元明天皇展〜平城宮いざない館 - 2020.10.30 Fri

平城宮はどこに存在したのか?
長らくその所在は不明であったが、幕末にその跡地を推定した役人がいた。その後明治になって田んぼの真ん中の小高い芝地が太極殿の基壇であることが発見され、保存運動、発掘調査がおこなわれ、正確な内裏の跡地の推定がされたのは昭和35年のことであったそうだ。
今では国が管理する平城宮跡歴史公園となって整備が進められている。
かつては広〜いススキの原に(途中真ん中を近鉄がよこぎるという、、、)ぽつんと朱雀門があっただけで、そこらへんに適当に駐車する感じだったのだが、、、いつのまにこんなに立派な駐車場に整備されたのだろうか。
しかも復元の建物も増殖しているし、、、
ごっついハコモノもなんだかたくさん出来ていて、えらい観光地(主に修学旅行生)然となってきてるやん。でも、ここ、車じゃなければアクセス悪すぎ。近鉄西大寺から徒歩20分、もしくは1時間に1本しかないバス。ここは<いざない館>といういつのまにかできたいわば平城宮museumといった感じである。
中には平城京当時の街路、建物、くらしの様子など発掘品なども交えての展覧、たしかに学生さんには勉強になる場所だ。
ところで平安京遷都をおこなったのが桓武天皇というのは比較的みんなスラスラでてくるのだが、では平城京遷都を行った天皇はだれか?というとだれだっけ、、、という感じにならないだろうか。
答えは元明天皇、意外とみんなしらないこの女帝の生涯をパネル展示した「元明天皇展」がいざない館で開かれていて(〜11月30日)パネルの絵を担当された上村恭子さんのすてきなイラストにいたく惹かれてやってきたのだ。
その血筋のきらびやかな高貴さ
父は天智帝、夫は天武天皇と持統天皇(異母姉)の息子・皇太子草壁皇子(即位前に夭折)、娘に元正天皇、吉備皇女(長屋王妻)、息子に文武天皇、孫に聖武天皇なのである。
阿閇皇女(あへのひめみこ)の夫、皇太子草壁が28歳の若さで亡くなり、草壁の母である鸕野讚良が持統天皇として即位。のちに阿閇と草壁の息子軽皇子が文武天皇として即位するも息子も25歳の若さで崩御、孫の首皇子(おびとのみこ、のちの聖武天皇)はまだ7歳ゆえ、どちらかといえば仕方なく女帝・元明天皇として即位したのである。
(上村恭子さんのイラストブックマーク)
首皇子へ繋ぐためだけでなく、彼女は国の基礎を固めるため積極的な治世をおこなった。和同開珎の鋳造もその一つ。そして和銅元年(708年)、藤原京から平城遷都の詔を発し、造営を果敢におこなっていったのだ。しかしながらなぜ藤原京を捨ててまで平城京に遷都したのか、いまだにはっきりしないそうで、一つには藤原京で実現できなかった「天子南面思想(皇居を北に置き天皇は南を向く〜長安の都の如く)」を実現させるため、というのもあったそうだ。
715年、平城京で初めての朝賀をうけ、その年にまだ若かった首皇子のかわりに娘の氷高皇女(美人だったそうで。ことのまあかりさんの削氷の「氷高」もきらきら美しいの)が元正天皇として即位、太上天皇となる。
元明天皇の治世は9年間と短かったがその間に遷都という大仕事をなしとげ、天皇の座を降りるとき「履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい。」とおっしゃったとか。
このパンフの絵は、その履物を脱ぎ捨てる様子を絵にしたもの、と上村さんのTLで拝見した。
退位して6年後、彼女は亡くなるが「薄葬(地味な葬式)」にせよ、と遺言を残したため、その陵墓の場所はいまだ正確にはわからないそうである。没後3年、娘・元正天皇のあとを継いだのが孫(息子の子)の首皇子、聖武天皇である。古代史のなんと華々しい時代を生き抜かれたのだろう。よく知らなかったのが恥ずかしいわ。
ここに元明天皇の木像(溝辺家蔵←平城京跡保存活動をされた溝辺文四郎の家)がある。上村さんの天皇はひたすら美しいが、この像はふっくらしたお顔の少し憂いをたたえた中年の女性の顔である。あれだけの遷都大事業を成し遂げた女帝の本当のお姿は、むしろこちらが近いのだろうと思った。
あとは館内を修学旅行生に紛れてぶらぶら。
木簡とか、大祓のアヤシイ人形(ひとがた)とかの実物大の写真がおもしろい。平城京跡発見とその保存の歴史もわかるような展示になっていた。
当時を生きた人が、つぶやいたであろうつぶやきをTLみたいにつぶやかせているコーナーもあって、面白かった。
いざない館にわかれを告げ、広場に出る。
竹のタイムトンネル(古い人は知っているアメリカのTVドラマ)を通りぬけて、、、
朱雀門
昔はこれしかなかったのに、えらいりっぱになったなあ。昔の警備の人形と、現代の警備員さんのツーショットがええやろ?
泉涌寺・悲田院 - 2020.10.28 Wed
御寺(みてら)泉涌寺、皇室の菩提寺として、御寺とよばれる。なにしろ献茶の時に東京から勅使が今も来るような寺格なのだ。

その塔頭の悲田院の特別公開、普段は非公開ながら、正月の七福神巡りの毘沙門天さんのところなので、一度境内まではお邪魔したことがある。
こちらは煎茶の東仙流の総本山でもあって、大奥様であるY先生とは、心茶会や茶会に来ていただいたり、白沙村荘でのお稽古場に乱入したり?など、以前からご縁をいただいている。前からこちらにおじゃましたいと思いつつはたせず、今回特別公開にかこつけてようやくお邪魔することが出来た。
悲田院は福祉施設として、平安京に東西二つつくられたが消滅、その後西悲田院の名跡を引き継いだ寺院となった。江戸時代にいたり高槻藩主永井氏の帰依をうけ、現在地に移転、明治維新まで庇護を受け栄えたという。
ここからは洛中が一望できるのだ。いつのまにこんな高台にまで登ってきたのだろうといぶかるくらい、なだらかな坂の上にあるのね。
こうしてみると京都はいかに山に囲まれた盆地であるか、がよくわかる。散歩にこられていたご近所の方に、五山送り火はここから右大文字(銀閣寺の方)以外はみんな見えるのよ、と教えていただいた。
中ではY先生直々にご案内をいただいた。
悲田院のお宝の一つは今回の公開の目玉でもある宝冠阿弥陀如来座像である。以前から快慶作ではないかと言われていたが、胎内にカメラをいれて「アン(梵語)阿弥陀仏(快慶のサインみたいなもの)」の署名と弟子達の名前が確認できたのはほんの10年くらい前のことなのだ。へたしたら国宝級だがそうなると、とりあげられるので、指定はなにもとっていないとおっしゃる。仏像を保存の観点から美術品として扱うか、信仰の対象としてみるか、いつもぶつかる問題だ。
それにしてもこの阿弥陀様は彩色が依然あざやかで、菩薩の如く高く結い上げた髪(宝冠と言われる由縁)が絶妙のバランスで美しい。一般公開だから、距離があるので、いつか至近距離で見たいものだわ。
お宝はそれだけにあらず、土佐派の襖絵の四愛図(黃庭堅の蘭のみ欠くが、李白、杜甫が加わる)が印象的。
それから入手の経過をお聞きしてとてもおもしろかったのが橋本関雪の襖絵。もともとは関雪も逗留したことのある西脇市の来住家(きしけ)(現在は有形登録文化財)の襖だったそうだ。画題はちょっと忘れたが山に籠もっている老人四人が世にいったん事あると山をおりてくる、、、といったような話だった。これをひきとるひきとらないで来住家と白沙村荘といろいろあって、最終的に(白沙村荘とご縁のある)Y先生のところへやってきたとか。お寺さんだし、ようやくおさまるところへおさまってよかった。
一通り拝見したあと、Y先生に煎茶をふるまっていただく。下に敷いた芭蕉の大きな葉っぱがすてきだ。こちらの露地は有名なアメリカ人の日本庭園家・Marc Peter Keaneさんの作、斬新でいて日本的な露地になっていて驚く。
ずっと昔(調べたら7年前!)、萬福寺の月見茶会で東仙流の席にはいったことがある。とても自由で楽しそうな室礼の流派だなと思っていた。
境内の白砂に蓮池をイメージした水紋が描かれ、枯れた蓮の実を飾り、茶碗に蓮の絵、お菓子も蓮根餅、そしてお茶が、、、
こんなすてきな蓮茶であった。当時きっと市販の工芸茶だと思っていたが、実はY先生がご自宅の池の蓮の花からご自分でお茶を詰め込んで冷凍して、作られたものだったのだ!7年ぶりに知る真実!すごいなあ。東仙流はかくのごとくお茶目な先生のお人柄そのままの楽しく自由な煎茶道なのね。
Y先生、おいしいお茶をありがとうございました。
とてもたくさんおしゃべりできて楽しかったです。
泉涌寺のおとなりは紅葉で有名な東福寺、そろそろ色づいて、人の姿も多くなってきましたね。
コスモスの般若寺 - 2020.10.27 Tue
奈良坂への道にある般若寺は、いまではコスモスが有名である。

ちょうどこの季節、境内いっぱいにコスモスが見頃を迎え、うなるくらい壮観である。
コスモスは明治に渡来した外来植物、和名の「秋桜」が百恵ちゃんの歌とともにおもいだされてなにやらゆかしい。
般若寺縁起は飛鳥時代に遡る。聖武天皇が平城京の鬼門守護のため大般若経をおさめた塔をたてたのが名前の由来とか。平家の南都焼き討ちで灰燼に帰したが、鎌倉時代にあの儲茶で茶の湯界隈で有名な叡尊たちの手によって復興。(でもまた松永久秀に焼かれちゃう (^_^;)
本堂の入り口にもコスモス(*^_^*)
本堂に祀られる文殊菩薩騎獅像がとてもすてきだった。現在の文殊さまは、ここが南朝方であったため、後醍醐天皇の倒幕祈願のためにつくられたという。
ちょっとへなちょこな(ゴメン)絵だけれど、雰囲気はつたわるかしら。この文殊様は頭髪が少年に多く見られる八髻のスタイル、むしろ文殊につきそう善財童子を彷彿とさせてかわいらしい。たいして騎乗する獅子の迫力!阿倍野文殊院の獅子にはりあえそう。
♪ 獅子には文殊や 召さるらん〜 (謡曲「玄象」)
境内のどこからでも見られる現在の十三重石宝塔も、鎌倉時代に宋から渡来した石工によって作られた。昭和39年この塔の解体修理が行われたとき、塔内から後述する白鳳仏像他、多数の納入宝物が発見されたそうだ。
さらに境内のコスモスの間をめぐる。
このなにげ〜にある楼門が実は国宝!なんである。叡尊上人らによる鎌倉再興伽藍の西門で、幾多の戦禍をくぐりぬけて現在にいたる。
楼門の上には小さな北の守護毘沙門天様がいらっしゃるようだ。
この門も老朽化がすすみ改修にせまられ、勧進されているが、クラウドファウンディングにしてみてはどうだろう。
さて、境内はコスモスだけではない。
茶の花も茶の実もなっている。
カラスウリに、カタツムリもみえるだろうか。
ここは春には山吹がきれいだというから、またその季節にも来てみたいね。
境内にひっそりたたずむ藤原頼長供養塔、たてられたのは平成22年だからつい最近であるがすでに良い味出している。兄・忠通と藤原氏長者を争って保元の乱で敗れた頼長はこの般若寺の南にある葬送の地・般若野五三昧に葬られたゆかりで。のちに墓はあばかれ墓所は不明とか。どうしても頼長というと大河ドラマの山本耕史さんを思い出していかんわ。
一番奥の宝蔵堂では先ほどの十三重石宝塔から出た秘仏・白鳳阿弥陀如来の秋の特別公開中である。
身の丈20cmくらいの小さな金銅仏で、四頭身のかわいらしさ、白鳳スマイルをうかべておられる。持統天皇念持仏をその血を引く(曾孫)聖武天皇がおさめたものともいわれる。
こちらではコスモスの形の散華をいただいた。
ちなみに後の銅鑼をならすと、戸のかげにいるおばさんが戸を明けてくれる仕組みに(^_^;
この築地塀の破れ方が、奈良っぽくて(?)好き。
外来植物だけれど、意外と仏様に似合うコスモス
さて、最後に十三重石宝塔をふたたび拝んで般若寺を後にした。
秋の花背〜石井まり子さんと - 2020.10.25 Sun
ブログ友として、また主催される料理情報図書室会員として、のお付き合いはもう10年以上もなるのに、初めてお目にかかったのがつい先月であるとはとても思えないのである。今月2回目にお会いしたときに「もう何年も知っている人のような気がして、、」と言っていただけたときはとてもうれしかった。「京都が好き」という本を書かれた石井まり子さんである。

その中でも書かれているが、洛北・花背(一応京都市左京区)は彼女にとって特別な場所なのである。秋の花背をみんなで楽しみたい、とプランナーとしての腕も確かな彼女が計画を練って、旧知のご友人方と上洛なさるのに、声をかけていただいた。
関東各地から、南は沖縄まで、まり子さんが京都でカフェ(Cafe Rive Droite)をされていたころのスタッフさん、神楽坂にいらしたころのご近所さん、みなさん長いお付き合いの方ばかり、先月初めてあったばかりの私をさそってくださるとは、とてもありがたいことである。
車で1時間半ほど、このあたりは洛中より秋が来るのが早い。
まり子さんはご体調があまりおよろしくなく、ご子息のアテンド付きの旅であるが、それを伝えてもだれも「やめときなさい。」という人はいなかったのだとお笑いになる。だれもとめる気にもならないの花背への愛だな。20年以上昔、家と畑を借りて年の半分くらいをこの土地で2年間、暮らされたのだ。
彼女のブログの「私と花背」に詳しいが、それは便利とはほど遠い生活だったそうだが、土地と畑を無償で貸して下さった大地主のFさんご一家はじめ、たくさんの土地のご縁をもらった場所である。
あ、花背と出町柳を往復する京都バスが来た。なんだかオルゴールみたいな音楽を流している。そうそう、記事にあった、バスが花背へ行くときと出町柳にいくときと曲が違うのだ。(アンニーローリーとグリーンスリーブス)これが聞こえるとバスを利用する人はいそいでバス停へ駆けつけるのだろうな。なにしろ1日に数本しかないから、逃すとたいへんなことになるから。
まり子さんのプラン1、貸しロッジでみんなですき焼きを作ってお昼ご飯にする。
東京で居酒屋をされている方がほとんど全部手際よく作ってくださった。まり子さんは横になりながら指図係り。このロッジも昔Fさんが景品の宿泊無料券をくれて無料で泊まったという思い出の場所。たくさんの人が泊まれるスペースがある。
すき焼きを作るかたわら、花背の農家のお知り合いが、畑でとれたばかりのプリップリの枝豆を届けてくださった。枝からちぎって筋をとる作業だけ私でもお手伝いできた。早速ゆでる。おいし〜い♪
同じくいただいたマコモダケ(真菰筍)、実は初めて見る。葱みたいに見えるが焼いて食べるとほんのり甘く、トウモロコシみたいな味がするのね。
さて、すき焼き完成!
みんなで、タクシーの運転手さんもお仲間に(まわりにランチ食べられる店なんかないものね(^_^;)していただく。おいしいわ〜。最後に投入したうどんもおいしくて食べ過ぎ。まり子さんに申し訳ないくらい食べてしまった。
さらに、今月誕生日を迎えるのが、まり子さんだけでなく、私も、そして他に2名もいらっしゃった。そこでバースデーケーキならぬロールケーキでお祝いである。
会費集めの方法もまり子さんのやり方で。最低と最高の金額だけを決めて、その間の自由な額のお金を握りこみ、紙袋の中に他の人に見えないようにいれてぱっと離すだけ。だれがどれだけだしたか、なんて野暮なことは言わない。お茶目だ。
食後はしばらく、みんなそれぞれ好きなように過ごす。
私は秋の花背を満喫しようとロッジの近くを散歩した。
ススキの尾花にいた小さい蟷螂が小さいくせにいっちょまえに威嚇してくるのがかわいい。
このススキの道に導かれるように歩いて行くと、、
河原にでた。
先月上洛された時にまり子さんが河原遊びをされたのは、このあたりだったろうか。
河原にミントが繁殖しているのを発見。へ〜、こんなところに。
風が吹くと河原の向こう側の草の綿毛が雪のようにふわ〜っと舞い上がって美しく、しばしみとれた。花背はほんま、ええところや。(途中の花背峠がえげつない道でなければもっとひんぱんに来られるのに)
東京からいきなり、いっときにせよ花背に住むことになった、ここの土地でいろんな人と交流された、私とも会ってくださった、人生における縁は不思議で、いろいろ思うことも多い。
そのご縁のひとつ、花背で佐野藤右衛門さんのとこの土、桜の木の釉薬を使って器を焼いている蕗窯の小松華巧さんのところへもお邪魔する。奥様お手製のとびきりおいしい栗きんとんとお薄を頂戴する。食欲がいまいちだったまり子さんが、このきんとんだけはぺろっとお召し上がりになるほどに。ここのお庭で冬はかまくら遊びをされたとか。
こちらは説明する必要もないくらい有名な美山荘、ここは花背の大家さんと同じご町内になるそうな。
お宿ではあるが、いつかここにご飯だけ食べに来たいと何年も前から思っているのだが、予約がとれない。でもなぜ摘み草料理なのかわかった気がする。町中へ食材買い出しにいくのに非情に不便な場所だから、近くの山で畑で収穫したもので、いかにおいしく、ということだよね。
こちらではまり子さんおすすめの花山椒ちりめんをみんなで買った。
そしてこの旅の最後は、まり子さんが花背時代一番お世話になったFさんのお宅である。
このあたり一帯はほとんどこのお家のもの、というお宅は蔵もある立派な大地主の風格のお家であった。自分のところだけの為の橋があるくらいである。「赤い橋があるのよ。」と聞いていたが渡るとぎしぎしけっこう揺れるのである。
当時、家や畑をただで貸してくれた先代さんはすでに亡くなって、息子さんご夫婦の時代になっているが、よそからこられたお嫁さんが先代の奥様が作っていた自家製柴漬けを自分も作りたいとおっしゃるくだりも本やブログで読んでいたので、本当にその自家製柴漬けを、全員にわけてくださったのには感激であった。
そのFさんの家のすぐそばに立つこのお家が、まり子さんとご子息が2年間すごされた思い出深いお家。
Fさん一家専用の赤い橋をわたったところと、むかしまり子さんが耕していた畑のそばに山椒の木がある。この木の山椒の実、はじけた割れ山椒を見るのがここに来た目的の一つであった。昔、春には花山椒をバスが来るまで、たくさん収穫されたのだそうだ。枯れた割れ山椒がまだ残っていて、一房手にして、もうほのかになってしまった香をかいでたしかめて大事そうに手で包まれた。それだけで花背がいかにまり子さんにとって心から大切な場所なのかわかるのだ。
<付記>
記事を書き終えて、予約投稿にしている間に、まり子さんが旅立たれたという知らせが届きました。花背から1週間もたたないうちに。そんな状態だったのに、みんなこの旅をとめなかった、そこにまり子さんのお人柄を読み取るのです。今ごろは虹の橋のたもとで待っていた京都猫のみやこ、神楽坂猫の文子、ぐり絵に「おかーちゃん、待ってたよ〜」とじゃれつかれているに違いありません。
まり子さん、さようなら、ありがとう。
古美術店で月釜亭主〜茶籠遊びで - 2020.10.22 Thu

勉強会などいろいろお世話になっている芦屋の古美術O商店、こちらに新店舗を作られてから(設計は我が家と茶室を設計建築をしてもらった岩崎さん)、店舗の半分を占める三畳の茶室・和月庵で毎月月釜をされている。
いつもは店主の遠州流O先生が亭主で格調高くされているが、たまに趣向を変えてみるのもよかろう、と月釜の亭主の話がまわってきた。
どうせなら(どうせ格調高くはならないので(^_^;)少々ブロークンで、秋の野原で野点している雰囲気でやってみようかと。
先日長すぎて切った青竹の蝋燭立ての下の部分を花入れに再利用、矢筈薄とホトトギスと、茶の花は我が家の庭から、あと野原の雰囲気だけでなく、テーマの砧から里の雰囲気もだしたくて、スズバラの赤い実と老爺柿(どうしてもヤロウ柿と言いそうになる)。
香合の代わりにいつも茶会にやってくる(連れてくる)全日根さんの陶俑たちに百人一首の「ふるさとさむく衣打つなり」の札をもたせる。本日の軸が「砧」だから。みのりの季節の稲穂もついでに持たせちゃえ。
点前は茶籠にて。
道具の都合上、和敬点てとか、御所籠の色紙点てとか、雪点前とかいろいろごっちゃに、しかも鉄瓶が見つからず釜に柄杓というブロークンさ!前日にいろいろシミュレーションしてみたんだ。本来茶箱は自由に中を自分で選んで組むものだから、お稽古はお稽古として、実際にはやりやすいように変化させていいものだと勝手に解釈している。
茶席は一席少人数で六席、京都からきてくださった茶友さんもいてありがたし。席のお客さんによって、席の雰囲気も弾む話題も全然ちがってくるのがおもしろいところである。席中、および水屋で大活躍してくれた(あと荷物運びと送り迎えも(^_^;)半東のY君にも感謝である。たまに席中で助け船だしてくれたしねっ!
お菓子はO商店のKさんと相談して決めた鶴屋八幡さんのもの。「武蔵野」やねえ、と思っていたが、お菓子屋さんの銘が「薄野」だったので、札幌の飲み屋街みたいと思いつつそのまま言ってしまったが、芸がなかったな。後日日本文学者の方に、テーマが砧なら=調布だからますます「武蔵野」にすべきだとご教示あり。なるほど!とすごく納得した。
あ、それはともかく、黄味餡がとってもおいしいお菓子であった。菓子の銘銘皿もお気に入りの小皿を多種寄せ集めて。
ちなみに籠の中身はばらばらで、気に入ったものをちまちま集めた結果である。
樽職人が樽を作る技法で作った茶筅入(ふくいひろこさんのオーダー)、お茶友さんから香合にと頂戴した神代杉の箱は見た瞬間に茶巾箱!と思って仕覆も誂えた。あとはもう新しくは手に入らない象牙の芋茶杓。
茶箱、茶籠ってほんと楽しいね♪
一方店舗の隅でKさんがワンコインまたはワンビルの露店?を開催。月釜に来たお客様に好評で、次々と買われて、最後には8〜9割売れていたのにはびっくり。
雨で始まった一日だったが楽しかった。足元の悪い中お越し下さったお客様、O商店のお二人、Y君、それぞれに感謝です。
横浜で(名物だらけで頭が煮える)茶事 - 2020.10.20 Tue
一会の茶事で
のんこう(楽三代目)
宗入(五代目)
直入(つい最近まで当代)
おまけに仁清の茶入なんて、、、(それだけじゃないけど、、)もうなにも言うことがない。
コロナ以降はじめての関東入り、相互に招き合う茶事友だちのおひとりに招かれて横浜へ。
横浜のおしゃれなイメージ通りの洋館なのに二階へ上がった途端、あれ?ここ洋館だったよね???の茶室の工夫がさまざまでおどろかされた。
ご亭主は表千家の男性で、本業は別にお持ちだから、茶の湯パートは完全に趣味の世界なのにここまでやるか〜?!とおどろく数寄者でいらしたのだ。
この日のお正客は、表千家の男性で今年半白を迎えられ、それを寿ぐ意味もこめたお道具の数々であった。
懐石の向付は寄せ向こうで、黄瀬戸、志野、備前、磁器、織部と、なんとこれすべてご亭主の作品(これが本業でいらっしゃる)。お若い頃いろいろな写し物をして勉強された時の物もある。いつも思うが、自分でなんでも道具を作れるヒトはうらやましい。
御自作だけではないよ。懐石道具にまで表千家歴代の花押付きのものが続々、この飯器などは惺斎(表千家12代)のお好みの本歌なのである。どなたかがストラディヴァリウスのバイオリンみたい、とおっしゃったが、それほど美しい塗と造型。
杯も五代宗哲とは!黒蒔絵の菊の線の細さときたら。
これは裏千家には無い八寸の作法。お客様それぞれに八寸を渡して見てもらうのだ。だから表千家では八寸に力が入ると聞いた。分厚い自家製唐墨の美味しさ。
四畳半であるが元は茶室として作った物ではなかったそうだが、そこがかえって工夫のしどころで、照明とかなかなかうまいことできているなと感心しきり。
10月は極侘びの季節なので、寄せ向こうだけでなく、寄せ香もでてくるが、これは「付け干し香」というもの、白檀の本体にふのりなどで沈香の削りくずを貼り付けた物。初めて見るわ、感激!
香合は黒柿に月を見上げているがごとき兎さん。炭道具もほぼ全部表さん歴代の花押がついているのだが、さらに驚くのは、初炭と後炭で炭道具をほぼすべて変えてこられたこと。憎いなあ〜、というか非常
にうらやましい。
初座に軸「月出洞中明」(9代了々斎)と即全の花器にいれられた白ホトトギス、別名「白楽天」の諸飾り。となると後座は、なにかしら?と思っていたところ持ち手が鎌倉彫になっている払子が床にぶらさがっているではありませんか!ヤラレタ〜の感強し。払子で煩悩も村雲もはらって明月を見ましょうよ、ですね。
求肥入りの栗小餅、とらやさん。この縁高がクセモノで、錆朱の地に黒の菊蒔絵、惺斎好みで宗哲に10組作らせたうちの一つなのだ。
さて濃茶である。
お正客様にはのんこうの黒楽「翁(半白と言えば昔は翁だよな)」各服点てのわれわれには御自作の白黒掻き分けの御自作茶碗、これが文字通り「半白」だというねらい。
そして、軽快に軽くて口作りがメチャクチャ薄くて、釉薬につけたときの指跡の残る茶入が轆轤の名手、仁清のものだったのだ。感動モノである。銘も「雲居」とかや。
茶杓が覚々斎(如心斎、一燈の父)歌銘「うらやましさかいの海の月見かな」手取りの部分に「(宗)左」と彫りあり。
後炭は先ほども書いたが道具を初炭と代えてこられた。羽根もいいものをお持ちだわ〜。
そうそう、風炉のことを書いておかねば。楽焼(弘入だったか?)なんである。持ち手も足も獅子という変わり種。それゆえ釜と合わせるため五徳を陶器でご自分で焼かれたのだそうだ。陶芸家だからできるすご技である。
香合が後炭はご当地鎌倉彫の菊、鎌倉彫の名家三橋家の鎌岳。この方は関東大震災の時に京都の大徳寺玉林院に疎開されて、ゆうに10年を京都ですごされたという。その間に惺斎との交流、支援をうけ結びつきがあったという。そういう話は記憶に残る。
干菓子はさすが中華街がある横浜らしく、中秋の名月の日に中国で食べられる月餅、中にアヒルの卵入り、である。載せているお盆も鎌倉彫りの実は軸置(巻いた掛け軸などを載せておく台)。
この時でてきた煙草盆が火入れから盆からキセルにいたるまでミニミニサイズのおもちゃみたいなもの、でもちゃんと火入れは楽焼きというキュートすぎて乙女(?)の心わしづかみ。
薄茶の御茶碗が直入の白楽「一声」、宗入のかせた(長次郎回帰)黒、楽でも人気の3,5,15代そろい踏みとはなかなかお目にかかれないよ。こんな機会に巡り会えたことに感謝。
薄茶の2巡目はこんどは高麗茶碗のオンパレードで、垂涎もいいとこ。呉器、堅手、井戸脇。雲州伊羅保に、ほんとに渋くてよかった古萩、金繕いの上に青海波の蒔絵などほどこされ、さぞ大事にされてきたのだろうと思われる。
貴重なお道具をこんなにもおしげも無く使ってくださり、ほんとうにありがたい。しかしあとに続く茶事の亭主のハードルをあげてくれちゃったなあ。

一会終えて、みんな大満足であったが、最後にひとつ、これだけは!
こんなお道具収納初めて見た〜〜〜((((;゚Д゚)))))))
復曲能「篁(たかむら)」謡奉納〜六道珍皇寺 - 2020.10.18 Sun

お盆に毎年来ている六道巡りの六道の辻、お盆以外にはこんなに静かなんだな。
六道の辻にある六道珍皇寺、毎年お盆には大勢のお参りの人で賑わうが、今年はコロナで蓮の花や高野槙を売るお店もなくさびしかった。
なんと今季、秋の特別公開にあたっているらしい。
お盆の時の地下にある迎え鐘も、特別に鳴らしてもいいみたい。(ご先祖様、間違って帰ってこないやろうな(^_^;)
今日、ここへきたのは復曲能「篁」の謡奉納が閻魔・篁堂であるので、それを聞きに。
京都観世会館は上演が途絶えていた作品を復曲される取り組みをされており、今回は法政大学の西野名誉教授による監修校訂による「篁」、室町時代にすでに廃絶した演目らしい。
小野篁といえば、平安初期の有能な官吏であり、また白楽天にも匹敵すると言われた漢詩人・歌人でもあったが、有名なのは地獄通いであろう。夜な夜な井戸を通りぬけて地獄へ行き、閻魔庁の役人をしていたという。
これは本堂の中の庭にある地獄へ行くときの井戸だそうだ。黄泉がえりの井戸(帰るときの井戸)も奥の方にあって、特別公開中は拝見できる。
本公演は来年2月13日だが、本日は小野篁に敬意を表してシテを演ずる味方玄師はじめ4名の能楽師さんがクライマックスの部分のお謡を篁の像の前で奉納される。
お謡奉納中。
小野篁像は実物大というがかなり大きい。記録では身長六尺二寸(188cm)もあったというから、それが本当なら平安貴族としては破格の巨漢であったといえよう。
また反骨の人で当時の嵯峨天皇を揶揄するような漢詩を作って隠岐の島に流されたりしている。(百人一首の「わだのはら八十島かけて、、、」はこの時の歌だそうだ)2年後に呼び戻されているのはそれだけ有能の人であったからだろう。
時代は下って同じく隠岐の島に流され、ここで亡くなった後鳥羽上皇がツレである。後鳥羽上皇が篁を慕って(流された者同士)弔っていると鬼形の篁が地獄の官吏としてあらわれ、バッタバッタと逆臣を地獄に落とし、後鳥羽上皇は溜飲を下げる、、、というようなお話らしい。
特別公開でたまたま観光で来ていた人、これをねらってきた能好きの人、でけっこうたくさんの方が拝聴していらした。マスコミもね。
奉納が終わったあとは本堂で味方師による「篁」の解説を聞く。
後鳥羽上皇とのからみのストーリーや見所、復曲の苦労などを聞く。
片手に金札(生前の行いの評価が書いてあり、地獄行き極楽行きが決まる)片手に中啓でばっさばっさと判定を下す鬼形の篁にはこれがふさわしかろう、と天神の面を使うことにされた、というお話しも実際に使う面を見せていただきつつ。
本公演は来年2月13日、シテ・味方玄 ツレ(後鳥羽上皇)・片山九郎右衛門
12月23日にプレ公演、本来プレス向けだが今年は一般見学も可能。
三五夜・月釜2周年記念2回目 - 2020.10.16 Fri
奈良の隠れ家お茶サロン、三五夜さんの2周年記念月釜の第二弾。

第一弾はこちらでお茶のご教授をされている表千家のD先生のお席であったが、10月ははるか岩手からお越しの裏千家のN先生の席であった。古美術の収集家でもあるとお聞きしているので、そうでなくてもとりにくい席がますますとりにくく、、、(^_^;
本席はすっかり名残の季節の室礼であった。
はるか岩手から送られたというお道具の数々。
やはり目が行くのはやつれ風炉の中置。これは自然に朽ちた手あぶりかなにかだったそうで小ぶりなのがめずらしい。灰の掻き上げにもこの季節を感じる。
お点前は表千家のAさんにまかせて、お道具の説明をしてくださるN先生。奈良にご縁があって、この時期東京よりもさらに遠方の地からおいでくださった。むかしむか〜し行ったことのある岩手(主に宮沢賢治関連で(^_^;)の風景を頭に思い描いてしまった。
やつれ風炉に合わせてあったのは先生がお若かった頃、初めて購入された道具である渋い虫明の細水指。ピンポイントでしか使えないお道具を最初にもとめられるとは、すでに数寄者やったんやなあと思う。
宙寶老師の「明月払清風」の軸。
「清風払明月」と対句であるが、こちらの方がより哲学的だ。明月が清風をはらうとは、、、?と考えてしまうもの。
床を飾る花はいよいよ名残の朝顔にシモツケ、野菊。花入は実際に本来の目的で使われていたという鉈籠。脇床に飾られていた炭道具がまたよかった。侘びの季節なので、全体的に渋い道具が多い中、炭斗の蒟醤の朱色が一点華やいで見える。李朝の青銅薬匙を見立てた灰匙、あれよかったな、根元が蓮のつぼみになって。
仁阿弥道八の光琳菊の菓子器にやはり光琳菊のお菓子(糊こぼしで有名な萬々堂さん)、濃茶をいただいたのは雲州伊羅保、まさにこの季節にうってつけ。また明代の青磁人形手を蔵六がうつした茶碗も内側の人形印が良い感じであった。蓋置に、杉木普斎(宗旦四天王の一人)の花押があって、ねじくれ割れた竹の造型がおもしろく、およそ400年も昔のものだと思うと、よほど大切にされてきたものなのだなと思う。
続き薄の干菓子は岩手と奈良のコンビネーション。
奈良はいわずとしれた柿であるが、岩手のは盛岡の松田屋さんというお菓子屋さんの看板菓子「いわての山なみ」というのだそうだ。緑の山に昔見た岩手山を重ねてしまう。
薄茶をいただいた古萩「古今」がまたええ味だしててあれもよかったな〜。
雪割れがあって、真ん中が縦に穴あきになっている茶杓の銘が「孤雁」、これも侘びの極地だ。共筒は萬仞和尚、いまはなき摂津の般若寺(現在の大阪市旭区あたりにあったらしい)復興に尽力された方で、同時代の一燈の極めあり。
そして、一番すごい!と思ったのが棗である。
遠くから見ると真塗り棗にしか見えない。しかし手に取ってみると夜桜棗と同じ技法の芒、秋草、雁が浮き上がって見え、よ〜く見ると背景にぼ〜っと金砂子で満月が描かれているのだ。これは手に取った客を驚嘆させるに値する。しかも不昧の塗師の家系である小島漆壺斎というから、さすが〜とうなるしかない。
はるか岩手から、ほんとうにすてきなお道具ばかり拝見できてありがたいことであった。
三五夜さんにも感謝。
<おまけ>
実は三五夜さんの以前の月釜でたまたまご一緒した方が、9月から薬師寺のほんそばでカフェをオープンされるという。今回帰りに薬師寺で写経と思ったが時間的に無理だったので、せめてそこのカフェだけは行っておこうと駆け足で。
オーナーさんが薬師寺のお坊さん達とも親しいという西ノ京珈琲
かつてはお団子屋さんだった町家である。いつも薬師寺に行くときは近鉄の駅からまっすぐ駐車場をぬけて行くのでここは通ったことなかったなあ。
三五夜でご一緒した方とも再会できてうれしい。アウトドア席で(かつては畑だったそう)おいしいプリンをいただいた。こちらでは薬師寺の売店でしか売っていない葛菓子「白鳳の飛天」(薬師寺から許可がでたそうな。ちなみに樫舎さんの製作だが樫舎さんでも買えない)でお抹茶もいただけるそうで、今度から写経に来るときの楽しみがまた増えたのである。
秋の宵の栗会 - 2020.10.15 Thu
先月秋の宵の芋会に続いて今夜も紫野陶々舎で、Eちゃん主催の栗会。お客さんはお茶仲間3名だけという贅沢さ。
9月に芋会、今月は栗会、Eちゃん手作りのお菓子とお茶のマリアージュの数々。口福で、Eちゃんとお友達(ウン10歳下だけど)でうれしいな♪
まずは栗の茶巾しぼり
ほぼ栗だけの甘さにしっとり感、作りたてだからなおおいしい。
岐阜の有名店のより上を行くと思うのだけれど。
これにあわせるにはやはり抹茶だよね。いっぺんに心と体があったまった。
これが出てきたときは歓声があがった。おしゃれやなあ。
いや〜もうカフェE作ったら?と本気と冗談で。
白玉入りのくるみ餅(かんぶくろのくるみ餅〜♡)と素揚げして黒糖でキャラメリゼした栗、あとリンゴ味のかりんとう。
これを喜ばない女子がいるだろうか。
あわせるお茶は中国茶の岩茶に紅茶をブレンドしたオリジナル。だれともなく「ああ、しあわせ、、、」と、つぶやく。
最後に、栗の渋皮煮。なんて大きい栗!家のすぐそばで採れた栗なんですって!
渋皮煮はむか〜し、一度作ったことがあるが皮を剝くのがたいへんでそれっきりだったくらい、手間がかかるのを知っているから、ほんとうにありがたくいただいた。
合わせるお茶は煎茶、最後にすっきりとしてお開きに。
次回は南京会(カボチャ)をする予定だが、それにさらに百合根会も加わりそうで、ますますお口の楽しみがふえるのであった!ありがとう!Eちゃん。
飯後の茶事〜道具鑑定会?付き - 2020.10.13 Tue

本日の茶事のお客様は、、、
某・古唐津についてほぼプロのお客様(タライラマ師ともおっしゃる)
古美術のほんもののプロのお客様(お世話になっとります)
台風がくるとか来ないとかであいにくの大雨であったが、濡れないでしかも露地の一部を通って席入りできるルートを先日発見したのでおそるるに足らず。露地全体の風情は雪見障子をあけて楽しんでもらう、、、、あ、ガラス磨かんと、、、(^_^;
古染向付兼火入れ、本日のお客様のお店でゲット。
今回の茶事は下ゴコロがあって、懐石を簡略化した飯後の茶事とした。
蹲居は使えないが、庭の風情は味わえる、、、はず。
李朝の籠、おそらく山菜採りにでも使ったものかしら。見立ててで花器に。
直前にチャの花をあやまって切り落としてしまったのがくやしい。
飯後なので軽い点心風懐石に。
長崎のM師に憧れて、李朝小盤を折敷代わりに、両班風のおもてなし。
でも八寸はきっちりあるのでお酒も飲んで飲まれて、今回も都こんぶと「都こんぶに合う日本酒」が大活躍。
どちら様も焼物全般に対して深く広い知識をお持ちなので、お出しした器についてもあれこれ貴重なご意見拝聴。
主菓子はいつもお世話になっているみのり菓子さん。洋梨のコンポートにスダチをきかせたふるふる錦玉。急に寒くなったので、寒天系のお菓子はこれが今年最後かな。
今回のテーマはいろいろごちゃ混ぜながら、夏に連れて行っていただいた大人のピクニック須磨編への返礼もかねて、行平、須磨寺一弦琴、松風村雨堂、たちわかれいなばのやまの、、、の趣向にて。
今年は風炉の季節、ずっと李朝火鉢を風炉に使っていたが、実はこれも本日のお客様にお願いして探してきてもらったもの。M師がお持ちだったのを唐津で見て、憧れて、欲しくて欲しくて。
干菓子は例によって亀廣保さん。
今回薄茶はこれは、と思う高麗茶碗を六碗お盆に並べて、さあどうだ!じゃなくて、、お好きな茶碗で点てるとともに、ちょっと出自があやしいなあ、、のを鑑定してもらおう、、というのが下ゴコロ。
いや〜、冷や汗かきましたね。忌憚のないご意見をいただいて、長年これどうかな〜?の疑問がいろいろ解けました。結論として、やっぱりアヤシイと思ったものはアヤシイということで(^_^;
そして一会終了後、明るい座敷でふたたび鑑定会。これがしたかったのよ。
しかし、なんというご慧眼、どれだけよく勉強されているのかビックリ通り越してあきれるほど。小さな石の轆轤のひきずりを見て、高麗のものか和物かを判定できるなんて知らなかった。
今回がっかりした茶碗もあったが、優良印をいただいた茶碗もあって、これは次からの茶事で自慢になりそうだ。
写真は、高台フェチのおふたり。高台にはいろんな情報が詰め込まれていると言うが、私にはまだまだワカラン。是非是非、焼物講座中級編を開催してほしい。
鑑定はともかく、お人柄とおふたりのかけあいで、盛り上がり超楽しかったのは確か。貴重なひとときに感謝感謝。
播州焼物尽くしの茶事 - 2020.10.11 Sun
播磨国の茶事に招かれた。

こんなお城が見える都会である。
酒井抱一を輩出した風雅の酒井家のお膝元の城下町、歴史と風格を感じる町のそのなかでもとりわけ古いお屋敷がたちならぶ、そんな一画のお宅である。
富岡鉄斎の消息?があったり、淡々斎の消息があったり、古い焼物や茶道具があったりご名家である。亭主のお茶友さんはこちらで月に1〜2回茶事をされている。
まずは広間で懐石をいただく。向付はサバのきずし、10月の名残の月だけは背の青い魚がふさわしい。
今回のテーマは播磨国の焼物尽くしである。兵庫県と言ったら丹波国の丹波焼しかしらなかったが、実は播磨にもたくさん焼物の窯があったそうだ。今回はじめてきく窯の名前ばかりであったが、覚えているものを記しておこう。
この向付は姫路藩のお庭焼であった東山(とうざん)焼、伊万里系の磁器である。
きゃ〜!今年の初松茸!
写真は遠慮したが、そのお庭焼の流れを汲む鷺脚焼(姫路城は白鷺城)は陶器と磁器の間くらいで、蟹の彫り物が特徴的なのだそうだ。明石焼(たこ焼きと違うよ)とよばれるものの中には、舞子焼、魚住焼、朝霧焼、相生焼、など、とても覚えきれない。そこまで細かく分けなくても、、、と思うが、川一つ隔てただけで土質ががらりと変わるのだそうだ。
特注のアマビエ様の主菓子をいただいて中立。
茶席は四畳半台目である。
釣り舟の花入れにはたっぷりと秋の花が贅沢に入れられている。
大文字草とか霜柱とか貴重な花もあってとてもうれしい。
天井の作りも凝っている。今回御連客に以前もご一緒したことのある大工の棟梁と、植木屋さんがいらしたので、茶室の造りのこと、植栽や花のことがたくさん聞けてこれもありがたかった。
濃茶は主茶碗が古萩で、高麗?と思うほどいい色であった。焼物も自作される棟梁にだされたのは、彼が「完璧な茶碗」と以前から惚れておられるという御本写し、那波鳳翔さん(播州相生)の作。茂三(御本の一)写しで中に鶴刷毛、良い感じである。
初炭は省略して濃茶の後に後炭をされる。後炭のときの風炉中拝見、これは楽しみ。釜は万代屋の擂座が菊菱に置き換わった珍しいモノであった。
香合が菊の葉をかたどったもの、開けると香をおく部分が金色の菊の花になっていて、印象的なデザインである。
これは反対側から撮った写真だが、濃茶の間燃え残った炭の流れ具合をみるのはなによりのご馳走だ。しかも後炭はめったに拝見できないからなあ。
↑棟梁お気に入りの茂三写し
薄茶は一見乾山にも見える古い京焼、淡路の明平焼、播磨の舞子焼であって、、、ああ、これ、今日のお客さんの住まいにちなんだラインナップだ!と気づいてとてもうれしいかった。
たくさん播州の焼物をみせてもらって今回も色々と楽しく学習できた。佳香のギンモクセイの香りに見送られて播磨国をあとにする。
<おまけ>
これはインドのシルクサリー生地を袷に仕立てたモノである。さすがインドの生地、袷にしても単衣より涼しく軽い。これを見せてくれて仕立てまでお世話になったのが本日のご亭主である。だからモチロン着ていきました〜!
大覚寺大沢池観月の夕べ2020 - 2020.10.08 Thu
嵯峨大覚寺の中秋の名月観月会は毎年竜頭鷁首のお舟にのるのに行列が出来ると聞いた。人混みはいやだからいいやと、でかけたことはなかったのだが、今年はコロナのせいでネット予約でしかも抽選だそうだ。

まあ当たるわけないや〜としかも追加募集の時に申し込んだら意外にも当選してしまってはじめて観月会にでかけた。
大沢池につきだした池舞台には法要のための室礼がされている。1日にはきれいな中秋の名月が拝めただろうが、最終日の3日はあいにくの曇り空、月のかけらも見えないのはご愛敬。雨でないだけましよね。
この舞台では、昨年の8月末に宵弘法の法要を拝見した。地元の夏祭りっぽくてよかったが、この観月会も今年は人が少なくて余裕で近場で拝見できた。
聲明にお月さんにささげる蔓付きのお野菜を奉納。
蔓付きの芋や、豆は、月と現世をその蔓がつないでくれるという言い伝えがあるそうだ。日本最古の人工池=大沢池の水面に聲明が流れる。
祭壇のむこうを音もなく通り過ぎる鷁首舟
空海を大好きだった嵯峨天皇が、月を見るためだけにこしらえた大沢池、水鏡に写るのは心経宝塔である。そういえば2年前、嵯峨天皇の書かれた勅封般若心経の60年ぶりの戊戌御開封を拝見したなあ。
乗船まで時間があったので、大沢池周辺を散策、暗いので限られた場所だけだが。これも暗くて写真ではなにがなにやらだが、大沢池を音もなくすべっていく竜頭鷁首舟。
宝塔の前では時間待ちの方が三々五々、これくらいの人がいいね。
さて、乗る舟は鷁首のほうだ。
平安貴族の舟遊びさながら。
暗い大沢池にこぎだす。
簡単な解説はあるがほとんど静かで櫂がたてる水の音ばかり。
暗くてこれがぎりぎりの明るさでとれた蓮の群生地の中をいく舟である。
3年前にこの舟にのってお茶をするという舟遊び茶会をしたのが懐かしい。舟が蓮の葉の林を行くとき歓声が上がったものだ。あれは美しい景色だった。
参考までに写真をおいておく。明るいときはこんな感じなんだ。
舟からみた池舞台だけが明るい。
湖畔の茶室棟、望雲亭
ほんとうはこの春、桜の季節にここで舟遊び茶会アゲインの予定だったのにね、残念ながらコロナめ〜!
下船後は池をのぞむ五大堂の前の茶席へ。
月にウサギの誂え菓子でお茶をいただいた。
点て出しだけど。
竜頭の舟も写真におさめて帰ろう。
その時に厚い雲に隠れていた月の仄かな光りがちょっとだけ見えた様な見えなかったような、、、(^_^;
「懐石のうつわ」野村美術館〜「瑞獣伝来」泉屋博古館 - 2020.10.06 Tue
会期終了間近の近場の美術館へ滑り込み。

旧細川邸の紅葉もそろそろ色づき始めた。
野村美術館への碧雲荘わきの道、疏水分線の小径はすっかりヌスビトハギの花盛りである。今年いっぱい、野村のセミナーもコロナのせいでなくなったのでここをたどるのは久しぶり。
野村の展示は「懐石のうつわ〜秋・冬のしつらえ」である。実際に野村得庵が茶事に使っていた懐石道具がずらっとならぶ。道具が少ないうちは茶碗とか、茶入とかにどうしても重点が行って、懐石道具まで手が回らないのが普通。私もごくありきたりの懐石道具しか持たないが、さすがに得庵のはすごいや。
乾山とか古染とか楽とか、向付の焼物がすごいのは予想できたが、飯器までが朱地螺鈿蒔絵のすごいのとか、湯斗が蝋色の江戸時代の塗り物とか、銀を埋め込んだ煮物椀とか、これほんとに使っていいの?と思うようなものがずらりと。
ある程度道具がそろってくると、いわゆる脇道具のいいのがほしくなる。ただし懐石道具は食器であるので台所での使用に耐えなければならず、コスパを考えると良い物は手に入れにくいのだ。こんなのがなにげに使える身分はうらやましいのう。
地階の展示が得庵所持のバカラのギヤマン懐石具のオンパレード、これだけたくさんの種類の春海バカラ(春海商店三代目主人がバカラ社に図面を送りオーダーしたもの)が見られる機会はそうそうないと思う。四ッ椀までバカラだって!
本来なら夏に展示する予定だったらしく(コロナで延期)室礼としては祗園祭であったが、とうとう秋になっちゃったなあ。
はしごして野村からほど近い泉屋博古館、私ここにこんなに人がいるの見たことない!とビックリするくらい人気なのが「瑞獣伝来〜空想動物でめぐる東アジア三千年の旅〜」展である。
ここで瑞獣とされるのが龍、虎(古来日本人にとって見る機会がなく虎は空想上の生き物であった)、鳳凰である。
まずは泉屋のシンボルでもある青銅の虎卣(こゆう)、殷時代のもの。(この虎卣は3Dプリンターでつくった型で和三盆の打ち菓子にもなった)まったく、殷とか、西周とか中国の古代史には疎いので紀元前何年ごろなのか調べなおしたよ。虎が人を文字通り食ってるのだが、その体の側面には龍やら饕餮(とうてつ)という中国神話の怪物(のちに魔除)が刻まれているので、まさしく瑞獣の塊、といえるな。
龍では南宋の陳容作と言われる「五龍図巻」がすごかった。大きなものではないのだが、深山幽谷に潜む五匹の龍の目つきのわるさといったら、相当ヤバイやつや、って感じで迫力ある。
建仁寺の襖絵の墨龍は海北友松作、若い頃の経歴がはっきりしない人物で、この友松を主人公にした葉室麟さんの「墨龍賦」を最近読んで、その表紙の龍の絵がまさにこれだったので、感激。
虎をみたことがなかった江戸時代の絵師たち、円山応挙の「虎図」がまるで耳を伏せてシャ〜っといっている猫そのものなのにニヤリ。かわいいわ。応挙にしても想像の動物を描くのはむつかしかったらしい。
三日月のような細い目をした下心ありそうな感じの独特の鳳凰は若冲の彩色画?と思ったらその元になった明の林良の鳳凰石竹図であった。相国寺所持なので、なるほどという感じ。
あまり期待せずに行ったのだが、予想をうらぎって、ほんとよかった。人気があるのも頷ける。10月18日まで、急げ!
名残の季節の夕ざり茶事2020 - 2020.10.04 Sun

名残の季節になった。
お茶の上手のお茶友さんを招いて夕ざり茶事。
最初鳥をテーマに道具を組んだが、大好きな某女流画家の絵が手に入り、急遽変更。
でも、鳥かごはそのままという、、、(^_^;
絵は李白の子夜呉歌から「長安一片月 万戸打衣聲、、、」
下に砧香合を置いたが、香合に描かれた鳴子に追われた雀はどこへいっただろう。
涼しくなって、露地の苔もようやく元気をとりもどした。私の茶事準備の労力は、八割が露地の準備にあるといっていい。(色々苦労してるの)
蹲居の苔も緑をとりもどした。夏場は茶色になってたからなあ。
夕ざりの初座は花
須恵器の残欠に山ホロシ、秋海棠、水引、オケラ、いずれも我が家の庭に咲いた花。
夕ざりは陽の移ろいと夜陰の訪れる様を楽しめる。
あ、先ほど追われた雀がこんなところに!
(わざとらしく、、、(^_^;)
本来この季節まだ香合は塗を使うのだが、どうしても雀に登場していただきたく。
名残の季節は向付の器もばらばらの寄せ向こうになるのがおもしろい。
今回も「都こんぶに合う日本酒」という名前のお酒を都こんぶを八寸にのんでいただいた。
シシトウにつける甘辛味噌のはいった小さな器は宇治のA君の作品。
お菓子は今回もみのり菓子さんにお願いした。
銘を「静寂」
首を折りたたんだ白鳥が眠る、まもなく冬を迎える湖の静けさ、、、そんなイメージ。
頭の部分はなんと百合根である。
縁高のかわりの重箱にも、、、雀
前回使って背が高すぎた竹の蝋燭立ても、ノコギリで切って、ちょうど良い高さに。
待合の軸について、私のしらなかったさらに深いお話しをお客様から教わった。
濃茶は各服点て、たくさん茶碗がだせてうれしい♪
薄茶も合わせて計6碗、我が家のありったけの高麗ブラザーズをお出しする。(1つだけ和物あり)
各服点てにするとどうも続き薄の手順がややこしくて私には対処できない。表千家バージョンでいこうよ、といつも思う。(裏千家では続き薄の一服目は次客が飲むことになっている)
お客様のおかげで自分が思った以上にテーマが広がりをみせてくれて、ありがたいことこの上ない。こういう知的遊びこそ茶事の醍醐味ではなかろうか。
(ちょっとだけばらすと砧〜雁〜蘇武である)
よろしゅうおあがり 和菓子をおいしく〜「うつわと和菓子と源氏物語」 - 2020.10.02 Fri
うちの近くなので時々立ち寄っているうつわやあ花音さん、梶古美術の奥様のお店で、現代作家物を扱っておられる。しかも私好みでうれしい。今までにも脇山さとみさん、渡辺味和子さん、矢島操さん、村田森さん、岸野寛さんなどなど、いくつか作品を持って帰った。

その梶さん(裕子さん)が先だってすてきな本を上梓された。かねてより「源氏物語」購読会(福嶋昭治先生)を梶古美術でされていて、その時にだす源氏の各巻ににつかわしいお菓子と器を、梶さんと聚洸さんが相談して出されていたのだが、それがまとまって本になったのだ。
たとえば、「夕顔」では扇の上に乗った夕顔の花、をかるかんの扇面、夕顔の焼き印で。
「常夏」はやはり撫子(常夏が異名)ういろう、「玉鬘」では笹舟に乗った羊羹、玉鬘が幼い頃、瀬戸内をわたって九州へ行く舟を、、、といった感じでじつにリリカル、和菓子の銘のすごさに改めて感動するのである。
このたびそれを記念して、新門前の梶古美術さんの二階で「よろしゅうおあがり 和菓子をおいしく」というイベントを企画された。りっぱな一抱えもある上﨟ホトトギスがお出迎え。
撮影に使われた器が全巻そろっているのを拝見。現代作家ものあり、魯山人有り、古染などの古美術有り、の器のオンパレード、すてきすぎ!
今回の会のお菓子ももちろん聚洸さん。
まずは若菜の源氏香焼き印のほろほろとした焼き菓子と、ビーガンチーズケーキを参考にしたという聚洸さん初挑戦のお菓子、試みを掛けて「こころ実」。口に入れるとココナッツの香りがぱ〜っと広がる。
もちろんお酒もありまして(*^_^*)バカラのクラスでスパークリングを。
二つめはこれもバカラの器に入ったフルーツ寒天とでもいいましょうか。巨峰、梨、干し柿で、和三盆シロップかけ。フルーツの密度が濃くて、よく寒天でまとまったなと、さすがプロや。
銘を「水中菓」
そこへ梶さんの愛犬乱入、さらにごっつい洋猫の御乱入もあり、みんななごんでしまった。
室礼は梶古美術の名品がずらっと。待合は蓮月さんの砧の歌。李白の「長安一片の月 万戸砧打つの声、、、」を下敷きに。展覧席は仙厓の寒山拾得、ルーシーリーの花入れにムベの実。本席は中院通茂の重陽の節句の歌、花入は「浮舟」をイメージの大きな砂張?の舟。
最後に聚洸さんが今一番自信のあるお菓子を、という梶さんのリクエストに作られた栗きんとん。2種類の栗を使って、さすがに自信作というだけあって、おいしゅう御座いました。器は魯山人。
お隣の方のは村田森さんの古染写しで、いいな〜これ。ほしいわ。
最後にお嬢様がお茶を点ててくださった。
薄器が紅葉と鳥兜の蒔絵でもちろん「紅葉賀」、水指は瓢型つまり「夕顔」、九輪釜は源氏物語の底に色濃く流れる仏教思想を、茶杓は「ゆづりは」、源氏の全盛期はいつか移ろい、次の世代へと引き継がれることを表す。
そんな感じで源氏の世界を追体験させていただいた。一通りは読んだが(現代語訳で)いつか解説付きでもっと深く読みたいなあの感をさらに強くしたのであった。
楽しい美しい会をありがとうございました。