壺阪寺〜霊験記って明治の浄瑠璃だった! - 2022.06.22 Wed
京都から車で2時間弱、鶯の声も聞こえるここは別天地の山の中である。
「壺坂霊験記」って名前からして平安か鎌倉の絵巻物だとてっきり思っていた。「枕草子」にも「寺は壺阪、笠置、法輪」とあるし。ところがこれって明治時代に書かれた浄瑠璃だったのね〜!びっくり。

かくして壺阪寺へはるばるやってきたのである。
なんなんだ、このちょっと異国風の仏像の数々は、、、と思ったらこれは平成の時代、インドからやってきた大仏さんなのだそうだ。
境内は紫陽花の鉢植えや地植えのが今を盛りである。
寺としての起源は古く、奈良時代の元興寺の上人が建てたという。枕草子に書かれているごとく、長谷寺の観音様と同じくらいの信仰を集めたという。その後戦国時代に荒廃、慶長になって豊臣秀長の家臣で高取城主・本多俊政の尽力により復興したという。
寺にはあちこちにインドから渡来したらしき異国風の建築物やモニュメントがあるのだが、これは当寺が行っているインドのハンセン氏病救済活動の交流から生まれた物らしい。なんと明日香もぶっちぎり、ほとんど吉野に近いこんな所で異国のインドと出会うとは!
重要文化財クラスの建物の中に異国趣味の物もまざって一種独特の雰囲気があるね。
右手の上にみえるのがその重要文化財の三重塔である。手前のはおどろくなかれ平成にできた多宝塔。
いや、景色にすっかり溶け込んでるので、古い建物かと思ったくらいしっくり。
さて、「壺坂霊験記」の話だが、盲目の座頭・沢市と女房お里の、お互いを思うあまりのすれ違い悲劇なのだが、そこは壺阪の観音様の霊験により救われるというお話である。
「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ、、、」というかの有名な浪花節のフレーズは、このはなしだったのか〜。ええ年しとるけど、世の中まだまだ知らん事が多いわ。
見事な懸崖作りだが、おそらくこれも平成になってのものと思われる。
ちなみにお寺のパンフレットにはこの天竺渡来の大仏さんが未だできていない写真が載っていて、こんなんだったんか〜と想像できる。
紫陽花は鉢植えも良いが、やはり地植えの紫陽花の小径の方が楽しい。
いよいよ重要文化財の三重塔、なんと室町時代の再建なのだ。お向かいの、同じ重要文化財の礼堂も室町時代の建築だが、江戸時代に大改修がはいっているそうだ。(その後昭和に室町時代の形式に復活されたとか)
室町(1497年)の建物と思うとよくぞ残ってくれたと思う。(あ、奈良市内のもっと古いのを何度も見てたっけ(^_^;)
本堂の八角円堂は江戸時代の再建。
入り口に鎌倉時代の不動明王像あり、ご本尊はふっくらとした十一面千手観音さま。平安時代作と伝わる。八角堂は外回りをぐるりと歩く。
葛城の町が一望にでき、野鳥の声もかまびすしく、緑も深い景色が楽しめた。
眼病に御利益があるそうで、奈良時代の元正女帝(即位前は氷高皇女、聖武天皇の伯母 美貌の女帝といわれる)が眼病平癒祈願されたといわれる。そんな歴史の上に沢市・お里の壺坂霊験記はできたのだろうね。
振り返ると緑が雨にあらわれてしっとり美しい。
地植えの紫陽花はまだ少し早いようだ。
鉢植えの紫陽花にもおいとまを。
あら、入り口の横で外猫らしい二匹が中へ入れてくれ〜アピール。残念ながら閉め出され、八つ当たりでケンカ中(^_^; こんな山のなかにも猫はいる。
帰り薔薇で有名なおふさ(小房)観音にも行きたかったがタイムアウトであきらめた。
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