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2017-10

「八重の桜」展〜京都文化博物館 - 2013.08.23 Fri

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京都文化博物館で開催中の「八重の桜」展。

大河ドラマの「八重の桜」とリンクしているわけですが、前半は敗者=会津の方から見た維新を描いていてとても見応えがありました。会津藩がおのれの思いとは別にどんどんおいつめられていく様子があまりにも悲惨。(まるで太平洋戦争にどんどん追い詰められていった日清・日露以降の日本のようだ)


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今回の展示も八重の生涯というよりは、どちらかといえばあの動乱の時代背景に重きをおいたような印象です。

第1章は「会津の教え」
会津藩の「ご家訓(かきん)」。「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」藩祖・保科正之がさだめたものだが、これが将来会津藩をしばって進退窮まらせることになろうとは、思わなかっただろうなあ。

藩士の子弟教育の場の日新館も、ドラマにでてきていたがその図やオリジナルテキストもあって、「ならぬことはならぬのです。」など、江戸時代の精神的な教育はやはり背筋がとおってる、今の子に聞かせてやりたい、と思っちゃう。「明治維新は江戸の教育のたまもの、太平洋戦争は明治維新の失敗」ってだれが言った言葉だっけ。

松平容保の生活をしのばせる遺愛品もあって、能楽も愛した殿様らしく鼓や笛、扇、能面箱などをあしらった蒔絵の煙草盆がすばらしく見事。


第2章は「幕末の京都」
会津藩が京都守護職を拝命し黒谷さんに本陣を敷き、新撰組が守護職お預かりになり、孝明天皇がなみなみならぬ信頼を会津に寄せた時代の京都。
そして禁門の変、いわゆるどんど焼けで丸焼けになった京の町の絵図や資料。これは現在の地名になじみがあるので、ことに興味深い。
同志社社史資料センターに保管されている八重の兄、山本覚馬の「建白」(管見)も展示されていました。これは現在、同志社の建っている場所にあった薩摩藩藩邸で覚馬が幽閉されていたときに書いた物。


第3章 の「会津籠城」は涙無しでは見られません。
砲弾でぼこぼこにされてかたむいた会津城の大きなパネルをみると、ここに籠もって女も子供も戦ったと言うからどんな思いで、、、と胸がつまります。白虎隊の悲惨な最期は太平洋戦争の特攻で亡くなった若者のことを連想させる。罪状を一身にひきうけ切腹した家老・萱野権兵衛へ切腹当日宛てたとみられる容保の書状など、いかばかりの思いで綴り、また読まれたのでしょう。
明治にはいって書かれた会津藩戦死者名簿には八重の父、弟の名や、当時としてはめずらしく女性の名前ものっているのです。その名前一つ一つにそれぞれの人生、思いがあった。黒谷さんの会津藩殉難の碑にも同じ名前が刻まれているのでしょうか。

ここからがドラマでも始まったばかりの八重の京都時代、新しい時代の幕開けです。

第4章 古都復興 ー覚馬と襄ー  第5章 ハンサムウーマンへ
都を東京にもっていかれて面目を失い落ち込む京都に、新しい近代都市をつくりあげようとした人々の営みとその資料など。
近代化を牽引したのちの京都府知事である槇村正直、その懐刀となった八重の兄、覚馬。そして槇村を介してアメリカから帰国した新島襄と八重の結婚。
彼ら他多くの人々の英知によって、京都は死んだ「旧都」にはならなかったのね。槇村の次の北国府知事もよく琵琶湖疏水を作ったも作ったり!やんややんや\(^O^)/ 今もその血を受け継いで京都は進化しつつ雅な情景をわすれない町であってほしい。

やっと、八重さんの話にたどりつきました。ふ〜。
同志社を設立せんと奔走する襄の隣に八重はよりそっていたし、襄なきあとは日本赤十字社の正社員となって従軍したばかりでなく、看護婦の地位向上のために尽くすなど日本のナイチンゲール的活躍もしたのです。そして裏千家・圓能斎のもと茶道を学び、その他のすべての物を投げ捨てて、茶道の先生になった、というのもあまりにも有名な話。(え?裏千家関係者中だけ?)

ここで展示されているのは、圓能斎からの円真、円草の許状(以前茶道資料館で見た)など、ですがたくさんあったはずの八重の茶道具はほとんど散逸し、いまでは南蛮抱桶水指、自作の茶杓「㐂」、長楽の赤楽茶碗「壽」のみで、この3点が展示されています。少しさびしいような気もしますが、彼女は遺品で偲ぶ人ではなく、その生き様で偲ぶべき人なので、それも彼女らしくていいではありませんか。
これらの道具は保存するより、使ってこそという高配にて、いまでも同志社茶道部で使われているそうです。

新島襄が留学時代の恩人である、ハーディ夫人に送った手紙の一節。

「of coures she is not handsome at all, but what I know of her is that she is a person who does handsome.」

彼女は美人ではないけれど、彼女の立ち振る舞い、行い、がハンサムなのだ。

これが「ハンサムウーマン」の語源らしい。出会って、結婚するまでの手紙らしいので、この時点で八重さんはすでにハンサムな男前な人だったのだ。それは会津でのあの勝ち目のない戦を戦い抜き、戦後敗戦組であっても背筋を伸ばして生きてきた、そんな歴史が彼女をハンサムにしたてあげたのだろう。


展示の最後に大きなパネルがあって、昭和3年黒谷に集まった人々集合写真になっている。昭和天皇の弟・秩父宮に松平容保の孫、勢津子が嫁いだ記念写真。「逆賊」「朝敵」であった容保公の孫の入輿は、旧会津藩士の気持ちをどれだけ高ぶらせただろう。想像にかたくない。容保の嗣子・容大、勢津子妃殿下の父(容保の六男)はほんによく見る容保公の写真に似てる。山川大蔵の弟で東大・京大の総長をつとめた健次郎の姿もあり、最前列に、ちょこんと座っている八重の姿が。このとき御年82歳。

京都でハンサムウーマンの本領を発揮し、活躍した八重だけれど、その心はいつまでも会津と共にあった、、、というキャプションにおもわず泣きました。


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● COMMENT ●

会津藩は、藩祖保科正之の遺訓を守るホントに律義な大名でしたね。京都近辺には、尾張,紀州、彦根等の大藩が存在しているのに、遥か離れた東北から厄介な京都守護職を引き受けさせられ、最後には、朝敵となって、多くの犠牲を出してしまいました。
 その中でも、旧朝敵の山本覚馬や新島八重は、京都で女紅場や療病院(京都府立医大の前身)、同志社等の創立に尽力し京都が学生の町となる基礎を打ち立てのは見事です。
 遠く離れた会津と京都が幕末騒乱時代だけでなく、明治維新の京都とも深く関わっている事を
改めて認識させられました。
 

narahimuro様

いままでの大河ドラマや映画小説は倒幕側からのがほとんどでしたものね。かろうじて新撰組が佐幕側でしたかね。
白虎隊の悲劇はしっていてもその背景は知らなかったし、会津戦争があのように悲惨なものだったとは、ましてやその後の斗南藩のことなんか全くしらなかった。勉強になりました。また違った気持ちで黒谷さんの会津藩殉難の碑に手を合わせられそうです。

1回生の時は同志社のすぐ近くのアパート住まいだったのに、八重さんの事は全然知りませんでした。
幕末は京都での事件や、会津での戦いも白虎隊は小説や映画やドラマで取り上げられていたけれど、女子供までお城に籠って戦っていたことは全く知りませんでした。

夢風庵様

たぶん数年前までは八重さんのことを知っている人はすごく少なかったと思う。某国営放送の歴史番組かなんかでとりあげられてから、有名になったみたい。それも新島襄の妻として、だったから八重さん本人にスポットがあたったのは「八重の桜」以降でしょう。いや、すごい女性がまだまだ歴史の中にうもれているのでしょうねえ。

「清盛」に引き続き、今年の大河もしっかり見ています。戦国と維新の時代は繰返しのテーマですが、会津側から描かれるのは初めてで大いに勉強になります。八重さんは本当に素敵で、綾瀬はるかもピッタリですね。それにしても尚之助が最後まで良い人で出ているので、出身地の豊岡としては喜んでいます。別れのシーンでは、ちょっとうるうるでした。
ところで先日、出石に行ったら何と、川崎尚之助顕彰の碑なんて突然できていて、去年までは誰も知らない人だったので、なんだこれ!って感じ。でもまあ、会津との交流も始まってるようだし、良しとしましょうか。

そらいろつばめ様

尚之助さんは出石藩出身ということなので、あのあたりだな〜と思っておりました。ええ?!顕彰碑までできているんですか?おそるべしNHK!そういえば夢千代さんなんて実在の人物じゃないのに湯村温泉に銅像たってましたね〜(^-^)
ドラマではうまくまとめていましたが、ほんとうのところどうだったんでしょう、八重さんと離婚した理由とは。昨日の回では、回想シーンに佐久間象山の塾時代の彼がでてきていて、なんだかじ〜んとしました。尚之助さんにくらべたら(ドラマの)襄さんはちょっと軽いかな〜、、、

尚之助は地元でも誰も知らなかったのですが、最近やっと詳細な足跡が判明したようです。地味な人を通して知る歴史もいいですね。
豊岡市ではHPも作っているし、尚之助ー八重ー綾瀬はるかーホタルノヒカリと来て、豊岡市の依頼で漫画家のひうらさとるさんが似顔絵を描いています。それが長谷川博己そのものなの。
ところで大河といえば、室町時代が知りたくて20年前の「太平記」を借りてきました。何とお茶の歴史では有名な金沢貞顕が最初から出てるんですね。「最近は鎌倉でも唐物が流行しているので買ってくるように」と都にいる息子に書き送った、あの有名な手紙の主です。配役は児玉清。ちょうど新安沖沈船の時代なので、本当に沢山の唐物が輸入されていたのでしょうね。太平記ではお茶を飲むシーンはまだないけれど、鎌倉武士はこんな住居でこんな服装で、天目でお茶を飲んでいたのかと想像すると興味は尽きません。

そらいろつばめ様

ほんまや!尚之助さんのHPできてる!すごいなあ。

金沢貞顕って茶歴史では有名なんですか?私は浅学にして全然しらないよ〜。「太平記」も見てたはずなんだけどなあ、、、全然記憶になし!清盛では青磁の天目茶碗に天目台がでて、あんなふうに飲んでいたのかどうか話題になってましたが、(四頭茶会に似てましたね)室町とのはざまで鎌倉時代ってよくわからないです。


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