けの札に描かれるようになった。
彼を祀ったのがこの元三大師堂、またの名を四季講堂ともよばれる。村上天皇の命により四季ごとに法華経の講義が行われたためという。
さすが、場所柄大津絵の額が奉納されているわ。
午後四時前にはもう受付は閉まっていた。ほんとうに深い深いお山である。昼でも心細いが夜はどんなにかおそろしいだろう。こんななかでの山林修行って、ほんまに荒修行だったんだろうな。
(お山から京の都をのぞむ)
空海はいろんな意味で天才であったし、かなりの人たらしでもあったようなイメージ。先だって見た国宝「灌頂帳」のだんだんいい加減になる字や、墨でマチガイを塗りつぶしたりする天衣無縫さ、それに比して最澄の文字はきっちり、国宝「久隔帖」はだんだん左下がりになるのが人間くさくていい。(あくまで私の個人的感想です)
(山の反対側、大津 琵琶湖を望む)
最澄は弟子をたくさん育てた。そして天台宗を母体に鎌倉宗教のビッグバンがおこったのも偶然ではない。法然も親鸞も一遍、栄西、道元、日蓮、いずれも比叡山で修行をしたというのはすごいと思う。いずれ飛び出すことになったとしても。
宗教教義は私はよくわからない。けれど時代時代に新たな宗教を広めようとした人々の生き様には心惹かれる。そんなことを考えながらお山を後にした。
次は高野山だな!
郷里のお寺で和楽茶会〜懐かしの母校 - 2019.10.03 Thu
ひょんなことで郷里・岡山の三沢古美術さん(大美アートフェアなんかにも出てはります)とご縁をいただいて、関わっておられる和楽茶会のご案内をいただき、里帰りのついでもあり参席。

釜の懸かる少林寺(臨済宗妙心寺派)は、茶人としても有名な岡山藩筆頭家老・伊木三猿斎の菩提寺でも有り、月釜もかかる。むか〜し、母親といっしょに月釜に来た記憶があるがさだかではない。
むしろお隣にあるわが母校(卒業して約半世紀〜♪)が懐かしくて!
旧制第六高等学校の跡地にあり、旧制一中の流れをくむ岡山県立岡山朝日高校。当時の校舎はもうないけれど、門は六高の頃からかわらない。
、、、、と、この話はのちほどにして、和楽茶会!
和楽茶会は今年で15回目、席主は狸庵文庫美術館館長にして、病院長、裏千家淡交会岡山支部の重鎮とお聞きした河田狸庵様。これを全面的にサポートしているのが三沢美術さんらしい。
実は我が敬愛するタライラマ師(ダライ・ラマでないよ、くれぐれも)も以前和楽茶会の副席を持ったことがおありだそうで、そのご縁で団体さん(約10名、ほとんど知り合い(^_^;)ひきつれて偶然にも前の席にいらした。
今回は薄茶席が狸庵さん、それに志野流香道の若・蜂谷宗苾さんの香席。
最初の展覧席は、香席にちなんで香道に関する美術品の数々を三沢美術さんの説明で拝見。
呼び物は、かつて藤田家が水戸家売り立ての際に、かの国宝になった曜変天目や、圜悟克勤墨蹟、井戸茶碗「老僧」といっしょに落札したという、現在の価値で言うと7億円相当の(老僧より高いよ)伽羅の香木。
これを手に取らせてもらった。ずっしり重く、鎹が打ってあり、微かに香木の香り。近代数寄者の高橋箒庵(元水戸藩士の家系)がこっそり一部をもってかえって鈍翁の前で焚いてためしたというエピソード付き。現在は藤田美術館をはなれ某所所蔵とか。(どこやろ?)
薄茶席の寄付は菊慈童の室礼で(旧暦では重陽は今年10月7日にあたる)、菊の花びらをうかべた菊酒がふるまわれた。展示された炭道具では梓実(キササゲ)の火箸と鐶、いずれも今上天皇が即位されるまでに使われたお印が「梓」であったことにちなむそうだ。
本席には三玄院伝来の「細石(さざれいし)」、軸は伝寂蓮右衛門切 古今和歌集詠み人知らずの「わかきみ(我が君)は ちよにやちよにさざれいしの、、、」
こちらは令和の御代、御大典を寿ぐ席であった。
古染の手付水指も垂涎だが、やはり一番よかったのが主茶碗の黄伊羅保「八重菊」(石州箱 小堀宗慶外箱)。あれええな〜。最近雲州伊羅保を好きで手に入れたが、なるほど、違いがちょっとわかった。あとはさまざまな道具の菊尽くし。菓子器の古染の菊もよかったが、一元の玉水焼緑釉楽焼き木の葉型のお皿が印象にのこる。(なぜ一入は庶子とは言え実子の一元を跡取りにしなかったのかという疑問とともに)
香席は遠州風の庭園をのぞむ広間にて。
この庭園は白砂を敷き詰めた上に満開の萩の花がしだれかかってすてきであった。
志野流の香席は何回か経験あるし、お名前はよくお聞きする有名な方だが、若の宗苾さんが席主の席は実は初めて。
本日の組香は「月見香」、「月」の香1種を聞いた後、「客」(別の香木)と混ぜて3種の香を聞き、組み合わせをあてるゲームのようなものだが私はただいま連敗記録更新中である。
香が逃げないように障子をしめきったその座敷は9月も末というのに暑くて汗ダラダラ。香を聞くより手の汗の臭いの方がしたりして、、、(^_^;
正解はなんとめずらしく3種とも「客」という月がでない組み合わせとなった。月が出ないので、この組み合わせを「雨夜」という。結局、叶(全3種正解)はいなくて、2点だった私は巻紙がもらえるかな、と一瞬期待したが上座に2点の人がもう一人いて残念。
若がおっしゃるには、当たる当たらないは問題ではなく、名香を聞きながらイメージの中で月がみえたらそれでよいのです、とのこと。
かくしてお開きになったあとは再び母校の周りをぐるぐる思い出をさがしに。
不思議やね〜。普段思い出しもしないささいな記憶が現場に来ると次から次へと頭の中にわき出してくる。季節はまさに運動会、仮装行列でオリンピック(当時のはどこだっけ?)入場行進をやったこととかあれこれ。上の写真は私が在学時代からただの池と化していたプール、まだあったんや。当然涸れて草はえとるけど。その隣くらいにバレーボールのコートがあったっけ。(1年だけバレーボール部員だった)
これもなつかしの岡山城(烏城)をみながら後楽園あたりでタライラマ師ご一行と合流。
駅近くの居酒屋で一緒に晩飯をいただき、お茶談義に花をさかせ、最後にラマ師の安定の超高速座布団回しで締めました(^_^; (鼻から割り箸の芸は2歳児をドン引きさせてたけど)
THE 備前 BIZEN〜MIHO MUSEUM - 2019.10.01 Tue
京都から車で小一時間、ケモノ道を走って毎度おなじみ信楽MIHO MUSEUMへ。
毎度お馴染みなのに1時間開館時間を間違えて早くきてしまったので、、、

一番乗り!
、、、、って、だれもおらんがな。
桜の季節が一番混雑するのだが、こんなに人がいないここも珍しくてなんだか感激。
今季のテーマは「THE備前〜土と炎から生まれる造形美〜」
備前焼、それは郷里の焼物なのだ。
実家には物心ついた頃からそれは家のあちこちにごろごろしてたような気がする。生活のための焼物だからね。
一番記憶に残っているのが渋い備前のごみ箱で、祖父母はそれを「けんすい」とよんでいたから、ずっとけんすいってごみ箱のことだと思っていた。「建水」のことだろうか、と今は思う。形は建水というより水指に近かったと記憶する。あれ、まだ実家にあるかなあ、、、
展示は3つのパートに別れ、
1)〜桃山時代の備前焼の源流編、2)近代の陶芸家(金重陶陽とか)、3)現代の備前焼
(どうしてもパート1)に興味がいってしまうが、、、)
まずは備前を代表する景色についてお勉強
<窯変><緋襷><牡丹餅><胡麻><桟切>
いずれも有名だが初めて聞いたのは桟切、これはこのポスターみたいな景色↓
一部が還元炎によって灰青色を呈する景色。
焼き締めだから、伊賀や信楽と共通点が多くて、どう違うかと聞かれても答えられない。その二つほど荒々しい感じがないとでもいうか。
桃山の水指や花入は、今でもつやつやでとても500年近く昔のものに見えない。
緋襷は有名だが、なかにはもはや襷ではなく全体が真っ赤な茶壺もあり、だれかこれに「猩々」って銘をつけてくれんかったのかな、と思ったり。
半泥子旧蔵の肩衝茶入「彩雲」は緋襷で、形は唐物そのもの、つやつやの表面はちょっと備前とは思えない。
「只今(ただいま)」という桃山の茶碗は、東京あたりの数寄者から岡山の後楽園へ寄贈され、里帰りをしたためにつけられた銘というのも面白かった。
江戸時代の物ではあるが、内側にびっしり胡麻、の小さい茶碗がかわいくて個人的には好き。
この時代茶碗はあまり多くなくて、後の金重陶陽などの時代にさかんに作りだしたと思われる。でもどうも備前は茶碗にはなじまんような気が個人的にはしている。
パート2)近代の備前焼はやはり、(備前焼陶工としてはじめての)人間国宝・金重陶陽、備前焼中興の祖である。この方の三角擂座花入はすざまじい。以後備前の花入といえば、この形を踏襲した物が多い。かと思えば青備前諫鼓鳥香炉では鶏の羽根一本一本の筋、太鼓の胴の木目まで感動するくらい細密に焼きもので表現している作品もあって、この方、やはりただ者ではない。
パート3)の現代のものになるとオブジェとか多くて、ちょっと私的には興味がいまひとつ。
ただ島村光さんの「十三支・おくれてきたねこ」は十二支の動物におくれてきた猫がプラスされていて、文句あるか?!といいたくなるかわいさ!!
で、備前の魅力ってなんなんだろうな、と思ったとき、茶器としてはどうしても他の焼きものには負ける。やはり日用に使う道具、食器、特に酒器かな、と思う。胡麻のちらばった徳利、ぐい飲み、あれでのんだら美味しそう。日々使ってつやを増していく、そんなところがいいのでは。
そういえば実家に藤原雄さんのぐい飲み、オヤジが持っていたな、あれねらおう(^_^;
この日はやっとMIHO膳一汁三菜にありつけた。ご飯おかわりまでしてモリモリ食べたよ。