酷暑石塀小路から高台寺あたり〜諏訪蘇山展も見つつ - 2022.07.30 Sat

体感的に体温超えの酷暑が続く京都である。
コロナ爆発と酷暑のせいか、普段は観光客の多い八坂さんの南楼門からの下河原通りもがらがらである。
異界への入り口、、、ではなくて、石塀小路の入り口へ。
フォトジェニックなのでいつもは観光客も多いが、この日はほんとに人通りがない。
いつも入り口当たりにあるこのシェリー酒のお店に惹かれるのだが、まだ一度も入ったことがない。
スペイン語とスペイン文化を一度学んだ者としては一度は行きたいのだが。(シェリーはスペイン語ではヘレス)
わが青春時代の思い出の市電、その線路に使われていた石畳を廃物利用した道が続く。見通しが悪いので一体どこへ連れて行ってくれるのか、最初なら不安になるかも。ちゃんと通り抜けられますので大丈夫。
迷路をくねくね歩いていると一角に突然煉瓦塀が見えてくる。
そこにあるギャルリー石塀小路和田さんにて、諏訪蘇山さんの個展。もう何回目になるかな。今回は特に乙女心をくすぐる青磁のかわいいアクセサリーのポスターに惹かれて。
中は明るくて広いギャラリーである。先代から、父と御縁があるのでご挨拶を。そういえば今月の某寺院での月釜七夕茶会にお姉さんの宗哲さんとのコラボ七夕水指、使わせてもらった。お願いしてからできるまで、お目にかかるたびまだですか〜まだですか〜と催促し続けて(^_^;4,5年かかったと思う。これも今はよき思い出。
で、乙女なアクセサリーとチャームを購入(*^_^*)
当代蘇山さんの特徴の青磁の中にほんのり入る薄紅色がきれい。
このたびはテキスタイルの小物作家デビューのご主人もおられてかわいいものづくしにはまってしまった。
外にでれば相変わらずの灼熱の石畳の道ながら、日傘をたよりに石塀小路をぬけてそのまま高台寺あたりまでちょっと歩く。だってこんなに人が少ないの、多分今しかない。
八坂の塔に続く道もご覧の通り誰も通っていない。
ちょっと入り込んだところに京情緒たっぷり?とでもいうか、そんな数寄屋の建物もあって、なかなか面白い。
鍵善さんは四条通の本店しか行ったことないが、ここにもあったんや、くづきりのお店。
なにげにある三味線屋さん、今井三絃店は何代も続く老舗で土地柄祇園の花街の三味線を取り仕切っておられるのかな。たたずまいがいいお店である。
さらに灼熱の(^_^;道を八坂の塔の見えるところまで。
ちょっと狭いろうじにはいりこむと昭和なトタン板壁のおうちがまだあったり、朝顔が暑さにくったりしなびていたり、下町の風情。
こんなお店もまだあるんだ。なんだかうれしくなる。
さすがにどこかで涼みたくなって、三年坂あたりの観光客ストリートの一軒に入ってみる。このあたり来るたびにめまぐるしく変わって、かつての面影はないなあ。
で、野菜不足の折、馬に食わせるくらいの野菜サラダでビタミン補給いたしました。
滌源居朝茶事2022 - 2022.07.28 Thu
今年も朝4時半に早起きして朝茶事に向かう。

まずは平野神社にお参り。
だれかが「黄色い鳥居!」と言っていたが朱の色が褪せただけよ(^_^;
昨年に引き続き今年も速水流滌源居の朝茶事である。
この日も前日の雨で露地は天然の水打ち、緑がみずみずしいのである。
外はもう十分明るいが、お屋敷の中は暗く、寄付では手燭に大きな蝋燭の灯明が3本も。待合も、障子も取っ払ってオープンにした本席も、席入りの頃にはまだ目がなれないほど暗いのであった。
待合にかかる瀧の画賛は歴代宗匠(3代か4代?)のもので、七言絶句、瀧の音も素晴らしいが(香炉峰の)瀧をたたえた詩を作った李白も、茶の湯の沸く音の楽しみはしらないだろう、、、というような内容(多分、、、)
李白の七言絶句「望廬山瀑布」は最近自分の茶会で使ったばかりだったので、思わず李白の名前に反応してしまった。(飛流直下三千尺 疑是銀河落九天)
流祖のお像の後ろには「毘沙門天」の軸。くねくねしてなんだか読みにくい文字やな〜と思ったが、これが特徴の聖護院宮(光格天皇弟)の書なのだそうだ。
本席でもこの方の書がかかる。
「天地一虚舟」
席中はやはりまだ暗く感じるが、外ではすでに蝉の声がかしましい。われわれは天地に浮かぶ空の舟のような物、無一物中無尽蔵に相通じるか?
炭手前では昨年と同じく珍しく涼しげなガラスの火箸、炭斗は塩籠、鐶が巴なのは八坂さんへのリスペクト。
香合がやはり祇園祭らしく榊の木で作ったもので銘を「柏手」
朝茶事は炭のあとに懐石となる。
芋粥が朝にぴったり。春海バカラの酒器で、朝から一献いただきながら、記録魔(^_^;だった流祖・速水宗達の記録が山ほどお家に伝わり、解読するのに何代もかかりそうだが、いずれ成書にしたいとの熱いお話を伺う。
桃山の茶の湯が禅宗をベースに、不立文字を重んじたため記録が少ないが、この江戸中期の中興の祖達が活躍した時代の宗達の記録は貴重だと思う。
とても美味しかった糸瓜のあえもの。糸瓜はゆでると糸状になるとても面白い瓜なのだ。
大きな貝のお皿で道喜さんの粽を主菓子としていただく。
(粽はお尻の方=太い方からむくのが正解)
後座
座敷の中も明るくなってきた。この時のうつろいがお楽しみである。夕ざりの反対に。
なんと開いたのとつぼみのと朝顔が。利休の朝顔の茶会を思い出しつつ拝見。しかも花入れは舟。二つ目の舟である。
心底びっくりしたのは、最初に水次をもちだされ、槙の木の釣瓶水指におもむろに水を注ぎださはったこと。え?どこまでいれるの?あふれるあふれる〜(゚Д゚)とドキドキ。表面張力ギリギリのところで寸止め。あ〜びっくりした、でも柄杓をいれたらあふれるのでは???と、濃茶点前の間もさらに気持ちは緊張。
びっくりしました。柄杓で上手にすくわれて、水一滴もこぼれませんでした。まさに茶事のクライマックスであった。は〜緊張が解けた。
主茶碗の井戸脇で濃茶いただいた。
茶入が古瀬戸で上から見ると木瓜形、これも祇園さんの紋であり、櫟の木で削り出された茶杓も「神剣」、長刀鉾の鉾先ですなあ。
(団扇の柄は私が落書き(^_^;)
速水流の茶通箱は、はじめから続き薄ですよの合図になることもある。でてきた煙草盆はまた舟形で三つ目の舟。のっている火入れがかわいいぐい飲みサイズだが、ちゃんと火入れとして作られているとのこと。
裏千家ではお持たせの濃茶を入れるという意味しか無いが、宗達の記録によると以前から茶通箱にはいろんな使い方があったが、一燈(裏千家八代)が濃茶二服点てを始めたそうで、裏にはそれが残ったようだ。他の使い方を宗達は裏千家六代の六閑斎から根掘り葉掘り?聞いて記録したものがあるらしい。
ちなみに元々は
茶壺のある家=茶掃箱
茶壺のない家=茶通箱
だったそうだ。そういえばどちらも同じ形をしている。
使われた茶通箱の蓋裏に、宗達の「さ・つ・う・は・こ」を頭文字にした歌が書かれていた。(覚えられず)それだけ茶通箱は当流派では大切なものなのだな。
仁阿弥道八の黒平茶碗でお薄をいただく。次客さんのが丼みたいな大茶碗(お家元作)でこれ茶杓をどうやって乗せるのだろう?と思っていたら、中へ櫂先を落としこむのだそうだ。大茶碗の習いも速水流にはあると聞いてこれも驚く。うちの丼みたいな三島茶碗、これ応用しよう。
朝茶事終わり、いつも飄飄と水屋のお手伝いをされる先代宗匠との写真もいただいて、外に出ると10時過ぎ、すっかり明けてはいるが、一日はまだまだこれからという時間である。これも朝茶事の醍醐味。
祇園祭2022〜後祭り山鉾巡行点描〜鷹山を中心に - 2022.07.26 Tue
後祭り巡行の朝、新町御池を下がって急ぎ足

おや、もう鷹山は船出の準備ができている。9:30烏丸御池集合なので、その前に難関の三条新町の辻回しがあるから早めのスタンバイ。
引き綱がくりだされ、
囃子方も屋根の上の大工方も準備OK
屋根はまだ白木であまり装飾がないが、毎年少しずつ装飾品など追加していかれるのだろう。8年前に復活を果たした大舩鉾がそうであるように。
196年ぶりの出発とあって、綱のあちこちに清めの塩を撒く。
まずは三条通を東に最初の第一声
まるで儀式みたいで厳粛な気持ちになる。
鷹山が動き出す。
関係者の方々が復活を計画してから紆余曲折、何年も前から居祭り〜囃子方結成、唐櫃巡行、コロナで延期、、、、などあってようやく晴れの舞台を迎える。多くの保存会の人たちは感無量であろう。きっと数年後にはもうずっと以前からありました〜と言う感じで存在感をしめすのだろうな。
鷹遣い、犬遣いは前に、樽負いさんだけ後ろにちょこんと乗っているのがかわいい。
さて、この鷹山、車輪は舩鉾、その他菊水や放下などから譲り受けた資材の寄せ集め、はたしてちゃんと最難関といわれる細い道の辻回しができるのだろうか。
(鷹山の前を通る南観音山)
一度東へいって、新町通りを八幡山、北観音山、南観音山が北上していくのを見送り、西へ、最初の辻回しに向かう。どきどきしながら見守る。
一目見ようとすごい人だかり、警備の警察官はたおれるかもしれませんから((゚Д゚))さがってくださ〜い!と叫ぶ。
数回にわけて無事回った!
思わず拍手が沸き起こる。まだまだ何回も辻回しは必要だがとりあえずOK
しかしかなり時間が遅れ、後ろで待機させられていた大舩鉾にあおられたとかなかったとか(^_^;
9時半烏丸御池を出発予定が30分は遅れたと思う。
しかし、大舩鉾、やっぱりかっこいいな。
御池通へ行くため、西洞院を北上していたら、東西の道で新町通を行く大舩鉾が見えた。うわ〜!やっぱりかっこいい!まさに大海を行く大船だ!
鷹山の音頭取りさんは交代制なので休憩中の組、江戸なら鯔背というところ、関西ではなんというのだろうか。
しばらく広い御池通で各山鉾を鑑賞した後、
四条のフェで涼みながら(^_^;タイミングを計るという技も開発して、西へ帰るトップの北観音山が見えたら、、、
新町にもどり、鉾のお帰りを待つことにした。
室町通りでは高張り提灯ははやくもとりはずされていたが、新町では山鉾が帰るルートなのでまだ掲げられている。この景色も見納めだ。
まずは八幡山が帰ってきて、、、
かなり遅れて鷹山
巡行のペースとしては予定より2時間遅れであった。
この日も35度越えの暑い日でみなさんちょっとお疲れ、お疲れ様でした〜!!
あと少し、最後の辻回しを終えて鉾町に帰ることができる。
がんばれ〜!みんな拍手でお迎え。
吉田家の前を通り過ぎる。
吉田孝二郎先生は今年は巡行に参加されず、お家でお見送り出迎えされていた。
新町を最後の辻回しにむかう鷹山を見送ったあと、このところ毎年私的に恒例となっている北観音山の帰艦を待つ。
吉田家の前を通り過ぎ、あと一息、お囃子の拍子が早くなる。
帰り着いた後は、関係者、観客みんなで一斉に三三手拍子、最後は一本締めのお約束。
そしてお待ちかねの、洛中を回った北観音山の柳を切ってもらう。50cmくらい切っては周りの人に授与、要領わかってきたので、一番に手をだす。
なんと柳の実のついたやつをゲット。
洛中の厄をはらった柳だからもらわん方がええという人もいるが、それにも負けないしなやかな柳は強いと思うの。
すでに帰還した南観音山を見て、四条通を唯一南へ帰る大舩鉾の後ろ姿を見送り、これにて巡行は無事終了したのである。
3年ぶりに見ることができてとてもうれしい。どうも7月山鉾巡行がなくては京都の夏って気がしなかった。
来年は曜日巡りで仕事のため見られそうもないので今年しっかり目に焼き付けた。
お酒のあてに一品ずつ頼んでいくスタイルだが、いずれも美味しかった。中でもこのトマトのおひたし、美味❤️
三五夜月釜〜暑気払い2022・D先生の席 - 2022.07.24 Sun
祇園祭さなかだが、奈良へもせっせと出勤しておるわけです(^_^;

奈良・三五夜さんで表千家の茶道教室をされているD先生が7月の月釜ご担当と聞いて。
雨、、、というにはかわいらしすぎる大雨の日、スマホの避難勧告のピンポンが鳴り止まぬ日ながら(^_^; おかげで三五夜さんの玄関の苔も生き生きしている。
待合で「風颯々水冷々」かわいらしい金魚の画賛、そこは奈良ですから書かれたのは西大寺の長老であった松本実道師。
本席では即中斎「澗水湛如藍」、碧巌録にいう「山花開似錦」の対句。内容は例によっていわゆる禅問答なのだが、料紙が墨流しになっていて美しかった。
糊こぼしのお菓子で有名な萬萬堂通則さんの、美味しそうな水牡丹をいただこうとしたら、すっかり沖縄焼けをされたD先生が。で、しばらくおあずけ(^_^;
お軸が満々と藍に見える如く湛えられた水なので、香合の鳥が水鳥なのだろうなと思ったが、来歴を聞いて驚いた。先生が大学時代に茶道部の部長をされていて、タイと御縁があり、ダメ元で当時のプミポン国王をお招きしたのだそうだ。さすがに国王自身はおいでにならなかったが、言うならば勅使の方がおいでになって茶会に参加されたよし、その時贈られた香合だったとは!
下の帛紗もそれに併せてタイ北部少数民族の絣、その上三五夜さんが、では、とご用意くださった中に入れる沈香が「羅国(タイ)」とはとことんのこだわり、感激するしかない。(できれば香聞きたかったけど(^_^;)
鳳凰紋の唐金風炉は江岑宗左好み、透木で使うのがお約束とか。
覚入の黒楽平茶碗で濃茶をいただく。次客さんの萩がお家に伝わる古い茶碗で、いい時代がついてて好み❤️
茶杓が昔生駒の茶筅の里でもとめられ、景色が良いので久田宗匠(堀内宗匠だった??)に銘(涼風?だったか失念)をいただいた物だそうだ。深い樋がはいり、蟻腰(のちに茶筅師さんが調整してくれた)、節近くにかすかに隙間があいて光を通す。
濃茶のあと、「秋芳洞」と銘のついた萩の水指に兎みたいに結んだ帛紗をのせておられたので、???と思ったが、とりあえずウサギかわいい❤️ これは表千家では水指に清めた水がはいっていますよ、の合図なんだそうだ。はじめて拝見したわ。
煙草盆にはウズベキスタンの煙草入、サイパンの手紙入れの竹の筒の灰吹、と先生がいままで旅行された海外の思い出の品々の見立てで、思いがけない使い方がとても面白い。
ちょっと胸に来たのが、火入れの焼物が慈光院ゆかりのものと聞いたとき。大好きな茶友であり、ここでD先生の茶事にもご一緒した慈光院のゆかりの方、今はもうご一緒することもかなわないが、ここで火入れでご一緒させてもらうつもりで、とご用意くださったのだ。
干菓子はやなぎのにわ京菓子店さん、繊細な摺り琥珀貝殻とココナッツの波が描かれた薄焼き、しかもお点前もやなぎのにわさんがご自身でされた。テーマはやはり海ですね。美味しかった!はやく実店舗を持っていただきたいわ。
主茶碗がバリ島の焼物で一見安南っぽい絵付け、銘を「林泉(=隠棲地)」、次茶碗が細かい青海波が描かれた「浦風」
薄器の蓋に朱漆で「明光」。明光浦と書いてあけのうらと読む。和歌浦でその海の景色を見て感激した聖武天皇が名付け長くこの景色を保つよう命じたという。同行した山部赤人の歌が万葉集にある。
わかのうらに潮みちくれば潟をなみ 芦べをさして田鶴なきわたる
なので蓋裏に芦の蒔絵、珍しい即中斎の若いときの「覚」という花押も初めて拝見した。
さらに沖縄土産の農家さんから直接買ったという自家製黒糖、少し潮の味がして美味しかった。入れ物は名も知らぬ遠き島より流れ着いた(かもしれない)椰子の実である。
世界各国いろんなところを巡られ、思い入れのある見立て道具、御流儀の道具、上手に取り合わせてお見事な海〜そしてその先にある遠つ国を巡る一会、楽しゅうございました。
*)今回の学習〜曳舟
風炉先屏風が曳舟だったのだが、これが大綱和尚の「引く人も引かれる人も水の泡の浮世なりけり淀の川舟」から来た意匠であったと初めて知った。これ淀川なんですねえ。
祇園祭2022〜後祭宵山点描 - 2022.07.23 Sat
宵山はやはり後祭である。
夜店もでない。路上に座り込んで飲食するやからもいない。ゆっくりと風情を楽しめる。しかしながら23日は大勢の人出はあるだろうから、初日の21日に鉾町へでかけた。

まだ宵というには明るかったが、駒形提灯に灯りがはいる。
南観音山では真松立ての前に見られなかった真松にとまる白鳩をさがす。
いた!
しかしお尻の方からちらっとしか見えない(^_^;
北観音山の吉田家ではいよいよ最大の屏風祭りがはじまった。
吉田塾(休止中)に参加していた頃はこの二階から曳き初めを見たし、
ミセの間のこの座敷から外を眺めることもできたが、コロナでそれもできなくなってしまった。
ほんとうはここで宵のおよばれしたかったのだが。
レアものの(一般販売されない)北観音山粽もゲットする予定だったのになあ、、、
そうこうするうちにあたりは暗くなって、雰囲気は盛り上がる。この周辺ではかならずだれぞ祇園祭友?に出会う。これもまた愉しみ。1年に一度の人もあり。
お囃子も始まった。
南・北観音山の大きな山鉾を見た後、小さな山を訪ねる。
北観音山の北の八幡山にて
高張り提灯の具合を見る鉾町の方
屏風祭りに思い思いに足を止める人
前祭りの喧噪がウソのような静かな宵山である。
三条通では今年の話題をさらう、196年ぶりの復活なった鷹山
真松にとまった雉をキャッチしたが、、、なんか変な色〜と思っているとなんでも先日の雨で彩色が流れて半分白雉になったとか(゚Д゚) なんで水性絵の具を使ったのかな〜???
お囃子だけはここ数年前から、あちこちで囃子方さんが囃子をご披露していたからもうおなじみである。コロナ前の会所の前でもよくされていたし、鷹山の手ぬぐいももとめた。今年は粽を、、、と思ったらすでに宵山初日で完売とな!
21日はまだ人形達は飾られていなかったので、次の日行って撮ったもの。1826年災害で大破したのち、しばらく居飾りされていたが幕末に火災にあい、首と手だけ焼け残ったのを後補したもの。
左:鷹使い 在原行平が光孝天皇芹川野行幸時供奉した時の姿とも(「伊勢物語」に逸話あり)
中:指樽(さしたる)を背負った樽負い(粽を持っているのがなんだか滑稽)
右:犬遣い
いよいよ暗くなって、高張り提灯と駒形提灯がくっきり浮かび上がり、異世界へ引き込まれそうな雰囲気。これ、好き。
役行者山では恒例の茅の輪くぐり
今年会所を新しくしはって、すごく入りやすく見やすくなった。
3年ぶりの役行者腰掛け石
肩こりに御利益があるとかでいつもなでなでする。
黒主山のご町内、誉田屋さんの恒例鯉の垂れ幕(キーヤンこと木村英輝画伯)、これも3年ぶりに見た。
逸話や伝承ではなぜか悪者にされる大伴黒主をご神体とする黒主山
ここまでくるとぐっと人が少なくなって、より風情が増す浄妙山
「悪しゅう候 御免そうらえ」(宇治川の合戦)の浄妙と一来法師(どちらも討ち死になんだけどね)
残念ながら今年はご神体の会所飾りはないそうだ。
後祭りの時に店をださはる、大徳寺そばのつまみ細工・おはりばこさん。3年前つまみ細工のブローチ買ったなあ。で今年も年齢相応の(^_^;地味〜なピンを。
例年なら♪ろうそく一本献じられましょうの歌の子供達や粽など売るスペースが、がらんとして寂しい鯉山。
いや、久しぶりに再会できたわ、でっかい鯉さん。
あら、松井酒造さんの提灯が、、、と思ったらかたわらでお酒販売中、ちょっと買おうかな、と思いましたがさすがに酒瓶は重いので断念。
橋弁慶山で弁慶と牛若丸を見た後、四条通を南下。
大舩鉾へ。
この鉾が復活したときもすごく話題になったがもう8年も前。
今年は竜頭なんだね(大金幣と交替)。これも最初の頃は金箔貼られてなくて生地だった。
人が少ない今のうちに、と鉾にのせてもらうことに。
会所飾りでは第一水引が目を引く。江戸時代のものを写して新調した物で赤の地に金のコマ留め刺繍、この寸足らずの龍?と思ったのは応龍という想像上の魚なのだそうだ。
今年さらに増えた装備として、上村淳之画伯の天井絵。少しずつ充実して行くね。
鉾の上から見る竜頭の裏側。
囃子方の席、、、と思って見ていたら囃子方さんが乗る時間になって、ぎりぎりセーフで搭乗できたようだ。
ここからはじまる大舩鉾のお囃子を聴き、ひさびさにここで♪ろうそく一本〜の子供達の歌を聴いた。
後祭りの山全部訪ねたなあ、、、と満足していたら、、、あ、鈴鹿山忘れた(^_^;
また23日に。
御旅所でお休み中の八坂の神様方にご挨拶して帰る。無言参りはようせんわ(^_^;
帰宅して今年ゲットした粽コレクションを眺める。綾傘鉾のはすでに玄関に飾っているが、大舩鉾の以外は全部拝領品。ありがたい。
祇園祭2022〜後祭真松立て・新町通り - 2022.07.22 Fri
洪水警報がスマホに鳴り止まない大雨の日、まさかこんな日には作業はしないのでわ??と思った私は浅はかでした。

新町通を四条から北上すればまず南観音山の作業が!ブルーシートを吹き飛ばされそうになりながらもミッション完遂中ではないか!すごいわ。(こんな日に出かけるアンタもアンタだが)
南観音山ではまだ縄がらみの最中、まだ真松はたちそうにない。
作業に余念の無い手伝方(てったいかた)さん。
高張提灯がならぶ通りにブルーシートがそこだけ怪獣みたいだ。
北観音山も真松はまだ横になったまま。
この嵐の中でも松を選ぶくじ引きはちゃんとおこなわれたそうだ。今年は南が先に松を選んだとか。
北観音山のご町内、祇園祭はこの人なくしては!の吉田孝次郎先生のお宅でもある吉田家住宅、屏風飾りの準備はすませたそうだが、松が立ってからのお披露目とか。
北観音山の真松接合部の作業、法被の背中の「祇園守り」がかっこいい。
北観音山の真松には尾長鳥をつける。南観音山では白鳩だ。長年間違ってあべこべになっていたのを(北が白鳩、南が尾長)2014年、元の形にもどしたのだそうだ。意味は不明ながら、とりあえず巡行の無事を見守る、、、ということか。
この尾長は昨年真松が立ったとき下を向いてしまった、、とのことで今年は慎重に作業されていた
ちなみにこの尾長と鳩は山鉾のミニチュアにもちゃんとのせられている。
さあ、北観音山、いよいよ真松を差し込む。
輈にかけた綱をひっぱる面々
ブルーシート込みで立つ真松
毎年これにはどきどきする。もう何年見続けているだろう。コロナの時にはとぎれたが、昨年は頑張って立てはった。
南は?と見るとすでに一足お先に立っていた。あら、見損ねた。近年ホテルが建って、その前は立ち止まらないようにいわれるので、すごく不満。(後からきたくせに〜)
今年はあばれ観音でるのかな。
新町を三条で東に向くと、三条通に唯一立つ鷹山、今年196年ぶりの巡行復活に沸くおそらく今年の後祭りで最大の目玉である。
真松立てはすでに終わっていて、その姿を私は初めて見た。
この山の真松には雉がのっているのだそうだ。後日望遠カメラで確認しよう。この雉も意味不明ながら江戸時代の祭礼図に描かれているためのせたそうだ。
囃子方も乗るのでりっぱな屋根や欄干がついているなあ。
ここでちょっと珍しい物を見た。
ある意味鷹山の曳き(押し)初め??(^_^;
ほんとの曳き初めはこの次の日で、仕事でいけなかったんだよねえ。残念。大舩鉾の時は行けたのに。
帰りに四条より南の新町の大舩鉾を見て帰る。復活したのは8年前、ちょっと興奮した事件?だった。いまやもうずっとここにあるような錯覚さえ起こさせる存在感である。これも巡行の日が楽しみだ。
「奈良高畑町界隈〜その歴史と伝承」〜著者・大槻先生と歩く - 2022.07.20 Wed

この本が出たときにもとめて、うわ、写真ほとんど無い、内容難しそう、と引きそうになったのだが、読み始めるととまらなくなった。大好きな高畑〜新薬師寺、この前歩いた柳生街道に続くエリアで、よく歩いているのに、その歴史がこんなにも深いなんて!と感動したのである。
そしてこの本片手にその道をたどろうとしたのだが、どうにも民家の中にある遺跡とかあって、早々に断念していた。
ところがこのたび大槻先生がはじめてガイドもされるという高畑伝承ツアーを発見!宵山でお疲れではあったが、これを逃してはならじ!と申し込んだ次第。(やまとびとツアーズ)
*ちなみに伝承をたどる旅は本の後半で、前半には高畑の歴史が春日大社や興福寺、ならまちの形成などの歴史の一つとして書かれて読み応えがあった。特に明治の廃仏毀釈の嵐は寺のみならず神社にも吹いて、たくさんの神官の家が解散させられた歴史は涙無くして読めない。
朝の集合が奈良教育大正門前で、なぜ?と思ったが、なんと最初の遺跡はこのキャンパスの中にあったのだ。
<吉備塚古墳>
吉備真備の墓説、邸宅跡説いろいろ伝承されているが、時代に整合性なく、木棺出土にて、6世紀初頭の武人の墓と推定。伝承ではこの塚を壊そうとすると真備の祟りがあるとのこと。このあたりに住んだ陰陽師(賀茂氏から別れた幸徳井氏系)がその伝承を守り伝えたたため、その祟説のみが残り、そのおかげでこの塚は壊されずにすんだ、という。
その真備の幽霊が夜な夜な吉備塚から清明塚(現在所在不明)まで通ったといわれる道をたどる。
<閼伽井庵(隔夜寺)>
光明皇后が眼病を患ったときにここの井戸の水で目を洗って治ったという伝承あり。外からの見学。「浄土宗閼伽井庵」の碑あり。
この土壁が高畑のシンボルであるが、これとてもあと何年持つかわからない。実際これを保全しようという運動はいまのところ無いそうである。心配だ。
さて、これも真備の幽霊の通い道。
<赤穂神社>
ここにお社があるのは気づいていたが、扉をあけて参拝できるとは知らなかった。
いまでこそ小さいお社だが、二月堂修二会の神名帳にも読み上げられる歴史の古い神社である。起源はもはや不明。
この境内にある小さな灯籠は「ヒメ塚」があった場所で、宮中で突然亡くなった(おそらく自死)氷上夫人(不比等の娘、天武天皇の夫人の一人)の墓ではないかといわれる。
朝夕に哭(ね)のみし泣けば焼太刀の 利心(とごころ)も吾は思ひかねつも (万葉集 氷上大刀自)
この神社には明治5年のこのあたりに住んでいた神官の家の地図が掲げられており(70家)、見事に神官の家ばかりで幕末には春日の神人は数百人を越え、雑役なども含めると数千人を越えたといわれる。その明治5年、明治政府の社寺領上知令、神職の世襲禁止などにより神官はすべて免職となったのである。この地図はその最後の姿を写したものであった。
<柳堂地蔵>
さて、私の知らない細い細い迷路のようなを通って、よく知っている柳堂地蔵さんの前へでる。
いつもは外からのぞくだけだが、この日大槻先生、地蔵堂の鍵をお持ちであけてくださった!
おお〜っ!
初めて拝ませてもらったお地蔵さん。鎌倉時代の木彫という。(重文クラスじゃね?)
荒池付近にあった興福寺別院・龍華樹院跡にできた奥薬師堂に祀られていたという。享保年間の火事で焼け出され、旧家・井岡家にながらくあずかられ、祀られていたのを、井岡家移転後(なんと旧井岡家住宅は神奈川県の指定重文になっているとか)昭和42年に現在地に土地の人たちの手で新築されたものだそうだ。
そして次は民家の中にあって見ることができないと断念していたところの破石(わりいし)!
<破石>
バス停・破石町は愛用しておりなじみがあるのだが、その元となった破石がほんとうに存在するとは知らなかった。某民家の庭へ許可をもらって入ると、なにやら呪術的な装飾が???(単なる猫よけ(^_^;)
清明塚に通う真備の幽霊が途中ここで腰掛けて休み、その姿を見た者は死ぬという伝説あり。
切れ目以外は変哲のない石だが、この石にははっきりした記録があり(「続日本紀」)来歴が明らかな石なんである。西大寺東塔礎石にするために飯盛山から切り出されたが、祟りがあるというので砕いて捨てたものの、さらに祟りがおこるので清らかな土地に置き人に踏まれないようにした、とある。
こんな伝承がバス停の名前にも残っているなんて、さすが奈良!としか言えない。
さらに土壁の細い道を歩く。
途中奈良・高畑にしばらく駐在した歩兵38連隊の宿舎のレンガの壁が残るところあり。古代史だけでなく近代史も残る奈良。
このあたりからは背景に若草山がないのですっきり見える三笠山(御蓋山)が望める。
いまでは小学校になっている新薬師寺金堂跡。
本来の堂宇はここにあったと推測される。現在ある新薬師寺は壇院の跡ではないかとも。
これは入江泰吉記念奈良市写真美術館から段差を経て新薬師寺を望んだものであるが、この美術館を建てるときにいっさい遺跡も遺物もでなかったそうだ。つまり今の新薬師寺はかつての場所と一致しないのである。
この高畑あたりは、真備、ともに入唐した玄昉、藤原広嗣(九州で乱を起こし鎮圧された)の同時代の密接に関係があった三人の伝承がたくさん残っているのはとても不思議。おそらく何らかの三人をつなぐ出来事が高畑であったのではないかと思われる。
新薬師寺の隣にある藤原広嗣ゆかりの鏡神社へ向かうが、途中の坂の道の下に盛り上がったところ(赤い破線)が玄昉の胴塚と言われる。伝説では広嗣の霊によって殺された玄昉の体は5つに分かれ筑紫から飛来し、頭が落ちたところが頭塔、で、ここが胴体が落ちた胴塚。道の下とは気の毒な(^_^;
<鏡神社>
新薬師寺に来るときはお隣にあるなあと思っていたが中まではいったことが無かった。
太宰府で反乱を起こし惨殺された藤原広嗣の霊を鎮めるために唐津の鏡神社を勧請したという。
(広嗣の乱は玄昉と真備を除かんがためであった。)
18世紀に春日大社の社殿を移築したもので、春日造りの特徴をよくあらわしていて、県の指定文化財になっている。
ここには御霊として有名な井上内親王(いがみないしんのう)の伝説がある。聖武天皇の第一皇女で白壁王の妻、後に思いがけず高齢の白壁王が光仁天皇となったため皇后となった方である。同じく聖武の娘・光明皇后の娘である阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の地位をもちあげるため、若い頃は伊勢の斎宮にされたり、当時は芽の出ない白壁王に嫁がせたり、かなりかわいそうな扱いをうけている。それが運命のいたずらで皇后になったため、光仁天皇呪詛の疑いをかけられ廃后、後に廃太子された他戸(おさべ)親王とともに憤死または毒殺されたという悲劇の内親王である。この事件は藤原氏の陰謀と言われる。のちに祟り神になってならまち御霊神社にも祀られている。
そのいがみさんが、配流されたときにすでに光仁天皇の子を身ごもっていて、その子を若宮とよび火雷神社に祀った、、という伝説がこの境内の小さなお社なのである。
(井上内親王についてはかなり思い入れがあるためついつい長文になりました)
鏡神社の入り口のすぐ隣、右側は新薬師寺。
新薬師寺の前に小さな比売神社があることに気づいてはいたが、詳しくは知らず、今回初めて天武天皇と額田王の娘で壬申の乱でやぶれた大友皇子の妻・十市皇女を祀るという。もともとこの赤穂の地に埋葬されたと記録にあり、それが以前よりあったヒメ塚であろうと、近隣の旧家のかたが建てた神社だそうだ。十市皇女も宮中で亡くなっており(これもおそらく自死)、彼女もまた悲劇の皇女であった。
ここから藤間家(とうまけ)をめざす道々、旧神官の家の土塀が見え、突き当たりは現在の春日大社の禰宜さんの官舎だそうだ。
この辺り一帯が神官の家があったあたり、まだ雰囲気は残る。
その中でも唯一当時の遺構をそのまま残しているのが藤間家だ。ここの土壁が大好きで、高畑のシンボルだと思っていたが、いつ壊されてもおかしくないとどきどきしていたが、クラウドファウンディングによって、なるたけ現在の外見を保ちつつ補修することができた貴重な土壁なのである。(当然CFに参加した)
その改修の様子は昨年秋に行ったときに記事にしているのでご参考に。
内側をボルトでとめて外側はほぼ以前の通りにする、という超高等テクニックが使われている。
昨年来た時は無残に壊れかけていた土壁がこんなにきれいになるなんて!
↓ 同じ場所
中はまだほとんど未整備であるが、これからこのスペースをコミュニティに開放したり、アーティストの活躍の場にするとか、有効に使って行きたいということである。
ちなみに垂れ下がっている布は麻で、この家の蔵から出てきた昔の蚊帳を解いて作ったものだそうだ。
昔は神様をお祀りするスペースとかあって、普通の住宅と違う造りになっている。
(垸飯桶=わんばんおけ 文久9年春日大社よりつたわる神様へのご供飯入れ)
まだまだ蔵に昔の民具などたくさん眠っていて、いずれこの調査もしたいとのこと。先立つ資金として、どうぞ皆様もご参加よろしく。(藤間家クラウドファウンディング)
実は大槻先生の本の表紙はこちらの家がモデル。
現代に通された道によってすっぱり分断された土壁を悼みながら頭塔を目指すが、私はここで時間切れ。頭塔には何度か行ったことがあるのでお先に失礼する。
前に立っていたホテルが更地になり、道路からでも頭塔がよく見える。玄昉の首塚とも言われるが、実は古墳なのだ。
大槻先生は、今は私が愛用するカフェことのまあかりさんのある場所でかつて長らく喫茶アカダマをされておられた。奈良まほろばソムリエであり、大学に入り直して再度勉強研究された方。以前zoom講座でお話を聞いたことはあるが、やはり現地でのガイド(初めてだそうだ)で柔らかな語り口を聞くのは格別である。祇園祭で肉体的疲労感を感じながらもここまで来た甲斐があった!と非常に感謝している。ありがとうございました。
祇園祭2022〜前祭山鉾巡行の日・山鉾町点描 - 2022.07.19 Tue
前祭3年ぶりの山鉾巡行の朝、綾傘鉾のお手伝いにこの日も早朝から鉾町出勤(^_^;

鶏鉾さんでも巡行の準備に余念が無い。前夜どちらも遅くまで宵山〜後片付けとお忙しかったことだろうに。観客の方は観客で朝6時頃から場所取りをしている人も少なからずおられる。
綾傘鉾でも傘を広げて準備中、保存会の若い青年部の人たちがどんどん力仕事もこなしていく。
前日後援会席だったガレージの奥で、早速山の曳き手さんや白丁さん(お稚児さんに赤い傘をさしかける)の着付けが始まる。
みなさん学生ボランティアなので、浴衣を着たこともなかったり、ましてや足袋なんか履いたことない、という若い人ばかり。特に地下足袋はコハゼが10個くらいついていて、こちらもとめるのに難儀する。(若い人へ:足袋のコハゼは下からとめようね)
帯はきりっと腰骨よりかなり下に締める。
時々観光着付けで男性が帯をウエストにしめて○カボンみたいになっているのをたまに見かけるが、腰骨のかなり下よ、下!この方がかっこいい。
曳き手さんの完成形はこちら。
白丁さんのはこちら。
広げた赤い傘の下にお稚児さんが二人ずつ6人、裃を着たお父さんに手を引かれて巡行する。
裃の着付けはベテランさんのお仕事。私はまだこの裃の仕組みがわかっていない。
化粧、着付けのおわったお稚児さんも並ぶ。
ここでお手伝い一段落したので他の鉾町の出発前の情景のコレクションに。(なんで一眼レフ忘れちゃったんだろう、、、、(T-T) 画像いまいちだが全部スマホにて撮影)
先ほどの鶏鉾も曳き手さんの準備整う。
蟷螂山が西洞院から四条通へすでにでてきている。裃の色がおしゃれだ。
中で蟷螂を操る係の人が予行演習中、こちらに首をくりっと向けたカマキリかわいい。この山は私が大学生時代に復興された山。
裃の背中にいれるのは団扇あり、ここみたいに榊あり、粽あり、で後ろ姿がとにかくかっこいい。日本人男性は裃で男前度がかなり上がる。民族衣装ってそういうもの。
舩鉾も出港準備完了のようだ。
杉本家住宅の前の伯牙山
表家作りの大きな町家の背景がよく似合う。お囃子もなく派手な演出もないが、かえって山を大切にされる山鉾町の風情があって、とても好きだ。
町内の少年たちが大人に交じって巡行ではがんばるが、出発前はまだ年齢相当に少年の顔をしている。
つづいて芦刈山の出発。
それをお見送りする町内のお年寄り、この風情こそ祇園祭だ、と私は思うのだが。
そして14日お座敷でよばれた秦家さんとこの前から太子山。
山鉾の西の端、南の端、ゆったりしていて、ここの風情もとても好き。
10年ほど前、知人が相談されて復興にいたった担い茶屋も出動。巡行中あちこちでお茶を振る舞う。
ご真木の杉(ここのみ松ではない)は電線とか邪魔になるものがあるときはパタンと折りたためるようになっている。(四条通の信号機もそうだね)
山が出発したあとの杉本家、ちょうど遅れていかれる役員さんがでてきはったので絵になるショットが撮れた。(返す返すも一眼レフでないのが残念!)
新町通最南端にある岩戸山も四条通にむけて出動。
山という名はつけど、立派な鉾である。
専属カメラマンがまたお知り合いでご挨拶を。
曳き手さんの衣装も鉾町それぞれ意匠をこらす。
四条通に出た舩鉾の辻回し。
この狭い新町の辻回しこそ面白い。多くの観光客は御池とか河原町あたりの広いところを見はるけど。
さて、ここでまたお手伝いに中座、午後2時ごろ、四条通りに帰ってきた先頭の長刀鉾を確認してから、また各山鉾の帰還を追いかける。
西洞院の蟷螂山はすでにご帰還。
新町通、北観音山、南観音山の鉾町を南下してくる菊水鉾
舩鉾の帰還ならぬご帰艦である。
長い航路を終えて今港に着く。大勢の人に拍手で出迎えられて。
新町通り綾傘通過と聞いてあわててもどるとすでに帰り着いていて、大原神社で最後の棒振りおどり奉納中であった。
巡行を歩き通したお稚児さんもお疲れ様!ほっとしたお顔。
お隣の鶏鉾さんも最後のお囃子。
ピーッという最後の笛の音で拍手。
洛中の厄を祓った山鉾はただちに解体にはいる。
曳き手さんから白丁さんから、奪うように衣装を脱がせて汗を飛ばすため大型扇風機にかける。我々の仕事はこれでおわりだが、綾傘の解体〜神泉苑倉庫への運搬、後援会座席の解体、着付けのための畳や茣蓙の撤収から大道具級の仕事がたくさんあって、ほんとうにご苦労様なのである。心でエールを送るくらいしかできないけれど。
白丁さんが持っていた赤い傘もこのように毎年アーティスティックに干されるよし。ただ綾小路はもう車両通行が再開するのでちょっと大変。
帰る道すがらの地下鉄の駅では、これから神幸祭へ向かう輿丁さんの姿もちらほら。これは西御座の錦やね。がんばって〜。今年はコロナゆえ、御旅所直行直帰と経路はすごく短いのだが、それでも神輿は八坂さんから出座される。さすがに今年はくたびれて、追い回しあきらめたが、無事を祈る!
そして来週からはいよいよ後祭りがはじまる!
祇園祭2022〜前祭宵山点描 - 2022.07.18 Mon

今年は14日からすでに宵山気分であった。粽売りなどのお手伝いもしながら愉しむ宵山の鉾町点描。(粽買いに、顔を見に、きてくださった方々に感謝)
3年ぶりの菊水鉾茶席、今年はコロナゆえ前売りだけで当日券無しであきらめていたが、お茶友さんより茶券を拝領、ありがたし。
恒例の「したたり」をいただき、今年の菊花皿を持ち帰る。今年は淡い黄色だな。大分たまってきたよ。
この日のご担当は遠州流、お点前さんに知り合いがいてなんだかうれしい。
こちら月鉾さんの粽、茶席券で拝領(手違い?で2本(*^_^*)。
こちら岩戸山の子供神楽
前日は観世流・林宗一郎さんの神遊びもあったのかな、行けなかったが。ちなみに岩戸山は天の岩戸神話がテーマなので、お神楽(天鈿女命のエロチックなやつ(^_^;オリジナル)をするのだよ。
子供達がこういう伝統行事を継承しているあたり、さすが京都だなと思う。
岩戸山恒例の「食べられる粽」(木乃婦さん製)の販売は今年はなし。ここでも The Terminal Kyotoでお手伝い中のお若いお茶友さんに邂逅。あの人混みで会えるとは!
烏丸通りの祇園祭の時(15日〜24日)だけ開く御手洗井も今年久々に開放。
ご神水をいただく。八坂さんの御旅所は歴史的に転々としてきたが、ここも信長に移転させられた御旅所の跡という。
夕方、ボランティアの学生さんの浴衣着付けを手伝わせてもらった。人に着せるのは自分で着るより難しいが、色々コツをおそわって、てばやくきれいにできるようになったと自画自賛、半幅帯の結び方も勉強になった。(3日間で20人近く着付けたのではなかろうか)
完成形がこちら
綾傘鉾の会所になっている大原神社は普段は閉鎖されているが宵山のあいだはお参りされる方で賑わう。お祓いをしてくれる巫女さんの(学生ボランティア)着付けもおもしろかった。
夕刻は人混みでごったがえす四条通を避けて、主に西の小さな通りにある鉾の駒形提灯を愉しむ。
まだかろうじて残る表家造りの町家の前のは風情がことさらだ。
宵山の夕べはふけていく。
祇園祭2022〜前祭日和神楽コレクションと名物!函谷鉾提灯落とし! - 2022.07.17 Sun
いきなり宵山に話がとぶ。
21時ごろ、各鉾町がそれぞれのグッズ販売の店をたたむころ日和神楽がでる。翌日の巡行のお日和を祈って各鉾町からお囃子がでるのである。

綾傘は山ではあるがお囃子方がちゃんといるのと、超高速棒振りおどりが名物なので、日和神楽をださはる。
四条室町の人混みを規制してもらって出て行くのは申し訳ないと思いながらも気持ちいいものだ。
四条通を八坂神社の方向、御旅所をめざす。
途中函谷鉾、長刀鉾の横を通るときは、どちらもまだ鉾の上でお囃子をされているので、音をとめてご挨拶。
長刀さんは囃子方がまだ頑張っている。
四条寺町の御旅所の前では、、、
参拝と棒振りおどりが奉納される。
これが終われば、綾傘は宮川町〜松原通りをめざす。回る地域は鉾によって異なる。私はここでお見送りして会所へもどるがその道すがら、、
長刀鉾の日和神楽が来る。
続いてきたのは、、、
舩鉾さん。
放下鉾ときて、、
四条綾傘鉾
あと人混みで写真がとれなかったが鶏さんも菊水さんもすれ違った。そして、最後を飾るのは、函谷鉾の提灯落としである。
今か今か、と固唾をのんで待ち構える。お囃子の調子が早くなったら集中!なにしろ一瞬なのでぼやっとしていたら見逃す。
(ちなみにこの動画TLであげたら某民放が使わせてくれと)
やった〜!!
3年ぶりの提灯落とし!今年も大成功、まわりから拍手!
かくして翌日は山鉾巡行。明日もお手伝いで早起きしますので本日のアップはこれにて。
祇園祭2022〜太子山・秦家住宅にて - 2022.07.15 Fri
14日まだ宵山期間中の前だが、すでにあちこちの山鉾で粽が売られたり、駒形提灯に灯がはいったり、そぞろ歩きの人もでて、うきうきなのであるが、「♪ろうそく一本献じられましょう」の子供達の歌は聞こえない。

そうでなくても、鉾町の南の端、西の端である太子山はいつも比較的静かで風情があるのだが、コロナ以降よりさらに静かでよいたたずまいである。(インバウンドが帰ってくるまでにせっせと楽しまなくては!)
例年は太子山の会所飾りをされる秦家であるが、コロナ以降、太子山は会所飾りをしない。
そのかわりに昨年から、お座敷で中国茶とむしやしないの会をされている。
よっていつもは太子山の幕がかかるところ、今年は秦家の家紋入り幕(麻製で上等)がかかる。だから久しぶりなんだそうだ、この幕かけるの。
秦さんのお家には祇園祭の時以外にも、何回も来させてもらっている大好きな京町家(重要文化財)である。昭和61年まで、小児薬「奇應丸」の製造卸を家業とされていた。
創業1700年というから300年以上の長い歴史の商家では旧家中の旧家である。左手に見えるのが「奇應丸」の看板である。
今回初めてその奇應丸の実物を見た!なんと小さなつぶつぶなんだろう。赤ちゃんの夜泣きに飲ませる薬だったので、納得のサイズである。
坪庭が見える表の間の一画で、好日居さんの中国茶会から。
ウエルカムティーは冷えた菊花茶にて。カルダモン入りだそうでさわやか。
秦家では梅仕事として毎年梅を煮詰めたエキスを作っているのだが、その時の副産物を使って作った寒天。梅にブランデーのソースがきいている。添えられた杉の枝は太子山のご真木からいただいたものとか、ありがたい。
ちなみに他の山鉾の真木は松だが、太子山だけは杉なのである。四天王寺を建立するにあたり、聖徳太子が自ら山に入り杉を切ったという伝承から。
本日のお茶は白茶
飲んだ後の聞香杯の香りがたまらん。
最後に沈香茶。
奇應丸を作るにあたり沈香なども材料であったことから是で締めるとのこと。香炉で沈香を焚くことはあっても飲めるとはしらなかった。でもかすかにあの沈香の香りにまちがいない。今度やってみよう、、、と思うには沈香お高いのよね(^_^;
玄関の間に聖徳太子像とともに飾られたヒオウギ。
ここをとおりぬけて奥の座敷へ。
こちらで秦さんお手製のむしやしないに、棗入りお赤飯、きずし、冬瓜のお椀をいただく。お酒も「祝詞」という祇園祭っぽい銘柄。
奥の間から表の間にすっと通るこの姿こそ町家の醍醐味、町家は夏に限るなあ。しかも鉾町なら祇園祭のときが最高だ。これで格子戸のむこうで♪ろうそく一本、、が聞けたならなおいいのに。
秦さんが小学生の頃は、祇園祭といっても学校は休みにならず、中高生になったら期末試験の最中で、お祭りで騒ぐこともできず残念だったそうだ。先代のお父上の時もそうで、祇園囃子を聞きながら二階で勉強していて、クワガタに手を噛まれた?という話を毎年祇園祭の食卓でされていたとのこと。
3年前、こちらでいただいた秦家名物?ひゃくいち(大根のおつけもの)と豆ご飯が美味しかったという話もお母上とさせていただいた。
そうこうするうち時はうつり、最後に太子山の、青々としたほんものの杉の葉付き太子山粽をいただいて帰る。
帰り道は木賊山、芦刈山など通り、どこも静かで四条通に近い山鉾町よりだんぜん風情がある。
まだお囃子をしていた舩鉾でお囃子をしばらく聴く。
いまだ不完全ながら、鉾町に祇園祭がようやく帰ってきた。
祇園祭2022〜3年ぶりのエンヤラヤ〜♪・曳き初め12日 - 2022.07.14 Thu
12日の鉾立〜曳き初めを見る。
例年は一般人も曳き初めに参加できるのだが、コロナゆえ、今年はすべての鉾の曳き初めは関係者だけで、われわれは指をくわえて?見ているだけなのはなんとも残念!

14:30からは鶏鉾さん
引き綱が準備され、体制OK
お囃子方もスタンバイ
出発のゆるやかなお囃子にのって、
♪よ〜いよ〜い エンヤラヤ〜!!
3年ぶりに帰ってきたこのかけ声!感激である。
車方が注意深く巧みに車輪を制御する。
室町通りを四条通に向かってまず北上
鶏鉾の鉾頭は不思議な三角形
由来は不明らしいが、一般的には諫鼓のなかの鶏の卵という。世の中が良く治まっているので、不満がある者がたたく諫鼓が鳴らされることなく、鶏が卵を産み付けたという中国の神話より。
四条通にでると室町四条上がるの菊水鉾が見える。
逆光でよく見えないが「菊水」の扁額が上がる
例年ならこの榊に紙幣をつけさせてもらえるのだが、、、、
天皇坐の彭祖人形
菊慈童とよく同一視されるが、これは酈縣山の山のしたたり(お菓子の名前にもなってるよ)、酒を勧めている感じなので彭祖というより菊慈童やろなあ。
こちらも引き綱を準備して
2本ならべる。
ああ!私も引きたい!!(残念)
お囃子方がスタンバイするといよいよ曳き初め
いつもはたくさんの人と一緒に曳くから楽ちんだが、今回は少人数、ちょっとたいへんそうである。
屋根の上の大工方も気合いを入れて、、
よ〜いよ〜いエンヤラヤ〜!
四条通の大海に船出してゆく菊水鉾
久しぶりのこの景色がいいなあ
こちらは四条通の月鉾さん
やはり引き手の数が少ないからか、なかなかうまくすすまない。
なんどもエンヤラヤ〜を繰り返すが車輪の調整が必要なようだ。
車方さんがんばる
そしてやっと動き出す月鉾
月鉾のお囃子
大工方
四条通にでるとすでに曳き初めを終えた函谷鉾がみえる
ここは「鉾の辻」だから
さらに東へ進もうとすると北から下がってきた月鉾と直角にぶつかる形になるので、月鉾が下がるまで待機
このあと長刀鉾の曳き初めの予定だが、あそこは人が多すぎるからスルー
でも三連発で曳き初め見られてよかった、やっぱり血が騒ぐ。
本来ならば、鉾立から見たかったが今年の曜日周りで仕事日だったので断念。後祭りはいけるかなあ。
さらに南下すると岩戸山
縄がらみは完成
このあたりにあった大きな町家が広い駐車場になっていた。鉾町の姿は時代とともに変わる。でも京都っ子がこの季節聞かずには通り過ぎられない祇園囃子は、これからもずっと続いていくだろう。
いよいよ週末は3年ぶりの前祭山鉾巡行だ!
東山山麓某所の月釜で七夕茶会掛釜 - 2022.07.12 Tue
雨上がりで蒸し暑いながら緑がきわだつ某お寺さんでの月釜、七夕の釜、掛けさせていただいた。
寄付で笹に短冊(花入れは某氏よりお手作りを拝領)五色
その2枚に
「飛流直下三千尺」
「疑是銀河落九天」
李白の七言絶句「望廬山瀑布」の後半、この謎解きは席の最後までお預け。
待合に耳盥にいれた梶の葉(うちの庭にわさわさ)
ほんとうは角盥(水をいれる)にしたかったのだけれど、なかなか見つからないのだ。ちなみに耳盥はお湯をいれる。

その盥の上には竹の三脚をたて、自在の釘をつるす。けれど釣る釜がない、、、、??と思っていただいたら大成功である。答えは本席で。
待合で食べていただくのは、索餅を模した形の求肥に爽やかな夏みかんジャムを使った和菓子。和菓子店・青洋さんにお願いして、試作を作ってもらい決定した誂え菓子である。(露打ち、水屋さんがきっちりしてくれた)
ちなみに索餅は中国から伝わった唐菓子で素麺の原型といわれ、起源となる神話があって云々、、、と席中で講釈をたれてみる(*^_^*)
さて、本席、数寄者の達人さんは「おお!こういうことか!」と席入りの時、水屋に聞こえるようにおっしゃる。これが数寄者の心得の見本(*^_^*)
待合の自在の先にあるはずの釜はこちらの軸に。白隠の遠羅天釜(おらでがま)画賛。
「おらで釜自在天までつり上げて雲の上にも茶をや煮るらむ」
雲の上で織り姫彦星もお茶してるかしらね〜の意味もこめて。
当代の諏訪蘇山さん、宗哲さんの姉妹コラボの瓜青磁水指は、、七夕にしか使えないけどお気に入りである。ちなみに瓜を縦割りしたために一年に一度しか天女に会えなくなった男の中国の神話もある。これは縦割りの瓜の形。
お点前はすべて自分でさせてもらった。(さすがに終わりかけには膝が、、、膝が、、、)
夏は暑くてあまりお茶をしないので、高麗茶碗の平茶碗が少なく、お皿みたいなのもひっかき集めて高麗ブラザーズでそろえたが、主茶碗は点てるのに超絶技巧を要する(ほんとはそれほどむつかしくない)ほぼ皿!の茶碗。むしろお客様の方が飲むのに超絶技巧を要するかも(^_^;
茶器は九州の南画家・田近竹邨遺愛の雲堂手であったが、ほとんどの方が知らないこの名前をご存じ方がおられてびっくりした。
最後に寄付の答え合わせは茶杓の銘が「瀧の音」(千家のややビッグネームの方のです)
「瀧」と「銀河」を言いたかっただけなんですが(^_^; ただこの李白の七言絶句、若い頃から大好きだったのでちょっと言ってみたかった。
暑い中にもお越しくださった月釜会員さん、招待状をお出ししたら喜んでおいでくださった茶友さん、一座建立ありがとうございました。
そしてなにより、バックをまかせて投球に専念できるピッチャーよろしく、全幅の信頼で任せて点前に集中させてもらえた、若き茶友の方々でもある秀逸水屋チームにも深く深く感謝です。
謡曲「砧」〜観世会館・片山定期能 - 2022.07.11 Mon
7月の片山定期能は「善知鳥(うとう)」と「砧」である。
善知鳥は何回か見たので、今回は茶事のテーマにも使っていながら実は通しで見たことがないという「砧」を。

砧というと私は李白の「子夜呉歌」、<長安一片の月 万古衣打声>がでてくるが、この漢詩も、この能もベースになっているのは同じ蘇武の伝承である。
前漢の官人・蘇武は匈奴へ使いにやられてそのままとらわれの身となり約20年間辛酸をなめる。国では妻がとらわれた蘇武の耳にも届け、と砧を打った音が聞こえたという。また彼が雁に結んだ文は国元に届いたという。この逸話が曲中に織り込まれている。
都へ所用で3年間、家をでたまま帰らない夫・蘆屋某(九州の芦屋)は郷に残した妻を心配して侍女・夕霧を送り年末には帰ると伝える。
田舎の寂しい一人暮らしに妻は、ふと里人の打つ砧の音に蘇武の逸話を思い出し、自分も砧を打ってみようと言う。本来ならば賤しい者のすること、と夕霧はたしなめるが、それでも心が晴れるなら、と砧を用意する。秋の景色、月の様など愛でながら打つ砧の音はただただ寂しい。そして東の方にいる夫の元へとこの音が届けとばかり祈るのである。
(月岡芳年 月百姿のうち「きぬたの月」)
ところが今年も帰れないの手紙が届き、悲しさと寂しさのあまり妻ははかなくなってしまう。(ここらへんの、悲しみのあまり死んでしまう、自死ではなくて、、というところが現代人にはよくわからない)
訃報を聞き帰ってきた夫は(帰れるやん、もっと早く帰ってやれよと突っ込む)梓弓(亡くなった人の霊魂を呼ぶ)をならし、亡霊となった妻に会う。このとき面は深井(中年の女)から泥眼(悪霊になりかけ)になり、自分はこの執心の心ゆえ地獄で獄卒に責めさいなまれていると言う。砧を打つと同じく夫の前で扇を打ち付け、なんでせめて夢でも帰ってこなかったのか、と責めるのである。(そらそうだ!都で遊んでたんやないのか〜とか)
夫が読経するとその功徳により(なぜか唐突に)成仏する、、、というお話。
ストーリーを書くと他の能と同じで身も蓋もないが、それをいろどる詞章がやはり美しい。
前半の静かな秋の景色を歌いながら砧打つ場面から後半は打って変わって激しく恨みを述べるところさえ、台詞が美しいのである。
例へつる蘇武は旅雁に文をつけ万里の南国に至りしも、、、
君いかなれば旅枕 夜寒の衣うつつとも(打つに掛ける)
夢ともせめてなど思ひ知らずやうらめしや
現代では単身赴任もあたりまえ、留守中けっこう羽を伸ばして亭主達者で留守がよいとのたまう奥方も多い時代、なかなか現代人には理解しがたいながら、ちょっとでも絶望的な寂しさを砧の音とともに感じられたらよいのではないかしら。
大沢池の夏 - 2022.07.10 Sun
時間ができるとふらっとでかける嵯峨野・大覚寺、嵯峨天皇の夢の跡。
大沢池を散策。

ちょっと前までは大沢池周辺は出入り自由だったんだけれどね、数年前の台風被害の後は資金集めのために有料化されてしまった。まあ、大覚寺の駐車場の料金の方が高いのだけれど(^_^;
月見のためだけに作った人工の池である大沢池、今日は池でこんなお客さんを見つけてしまった。
今日は蓮が見えやしないかと期待して来たのだが、、、、
残念ながらちと早すぎたか?
大沢池の舟遊びをした過去の記憶では、蓮の葉の林、冬は枯れ蓮の林をかきわけて舟がすすんでいたのだが、今日は睡蓮ばかりで蓮の葉はほんとうに少ない。歴史的に、ここの蓮は繁殖したり、消えていったり栄枯盛衰があるようなのだが、今はダメなフェーズなのかな。
蓮はあきらめて広い境内を散策。
石仏にノカンゾウの花。
NHKの「京都人の密かな愉しみ Blue編」のエンドロールに流れた「北山杉」という歌にででくる石仏だと思うわ。
♪ あの頃ふたりは 大覚の古い石仏 触れたり見たり〜
ちなみに「北山杉」は私はリアルタイムで知っている。大学生の頃はやった歌だからかなりの懐メロ、そう、歌詞にでてくるダッフルコート、はやったんだよね〜あの頃。
蓮はあきらめたが、なんと思いがけず半夏生の群生にであう。
大沢池の畔に半夏生があるとは今まで知らなかった!
まあ、化粧してないときは半夏生と認識できないものね(^_^;
そういえばうちの半夏生、毎年化粧しないまま(白くならない)いつのまにかヤブミョウガに駆逐されて消えてしまったな。あれは勧修寺からもらったものであったが。
名古曽の瀧跡(なこそながれてなほきこえけれ、、、)の近くではネジバナを発見!これも雑草扱いされるけれど好きな花。京セラ美術館に建て直された後なくなったが、市美の北側によく咲いていたんだ、これ。
蓮は見られなかったが、色々な夏の花に会えたので、(鷺氏にも会えたし)まあ満足。向こうにみえるのは愛宕山かな、登る登るといいながら、いまだに行けてない目標(^_^;
祇園祭2022〜綾傘鉾稚児社参〜普通の小学生が神様のお使いになるまで - 2022.07.09 Sat
7日は綾傘鉾稚児社参の日。
朝もはよから役員の紋付き袴の着付け、お稚児さんのお父さんの着付けと裏方さんは忙しい。
初めてお稚児さんたちの化粧、着付けを見たが、ほんまに面白い。
普通の小学生がだんだん神様のお使いになってゆく。

八坂神社の常磐新殿にて、6人の綾傘鉾のお稚児さん、一人ずつ化粧開始。
白塗りがくすぐったかったり、最初もじもじしたりしていたのが、だんだんじっとできるようになっていく。
今年は3年間お待たせしていたお稚児さんたちなので、一番小さくても2年生、さすがである。例年はもっと平均年齢が低く、年中さんなんかだとぐずったり、こわがったり、多動だったり、たいへんなこともあるらしいが、今年はとてもスムーズに事がはこぶ。
下の衣をまとい袴を着ける。
上に水干をまとう。
汗もかくし、衣装は化繊かなと思っていたら正絹の装束なのね。ちょうど能装束みたいである。水干の構造、菊綴(きくつづれ・ポンポンみたいなの)、袖くくり(袖をしぼるためにとおしてある紐)を通してある所の布の始末など、ふむふむと勉強。疑問に思っていたところも理解した!
唇にも
まなじりにも紅を引く。
殿上眉をいれるともうすっかり普通の子供の面影はなく、神様のお使いになる覚悟。
鉾町と縁をむすぶ結納の儀、かための盃をへて、いよいよ八坂神社本殿にお参りである。
先回りして待つと南楼門から社参ご一行到着
お父さんと手をつないで6人のお稚児さんたち
本殿でお祓いをうけて(中にはないれないのでなにしてるか不明)いよいよ正式に神様のお使いになるのである。
ちなみにあとで本人達に何してた?と聞くも詳細わからず(^_^;
あとは本殿のまわりを三回お千度参り。ちょっと大人もやられそうな暑さの中、汗だくになりながらもしっかりお参りしてましたよ。
この調子でかなり長距離になる16日の巡行、がんばってね。
常磐新殿に帰還後は汗だくの着物脱がせたり、化粧おとしたり大騒ぎ、するとたちまち素になってやんちゃな小学生にもどるの、おもしろいわ〜(*^_^*)
あの白化粧ってやはり自分でない何かになっていく力があるのね。太古の黥や赤化粧みたいに、呪術的ななにか、とその力をまざまざと感じたのである。
祇園祭2022〜二階囃子コレクション - 2022.07.07 Thu
ご存じの方はよ〜くご存じだが、案外祇園祭といったら山鉾巡行だけ、と思っている方も多い。祇園祭は1日から31日まで一ヶ月、びっちりなんらかの行事がある長丁場のお祭りなのだ。
1〜5日までの楽しみは夜19〜20時あたりから鉾町で聞こえる二階囃子(巡行のお囃子の総稽古)である。仕事帰りに鉾町へ足を運ぶ。特に四条室町あたりは鉾の辻ともよばれ、ここに立っているとあちらからもこちらからも、遠く近くに祇園囃子が聞こえてくる。3年ぶりやな〜。
まずは四条通に面しているビルの中の会所。函谷鉾。
同じく四条通の月鉾
綾小路室町の鶏鉾さんはもう終わってはった。
新町通の会所が町家でとても雰囲気のある船鉾さん。
こういう夜は人通りの少ないところの二階囃子は特に風情があり、三々五々、近所の方やわざわざ見に来た(私もそれ)人の姿がちらほら見える。みんなひっそりと、久しぶりのお囃子を楽しんでいる。その姿もまた祇園祭の風景。
こちらは室町通りの菊水鉾さん
今年は茶席を開かれるのだろうか。毎年集めている菊割の色違いのお皿、そろそろまた集めたい。
お囃子には鉾独特のものもあるが、巡行出発の時の、帰る時の、、、など曲調が変わり、まだ全部理解し切れていない。
これは昼間だが吉符入りの日に聞いた長刀鉾のお囃子。
後祭りの山鉾も二階囃子はこの時期にされるので、六角新町の北観音山へ最後に駆けつけてみたが、ちょうど終わったところで、目の前で二階の電灯が消えた(^_^; 残念。
そして鉾町の通りを帰りを急ぐ囃子方さん。
お疲れ様!巡行の日が楽しみですね。
水無月雑記2022 - 2022.07.05 Tue
昨年我が家に来てきれいな花をたくさん咲かせてくれた蓮。一つは薄紅の花の鉢で、もう一鉢は葉っぱばかりで全然花をつけなかった。今年の桜の頃、掘りあげて蓮根をカットし、植え替えた2年目である。

昨年もよく咲いた方がはやくもつぼみをつけ、、、
ピンク色がのぞくようになり、、
6月中に開花!
この状態で夕方にはつぼんで、、、
翌朝に全開!
また次の花芽も育ってきているし、、、
そしてなんと!昨年葉っぱばかりで一つも花がつかなかったもう一つの鉢の花が初開花!しかも白ですよ!うれしい〜♪
梅田阪急で京都の繊維業界肝いりのイベントが。
「日本の染色1200年展」
この小袿の写真のポスターについ惹かれて。
実際の小袿を、至近距離で見られてうれしかった。どちらかといえば渋好みと思われる日本人だが、平安時代にはこんな多彩で美しい色彩をまとっていたのだな。
いくつかの古裂や復元された着物を拝見したが、この小袖はどこかで見たことがある。意匠帳だったかもしれない。東福門院和子が雁金屋(光琳乾山の実家)に注文した小袖の意匠を復刻したものである。なんてオサレなんだ!江戸の粋を宮中に持ち込んで見せつけているかのよう。莫大な財力をバックに(家光の妹)経済的に困窮する公家達に小袖配りまくって懐柔したとか、賢くて、センスが良くておしゃれ好きな女院を想像してしまうわ。
久々の洛中散歩(というか所用があったのだが)
こちらも久々に六角堂へお参りした。
桜の季節意外にはあまり来ることがないが、ここはあまりかわりなくてほっとする。
境内を吹き抜ける風が心地よく、ここがオフィスビル立ち並ぶ谷間だとは、とても思えない。
この庇の上の自転車が洛中のランドマークだった自転車屋さんが!某チェーンコーヒー店になっている(゚Д゚)!!しらんかった。洛中名物がまた消えた、、、
気を取り直して栖園さんへ。
6月のこととてまだ朝顔ののれんはでていなかった。
この日はわりと待たずに入れた。格子窓からみる外の景色が京都らしい。
月替わりのシロップでいただく名物琥珀流し、6月のシロップは梅酒だった。10年以上も前から毎月のシロップをコンプリートしようと思いつついまだにできていない。なぜか行きたくなる季節が決まっていて、毎年同じのばかり食べてるなあ。
久々の物欲の宴、京都アンティークフェアへ。
まだ二階には店が入らず、以前にはまだもどっていない印象。でも早くも中国語が飛び交うところだけは以前の風景がもどってきている。
目標を定めずふらふら〜と歩くのが気軽で良い。で、あちこちに仕掛けられた罠?にはまるのである。今回も昨年ひっかかった赤穂段通にひっかかってしまった(^_^;
と思ったら、翌日別の場所で違う赤穂段通罠?に(^_^;
以前中国茶をいただいた五条大橋畔の池半さん、その数件隣でオーナーが同じの一棟貸町家の鴨半さんにて赤穂段通展。以前されていたときに行くことができず、今回はねらって行く。
二階のすばらしい鴨川ビューの前に敷かれた赤穂段通は、めずらしいシルク製の三畳敷である。
赤穂段通は基本綿なので、シルクというのも珍しいし、文様も色も手触りもまるで別物。貴重品なので、ここでの展示が終わり次第赤穂の博物館へ嫁入りするとか。
こちらでオーナーのいれる和製紅茶をいただく。
この室礼で、この眺めでいただくお茶は格別である。
バタフライピーのpale blue(米津玄師?)寒天に柑橘ソースをかけて色の変化を楽しむ。赤穂段通の断片を生かすためにこんなコースターや小さいタペストリーも作っておられる赤穂段通六月さん。
で、二日連続段通お買い上げという財政危機の罠に落ちたのである(^_^;
まあ、いい。好きな物は手に入れたい。人生はもうあまり長いわけではない。
と、自分にいいわけしながらはたと気づいた、、、敷くところがもうない!
という自己撞着におちいったところで雑記おわりますね(^_^;
祇園祭2022〜吉符入り - 2022.07.03 Sun
夏越しが開けた途端の7月朔日、いよいよ一ヶ月の長きにわたる暑い熱い祇園祭がはじまる。
ここ2年、コロナで巡行はおやすみ、宵山もなし、の(昨年は鉾建てのみする山鉾あり)とても祇園祭とは言えない年が続いて、今年ようやく宵山、山鉾巡行が復活する。
とはいえ、神輿渡御は氏子町を練り歩かず、御旅所直行直帰、だったり、お迎え提灯もなかったり、まだ完全な姿ではないものの、それでも関係者のみならず、多くの人たちが待ち望んでいた祭りは始まる。

そして1日、吉符入り(きっぷいり)。
祇園祭最初の神事、これからの一月の祭りの無事遂行を、各山鉾の関係者が集まり、祈る行事。会食付きとか、船鉾のように、ご神体の神面改めがあったり、お囃子があったり、稚児人形のお披露目があったり、各町でいろいろ次第は異なるようだが、非公開なのでどんもんかな〜と思っていたが、今年綾傘鉾のお手伝いをすることになり、初めて吉符入りに混ぜてもらったのである。
(ちなみに長刀鉾ではこの日お稚児さんが八坂神社にお千度参りをする)
会所の大原神社に、八坂神社から神官が出張してこられ、式は始まる。神社なので拝むお社はすでにあるためこの神前で、祝詞、神饌献上、お祓いを受ける。ちなみに神饌は野菜(大根、茄子、人参)やスルメ、昆布、鰹節に塩、米、酒など。
ついで、各自それぞれ榊を奉納する。わたくしも初めて奉納。初めてなんで見よう見まねでなんとか(^_^; こうやって神事に参加すると祇園祭が神事だとの思いを強くする。すでに準備は2月頃から始まっていて、顔合わせ、打ち合わせなどはすんでいるのだが、こうして全員で集まってお祓いを受けると、いよいよ!と気持ちが引き締まるものなのだな。
もとより疫病退散の祈願で始まった祇園祭、こんどこそ疫病=コロナ退散といってほしいものである。帰りに撤饌として昆布いただいて帰った(*^_^*)
そして久々のこの景色!
鉾町の電線が黄色いカバーで覆われ、山鉾巡行仕様になっている景色を見るといつも祇園さんやなあと思うのである。
それにしてもこの体温超えのどうかしている暑さ、コロナもさることながら熱中症にならぬよう、気をつけて、無事31日まで駆け抜けましょう。
<おまけ>
祇園さんの頃のみ行く(^_^;のがここ。
岩戸山の鉾町にあるThe terminal Kyotoのカフェ。
この新町通は船鉾や、岩戸山、四条を上に上がれば後祭りの南北観音山などが並ぶ鉾通りなのだ。
町家の庭を眺めながらモーニングいただく。この一月体力勝負〜(^-^)/
夏越大祓〜上賀茂神社2022 - 2022.07.01 Fri
6月30日あちこちの神社で夏越祓が行われる。体温超えというどうかしてる暑さにも負けず、1日で茅の輪くぐり4カ所という快挙?をなしとげたが、その最後を飾ったのが上賀茂神社、5年ぶりの夏越大祓である。

猛暑にもかかわらず、また決してアクセスがいいとは言いがたいのに、たくさんお参りだ。早速儀礼にのっとって茅の輪くぐり、例のあやしい歌(♪水無月の夏越の祓するひとは、、、)を心に念じつつ。(吉田神社では大勢でこれ歌いながらぞろぞろを茅の輪くぐりをするというすごくアヤシイ大祓されるのだが、今年も中止であった)
大祓で御手洗川に流される人形(ひとがた)に、半年分のケガレを移して納める。名前と数え年を書くのだが、数えいくつだっけ???こんなとこでサバ読んじゃだめよ(^_^;
かぜそよぐ ならの小川の夕暮れは 禊ぎぞ夏のしるしなりける (藤原家隆)
、、、の世界が息づく。5年前に来た時には、はさんである紙が三角だと認識していたのだが、どうやら四角い紙の両端がたれて丸まって三角に見えたもよう。
20時行事が始まる前にご神火からきりとられた火で護摩木に点火。そうでなくても体温超えで汗だらだらなのに、この火がまた暑い熱い。少しでも和らぐように扇子持参して正解。
護摩木は納められた分だけ大量にあるので、次から次へとくべられる。
水に映る火が美しい。
夏の景色
浄化の炎は夏に見ても(暑いのをのぞけば)よいものだな。松明フェチなもので(^_^;
延喜式のころから行われていた夏越祓だが、本来6月だけでなく12月の晦日にも大祓は行われていたという。1000年も昔の情景を思い描く。
ちなみに茅の輪くぐりは比較的新しく、江戸時代からでは、、とのことである。
そうこうするうちに神主さんご一行が、雅楽師さんをひきつれて橋殿にご到着。
まずは「禊ぎぞ夏のしるしなりける」の歌を詠唱。
そして行事のハイライト、人形流しだ。
中臣の祓えの祝詞をBGMに、いったいどれだけあるだろうという大量の人形を指ではじいて流していく。東大寺修二会でも大中臣祓という練行衆が祝詞をあげるという神仏習合的儀式があるのだが、もともと中臣祓は夏越祓(と年越祓)用の祝詞やったんやね。
人形は次々と流れて行く。
(どこらへんで回収しはるんやろ?)
流れが速いので、うまくシャッターに捉えきれない。
そのうちのいくつかは幣の棒にひっかかる。
人形がおわれば、贖物(あがもの)の木綿と麻を裂いて裂いて、水に流す。これもケガレを切って捨てるという意味だろうか。
おもふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓えつるかな (和泉式部)
水無月と皆尽きを掛けてあるのが憎いね。
雅楽の音とともに神職ご一同退席される。
上賀茂の夜は暗い。
こんな儀式でもないことには夜来ることはなかろう。
さて、上半年のケガレは祓いまくったし、新たな気持ちで残り半年、無事過ごせますように。その前にこの暑さにやられませんように〜。