「英一蝶『仏涅槃図』にみる冬木屋上田家の周縁」〜茶の湯文化学会近畿例会 - 2022.09.04 Sun

本日はこんなところに潜り込む。(同志社大キャンパス)大学の講義室にて久々の学生気分♪
茶の湯文化学会の近畿例会にて、宮武慶之先生の研究テーマである冬木屋上田家にまつわる話の一つ、英一蝶の「仏涅槃図」に描かれた<在家の女性と供花をする童女はだれなのか?>というミステリー仕立て(?)
冬木屋(上田家)といえば茶道史をされている方には有名なのだろうが、私にはなんだかうっっすら、、聞いたことあるようなないような、、名前であった。江戸深川の材木豪商で、千利休遺偈を持っていた(発見した?)お家である。後に如心斎に乞われて千家名物いくつかと交換でこれを千家に返した、というのが有名な話らしい。
初代小平次が上野国から出てきて江戸に店をおこし、明暦の大火後の建築ラッシュで財をなし、三代目弥平次の頃最盛期を迎える。彼は深川の土地を材木置き場として幕府から買い取り、今でも深川冬木町として地名に残っているそうだ。
彼は茶の湯を表千家五代随流斎に学び、油屋肩衝、園城寺花入などを次々購入し、破産して京都を追われた尾形光琳を援助した。光琳は現在東京国立博物館にある重要文化財いわゆる「冬木小袖」といわれる、着物地に秋草の絵を描いたものを三代目の妻<だん>のために制作した。
前置きが長くなったが、この三代目弥平次が「仏涅槃図」を英一蝶に描かせて、京都の雲林院に寄進せよと遺命を残して亡くなり、弟の四代目喜平次はそれを実現した、という話から始まる。冬木屋にまつわる古文書、家の記録などを丹念に読み取っていく作業は歴史学者のお仕事なのだろうが、ほんまに根気がいる仕事だなあとあきれ、、いや、感心する(^_^;
この涅槃図は軸装も入れて、480cmx210cmという巨大なもので、現在は孤篷庵の本堂になっている(!これも驚きだ)当時の雲林院の庫裡書院の天井高にはおさまらないのである。(移築の時に高さを削ったのかもしれない説あり)残念ながら日本から流出して現在はボストン美術館所蔵、2017年に一時里帰りをしていたそうだ。
絵柄は色彩豊かな涅槃図のよくあるパターンなのだが、涅槃の右に在家の女性が慟哭する姿、その前方に花を供える童女が描かれている。この軸の軸先が江戸中期の装剣金工家であった横谷宗珉の作であり、当時英一蝶、宗珉は冬木屋初代小平次と茶の湯でも日常生活でも深い交流があったことが史料からうかがえるのだそうだ。つまり一蝶は冬木屋の人々もよく知っていたと想像できる。宗珉もその妹(もしくは姉)が冬木屋二代目の後妻<てう>である。
三代目は37歳で自分が亡くなる同じ年に5歳の娘<てる>を亡くしている。その供養に涅槃図を一蝶に依頼したが、自分もはかなくなってしまったので、四代目に遺命として残した。娘と夫を悼む妻<だん>(冬木小袖の人)の思いをくんで日頃親しくしていた一蝶がその姿と亡き娘の姿を涅槃図に描き込んだのではないか、と宮武先生は推察される。
こうして読み解くと、数百年も昔、元禄時代に生きた人たちの姿が生き生きとよみがえるではないか。今も昔も家族を思い、その早世を悲しみ悼む気持ちはかわらないだろうなと思う。それにしても<だん>とか<てる>とか、とかく女性の名前はあまり伝えられなかった時代にちゃんと名前が記録されていることで、なにやらぐっと近しい存在に思えてくる。
最後になぜ江戸の材木商が京都の雲林院の檀越であったか、という疑問。冬木屋はこの涅槃図だけでなく、現在は九州国立博物館にある大燈国師墨跡「凩」も三代目が雲林院に寄贈している。宮武先生の考察では、大燈国師が雲林院の開山であったこと、三代目の妻女<だん>が京都の糸割符商人で茶の湯道具をたくさん所有していた坂本周斎の娘であったので、京都と縁があった、あるいは二代目が京都で客死したこととも関係があるのかもしれないということであった。
冬木屋は三代目をピークにその後だんだん衰退し、所蔵していた茶道具も売り払わねばならないほど逼迫した。その道具を松平不昧に取り次いだのが江戸の道具商・了我である。(了我研究も宮武先生はされている)このとき園城寺花入が不昧の手にわたったのである。
こういう道具にまつわるどちらかといえばマニアックな話って面白いわ。聞いててとても楽しかったし、今回は冬木屋上田家のことも勉強できて非常に満足している。
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