初秋の大原〜river-side cafe来麟から寂光院 - 2022.09.06 Tue

車で30分もかからない山里が大原である。久々に訪れてみたら、里にはもう秋の気配。稲穂も色づく頃となった。
来て早々お腹を満たすというのもナンだが、こちらも久しぶりの大原のriver-side cafe 来麟(キリン)さんへ直行。すこしランチ時間をずらしたのですぐ入店できたが、この時期観光客が少ないのに店内はほぼ満席、人気なのだ。
野菜ソムリエのマスターが作る大原の野菜メインのバイキングである。あれこれお野菜メニューがてんこ盛りで、目が移るし胃袋のキャパは一定だし、、、で迷う。しかしピーマンの肉詰めのピーマンって生だよ、生。それでも甘さがほんのりで美味しいのは新鮮だからかな。
あとお楽しみはこのミニミニおにぎりなんである。特に紫蘇のゆかりの、美味しい。大原だけに紫蘇か?(^_^;
最近まで烏丸三条のところにあった、お気に入りだった李朝韓屋風カフェ・素夢子古茶屋さんが、大原にまもなく移転オープンされるとのことで、どこらへんかな〜と思っていたらなんと!来麟さんの目の前だった!
画像では見えないけど「somusi」の看板がすでについている。これは大原へ来る楽しみがまた増えた。
river-sideという名前の通り、清流のすぐそばにあるのだが、この川を渡って<大原女の小径>を、こちらも久しぶりの寂光院まで約1kmのウォーキングをしよう。
薪がたくさん積み重ねられ、早くも冬支度のお家もあり。
そして大原と言えば赤紫蘇〜柴漬けなのである。赤紫蘇もそろそろ収穫の時期なんだな。
こうしてみると市街地まで30分というのがウソのような景色だ。里山大原の名前をさらにメジャーにしたのがNHKのベニシアさんの番組だったと思う。大原といえば寂光院、三千院くらいの認識しかなかったけれど、こんな豊かな里山の風景が広がっていて、心豊かな暮らし方があることを教えてもらったような気がする。
寂光院が近くなるとさすがに建礼門院ゆかりといわれるスポットが散在。これは湧き出る清水で建礼門院が姿を映したといわれている。真偽のほどは別として、この大原も山の水が豊かだ。あちこちにちょろちょろ小川が流れる。
おお〜!なつかしい寂光院門前。おそらく10年ぶり!
記憶も定かではないが、とにかく今の季節秋海棠が境内のあちこちに群生していて美しかったことは覚えている。あの秋海棠にまた会えるだろうか。
ご存じのとおり、ここの本堂は平成12年(22年前?)に放火による火災でお堂も鎌倉時代のご本尊の地蔵尊も焼けてしまった。(やけこげながらご本尊はお蔵に安置されているとか)犯人はわからぬまま時効を迎えたという。当時は京都にいなかったが、ニュースを聞いて驚いた記憶はある。
本堂の前には紅白のサルスベリ。そして、、、
あちこちに小さい秋海棠の群れ。以前は大きな野生のまま生えました、、みたいな茂みがあちこちにあったと記憶するが、現在はずいぶんきれいにコンパクトにまとめられている。
水辺にかかる秋海棠も美しい。
実は我が家の裏庭にも秋海棠が、それこそ野放図に生えているのだが、夏の暑さにいつも葉っぱが溶けちゃう。さすがにここの気候では大丈夫なのだな。
本堂には焼かれたあと復刻された地蔵尊が、できた当時のまま極彩色でおわしますが、これは前月まわった六地蔵めぐりのお地蔵さんの姿と通じるところが多い。お地蔵様の左手から流れる五色の糸にふれて願をかけるのだが、これも昨今のコロナのせいで薄紙ごしである。
脇には落飾した建礼門院とおそらく最後まで女院に使えた阿波内侍の座像、これも放火で焼けたものの復刻である。
10年前は楊貴妃観音像のお堂もあったと記憶するが、現在はないようである。建礼門院が住まった庵のあとへ通じる道にはギボウシの花。
謡曲「大原御幸」を思い出す。ここで、父清盛、壇ノ浦で滅亡した平家一門、とりわけ亡き先の天皇であり息子でもある安徳幼帝(享年5歳)の菩提をひっそり弔っていたのだろう。女院が落飾したのは時に29歳、ちょっと想像がつかないな。その若さで栄華の頂点も地獄も通り過ぎてきたなんて。
庵跡の一角にある井戸(湧き水?)
高倉天皇后としての陵はこのすぐとなりにあるが、建礼門院の最後ははっきりしないそうである。ふたたび洛中にもどって案外長生きをして生涯を終えたという説もあるが、ここでひっそりと若くして亡くなった、、、というイメージがあるわ、どうしても。
山門前に茶室があって、その腰掛け待合が割り腰掛けになっている所を見ると茶室は藪内流かしら。
朝の雨を柴折り戸の屋根のしのぶが吸って、ぽたぽた滴をたらす。その向こうは早くも紅葉がはじまっている。
帰り道もススキやコスモス、秋の野花を楽しんだり、
ちょっと面白そうな骨董屋をのぞいたり、、
大原の里の秋を楽しんだのである。