島原・角屋 - 2014.08.25 Mon
今年の京の夏の旅に久々に公開された島原の角屋さん。唯一現存する揚屋建築のすごい建物を探訪。

まずは島原の守護神たる島原住吉神社のご神木だった大銀杏。明治の廃仏毀釈の折り、神社株がないことを理由にとりこわされ、ご神木のみが残ったもの。お見逃しなく。

その後神社の再興の努力がなされるも、ついにこのご神木のところまでの土地が購入できず切り離された状態になっているのがちょっと悲しい。右手のビルの陰にちらっと銀杏のお姿が、、、
このあたりは前回「輪違屋糸里の壬生から島原をあるく」にもアップしました。

正面に角屋が見えてきました。島原エリアでは輪違屋も特別公開中ですが、こちらは今年節分お化けで遊ばせてもらったので今回はパス。(以前の記事をご参考ください)

で、前回行きそびれた角屋さん。なんと堂々たる総二階総格子の建築物!圧倒されるな、、、、

角屋自体の歴史は秀吉の時代まで遡るらしいけれど、その後移転、移転で現在の地におちついたのが1641年というから400年以上の歴史がある。
ちなみにみなさん、ご存じだろうけれど、角屋は揚屋(太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫などを派遣してもらい遊宴によりお客様を歓待するところ)。輪違屋は置屋(太夫などをかかえ教育するところ)。

浅田次郎の「輪違屋糸里」は芹沢鴨暗殺までのいきさつを女性たちの目から描いている名作。その中で島原一の太夫・輪違屋の音羽太夫が、この角屋の辻で意地を通して芹沢鴨に斬殺されるのが物語の端緒なのです。

角屋の蔓三蔦紋。
本来この暖簾は従業人入り口の内玄関にかけられるけれど、特別公開中につき表玄関へ。
角屋は揚屋としては明治5年まで営業した後、お茶屋に編入され現存の五花街とともに六花街とよばれたそうだ。けれど島原の立地の悪さ(このあたりはかつて田んぼの真ん中だった!)ゆえ、その地位は祗園にとってかわられ、ついに昭和60年、お茶屋としても廃業。
現在は「角屋もてなしの文化美術館」として、予約者に限り一部公開中。でも夏の旅期間は予約なしでOKよ。建物は昭和27年に重文に指定されたためにこわされずにすんだもよう。ほんとうによかった、この建築が残って。

揚屋建築の定義は、饗宴施設のため、大座敷に面した広庭、お茶席、客ふるまいのために、寺院の庫裏と同規模の台所を備えること。なのでここの一番の見所は大台所。敷地の半分くらいはしめているんじゃないかな。

大きなおくどさん。

流しは現役でつかわれています。ただし水道としてだけ。

流しの向こうには井戸もあります。

これは比較的新しい時代のおくどさんかな。

最盛期には、この広い台所で一体どれだけたくさんの人たちが立ち働いたのだろう。活気があった現役の頃を想像してみる。

台所を上がったところには床下収納もちゃんとある。

この角屋には江戸時代の当主が与謝蕪村を師として俳諧を嗜んだことから、その蕪村がここに残した「紅白梅図」の襖絵もあります(重要文化財)。他にも円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っているそう。

幕末に新撰組の面々がここで遊んだ、というのが私的には重要。敵対する倒幕派の久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士もここで密議を交わしたらしいから、まさに怒濤の時代をそのまま見てきた建物なのだなあ。

新撰組組長・芹沢鴨の最後の宴が催されたのがこの松の間、なんと43畳。(大正年間に焼失し、現在の広間は再建された物)新撰組ものでは悪逆非道の粗野な男として描かれがちだけれど、本当は水戸藩の良い家柄のおぼっちゃん、文武両道に秀でていたらしい。残念ながら、、、いわゆる酒乱。それがなければ新撰組の歴史も幕末の歴史も変わっていたかもしれない。

壬生の新撰組屯所であった八木家では彼の絶命した部屋をみることができるので、少し足を伸ばして是非。
ちなみにこれは松の間に面する庭。松の間命名の元となった臥龍松。(3代目)

庭にある曲木亭。その裏手に、揚屋建築のお約束の茶室、清隠斎茶席があるらしい。

朱の壁に青楓の緑が美しい。

松の間のから控えの間を見る。

欄間の透かしも手が込んでますよ。

磨き込まれた廊下。長年にわたる燈火の使用による煤と、足摺と、ぞうきんがけでこんな艶になったのだろうなあ。

これも公開中の網代の間、28畳。天井がこのようにへぎ板を網代に編んであることから。竿縁は丸太みたい。

坪庭は美しく見えるように角に支える柱がない。これは輪違屋でも見たけれど、柱無しに天井を支える構造があるそうだ。日本の伝統建築法、おそるべし!世界に誇っていいぞ。

ちなみにこの角の雨戸の桟はこうなっている。雨戸の一端が45度カットしてあるのかな。

さて、いまいちど台所に隣接する帳場などのある玄関の間に戻ってみよう。
見事な階段箪笥。

ひっそり、でも陽気にたたずむ守り神?の布袋さん。

来客用玄関の石は今はもう採れない賀茂川の真黒石。打ち水で濡れると黒々と美しい。

襖の引き手も凝っていて、紋である蔦を意匠化したものがあちこちに。

こちらも。
二階の扇の間も拝見したいけれど、こちらは非公開、残念。
角屋を堪能して辞す。
直ぐ近くにある元揚屋(ただし大正年間に改築されあまり揚屋建築の面影はない)、きんせ旅館にはカフェもあるので、暑い日にはのどを潤してみてはいかがでしょ?

残念ながらこの日はお休み〜。
せっかくなので先日来たときの写真残しておきます。


この日は36度の体温越えの頭クラクラする暑い日ながら、がんばってここまで来た甲斐がありました。これも島原の遺構、大門に見送られ帰路につきました。

まずは島原の守護神たる島原住吉神社のご神木だった大銀杏。明治の廃仏毀釈の折り、神社株がないことを理由にとりこわされ、ご神木のみが残ったもの。お見逃しなく。

その後神社の再興の努力がなされるも、ついにこのご神木のところまでの土地が購入できず切り離された状態になっているのがちょっと悲しい。右手のビルの陰にちらっと銀杏のお姿が、、、
このあたりは前回「輪違屋糸里の壬生から島原をあるく」にもアップしました。

正面に角屋が見えてきました。島原エリアでは輪違屋も特別公開中ですが、こちらは今年節分お化けで遊ばせてもらったので今回はパス。(以前の記事をご参考ください)

で、前回行きそびれた角屋さん。なんと堂々たる総二階総格子の建築物!圧倒されるな、、、、

角屋自体の歴史は秀吉の時代まで遡るらしいけれど、その後移転、移転で現在の地におちついたのが1641年というから400年以上の歴史がある。
ちなみにみなさん、ご存じだろうけれど、角屋は揚屋(太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫などを派遣してもらい遊宴によりお客様を歓待するところ)。輪違屋は置屋(太夫などをかかえ教育するところ)。

浅田次郎の「輪違屋糸里」は芹沢鴨暗殺までのいきさつを女性たちの目から描いている名作。その中で島原一の太夫・輪違屋の音羽太夫が、この角屋の辻で意地を通して芹沢鴨に斬殺されるのが物語の端緒なのです。

角屋の蔓三蔦紋。
本来この暖簾は従業人入り口の内玄関にかけられるけれど、特別公開中につき表玄関へ。
角屋は揚屋としては明治5年まで営業した後、お茶屋に編入され現存の五花街とともに六花街とよばれたそうだ。けれど島原の立地の悪さ(このあたりはかつて田んぼの真ん中だった!)ゆえ、その地位は祗園にとってかわられ、ついに昭和60年、お茶屋としても廃業。
現在は「角屋もてなしの文化美術館」として、予約者に限り一部公開中。でも夏の旅期間は予約なしでOKよ。建物は昭和27年に重文に指定されたためにこわされずにすんだもよう。ほんとうによかった、この建築が残って。

揚屋建築の定義は、饗宴施設のため、大座敷に面した広庭、お茶席、客ふるまいのために、寺院の庫裏と同規模の台所を備えること。なのでここの一番の見所は大台所。敷地の半分くらいはしめているんじゃないかな。

大きなおくどさん。

流しは現役でつかわれています。ただし水道としてだけ。

流しの向こうには井戸もあります。

これは比較的新しい時代のおくどさんかな。

最盛期には、この広い台所で一体どれだけたくさんの人たちが立ち働いたのだろう。活気があった現役の頃を想像してみる。

台所を上がったところには床下収納もちゃんとある。

この角屋には江戸時代の当主が与謝蕪村を師として俳諧を嗜んだことから、その蕪村がここに残した「紅白梅図」の襖絵もあります(重要文化財)。他にも円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っているそう。

幕末に新撰組の面々がここで遊んだ、というのが私的には重要。敵対する倒幕派の久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士もここで密議を交わしたらしいから、まさに怒濤の時代をそのまま見てきた建物なのだなあ。

新撰組組長・芹沢鴨の最後の宴が催されたのがこの松の間、なんと43畳。(大正年間に焼失し、現在の広間は再建された物)新撰組ものでは悪逆非道の粗野な男として描かれがちだけれど、本当は水戸藩の良い家柄のおぼっちゃん、文武両道に秀でていたらしい。残念ながら、、、いわゆる酒乱。それがなければ新撰組の歴史も幕末の歴史も変わっていたかもしれない。

壬生の新撰組屯所であった八木家では彼の絶命した部屋をみることができるので、少し足を伸ばして是非。
ちなみにこれは松の間に面する庭。松の間命名の元となった臥龍松。(3代目)

庭にある曲木亭。その裏手に、揚屋建築のお約束の茶室、清隠斎茶席があるらしい。

朱の壁に青楓の緑が美しい。

松の間のから控えの間を見る。

欄間の透かしも手が込んでますよ。

磨き込まれた廊下。長年にわたる燈火の使用による煤と、足摺と、ぞうきんがけでこんな艶になったのだろうなあ。

これも公開中の網代の間、28畳。天井がこのようにへぎ板を網代に編んであることから。竿縁は丸太みたい。

坪庭は美しく見えるように角に支える柱がない。これは輪違屋でも見たけれど、柱無しに天井を支える構造があるそうだ。日本の伝統建築法、おそるべし!世界に誇っていいぞ。

ちなみにこの角の雨戸の桟はこうなっている。雨戸の一端が45度カットしてあるのかな。

さて、いまいちど台所に隣接する帳場などのある玄関の間に戻ってみよう。
見事な階段箪笥。

ひっそり、でも陽気にたたずむ守り神?の布袋さん。

来客用玄関の石は今はもう採れない賀茂川の真黒石。打ち水で濡れると黒々と美しい。

襖の引き手も凝っていて、紋である蔦を意匠化したものがあちこちに。

こちらも。
二階の扇の間も拝見したいけれど、こちらは非公開、残念。
角屋を堪能して辞す。
直ぐ近くにある元揚屋(ただし大正年間に改築されあまり揚屋建築の面影はない)、きんせ旅館にはカフェもあるので、暑い日にはのどを潤してみてはいかがでしょ?

残念ながらこの日はお休み〜。
せっかくなので先日来たときの写真残しておきます。


この日は36度の体温越えの頭クラクラする暑い日ながら、がんばってここまで来た甲斐がありました。これも島原の遺構、大門に見送られ帰路につきました。
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