「柳宗悦と京都〜民藝のルーツを訪ねる」 - 2019.01.10 Thu
世の中にはこんな偶然もあるのかと、思った。たまたまある宴会でおとなりにすわった方と、やけに話があうので驚いたが、なかでも柳宗悦とか民藝とか、李朝陶磁の浅川兄弟とか、、、ちょっと私的にド・ストライクなんですけど、、、、の話に発展したのである。そして後日送っていただいたのがでたばかりのこの本であった。

柳をはじめて知ったのは10年くらい前、大阪日本民藝館での「茶と美」展であった。それから主に柳と茶道に関する本、表題の「茶と美」をはじめ読みあさり、民藝を知り、ひいては李朝陶磁の美しさへ柳を開眼させた浅川兄弟を知り、(浅川巧さんの墓参りに遠くソウルまで行ったという、、、(^_^;)それが現在の李朝好き、高麗茶碗好きにつながっているのだから、私もかなり彼の影響を受けていると言っていい。
私はどちらかというと、民藝そのものより、柳と茶の湯の関わり方に一番興味がある。彼は茶の湯そのものには惹かれこそすれ否定しているわけではなく、当時の(現在も、だが)茶道のあり方についてはかなり強く批判してしている。それによって茶人のあいだでも賛否両論ある人なんだが。
民藝というと、東京での活動のイメージが強いのだが、柳は関東大震災のあと、大正13年から昭和8年までの約9年間、京都に住んでいたことは意外と知られていない。この時築いた人脈がのちに「民藝」として結実するもとになった、という柳・民藝と京都との関わりに特にスポットをあてた本である。
私も、柳が住んでいた吉田にある家(わりとご近所)が売りにだされた、というニュースが数年前、京都新聞に載って、え?柳って京都に住んでたの?と驚いたくらいの認識であった。
第一章は日本民芸館学芸部長・杉山享司氏による柳のバイオグラフィー的な章。
濱田庄司を介して河井寛次郎との出会い、黒田辰秋らと作った上賀茂民藝協団、最初で最後の「日本民藝品展覧会」、雑誌「工藝」の刊行など、すべて京都時代のことだったとは驚きである。
第二章は同志社大学文学部講師・土田眞紀氏による柳と同志社との関わりや、当時生まれたばかりの民藝を惜しみなく支援した京都人脈について。特に印象的なのが当時の毎日新聞京都支局長の岩井武俊の存在。自らも考古学者であり、学界、宗教界、政財界、広い分野で尊敬され影響力をもった人であるが、彼の初期民藝へのつよいプッシュなくして、民藝はここまで育たなかったのではないかと思う。
第三章は河井寛次郎の孫にして寛次郎記念館学芸員の鷺 珠江氏による柳と寛次郎の出会いと家族ぐるみの付き合いの思い出など。最初はお互いに反目していた二人だが、はじめて寛次郎が柳の家を訪ねた時、柳邸にあった木喰仏を前にして言葉も出せぬくらい感動し、以後意気投合して生涯分かちがたい民藝の同志となったエピソードは有名である。5年ほど前、鷺さんを囲んで寛次郎記念館で寛次郎の茶碗でお茶を楽しむという会があったのを思い出す。
第四章は私もときどきのぞきに行くしかまファインアーツのオーナーであり、京都民藝協会理事の四釜尚人氏による「京都民藝散歩」。柳ゆかりの京都の店や土地を写真付きで。実はこの章が一番面白かった。十二段屋とか進々堂京大北門前店とか鍵善とか、有名なところもあるが、え?ここも民藝ゆかり?柳ゆかり?とびっくりする場所もあって、興味深い。ご近所の和菓子屋・平安殿の扁額が富本憲吉だったとは。また、若者に人気のカフェアンデパンダンのある1928ビルが岩井武俊活躍したところの毎日新聞社京都支局の建物であったとは、これも彼を知った後に聞くと味わい深いなあ。
(柳宗悦展にて 点茶心指 読めば読むほど、特に下の段、ドキッとする)
かくの如く人脈的に京都は柳にとって貴重な場所であったことはマチガイないが、歴史と景観のつまった京都という町は彼にとって、どうだっただろう。この人脈があれば別に京都でなくても他の都市でもよかったのではないかと思わせるそっけなさである。彼自身も「京都は美しい都市だ。場所としては日本中他に比べる所はないと思ふ。併し過去の町であるだけに、物足りない所も多い。」と書いている。結局合わなかったのではないかと思わせる。だから9年ちょっとで見切りをつけて東京へ戻っていったのかも。そこらへんがちょっと残念でもあり納得できるところでもある。
(この本をお送り下さった方と出会えたことに感謝)
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