伯耆の国で志野流茶事(+鳥取民藝美術館のこと) - 2022.05.31 Tue
鳥取のお茶友猫さんのお茶事に、京都から3時間かけてでかける。

鳥取駅におりたってびっくりした!
↓ 3年前に来た時とほとんど変わってないのだもの!
(3年前の写真)
小さい傘がなくなっているけれど、ほぼ変わらず、しかも古びていない!
(駅の改札が自動でなくて手でスタンプ、だったのもなぜかなつかしくて感動)
3年前の茶事では初めて志野流(香道の志野流とルーツは同じ)のお点前を拝見して驚くことも多かったのだが、今回はゆとりを持って観察できそう。
少し時間があったので、ごいっしょした、そらいろつばめさんの車で鳥取民藝美術館へつれていったもらう。
柳宗悦の民芸運動に共感して、時に行動をともにし、自分でも工芸のデザインを手がけ「民藝のプロデューサー」を自認した吉田璋也により鳥取の民藝の拠点として建てられたもの。
吉田璋也は耳鼻科の医師でもあり、お向かいに旧宅が残っていた。美術館の中はまさに東京、大阪、倉敷にもある民藝館と同じイメージ。特に目を引いたのがたくさんあった「牛ノ戸焼」の焼物である。ビールのボトルを焼物にしたようなのが目についた。牛ノ戸焼は江戸時代鳥取で興った窯であったが、明治以降廃業したのを、璋也が宗悦とともに説得して復興した窯だそうだ。描かれた花の絵などは璋也自身がデザインしたものだという。その知識を得た後で、伯耆の国の茶事にいどむ。
ちなみに美術館の隣は同じく璋也が民藝工芸品を販売するルート確立のためつくった、たくみ工芸展。倉敷ガラス調のガラス器にいたくひかれ、持ち帰ることにした。
さて、なつかしいご亭主・猫さんの「玉兎軒」、芳名録のとこで出迎えてくれた兎さんも3年前といっしょ。また会えたねえ。
また会えたねえでは、京都の社中で以前一緒だった茶友さん(鳥取県在住)に久々に会えてうれしかった!つもる話もいろいろ。
(御自作の下地窓風しきり 溜精軒っぽい)
待合には鳥取藩の御用絵師だった方の富士山の絵。
豪雪地帯ゆえ、飛騨の金森宗和考案、真珠庵の庭玉軒の内露地と同じコンセプトの蹲居を使って席入り。
初座の軸は有栖川宮家に仕えた国学者であり歌人であった加茂季鷹の墨田川の歌。富士山に墨田川、しかも都鳥を読み込んだものとくれば、これはやはり「伊勢物語」ですね。
眉風炉の灰は、表千家に似て、上にゆるくあられ灰をまいてあって、しかも風炉点前でも炭の時に灰を撒く。
猫さんは今回ワンオペで、懐石もお点前も一人でされる。(前回は表千家のご主人が水屋してくださった)
今回も鳥取名産、ちくわ豆腐登場。城下町なので、質実剛健を旨とし、贅沢をしてはいけないということで魚のすり身を減らして豆腐をまぜこんだのが始まりだそうだ。
煮物椀はしんじょうに木の芽をいれこんだもの。さわやか。これはマネしよう。
他のお三方はそれぞれお車だったので、鳥取の地酒「青水緑山」はわたくしひとりが処理いたしました(^_^; (ようするに痛飲)
途中でお茶をだしていただき、なんだろ?これ枇杷の葉茶に似てる、、と思ったら鳥取のお茶で「はま茶」というらしい。カワラケツメイというマメ科の野草からつくるんだそうだ。所変われば色々あって面白い。
箸洗い(小吸物)の中身がなにか、みんなわからず首をひねったが、つけ込んだ梅酒の梅だったとは!こちらの流派では箸洗いのあとにもまだ強肴がでてくる。美味しくお腹一杯。
(主菓子 からころも いよいよ伊勢物語)
茶道の志野流は鳥取に直接伝わったもので、お家元は鳥取におられるが、完全相伝(世襲でなく免許皆伝で許状を出せる 石州流などと同じ)で伝えられているという。
猫さんは大学の後輩でもあるので、学生の時は裏千家をされていたが、鳥取に帰られてから地元に家元がいる志野流を習い始めたとのこと。
(後座の花 蔓系と柑橘系の花)
中立後、後入りの合図を「お鳴り物で」と乞うのだが、なんとびっくり!龍笛の越天楽?がきこえるではないか!そうか、これもお鳴り物、こんな手もあったとは楽しい。(私も鼓などやろうかなあ、、(^_^;)
濃茶では大好きな熊川をだしてくださって、高麗茶碗シリーズが、おお同志!と言いたくなるほどうれしい。
茶杓が今回一番印象に残る。お茶のグループのおつきあいで、本職がバーテンダーという方が作られたもの。なんと本来の節の上と下が違う竹片でできており、中を竹釘二カ所でつないだ、という今まで見たことのない茶杓。しかも櫂先は斜めにしゅぱ〜っと切れ切れ。
銘を「ひとむかし」
グループの10周年記念ということで10年一昔、ということだろうが「むかしをとこ」を連想させてますます伊勢物語。
そして薄茶にでてきた茶碗がその牛ノ戸焼だったのである。さっき美術館で見たばかりの現物をここで手に取れるとは、、と感慨深い。
思えば隣の出雲は不昧公のお膝元、茶の湯県として有名なので、その陰になっているものの鳥取も実は茶の湯の盛んな場所なのだなあ、と思った。
最後に薄器が木の枝をそのままくりぬいた金輪寺。蒔絵が蔦で、これも伊勢物語の宇津の山、蔦の細道なのね、と大団円。
お開き後は2時間に一本しかない京都直通特急に遅れないようにとバタバタしてろくにお礼も言えず失礼した。駅に送ってもらう車の中で運転するそらいろつばめさんと「茶事ってやっぱり楽しいね〜♪」と語り合ったのである。
(あ、列車には間に合いました、ギリ)
まさんど窯の屋外無人販売所上棟 - 2022.05.29 Sun
MIHOの帰り、せっかく信楽まで来たのだから半年ぶりにまさんど窯の平金さんをたずねた。

このところ在宅時間が長くなったとのことで、彼の母屋はますます周辺整備もすすんでいる。居住空間、いろんな人たちが集まる場、としてさらにバージョンアップ。
ちょうど暑くもなく寒くもない爽やかな季節、開け放った座敷に吹く風が心地よい。平金さんに会うだけでなく、ここに来たくなる大きな理由がこの座敷の居心地のよさと、どこをとってもフォトジェニックな室礼の美しさなのだ。(いずれも彼の日頃の丹精のたまもの)
玄関のかたすみには、一応陶芸家っぽい(?(^_^;)コーナーもあり。
さて、今回見に来たのは約1年かけて平金さんが構想し、工務店の方の指導を受けつつ、ご自分で設計、木材刻み、鑿によるほぞつくりなどで仕上げている敷地内の屋外茶碗無人販売所。ここに作品を並べて、野菜の無人販売所よろしく売るという試み。(ちなみに支払いはPayPayとauPayなんだって。すすんでる〜)
ちなみに「世界一美しい無人販売所」(を目指した)だそうだ。
このプロジェクトは大阪の山本博工務店さんの年間自作堂というDIYプロジェクトによるもの。せんだって上棟式を終えたばかり(→山本工務店さんのFBにその時のお写真が☆)
まだまだこれに瓦を葺くので完成は先とのこと。
この茶碗を載せる台にと、棟梁が松の板をくださったそうだ。
この台の丈夫さを確認する意味で、われわれおじゃました三人(あまり売り物になりそうもないのもまじってます(^_^;)で乗って座ってみる。三人がここに並んで座っている写真もあるのだが、あまりに珍妙なので(^_^;アップはやめておく。
この板の、でこぼこをスムーズにしていく仕事をあとでちょっとお手伝いするとして、まずは恒例の母屋でティータイム。
テーブルも室礼も自然光も、どこまでもスタイリッシュでフォトジェニック💕というので母屋の写真ををばしばし撮らせてもらった。
この座敷の向こうの景色が見える場所が特等席、ちょうどファーストフラッシュの茶摘みが終わったばかりの茶畑が見える。朝宮は昔から信楽でも茶の生産地として有名だ。
先だってはここでアンプラグドライブも行われたという。バーベキューセットを持参してなにげに訪ねてきては大騒ぎしたり、茶摘みを終えた労働者が、焚き火を囲んでギターを手にいきなりプロはだしの腕前と歌を披露したり、平金さんを取り巻く人たちはみんなオープンでやさしい人たちなんだろうなと思う。
そうこうするうちにそんな時に使おうと、注文されていたドイツ製タンバリンが届いた。
ここに来れば茶碗は山ほどあるので茶箱には茶筅と抹茶のみいれて持参、お茶点てる。
茶碗はまさんど窯の井戸
母屋の特等席の裏、裏山の地面になにやらコンクリートを打ってある?なんと彼はここに自分で焼いた大きな信楽焼の湯船をおいて露天風呂にするというのだ!(゚Д゚)いや、入るのはちょっと問題が、、いや、やっぱり入ってみたい、、、と完成もしていないのに揺れ動く乙女?心。
信楽焼の湯船については、ここでそれのトップシェアをしめている窯の社長さんの窯で焼いてもらえるそうだが、お知り合いになったきっかけがちょっと書けないけど爆笑ものだった。
完成の暁には風呂に入りながら向かいの茶畑の絶景を楽しめる寸法らしい。
勝手に使わせてもらうキッチンは窓の外の棚がカフェのカウンターみたいですてき。この窓越しにはい、コーヒーと手渡せたら面白い。
母屋の一角にあるこの素敵な不安定な九角形ステンドグラスのランプシェード、蝉のあるいは妖精の羽のような、これは平金さんのお宝。
その作者をたどって、また御縁をたどってであったステンドグラス作家さんと、ここでワークショップを開くという。ちなみにこれはその作品の一つ。裾が波打っているのがおしゃれ。
さて玄関から庭に出まして、、、
先ほどの無人販売所の棚の電動サンダー(サンドペーパー)による磨き作業。三人で交替でやったが、かけた効果がすぐ確認できるので、ヤミツキになりそう。もっとやりたかった〜!でも一応無人販売所の完成に(0.001ミリほど)参画できたというアリバイを作ったぞ!
平金さんはお向かいの畑も一年間無料で借り受けて、畑仕事も始めた。この畝作りもビニール張りもご自分でされている。(だんだん本職が何かワカラなくなる、、って本職は陶芸家でよかったっけ???)
後で母屋でいただく平金スペシャルお茶漬け用のネギを収穫。
さらに養蜂も始めたと言う!まだ偵察ミツバチがぶんぶん飛ぶだけで巣は作っていないそうだが、いつか自家製蜂蜜をいただける日も近い?
驚いたのは朝宮にも鹿がいること。畑の柵を閉め忘れて一晩で作物片っ端から食べられたんだそうだ。これが鹿の足跡。奈良の鹿はかわいいけどね〜(^_^;。
特製折敷に先ほどのネギも刻んで海苔とか肉之佃煮、ホタテとか。真ん中にネギの残骸、これ植えたらまたネギが収穫できそう。いいな、畑仕事暮らし。
土鍋の炊きたてご飯に具を載せてお湯を投入、お茶漬けまさんどスペシャル完成!
平金セレクト盃で乾杯!
私のはミニミニやちむん。
器はもちろんまさんど井戸茶碗。美味しゅうございました!
右手に見えるのが無人販売所。屋根のむくり(屋根の微妙なカーブ)までつけて、母屋のむくりと合わせるんだとか。今から瓦を葺いて、完成は秋になるという。これはまた信楽まででかけなくては!
人知れぬ苦労はきっとたくさんあると思う。それでもここの暮らしはとても美しく、楽しそうに見える。そんな場をこつこつと、まわりの素敵な人たちも巻き込んで作り上げていく、私にはとてもできそうもないが、だからこそとてもうらやましい。またその片鱗を味わいたく、また遊びに行かせてくださいね。
お別れ - 2022.05.28 Sat

今日、家の梅の実をもいだ。昨年と同じく今年も豊作だ。全部梅シロップにする。
この日の朝、お別れをしてきた。それなりに付き合いは長くなったが、実際にいっしょに時間を過ごしたのは多くない。物理的時間が少なくても心に残すことが多い人っているのだ。奈良と私をつないでくれる糸の一本が切れた。
奈良でつながり、茶の湯でつながり、SNSで「また奈良に来たんか〜」とつっこんでくれるのがうれしくて。
3月に、ご自宅で茶会をしてくれたばかりだというのに。素人ではないから、状況が深刻だということは頭でわかっていても、(彼自身もわかっていたはずなのに)10年も20年もこの先、生きる勢いで未来しか見ていなかったので、私も錯覚していた。お別れはあまりに突然であったが、前日まで友人とLINEをかわし、お茶のお稽古の予定もいれていたというから、なんだか彼らしい。最後までお見事であったと思う。
本来なら「奈良の第二茶室」にさせてもらう、と冗談をいっていた家ができるはずだったならまちの土地の前を通ったのはつい昨日のことだった。どうしているかなと思ったが、その時はもう。その前日の夜に、まぢかで聞いた奈良太郎(国宝東大寺梵鐘)がお見送りの鐘になった。
告別式から帰って梅をとって毎年恒例の梅シロップをつくる。これから毎年梅シロップを見ると彼を思いだす。青梅忌とでも名付けようか。
ありがとう。楽しかった! 合掌
懐石の器展(炉編)〜MIHO museum - 2022.05.27 Fri
会期終了ぎりぎりになったがなんとか滑り込みセーフ、MIHO museumの懐石の器展(炉編)

信楽の山の奥は鳥の声も麗しく新緑が美しかった。まさに別天地、桃源郷。
懐石を自分で作る者としては、器しかりメニューしかりでとても興味があった展示である。
オーディオガイドで熊倉先生のソフトなお声を聞きながら、、、
「懐石とは”ふところの石”。禅僧が石を温めて懐にいだき、一時の空腹を抑えたいという伝承から生まれた言葉で、、、、」
「、、、お茶をおいしくいただくための簡素な料理、、」
1)お客様が一番美味しく召し上がれるようできたてを一品ずつはこぶこと
2)亭主が自ら運び楽しく主客交流すること
3)最後まで食べてもお腹にちょうどよい分量であること
4)料理にふさわしい器を選ぶこと
耳の痛いこともある。
(桜トンネルはすでに終了〜)
茶事でご亭主お手製の懐石がでるとなによりうれしい。料理屋さんのつくる懐石は見た目も味もそれはプロだからいいにきまっているのだが、それはいつでもお店でも食べられるのである。
お手製は、ちょっと失敗した形や味付けにも亭主の個性が出てうれしいのである。
茶事で懐石を自作するのはそれなりに苦労は多々ある。手間も食材集めから大変で、茶事のなにがしんどいって、私はやっぱり懐石パートなのだ。その苦労をわかってくれるお客様にきていただけるとうれしい。
今回の展示のなにがうれしいって、器だけでなくそれに盛り付けた料理のどアップの写真がたくさん展示されていることである。ここのコレクションに匹敵するような器はなにひとつ持っていないが、懐石料理については献立も、盛り付けも、付け合わせも勉強になることばかり。
それは器も素敵なら尚よいに決まっている。一般的にお茶をする人は茶道具あつめるのが精一杯で懐石道具まで手が回らないことが多い。懐石道具を集める楽しみを知ってしまったら底なし沼になる予感はする(^_^;
席入りから茶事の流れに沿って順番にでてくる道具をコーナー毎に展示されているのだが、一番力がはいるのは向付ではないだろうか。焼物の種類も、形状も季節によって変え千変万化、これほど見ていて楽しいものはない。(自分が持っていれば尚楽しいだろうが(^_^;)
織部も、志野も(鼠志野最高)絵唐津も、種類ほんとに豊富な古染付、コレクションでは近世の乾山が多かったな。
ついつい料理の写真の方に目が行って、献立をメモメモ
スズキにはスダチ、胡麻豆腐の煮物椀にはそうめん瓜、ワラビ、木の芽の付け合わせ、、、云々
(器もながら献立盛り付け見たくて図録買っちゃったよ)
特別コーナーとして近衛予楽院(家煕)の茶会記再現コーナーあり。江戸中期のお公家さんとしては最高の知識人、教養人、茶人、香道、華道の達人(超人や)、、であった予楽院は茶杓箪笥(陽明文庫)も有名。
予楽院「御茶湯之記」の現物もあって、道具立てから献立まで記録。客が内府さま(大臣?)、ご相伴に予楽院の侍医でその言動を記した「槐記」で有名な山科道安の名前をみつけた。
(図録より)
ハイライトはこの時の「錦はんぺん葛かけ」を、再現し(祇園まるやま)、同じく再現した予楽院公案の杉平(杉板で作った器)の数々の写真。はんぺんは色も形も、杉平は形がそれぞれ違っていてなんという遊び心!と感動する。
こんな教養も知識も美意識も経済力も地位ももった茶人なんてこの先あらわれないだろうなあ、、
後座の茶席パートはさらりと。(あくまで懐石がメイン)
宮島釜の本歌(家康が井の頭上水の手柄をほめて大久保主水に与えた大久保家伝来の釜)がでていたのは感動。
初展示となる大井戸茶碗「小一文字(胴に一文字のひっかきあり)」も井戸の本道をいってすばらしかった。(鈍翁〜松永耳庵所持)
心に残る器は数々あれど、持って帰って良いよといわれたら持って帰りたかったのは手のひらサイズの絵唐津ミニミニ片口盃。めちゃくちゃかわいい💕
コロナ前は行列ができて入れなかったMIHO museumのレストランでパスタをランチに、ミホ豆腐をお土産に。
家に帰って図録を見ながらまた圧巻だった展示と献立に思いを巡らすのである。
Assemblages HANARE〜チョコのデザートコース - 2022.05.25 Wed

チョコレート、パティスリー、で人気のAssemblages Kakimoto(アッサンブラージュカキモト)(寺町竹屋町)、その数件隣の、、、
Assemblages HANAREさんへチョコレートデザートコースをいただきに。(予約制)
席はカウンターで4〜5人様まで。
カウンターの上のチョコレートを4〜6種、セレクトしてお茶かお酒でいただくというもの。
飲み物は、最初お茶をと思っていたけれど、ラインナップを見てまよわず「伊根満開」をチョイス。東京農大指導の古代米を使った伊根の赤いお酒、とってもフルーティーなのでチョコに合うに違いない。
カウンターでは優秀なバーテンダーよろしく、出過ぎず引きすぎない接客上手なスタッフさんがおひとりで切り盛りされる。
さて、なにを選ぼうかと迷う。内容について苺とか山椒とかピスタチオとかレモンとかあれやこれや、中身の説明を受けたが、あまり覚えられない(^_^; でもどれを選んでも美味しいはず、と見栄えで選ぶ。おお、以前懐石に使った食用ほおずきもあるぞ。(食べられるといったら皮まで食べちゃったお客さんを今も思い出すよ(^_^;)
一見シンプルだけれどすごい味の重層になっている最初の一品。
周りのチョコのカップの中にフルーツやカスタード、生クリームエスプーマのブリュレ、それからバニラアイス、トッピングは針状に細いチョコ。あ、食べるときはぐちゃぐちゃになるけど(*^_^*)
まずは四種セレクト。やはりほおずきは外せない。リキュールに浸してお砂糖をまぶしてだしてくれる。あとの中身はよく覚えていないが、山椒とピスタチオ選んだかな。中にガナッシュやフルーツが入ってただものではないチョコレート。
まだいけるかな、、、とカヌレとボタンみたいなチョコも追加。
チョコばっかりでそんなに食べられるか自信なかったが、砂糖控えめチョコなので案外いける。他にもガレットやマドレーヌもあったけれど、焼き菓子系はちょっとたくさんは無理。先ほどの甘いと感じた伊根満開が、チョコといただく酸味が勝って、よく合うのだ。
ほろよい加減でお店をでる。
寺町通りのお向かいは革堂、そして、、、
ちょい北の下御霊神社では3年ぶりの還幸祭を控えて御神輿が並んでいた。残念ながら今年も夜店はないようだ。
御池以北の寺町通りはギリテリトリー、この好きなエリアにまた新しい遊び場所ができたわ。メニューも奇数月にかわるそうで、変わるたびに来られる猛者もおられるそうだよ。
宗箇忌法要茶会2022〜大徳寺三玄院 - 2022.05.23 Mon
数年前から行きたいと思いつつ、コロナやなんかでさんざん機会が潰れてきたが、今年やっと念願叶いお家元初釜(和風堂in広島)に参席できた上田宗箇流。
今回もおさそいいただき大徳寺・三玄院で毎年5月におこなわれる宗箇忌法要茶会に参席、数ヶ月ぶりに宗家の方々のお顔を拝見する。

三玄院といえば、春屋宗園、三玄院天目、長谷川等伯が襖絵に無断で絵を描いた、宗旦が喝食してたなどなど、茶の逸話には事欠かない塔頭である。創建は石田三成、浅野幸長、森忠政(蘭丸の弟)による。浅野家の家老まで務めた宗箇なので、そのゆかりでここで法要茶会をされるようになったのだろう。
ちなみに宗箇の墓所は広島にあり、ここにはない。代わりにというわけではないが、茶の師であった古田織部の墓がここにある。(石田三成、船越伊予の墓所もここ)
普段非公開の三玄院の中にはいったのは約10年ぶりである。
(関係ないけれど、某有名料理家の方の撮影取材にでくわした)
本堂で、宗家の方々の法要にもいっしょにお参りさせていただく。やっぱりここでも「へうげもの」の宗箇の濃い顔がちらつくわ(^_^;
最初の薄茶席は広い本堂前の方丈庭園にてというのに驚く。白砂にきれいに筋の引かれた庭の一画に立礼棚を持ち出してのお点前。したたる緑の中、一点真っ青なコバルトブルーの水指が印象的。客は本堂前の廊下に足をおろして着席、これはなかなか楽ちん。爽やかな五月の風を感じつついただくお茶は格別。お正客は孤篷庵の和尚様であった。
本堂の柱に掛けられた花は「馬の鈴草」。以前どこかで見たことがある珍しい小さなトランペット型の花(ムサシアブミを小さくしたような)。
武家流ゆえ、十徳ではなく、みなさん袴着用の男子ばかりで、お点前の姿がりりしい。広島ゆかりの宮島釜、水芭蕉蒔絵青貝の平棗、ご先代作の茶杓の銘は「若葉の風」、主茶碗は竹の絵の御本。
建水に鯉文様は、そこは広島カープだし(^_^;
蓋置が折り鶴型で、これは「原爆の子」の折り鶴を連想させるものであった。
点心席は本堂にて。
なぜか奈良!王子の鬼楽さんのお弁当。仏事なのでご飯は黒豆ご飯。初釜の時はまだコロナでお酒なしだったが、今回はお家元夫人のお酌でお酒をいただけるようになったのはうれしい。
濃茶席は奥の座敷・自得軒で。ここの襖の唐紙に上から墨絵が描かれているので、以前来た時はすっかり等伯の無断落書き(襖絵依頼を懇願していたがかなえられず、春屋が留守の間に襖に絵を上書きしちゃったという逸話)かと思っていたが、ここは新しい席なので、現代の日本画家さんが描いた物と判明。実物は三玄院にはなく、円徳院とかにあるそうだ。そうよね〜、そう簡単にみんなが入る席に等伯の襖はないよね〜と納得。
掛け物が宗箇の消息で、浅野家の茶師に宛てた風炉の口切り(めずらしい)に関する物。すごくゆがんで時代のついた竹花入(上田家四代)には大山蓮華。
炉のお点前はそれほど流派の違いはないものの、風炉の柄杓の扱いを見たかったのだが、どう体をずらしても柄杓が見えない位置に座ってしまったので見られなかったのが残念。
大きな雲堂手の水指がよかった。それから主茶碗の熊川!あれよかったな〜。(熊川への憧れはずっと、、、)
続きの間の掛け物が、大坂夏の陣で宗箇が着用した兜図、流派独特の雰囲気が感じられ、茶人としてだけでなく、武人としても一流であった宗箇を偲ばせてとてもよかったのである。
三玄院も久しぶりなら、やっと宗箇流にこうして御縁ができたのもうれしく、かつ、ありがたい。(Sさま、ありがとうございました(*^_^*))
最澄と天台宗のすべて〜京都国立博物館 - 2022.05.22 Sun
最終日が近いせいか平日なのに駐車場は満車、館内にも人が最近見たことないほどたくさん来館されていてびっくりだ。展示品は古文書率が高いのに、みんな興味あるんだ〜(私はちょっと古文書類は苦手)

、、、という京都国博で開催中の「最澄と天台宗のすべて」
平安密教でよく比較される最澄と空海については、おかざき真理さんの漫画「阿吽」で勉強したようなもの(^_^;(漫画では最澄さんはストイックな男前で萌)
今回の展示では最澄のみならずその弟子、法統をつぐ者たちの活躍についても触れられていて、とても勉強になった。
空海は長安まで行って青竜寺・恵果和尚に密教の奥義を学んだが、最澄は長安までは行かず台州天台山どまりだったので、密教の入り口までしか学んでいないと揶揄されることもある。
しかしその弟子慈覚大師円仁は困難な旅をして長安までたどりつき、おびただしい経典や両界曼荼羅を持ち帰った。さらにその後の智証大師円珍も長安まで赴く。
後の弟子達が最澄が未完成であった教えを補完していくのだ。後の鎌倉仏教につながる僧侶が多く比叡山に学んだことと無関係ではないだろう。対して空海は、彼自身があまりに輝かしい超星過ぎてそれを越える弟子が出現しなかったのでは、と思わせられる。
展覧のお供は最近仕入れたスグレモノの双眼鏡PENTAX・papilio。細部が手に取るように見えて、違う世界が広がる。
印象的だったものをいくつか。
伝教大師入唐牒:最澄が台州〜明州を行き来する時の通行許可証で、唐の役人が書いたものである。「日本国求法僧最澄云々、、、」に通訳や人足の人数まで記され、1000年以上昔のことを生き生きと想像させるではないか。
弘法大師請来目録:空海が持ち帰った経典や仏具などの朝廷報告用書類を最澄が書いているんだわ。二人の交流がわかる(のちに決別したけど)。これ、東寺にあるのね。
勅封唐櫃:5年に一度、勅使の前で勅封を切り、開けられる唐櫃。中は桓武天皇像(最澄を後援、帰依した)や経典、仏具、最澄の袈裟。開封の様子をVTRで流していたのを拝見。
ちなみに最澄のトレードマークであり、天台法主の正装である帽子(もうす)は、桓武天皇が衣を裂いて与えたという伝説あり。(天台宗の祖・天台大師智顗が随の煬帝から寒いので頭を覆う衣をもらったという逸話からか?)
比叡山延暦寺根本中堂は現在補修工事で大きな曳家に入れられている。なのでよけいに暗い中でともる不滅の法灯はとても荘厳な感じがして、不信心者でも敬虔な気持ちになる。今回の展示ではそれを入れる大灯籠が三基、お出ましであった。信長による焼き討ちで失われた法灯は、分灯していた山形の立石寺から再び延暦寺に戻り、現在も<一隅を照らして>いるのだ。
ミュージアムショップで、おかざき真理さんの阿吽の最澄のクリアファイルが〜💕やっぱりね。若い女子がけっこう来てたの、これの影響かしら(^_^;
比叡山延暦寺の宿坊的施設のカフェでいただける梵字ラテがここまで出張してるわ。干支の梵字をいれてくれるので、下手したら年齢ばればれになるやつ。
最後にいつも似ていてこんがらがる天台僧3人の名前を、今回の展示を機に整理、まとめてみました。
*慈恵大師良源:元三大師・おみくじの祖 横川に坊あり (平安初期)
*恵心僧都源信:良源の弟子 「往生要集」 六道の絵解 (平安中期)
*慈円・慈鎮和尚:藤原摂関家出身のエリート 「愚管抄」法然を批判しつつ親鸞を庇護したり、歌人だったり(百人一首) (平安後期〜鎌倉初期)
京都国博では秋にまた茶の湯展やるらしいよ。
七条〜五条高瀬川さんぽ+五条楽園 - 2022.05.20 Fri
七条あたりを歩くことはそうないのだが、国立博物館のあとのランチ場所をさがして鴨川を越えた。

七条大橋が見える気持ちの良い場所でランチをいただいて、河原町にでようかと歩いて行くと、あら、高瀬川。
四条以南の高瀬川沿いはあまり歩いたことがなく、七条あたりになると初めてではなかろうか。せっかくだから高瀬川に沿って北上してみよう。
七条あたりは雑然とした場所、というイメージがあったが、いつのまにかおしゃれなカフェやお店ができている。写真は murmur cafeさん。
写真とりそこねたが、クラフトビール好きにはたまらないビアラボさんもここにあったんだ。
川沿いの民家の方がお世話をされているのだろうか、植栽の豊かさには驚かされる。これはアマリリス、他にもつぼみをいっぱいつけたアジサイなどもよく見かけた。
ほんとうに緑が豊かだ。この道は車も入れないので、ゆっくり歩ける。お散歩にこんなうってつけの場所だったとは!家の前を箒で掃いていたり、買い物帰りの自転車をとめたり、ここは日常の暮らしの場だ。その暮らしを垣間見るのも楽しい。
五条楽園近くなると旧遊郭の雰囲気がでてきて、当時のままかな、と思わせる建物もある。ベンガラ塗りだ、ここ。
その奥にはいくつものろうじがあって、名前がついている。ここは<いちょうろうじ>。
さらに北上、五条楽園あたりまで。
ここは四年前新旧乙女梅湯にはいろう会?で来た有名な梅湯。
廃業する予定だった銭湯を、銭湯文化を守りたい!という若者が営業を引き継ぎ、今では繁盛している。若い人たちが経営に携わり、外国人観光客にも人気だ。
四年前は銭湯に入る前に腹ごしらえ〜と入ったお向かいのキコク(枳穀)食堂。昭和なメニューと雰囲気がたまらんかったが、まだあいていなかった。
梅湯のお隣のビルがなくなって広い更地になっているのにびっくり。またホテルでも建つんかな。
さらに北上、五条楽園当たりを歩く。
ここもおしゃれなカフェやレストランがあるが、学生の頃はこのあたり絶対に足を踏み入れてはいけない、といわれた場所であった。(赤線とかヤクザさんとか、、、)実際完全に営業中止になったのは平成22年というからごく最近のことなのだ、町歩きできるようになったのは。
歩くと大正〜昭和初期の妓楼らしき建築もいくつか残る。
そういえばここのど真ん中にあった任天堂旧本社がホテルになったニュースは目新しい。(丸福楼・安藤忠雄改修)なんだかちょっとわくわくするようなエリアになりつつある。インバウンドが帰ってきたらこのあたりきっとにぎわうんだろうな。
地蔵ろうじと書かれた通りの突き当たりにはほんまにお地蔵さん。
洛中ど真ん中で失われつつある風情のある町家が並ぶ。
西加茂川ろうじの向こうはもう鴨川である。
これも有名な残った妓楼建築。
唐破風が特徴。
五条近くになっても植栽と緑はますます豊かだ。
五条通の手前、源融の六条院があったのはこのあたり、の立て札。
その向こうは鴨川。
茶寮の池半さんや、はいってみたい川に向かって開放されたレストラン、藤間食堂などもすぐ近く。
小一時間のショートトリップ、楽しかった。これはリピートありだな。
宇治縣神社〜藪内の茶事2022初夏 - 2022.05.18 Wed
宇治の縣神社

こちらでの藪ノ内の若武者の茶事へいざ。
毎年1年に2回の茶事を楽しみにしていたが、コロナで1年ぶりとなった。
暗闇の奇祭とよばれる縣祭りが6月5日におこなわれるが、その時に使われる梵天がこれ(梵天渡御が深夜におこなわれる)
宇治の茶業に携わる人々が、茶摘みから始まる作業が一段落したときの祭りだそうだ。(ちょっと艶っぽい歴史もある(^_^;)
神社の奥に薮ノ内の先々代猗々斎が作った、燕庵によく似た茶席・棠庵(とうあん)がある。なかなか侘びた良い茶席で、古さゆえ若干いたみがあるのも景色になっている。ここでお茶をいただけるのはありがたい。
お正客、ご連客は薮ノ内の方々ばかりで、古帛紗を出すときにいつもアウェイ感を感じるわ(^_^;(薮ノ内の古帛紗は横長)
点前座を見るとほんと燕庵そっくりである。織部的明るい下地窓たくさんの点前座で亭主の姿がシルエットになるのがかっこよいのだ。
燕庵保存会に入ると、毎年1回燕庵見学会があるのだが、そういえばここ2年以上コロナでご案内がない。
棠庵で炭手前拝見。切り掛け風炉なので、藤灰による有馬の景色はなしとか。(道安風炉ではとても面白い灰型がみられるのだ)
軸は本などで見慣れた薮ノ内剣仲さんの像に「吸毛在手、、裁断仏祖、、(本歌が家元にあるらしい)」が七代竹翁(江戸時代の家元)
広間にうつって懐石をいただく。
男子ながらお料理がとても上手で、食材選びもプロなのだが、今回はパートナーによるお手製とか(*^_^*)お茶はされていないそうだが、懐石をひとつひとつ覚えてもらっているとのこと、いいなあと思う反面、彼の料理が食べられなくなるのはちょっと残念。
石杯の魅力的なのがいっぱいでたが、酒飲みだけどちょっと量をセーブするため選んだのがこれ。このサイズ!かわいいのだ。
お菓子は粽。
朝から雨が降るかと思うような天気が、中立の頃にはすっかり晴れて、庭の緑が美しい。ここをずっと使わせてもらうために、コロナまでは学生さんをつれて庭の掃除に通っていたと言うから、縁の下の努力があってこそ、我々もここでお茶によばれることができるのがありがたい。
棠庵にもどって濃茶を。
野村美術館に本歌があるところの南蛮毛織抱桶水指、瀬戸新兵衛茶入、薮ノ内歴代の(名前忘れ、、)茶杓「橘」
李朝?といわれればそうかも?と思うような古萩の茶碗でいただいた。
広間で薄茶。
この棚はお正客さんによると、薮ノ内好みの「葫蘆(=瓢箪)棚」というらしいが、なんとなんと!ご亭主が自ら作られた手作り棚であったとは!コロナで暇している時に指物師よろしく作っちゃったたはねえ、びっくり(゚Д゚)!
私がいただいた茶碗が現代作家のものながら(ずっとほしくて狙っている)片身変わり内鶴刷毛の茂三にそっくりな!茶碗であった。
1年ぶりにここで楽しい茶事ができてうれしかった。
ご亭主は、知り合ったころはほんまに若い若い若武者だったけれど、年々知識も蓄え、風格も自信もでてきたことに感慨を覚える。(そのぶんこちらが古くなってるのだが、、(^_^;)
これからもますますのご精進を!
(今回も宇治からの車での帰り、高速入り口スルーしてしまって渋滞にまきこまれ。前回は出口スルーして滋賀県まで行っちゃった。多分のんびり宇治時間のせいで頭がほんわかしてしまうんかなあ)
葵祭に寄せる茶事 - 2022.05.15 Sun
今年も王朝絵巻の葵祭斎王代行列は中止となった。でも神事は粛々と、3日には競べ馬も行われたし。あずまから来られたお客様方に京の雅を〜(^_^;、、と茶事のテーマを葵祭とした。

というのでまずは下鴨神社へご神水をいただきに。
寄付では斎王代が手に持つ檜扇をまねてお出迎え。
芳名録用に、先日川口美術で文具展されてた菊池克さんの桃の硯と仏手筆架活躍中。
葵祭の行列は、冠にフタバアオイと桂の葉をかざす。
(桂の葉が手にはいらんかった、、、)
待合掛けのかわりにお手製菖蒲とヨモギの厄除け?セット
朝から雨が降ったりやんだり、露地を使うべきかどうするか、露地草履を抱えてうろうろ。
結局雨で露地は無理と判断、景色だけ眺めてもらって秘密の?雨用通路から席入りしていただく。
特に雨の日は翠がとても美しくて。(日々維持のために格闘しております、はい)
そろそろ青梅も収穫の時期かな。
夕ざりゆえ初座は花
久々に行われた加茂の祭りの競べ馬にあやかって、先日伊勢物語茶事では武蔵鐙として使った鐙を花器に。
今回懐石は初めての試みで、松花堂風にしてみた。時間の制約があることと、クーラーのない我が茶室ゆえあっさりと時短ですすめたくもあったので。物相飯が、、、、ちょっと崩れ気味(^_^;
(灰型は見ないように!)
久々の風炉でリハビリなしのぶっつけ本番、案の定いろいろ忘れて間違えて、スミマセン。流派が違うので、裏千家はそうなんかなあ〜と思っていただければさいわい(^_^;
源氏物語の「葵」の巻では加茂の祭りの車争いが描かれる。
本日もお菓子はみのり菓子さんにお願いした。
なんと日陰の鬘に唇の紅、「いつき(斎)姫」、つまり斎王代なのだ。か、、かわいい、、、
中は甘酸っぱいクランベリーの餡。
そうそう、みのり菓子さんの本が出ました!お菓子といっしょにお持ちくださって光栄。
ご神水なので桶水指には御幣と榊の小枝。(あ、釜がのっかっているように見える?)
ご神水はそのままいただいても甘露、余ったらコーヒーなどいれると美味しい(*^_^*)
たる源さんの八つ橋菓子器に花菖蒲(亀廣保)
実は前日お茶のお稽古で、先生がお使いのを強引に?お借りした物(^_^;
そして下鴨神社の葵印入り麩の焼
お客様方はみなお若いけれど、それぞれの道を究めつつある、ある意味プロなので、緊張しちゃうわ。それにしても東京はほんまに多種多様な人が集う場所なのだなとその大きさを思わずにはいられない。昔は都といっても京都は今は小さな池みたいなものだものね。老いらくの身ではあるが、若い方からの刺激はたくさん受けて次につなげたいと思う。
最後にお土産。
下鴨神社でこんなん売ってました〜。けっこうウケましたよ。
最後にお見送りは檜扇を閉じて。
本日もありがとうございました。
熊野三山弾丸巡り(後編)ちょっとだけ熊野古道〜熊野那智大社 - 2022.05.13 Fri
2日目はなんちゃって熊野古道ウォーク。本当は是が一番の目的。
新宮から大門坂へ。ここから約1.2kmの古道を歩いて熊野那智大社をめざす。これが熊野古道一番の初心者もしくは観光客向けコース。(中辺路・なかへち=田辺から熊野三山〜のごくごく一部)
ご当地の偉人といえばやはり南方熊楠(男前よ(*^_^*))、彼が3年間滞在して那智の植物研究をしたという大阪屋旅館も跡だけ残っている。廃仏毀釈の嵐にさらされた熊野三山の神社林を文字通り命を懸けて守り抜いた異能の博物学者をしのぶ。
熊野古道の入り口にもなっている夫婦杉のトンネルをとおりぬけ、、、
ひたすら歩きにくい石の道を歩く。
中辺路には、鎌倉時代に急増した九十九王子という神社が散在したそうで、参詣者の祈りの場となっていたそうだがそれ以降は衰退、地名と碑のみが残るが、ここは中辺路最後の王子である多富気王子(たふけおうじ)跡。ここまで来て参拝者は長い道のりを振り返りつつこの旅も終わりに近いことを知ったのだろう。
ちなみに王子とは御子神、あるいは熊野権現の分身とも。うちの近くに熊野若王子神社があるが、若王子の意味がやっとわかったわ。
山の気に包まれて、これでもかという大木が何本もはえている。
石段はまだまだ続くが、それほど急というわけではなく、景色を楽しみながらゆっくりのぼれば、しんどさは大文字山ほどでもない。
平安時代の壺装束のレンタルがあって、市女笠に垂衣姿で登る人もいるというが、今回は那智大社で約1名のみお見かけした。
石の割れ目に生えるシダ。こういうのも楽しみながら。
途中にどれだけ来たかの標識もあり。
もうまもなく那智大社という手前にお茶屋・空心庵さんがあって、僧侶でもあるご主人とTL友なのでお目にかかりたかったが、反対に京都のお寺に出張中とのことで残念。
ここにはかつてあまたの上皇、法皇が熊野参詣のたびに宿泊した実方院があった場所。現在は大社が経営する宿坊になっているそうだ。
やっと到着!熊野三山最後の熊野那智大社
主祭神は難しい名前だが、平たく言うと、伊弉冉(イザナミノミコト)である。ここは境内より、、、
もう、周りが絶景なのである。新緑の山の中!
やっぱり院や女院が何回もいきたくなるような場所だわ。この景色を見ながらベンチに座れば涼やかな風、鳥の声、、、ああ、昼寝したい。
ここにも八咫烏。
宝物館にも入ってみたら、レプリカとは言え、後鳥羽上皇の熊野懐紙(国宝)があったり、定家の「熊野御幸記(後鳥羽上皇にお供した)」(国宝)のコピーがあったり、出土した渡来物?の青磁器や、根来の瓶子、平安時代の経筒などもあったりして結構楽しめた。
境内に立つ樹齢850年(鎌倉時代からあった?!)の大樟は中に洞があって、通り抜けられるようになっている。
洞の中から外を見た景色。
ついで那智大社から下りたところ、那智の滝の飛滝神社への途中にある青岸渡寺へ。
お寺さんの花手水は生花で彩られ美しい。
神社はお社を遙拝するのみであっさりしているが、お寺はその仏像や荘厳を見ることができるので、やっぱりこっちの方が好きだな、私は。
開白は熊野大社と同じくらい昔で判然としないらしいが、廃仏毀釈の波をもろにうけて、復興されたのが明治年間だという。それにしても廃仏毀釈って、中共の文化大革命と同じくらい文化・歴史を殺すことだったのだなと思う。よく全国各地のお寺が生き残ってくれたこと!
勝浦や那智で一番たくさん広告を見る、、という那智黒(飴)、すっかり洗脳されてしまって黒飴ソフトを滝を見に行く前に食べちゃったよ。黒糖味でうまし。
ああ、見えてきた見えてきた、那智の滝。
やっとここまで来ることができた。
この滝をご神体とする飛滝神社の鳥居も見える。
上の方は三筋に分かれている。写真では見えにくいが(ほとんど見えないが(^_^;)落下口の真上に注連縄が張ってあり、毎年新しい物に替えるそうだが、こりゃ命がけだな。
落下する水は風を起こし、霧をおこし、そのスピードはカメラのSモードでも水滴が捕らえられない。
末ちさく落ちゆく那智の大滝のそのすゑつ方に湧ける霧雲 (若山牧水)
京都の帯の誉田屋さんが、この滝を見て帯に写し取りたいと何度もおとずれ完成させた、というTV番組を思い出した。
さてお土産は、、、かの有名な熊野牛王宝印。
この裏に起請文を書いて、違えれば熊野で烏が三羽死に、人は血を吐いて死ぬ、というやつ。遊郭で遊女が起請文を書くたびに烏が三羽死ぬ(遊女の言葉にまことなし)と揶揄されたのも有名。
これは那智大社のもの。(那智滝宝院と書かれているらしいが読めん)
こちらは速玉大社の。いずれも烏文字だが、デザインはかなり異なる。正月からこっち、いろんなところの牛王宝印ばかり集めてどうしようというのだろう(^_^;(でも好き)
帰りは紀伊勝浦から新大阪経由で帰洛。紀伊半島をぐるっと一周した計算。JRもバスも本数が極めて少なく、多分東京へ行く方がきっと楽。でも時間をかけて行く価値はあると思うよ。いにしえの院や女院にならって。
熊野三山弾丸巡り(前編)熊野速玉大社〜熊野本宮大社 - 2022.05.11 Wed
後白河法皇は33回(34回説も)も熊野詣でをした熊野オタクだったようだ。最後は行くのが面倒なときのために都に三熊野神社(熊野神社、新熊野神社、熊野若王子神社)まで作ったほどだ。そんなに熊野がよかったのかなあ、都からは遠く往復一ヶ月の道程だというのに。
そんなにいいのか熊野権現、とGWを利用して熊野三社巡り一泊二日の弾丸旅行を計画。それにしても熊野灘、浪荒いけどきれい。

名古屋廻りで新宮到着、なんと電車で行っても長い長い道のり、よう徒歩か騎馬、輿で行ったものだとびっくりする。
最初は熊野速玉大社
ここは新宮の駅から徒歩圏内というアクセスのよさ。
熊野の名前がでるのが日本書紀というから古さでは確かに別格。速玉社の主祭神が伊弉冉尊(イザナミノミコト)なので国生みまでさかのぼる。
そして熊野信仰と言えば梛の木。梛の木は金剛童子の化身の姿といわれ、中世活躍した熊野比丘尼(女性の宗教者、全国を歩いて熊野信仰を広めた)は行く先々で牛王法印やこの梛の葉を渡したという。
そういえば京都の六道珍皇寺の六道参りの時に公開される熊野観心十界図、あれ熊野比丘尼が教えを広めるためのテキストにしたと聞いたな。
そしてもう一つは八咫烏
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト・後の神武天皇)を熊野から大和橿原へ先導したと伝わるカラスで、日本サッカー協会のシンボルにもなっているけれど(^_^;もとは熊野権現さんのお使い。
境内に熊野御幸をされた歴代皇族の名前と回数を記した石碑が(入江侍従長のお手)
やっぱり後白河上皇突出!ついで後鳥羽上皇。彼は行く先々で歌会を開いた記録があり、定家なども伴っていて、後の世に茶席でも珍重される「熊野懐紙」を残すのだ。
待賢門院や美福門院、建春門院など平家物語をにぎわす女院の名前もあって、興味深い。
境内の売店で、熊野特産じゃばら(柑橘)のジュースいただく。さわやかで独特の香りだわ。
駅近くの香梅堂の名物<鈴焼>を買って頬張りながら次の目的地へ。(ちなみに鈴焼は鈴の形をしたベビーカステラと思っていただいてよい。)
次の目的地熊野本宮大社までは熊野川沿いに山へ入っていって、なんと1時間もバスでかかるのだ。その途中熊野川の景色がなかなか美しい。それにしてもバスなのに急カーブも減速せずすっごいスピードだす路線バス怖い〜〜(プロのドライバーやね)
熊野本宮大社、早速八咫烏がお出迎え。熊野三社の元締めだけあって、神社周辺の施設が整備されていて多くの方がご参拝。
さらにここから熊野古道の中辺路の出発点(またはゴール)になっているので、半日以上かかる過酷な道のりを歩こうとするフル装備の方もたくさん。熊野古道をゆっくり歩くのはまたの機会に是非と思っている。今回は時間があまりない、、、
さて早速参拝。
主な社は四社あって、それぞれに参拝の行列ができているのがすごいわ。もっぱら車で来ている人が多いので、後白河の時代とは隔世の感がある。
祭神はいろんな難しい名前があるが、わかりやすく言うと素戔嗚尊、伊弉諾、伊弉冉、天照大神である。(親子関係、、と言って良いのかも)それぞれに本地仏があってスサノオが阿弥陀如来になっているのが面白い。
境内の狛犬という狛犬が八咫烏のマークの入ったマスクをしていたのが笑えるが、境内の八咫烏ポストもおもしろいぞ。マスクをした八咫烏がのっている。今年正月信貴山で見た虎柄ポスト以来の萌えポイントやわ。
境内の一角に熊野古道の一部が残っているので、ちょっとだけ古道味わってみる。
ここからかつて本来の本宮大社があった大斎原(おおゆのはら)へむかう。平安神宮の大鳥居を黒くしたような大鳥居の向こうが大斎原。明治22年の大洪水で社殿はほぼ壊滅、以後現在の場所に上四社のみをおまつりしているという。ちなみにこの大鳥居は平成になってから。
ああ、しかし田植えの終わった水田が美しい。
いまから田植えという田もあり。
この景色を眺めながらご当地名物めはり寿司をお昼に。ご飯を漬けた高菜でくるんであって、なかなか美味しい。
大斎原には流失されたままの中四社、下四社を示す石碑だけが立つ。
そこから熊野川支流へおりたつ。
川の水は冷たく、空は青く、緑は新緑のパッチワーク、鳥の声、、、う〜ん、極楽往生(ここらへん神仏習合なんで、、)をねがって熊野詣でをくりかえした後白河法皇の気持ちがちょっとだけわかる気がした。
1時間かけてまた新宮にもどり、そこから電車で紀伊勝浦へ。そこで一泊です。
卯月から皐月雑記2022 - 2022.05.09 Mon
忙しかった卯月から皐月のちょっとした日々のおはなし。

今年も坪庭の茶の新芽がでたので、茶摘みをした。
一日天日にあてて発酵を促し、白茶を作る。あまりにお天気がいいので半日でパリパリに完成。まだ試飲はしていないが、今年はできがよさそうである。
丸太町寺町の角にあった大好きな李朝カフェ・寺町李青さん。昨年コロナの影響にて撤退された。おちついたセンス良い李朝家具に囲まれていただくスジョンカ(生姜とシナモンの韓国茶)はとても好きだったが。(今出川・李青さんに統合した形なので、そこへいけばまた楽しめるかも)跡がどうなるのか気になっていたが、アートギャラリーになっていた。雰囲気はそのままひきついでおられるようで、ちょっと安心。
長いこと保存修理工事に入っていた裏千家今日庵の工事が完成し、その記念に今日庵の茶室全部の写真がみられる本が、淡交社よりでた。以前初釜に潜り込んだとき、他の茶室はチラ見できたが、究極の一畳台目向板の茶席・今日庵席だけは入れなかった。いつか見ることができるであろうか。
我が家の庭もなかなかにぎやかになってきた。毎日常緑樹の落葉拾いはたいへんなんだが。
これは坪庭に鳥が運んだとおぼしき種から生えてきた白いシラン。今年もちゃんと咲いてくれて得した気分。
桜の頃、株分けして植え替えた蓮の鉢も元気である。葉っぱはいくらでもでるが、果たして今年も花を咲かせてくれるだろうか。新しい芽がでてないか観察するのが毎朝の楽しい日課である。
そして去年はひょろひょろで花付きも悪かったテッセン、今年はたくさん花をつけてくれて、うれしい。もう何年も葉っぱだけは茂るが一度も花をつけたことのない山芍薬さんもいるが、、(^_^;
世界の平和は女性が作る、女性主導の世界が平和を作る、がポリシーの川口美術のKさん。昨年に続き女性ばかりの工人(陶芸家、木工作家、漆芸家などなど)さつき展がひらかれ、裏のお庭で茶話会。
今回はスーパーのレジ係から若くして首相になった女性をいただく国、フィンランドからのご夫婦を迎えてのお話会。話題は政治、経済、教育、くらし、またウクライナの戦争のことなど、多岐にわたるが、「日本は民主主義国家ですか?」の彼の問いに答えられない。
フィンランドの女性参政権は1908年から。40年近く差をつけられた日本の女性の地位はどうしてなかなか上がらないのか、なにが原因なのか、重い問題を考えさせられた。
日頃あまり使わない頭を使ったので(^_^;ヒートアップした頭を冷やすべく庭のもう一つの片隅でOさんの煎茶をいただく。
水出し煎茶を飲んだ後の滴々のお茶(小川流)の香りは本当に体にしみる。
さて、コロナでしばし中断していたFちゃん主催の句会(at 月日社)であるが、久々の開催ながら今回は特別。
京都生まれ京都育ちのFちゃんがこのたび仕事で独立して、パートナーとともに初めて京都を離れる。糸を染めて紡ぐ仕事を続けていく。さながらその壮行会となった。
ほんとうに久々の顔もあり、遠くで参加できないが、お酒と便りをこの会の時間に合わせて送ってきた人あり、最初はシャンパンをあけたり飲んで食べてしゃべって、ころあいをみてFちゃんがいれてくれる煎茶はやはり滴々のお茶なのである。
毎回テーマに合わせた和菓子店青洋さんに特注の干菓子をいただく。今回のテーマは「愛」。
Fちゃんがお菓子に添えたのはコリント人への手紙(新約聖書)の一節。
<いつまでも存続する物は信仰と、希望と、愛とこの3つである。このうちで最も大いなるものは愛である>
これからの彼女の人生に幸あれと強く願う。
お別れに、みんなにそれぞれ一枚、彼女が染めて織った布を。古帛紗ができる大きさにしたとのこと、がんばって縫ってみるよ。完成したらまた見せるね。
花は大山蓮華
久しぶりに東越会・明雲軒のO先生の茶席におじゃまする。茶友さんと3人だけのぜいたくである。
千本玉壽軒さんの「松見草」=藤(昔は藤は藤棚でなく松にからませていることが多かった)
繊細で美しいお菓子、おあつらえ品とか。
ひとつひとつのお点前所作の美しさにいつも見惚れてしまう。濃茶は主茶碗で練って、小碗にすくいわける其中庵方式。丸久小山園の<一滴翆>その名前の如きさわやかな後口で美味しかった。
一番興味のある灰型を拝見、なんとまあああ〜〜美しい!!
さすがというかすばらしいなあ。
濃茶の後は新たに拡張された席で薄茶をお弟子さんのお点前で。今回お弟子さん達の発表の場がほしいと数席企画されたそうで、われわれの席は客より水屋さんの方が多くらいで、みなさんやる気満々なのが伝わってくる。よい先生におつきになりましたね。生徒さんの手も非常に美しかったです。
いろいろ思い入れのお道具、なぜかすでにおなじみになっているお道具、などのお話も伺いながら楽しい一会をありがとうございました。気のあった茶友さんと訪ねることができてとてもうれしかったです。ここに来るとちょっと捨てかけていた茶の湯の王道を思い出し、背と襟をただすのであります。
有田陶器市2022 - 2022.05.07 Sat
唐津からJRと松浦鉄道(平戸藩ゆかりの名前〜)を乗り継いで2時間弱、有田へ。いや〜初めてだわ、有田。
駅の手すりがすでに有田焼なので感激。
さて、有田もコロナで2年お休みだった陶器市、今年久々の開催。
唐津と比べるとかなり人が多いと思ったが、おそらくコロナ前はもっと多かったのだろうと思われる。
さて、言わずと知れた日本最初に磁器が焼かれた有田、有田焼の発展とともに有田千軒といわれるほど栄えた内山地区約2kmの道の両側にびっしり店舗あり、出店あり、屋台ありの町並みを歩く。
有田焼はもちろん、お隣の波佐見焼もあり。高級品の店もあれば、日常品に特化した店もあり。
途中屋台で食事をしたり、あっちへぶら〜こっちへぶら〜とそぞろ歩く。
それにしても店が多すぎ。とてもじゃないが全部まわることは不可能、好みの匂いのする方へ行き当たりばったり。
行けども行けども店は途切れることなく、五条坂なんて目じゃないわ〜の多さについに焼物を見るのを放棄、町並みと建物ウォッチャーと化すことにした。
なにせこのあたり、江戸時代からの建物と、明治〜昭和の建物が混在していて、見ていてこちらの方が焼物より飽きないのだ。
というので、延々と建物の写真が続くよ(^_^;
この町並みが実に楽しい。よくこれだけ現代に残ってくれた、というか建物ワンダーランドではないか。
有田焼(伊万里焼)は秀吉が朝鮮から連れて帰った陶工の一人、李参平(日本名・金ヶ江三兵衛)が苦労の末、有田の泉山で白磁鉱を発見したのが起源と言われている。「李参平」の名前は後の学者がそうであろうと文献から推測した名前で、実は本名はわかっていないのだそうだ。
李参平がいなければその後、伊万里の、景徳鎮にかわるヨーロッパ輸出の快進撃はなかったのだ。その陶祖ともいわれる彼の記念碑があると聞いて行ってみようと思ったが、、、え?あの山の上?ちょっとしんどいかも〜と断念(^_^;遠くから手をあわせておく。
さて、道はまだまだ続く。有田での時間は3時間半をみていて、これで十分だろうとおもったが、なんのなんの、とても足りない。
ので最後は駆け足になる。
若い頃好きだった源右衛門窯の店はこちらか。独特のデザインで、同じ意匠のテーブルクロスなども作っていて一頃集めたものだった。
これは明治くらいの建物だろうか。
こちらは江戸時代かと思わせる今右衛門窯。今泉今右衛門は、鍋島藩の御用赤絵(色絵)師として活躍した人で、現在では14代目がご活躍中とか。ちなみにこのあたり赤絵区という。
鍋島藩は主に伊万里の大川内地区が有名だが、その技術を絶対に外に出さないように、陶工や職人たちの出入りを厳しく監視していた。技術を持ち出そうとする物はお命頂戴というくらい、磁器の価値は高かったのである。
これが今回一番お気に入りの町並みの写真。洋館和館とりまぜて時代もバラバラっぽいのに統一感の取れているこの感じ。
(かつては映り込んだ人の顔にぼかしをかけていたが、マスク生活のおかげでほぼそれもいらなくなった(^_^;)
明治時代、パリ万博を経て、ヨーロッパへ輸出する磁器を作った香蘭社。
その初代の次男が独立して作ったのが深川製磁KK。そのお屋敷である。そういえば深川製磁の湯飲みセット持ってるわ。絵付けが気に入って。
さてそそられる町並みはまだまだ続くが、、、
ちょっとはずれた陶山神社に登ってみると、有田の町並みがよく見える。写真には写っていないが、あちこちの家からレンガ造りの煙突が出ているのが印象的であった。
裏通りのトンバイ塀。登り窯の廃用となった耐火レンガをトンバイといい、それでつくった壁のある家が続く。
これもまた独特の風合いである。
2kmの間いくつもの橋があって、端から見る景色は、表通りの人並みがウソのように豊かな緑が美しい。こんな山間に奇跡のような磁器の町が現在も稼働しているなんて、どうしてもっと早く有田に来なかったのかしら。
最後は時間との闘いで、来た2kmを小走りでまた戻る。電車の本数が圧倒的に少ないので、乗り遅れるとエライコッチャになるのである。

さいわい電車に乗り遅れることもなく、有田からは博多へ、博多から新幹線。
今回の唐津〜有田の旅でゲットしたもの。小ぶりの古伊万里の蕎麦ちょこ、有田のコーヒーカップ(縁は銀彩)、有田の磁器ピアス。よく見たらみんなブルー系だわね〜。
3年ぶりの唐津やきもん祭り茶会2022 - 2022.05.05 Thu
コロナで急に中止になった一昨年、予定通り中止になった昨年ときて、3年ぶりに唐津やきもん祭りが帰ってきた。

とはいえ、かなり規模は縮小され、本来の食と器の縁結びは「食」の部分がかなり削られて少し寂しい。着いた日はGWとは思えないくらい寒くて雨まじり、通りの人出も以前と比ぶべくもないが、祭りのメインストリートのあちこちに唐津の各窯の出店がでる。
普通の店舗のところもあれば、古民家一棟のところも、、、、
ガレージとおぼしき広い空間に何人かが共同で出してはったり、、、
ビルの谷間のスペースを使ったり、、、
これを冷やかして歩くのが楽しみなのだ。
おや、見慣れぬ店が、、、と思ったら昨年できたばかりというから知らないはずだわ〜。銀座でもお店を展開されている慎太郎このみの器のお店・久吽堂。ここはアンティークの古伊万里などがあって、ついつい買ってしまう。(唐津で古伊万里買うってなんでやねん(^_^; まあ、唐津で伊万里作ってる陶芸家さんもいることだし)
かろうじて唐津の器に唐津のシェフのやきもん祭り限定メニューをだしているカフェ発見。器は中里健太氏。戸瀬魁斗シェフの「玄界灘ブイヤベースの洋風スパイスカレー」。おいしかった!
場所はKARAE〜唐重のカフェ ここも昨年できたばかりのようだ。知らないうちに唐津もどんどん変わっていくなあ。(まだ3回目だけれど)
この日の宿は虹ノ松原近くの海のそばにて。寒くて寒くて、海岸に立つともってかれそうな強風、と〜ば〜さ〜れ〜る〜〜〜というくらい。さすが玄界灘は荒いわ。
でもその強風を待ってましたのサーファーの根性にはおそれいる。
翌日はウソのように晴れ上がり、3年ぶりの旧大島邸へ。
懐かしいなあ。ここでタライ・ラマ師と、長崎の李朝を愛するM師のコラボ茶会、やはりコロナで中止になってから、規模を縮小しての3年ぶり開催。
(参考:3年前の旧大島邸茶会)
四阿のM師の李朝席
ほんとにため息が出る。李朝オタクとしては遠い目標であり、憧れであるコレクションで楽しませてくださる。
粉青刷毛目の小皿に韓国のお菓子
SNSでつながった韓国の方に作ってもらったそうである。
両班の青銅火鉢
そういえば、風炉にどうしてもほしくて、やっと手に入れた李朝の鉄火鉢(庶民階級)も、思えばここで拝見したからだった。いつもすてきなヒントをいただく。
ちなみに下に敷いておられるのは朝鮮毛綴れならぬ朝鮮フェルト、裏が碁盤になっていて囲碁出遊べるようになっているんだと。
背後には面取り飴釉壺に白蝋梅、李朝の山水画。
惜しまれつつなくなった京都の寺町李青さんのポシャギマットに五味子茶(オミジャチャ)、茶托ももちろん李朝の素朴な木の台である。
それぞれ違う菓子皿をひっくり返して、陶芸のプロもおられる席、みんなで舐めるが如くなで回すあたり、同じビョーキ(^_^;の人がたくさんいるとわかって心強い。まあなんと至福の時。
茶菓をサーブしてくれたのが、チマチョゴリの麗人とは、また庭園の緑に映えて美しい景色であったことよ。
大島邸の内の大広間ではタライ・ラマ師の薄茶席。10人に満たない人数に大広間、贅沢である。
おなじみの唐津のとても重い陶片を菓子皿に。(これ完品だとどれだけ重いのか??)
軸が宙宝和尚の「鉄酸餡」
とってもまずそうな餡子みたいだが、禅の公案なのだそうだ。公案だからようわからん。でもラマ師曰く、唐津焼は伊万里に比べると渋くて地味だが、味わっている内に突然その良さがわかるようになるのと同じかなあ、と。(そこ?(^_^;)
お点前は、最近お茶の席に必ずつきそってくれるご子息Y君と比翼点て。なるほど、水指(いずれも古唐津の名品)が二つある意味がわかったわ。さすが親子、息のあった比翼点てであった。お茶碗はいずれも何度か神戸で拝見した懐かしいもの、久々に会えてうれしいのは人も道具も同じかな。
茶会のあとに海岸にでると昨日の寒々しさがウソのような穏やかな海。
日輪のまわりにはハロ現象も見られて、これ瑞兆?と思いつつ、、
町にもどれば人出も少しもどってきてにぎやか。来年はフルな形でできればいいねえ。
私はその足でこちらも3年ぶりの有田陶器市に向かう。
大安寺のすべて〜奈良国立博物館 - 2022.05.04 Wed

奈良博で大安寺展やってるし、、、、そうだ!これがあるじゃないか(*^o^*)
奈良博主催のCFのリターンで、4回まで特別展無料!
大安寺っていうと今ひとつピンとこない人が多いと思う。観光の中心地からかなり離れているし、それほど大きくないし。ところがかつては東大寺、興福寺とも肩を並べる大寺だったのだ。遺構を見ると当時の堂宇の壮大さが想像できる。CGでの再現図もあったが、これはなかなか壮麗。
なんと7年前の珠光茶会の写真を引っ張り出してきた。この年、大安寺で茶会があったのだ。場所がへんぴゆえ(失礼!)シャトルバスによる移動だった記憶が。
大安寺は日本初の天皇が建てた寺といわれる。遡ること上代、聖徳太子が田村皇子(後の舒明天皇・天智、天武の父)への遺言として、彼の仏教の道場であった熊凝道場を寺院にしてほしいと。これでできたのが百済大寺。その後高市に場所を移し高市寺、天武天皇の時代に大官大寺と改称。そうそう、大官大寺の名はよく聞く。けれど大安寺と結びついていなかった。
平城京遷都にあたり移転して初めて大安寺になったそうだ。
目玉は現在の大安寺に残る奈良時代の9体の仏像。(なので今大安寺に行ってもご本尊お留守です)前期は十一面観音(残念ながら頭部も頭の上の仏頭も後世の補修)、後期は(伝)馬頭観音だそうだ。ちなみにこの写真はその馬頭観音様をお祀りする嘶堂(いななきどう)。馬頭だからいななき、か(^_^;(ちなみに通常は3月のみ公開の秘仏)
珠光茶会の時に特別拝観があって、拝見したときに、頭に馬が載ってない!と思ったっけ。だから(伝)なのだ。重要文化財の登録名は「千手観音」。首の瓔珞や足首に蛇が巻き付いており、これが馬頭観音にのみみられる意匠なので馬頭観音と伝えられるそうだ。
展示品の中に「七大寺日記」(重文)があって、平安時代に南都七大寺を巡った記録なのだが、月刊「ならら」にこの七大寺日記を読む、のコーナーがあって、え?あれのホンモノ?!とうれしくなった。
国宝の「日本霊異記」までも。そして石清水八幡宮を建てた行教が大安寺の僧であったことから、あの有名な国宝の「八幡三神座像」が出ているなんて感激だ。
さらに興福寺北円堂(GW中公開中)のかっこいい四天王像、あれが実は大安寺にあったものだと、今回初めて知った。
そして歴代の大安寺の僧として、空海の師で、虚空蔵菩薩求聞持法(記憶を高める秘法?)を授けたといわれる勤操(ごんぞう)僧正(ここらへん漫画の「阿吽」で学習)、鑑真を日本へ請来しに唐までいった普照(「天平の甍」の主人公)、大仏開眼の筆をとったインドの渡来僧・菩提僊那(四聖坊の四聖の一人)、一時大安寺別当でもあった空海、、、とビッグネームが並ぶのだ。
残念ながら、その後の大安寺の歴史は過酷だ。焼失、地震倒壊、放火などにより次第に荒廃、かつての飛鳥の大寺の面影はなくなった。台頭してきた藤原氏の寺、興福寺の勢いに力を奪われ、近世以降はその末寺の扱いであったようだ。もとの大伽藍を復興しようと多くの僧侶が奮闘した歴史もあるが、ついにかつての威光は失われたままである。
かくの如く今回も色々勉強して(すぐ忘れる)、まもなく修理のためカバーがかけられ見えなくなる奈良のシンボル、興福寺の五重塔を今日も拝んで奈良をあとにした。
<おまけ>
後にする前にちょっとおやつを(^_^;
ことのまあかりさんが始めた古代スイーツ(唐菓子)を味見。
ねじっているのが索餅(さくべい)、渦巻いてるのが環餅(まがり)。古代の甘みやお菓子の研究をされている奈良女の先生監修。甘さは蜂蜜で、噛んでいるとじわ〜っとほんのりの甘みが。しかしそこまで噛むとかなり顎がつかれる、、、(^_^;
昔はこれでも十分甘かったのだろうね。今、もっと甘い美味しいお菓子をいただける幸せを考えさせるお菓子であった。
藤の春日大社〜万葉植物園2022 - 2022.05.03 Tue

藤の花咲く春日大社へ。
参道に人が帰ってきた感じ。修学旅行生が多く若さをもてあまして大騒ぎ(^_^;いいねえ若いって。
宣伝部長よろしく「ようこそお参り!」と出迎え?の鹿
春日大社の砂ずりの藤であるが、ちょっと元気がない感じ。
砂をするくらい1m以上も房が伸びた年もあるらしいが、最近はどうも。藤の木も加齢現象か。
春日大社は藤原氏の氏神様、その名の通りシンボルの藤の花なのである。ここの巫女さんが頭につける翳が藤の花でかなり大きく前に突き出していて、とてもかわいいのである。
今年の秋に新宮が完成するまで御遷座中でお留守の若宮さん。今年の12月のおん祭は見に行けるだろうか。久々で楽しみである。ちなみに昨年はYouTubeで見た。
ここの山藤は棚仕立てでなく、古式ゆかしくよその木によりかかって咲く。
どこまでが藤でどこまでが元の木なのかもうわからない。かくの如く藤原氏は栄えていったんだなあ。
若宮さんから上の禰宜道をちょっとだけ歩く。この先いっちゃうと新薬師寺の方まで行ってしまうので、万葉植物園にいけなくなってしまう。
下の禰宜道、ここから本日最大のお目当て万葉植物園の藤園へ。
ここの藤は種類数ともに圧巻なのだ。毎年5月3日の東大寺華厳茶会のあとに寄っていたが、コロナで茶会ももう3年もない。この日は4月末だったが、早くも盛りを過ぎている感じ。今年ははやいなあ。
ここには珍しい八重の藤がたくさんあって、普通の藤に比べて色彩がビビッド。ちょっと暑苦しい感が(^_^;
滝のような白藤
やはり藤は一重咲きの方が好きやな。
かなり長い房
春日大社の砂ずりより見事。
春日大社の施設だが、お世話をされている方々のご丹精のたまもの、ありがたいこと。
藤の花は香りが強く、その香りにひかれてたくさんのマルハナバチが蜜集めに奔走している。
春日参道から、大好きな飛火野を見ながら荒池の畔にある贅沢ホテル・ふふ奈良のカフェ滴翠でランチを。
ここは滴翠美術館の山口家の旧別邸だったところで、かつては崩れかかった土塀が良い雰囲気だったのだが。それが全くなくなってしまったのは残念だが、その庭園は瑜伽山園地として公開してくれているのはうれしい。ちなみに園内の茶室はリーズナブルなお値段で貸してもられるのだ。
目の前に瑜伽山園地を眺めながら焼カレーランチを。デザートの飛鳥プリンが美味しかった♪
野村碧雲荘〜野村美術館 - 2022.05.01 Sun
南禅寺畔に別荘群数々あれど、敷地面積6000坪を誇る、野村徳庵が築き上げた碧雲荘はまた別格であろうと思う。過去に何度かおじゃまさせてもらっているが、前回は4年前、野村美術館35周年記念茶会がここで開かれた時で、雄大な東山を借景とした茶室群と徳庵コレクション(野村美術館所蔵品)を使う贅沢な茶会であった。

左手に赤いノムラ紅葉が見えるのは碧雲荘のお隣の旧細川家別邸である。(現在は某料理屋所有)
年に何回か行われる見学会は茶室に入れないのが残念だが久々だし、コロナで茶会も(来年40周年茶会が本来ならひらかれるはず)どうなるかわからないので、申し込んだ。自慢じゃないが(自慢です(^_^;)徒歩圏内なのよ、ここ。
久々に足を踏み入れた庭園内は、現在も当代の小川治兵衛さんの管理が行き届くすばらしい景色であった。折からの雨で、かえって楓の青がまさに滴翠、という感じで心から美しいと思う。日頃の憂さのあれこれもこの景色を見ながら一旦は忘れてしまう。
左手が碧雲荘の外構 右の小川は琵琶湖疏水分線で、この豊かな水は碧雲荘内にも引き込まれていて見事な池泉回遊式になっている。まず案内される野点席の待月軒は池の向こうに雄大な東山と永観堂の多宝塔まで借景にしているのである。ちょうど新緑の東山は眺めていて飽きない。(前回は秋だったし)ちなみに永観堂にはなにがしかを払ってわざわざここから見える位置に多宝塔を作らせたという。また常に見えるように豊かな植栽を間断なく整えているのである。満月の頃は待月軒の正面、東山から登る月が見えるという。
昔二羽いた白鳥が現在一羽で、縄張り意識が強く気性が荒いから近寄らないようにとのご注意。確かに見学者が池に近寄るとすかさず寄ってきて威嚇ととれる行動をする。竹の柵をガシガシ噛みだしたときには驚いた〜(^_^;
(碧雲荘入り口・不老門)
本来この待月軒で野点のお茶をいただく予定が、大雨になったので、呈茶は大書院で、ということになり、普通の見学会では中へは入れない大書院にはいれて意外とラッキーなのである。
残念ながら庭園内に点在する茶室には入れず、三畳代目の茅葺き茶室・田舎家、舟の茶室・蘆葉舟を外から拝見するだけであった。ちなみに蘆葉舟と命名したのは交友のあった高橋箒庵(「大正名器鑑」のひと)で、彼が送った茶杓が待月軒に飾ってあり銘が「蘆葉」なのである。
おなじみの流れ蹲居(池の浅瀬の水が流れて居る場所にわざわざ置いた蹲居)、明日香の酒舟石に近い遺構といわれる樋のような巨石(価値をしらない業者から買いたたいたという(^_^;)、庭園にある滝(夏はここで縁台をだして野点をしたとか)など説明を受けながら拝見。
(裏門)
大書院はほぼ野村家お抱え絵師だったという豊島停雲の襖絵、有名な神坂雪佳の欄間、中継ぎ畳(高級品よ)などもさることながら、やはりここから座ってみる庭園はすばらしいのである。目の前の池の丸くふちどられた半夏生の群生は、まだ白くなってなかったが季節がくると白い満月のように見えるのだそうだ。そして南禅寺と交渉して(なにがしか払って(^_^;)書院から山門が見えるように南禅寺の植栽も整えたのだそうだ。一体どれだけの資産なんだと感心する。
ここで月を見、花を見、蛍を見、能舞台で能を演じ時に酒盛りどんちゃんさわぎの旦那衆、良い時代だったんだねえ。
(碧雲荘の外壁の花菖蒲群生 外からでもこれは見える まだ早いけど)
ここで野村家のお嬢さん方にお菓子(青楓の練り切り)と抹茶をふるまっていただく。この席での解説は粟田焼の安田さん。いつも心に太陽?口にダジャレ(^_^;の方なので、説明が面白いのなんのって。大書院の床にかかっていた今尾景年の鯉の滝上り図、あの鯉がどうなったかといいますと、ずっと池を飛び越えて南禅寺の法堂の天井の龍になりましてん(景年の天井画)というあたりが一番ウケましたわ(*^o^*)
徳庵はお茶は藪内だったので、野村美術館所蔵品は藪内ゆかりの物が多い。私がお茶をいただいたのが藪内節庵(11代透月斎の実弟)手づくねの赤楽であった。銘「吉野」
大書院の玄関前には大きな躑躅の木が満開でこれも美しかった。そこから出て裏門を出るともうすぐ隣が野村美術館である。ここで谷館長のお話を。
谷先生曰く東山御物などの書院の茶から16世紀前半の「茶の湯」になるための条件として
1)茶の湯に特化された空間=茶室
2)茶の湯のみに限定使用される道具
3)点前という所作の規定
が必要でさらに16世紀後半に
4)バックボーンとなる思想=侘さび
が生まれたと。それによって排除されていった道具の典型が天目茶碗だとのこと。いわれてみればなるほど。
その後は三々五々展示を見て解散となった。
後期展示になるので有名な利休の「妙」の軸はみられなかったが、数年前の碧雲荘茶会で実際に使われていたムガール帝国の抱桶水指や種村肩衝など展示されていて懐かしい気持ちになった。コロナ前まで通っていた美術館セミナーも今年いっぱいは中止なのが少々さびしい。
<おまけ>
意外と近くにあった藤の名所?京セラ美術館裏の藤棚。今年は例年以上に花房がりっぱ!