「疫病(えやみ)と仏教」〜袋中上人〜だんのう法林寺 - 2020.06.04 Thu

コロナでお籠もり中はいろんなオンライン講座が楽しめたようだが、私も奈良ほどく舎主催、薬師寺・高次喜勝師の講座「疫病(えやみ)と仏教」という講座で勉強した。
オンラインのいいところは、どんな自堕落な格好をしててもいいのと、好きなように飲み食いしながらできることである。で、奈良のお酒「春鹿」のアマビエ様バージョンを入手し、これをちびちびやりながら(^.^) (ちなみにこのお酒の収益の一部は国立国際医療研究センターへ寄付される)
疫病は、歴史的にもくりかえし長く人々を苦しめてきたのだが、今われわれが苦しめられている新型コロナもその一つ。違うのはかつて鬼などになぞらえられてきた疫病の正体写真(電顕写真)を手にいれられていること。正体がわからずただ恐ろしい物としてこわがるより、鬼の形をもたせて恐れる方が耐えやすいのは確か。ましてや現代はあの丸くてトゲトゲの写真をみて、「コノヤロ〜!」と怒ってガス抜きができる。
高次師(月刊「ならら」にコラムも書いておられるよ)が現在一番興味をもっておられるのが袋中上人ということで、彼が京都に開いたお寺が壇王法林寺、と聞いてがぜん私も興味をもった。だんのうさん、と言われて京都の人がまず思うのは「ああ、だんのう保育園」かもしれない。
京阪利用者なら三条京阪駅の出口の前(高山彦九郎像のお向かい)にあるあのお寺、と思い出すだろう。
ちなみにこの絵は「袋中上人絵詞伝」のうち「疫鬼影現」、疫病の鬼が袋中に疫病に効く薬を渡している場面である。
(西門 コロナ閉門中)
袋中上人(1522〜1639)は現在のいわき市生まれ、浄土宗を修め、関ヶ原の戦いを機に仏法をさらに学ぼうと明へ渡ろうとされた。時に52歳という。ところが琉球までいったところで渡明できず、琉球で浄土宗の教えを広め、時の琉球王・尚寧王の深い帰依をうけた。
かの有名な沖縄エイサーは袋中上人がひろめた念仏踊りが起源という。これは知らなかった。いつもだんのうさんの前のバス停を利用しているのにそんなこともしらなかったなんて、、、
(お寺は閉門中だが保育園の子どもたちがいっぱい)
のちに日本に拉致された尚寧王が京都で袋中に再開した時、その肖像画を描いたものがこのお寺に残っている。
袋中上人は3年間を琉球ですごした後、慶長年間いわきに帰らず京都で壇王法林寺を開山する。
のちにここを弟子にまかせて東山五条にあった袋中庵を創建し、最後は京田辺の西方寺で88歳で入寂された。(袋中庵は現在右京区花園にあり山階御流の生け花の家元でもある)
その絵詞伝によると慶長年間、疫病がはやって多くの人が命を落とした。そんな中、当時いわきにおられた袋中上人のところに疫神があらわれた。
「どうしてお前は疫病で人を苦しめるのだ?」と上人が聞くと鬼は「我のせいにはあらず。人が悩むぞ。」と答えたという。
(修復中の本堂)
これはなかなか哲学的な答だ。
現在にたとえれば、ウイルスはべつに人を苦しめようと思っているわけではない。creatureとして生き残るための営みにすぎぬ。そこに人がいるからそれが疫病として発現してしまう。人が居るから伝染するというのは、このお籠もり生活で身にしみて理解した。
究極を言うと人がいなければ疫病は存在しないわけだ。鶏と卵みたいでどっちが先なんだろうというまさしく禅問答みたい。
答がみつけられぬままであるが、今回の講座では、そこが一番印象に残った。
南門
よくこの前でバスを待っております。
こんな見慣れた場所に袋中上人という方がおられて、どんな活動をされたのか、はじめて知ってやっぱり京都は深い、、の思いを強くしたのであった。(あ、奈良も深すぎるわよ)
(おまけ)
だんのうさんへ行かれるときは東隣の篠田屋さんへも是非。ここの皿盛はすごいボリュームで、庶民の味と昭和レトロな店内は感動します。
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