大西清右衛門美術館〜十代浄雪と奥平了保 - 2014.09.16 Tue

「天空の城ラピュタ」のロボット兵の顔、、、、ぢゃありませんよ(^_^;
大西家十代浄雪の二口釜。一方で茶のための湯をわかし、一方でお酒の燗をつける、、、というような使い方をされたそうです。乙だね〜。

野村美術館と泉屋博古館とここ大西清右衛門美術館の三館コラボで釜祭♪です。
先日は野村にいったので本日は大西へ。(一ヶ所まわると残りの二館料金割引!)

町名も「釜座(かまんざ)」。通りの名で言わないと京都人でもどこかわからない洛中の町名のうち、数少ない町名でわかる場所ではなかろうか。
室町までは釜といえば福岡の芦屋、栃木の天明だったのが、安土桃山・利休の頃に大きく台頭したのが三条釜座の京釜師たち。座というのはギルドみたいなものだったらしいが、その座があった時代から唯一現在まで残る釜師が大西家なのだ。
初代浄林が釜座に定住したのは17世紀初頭で、名人といわれた二代目浄清のころが古田織部や小堀遠州らが活躍した時代。六代目浄元から千家への出入りを許される。

で、その十代目の浄雪(当代は16代目)、その弟である奥平了保の兄弟釜展。
時代でいえば川上不白、速水宗達、松平不昧公、井伊直弼の時代。もともと兄弟の父は七代目浄玄の弟子だったところ八代目の早逝で九代目を継いだとか(浄元)。

(玄関脇の古い朽ちた鉄の桶)
浄雪は十代を継いだけれど弟の了保もおそらく腕では負けてはいなかったのだろう。それは作品を見ても私でさえなんとなくわかるので、父の浄元が浄雪だけでなく奥平家(父の実姓)も千家出入りできるように骨を折ったのは、親子の情だけではなかったのだろうな。(兄弟で出入りするとはどういうことだ?と表千家・久田家からクレームもでたらしい)
残念ながら奥平家は明治に絶えてしまったらしいが。
まあ、どの釜もあれほしいな、これほしいなと思うような釜ばかりで〜(^◇^;)
そのうちのいくつかを。

(入り口脇の唐金?の水盤)
浄雪・残雪釜 与次郎の大尻張釜の写し 大きくて迫力ある。やつれて鎹が打ってある、、、と思ったら鎹まで作った模様だった!
了保・責紐釜 このころは荒れた釜肌に釜師の指の跡をかすかにつけるのがはやったそうで、かすかなへこみがより侘びをグレードアップ。
お父さんの浄元・鉄道安風炉 これは実際にきれいに丸灰が作られていて、鉄風炉なので赤いかわらけ。灰型上手〜!どなたがつくられたのか存じませんが。
浄雪・万代屋手取釜 万代屋(もずや)は好きな意匠なんだが、これが注ぎ口・持ち手のついた手取になっとる!持ち手の部分の虫食いがおしゃれ。
了保。旭釜 胴の羽落ちの部分に櫛形の何本もの銀の鎹で鋳掛けしてある釜。この鎹をちょうど波に見立てると波の間から釜=旭がでたようにみえるから旭釜。炉中にあるときはこの意匠は見えないので、炭手前で釜を上げた時、おお〜っ!となる場面を想像す。
浄雪・反古庵(藤村庸軒)刷毛目阿弥陀堂釜 阿弥陀堂も好きな形。名越三昌(古淨味)の作に習ったものとか。大きくて迫力。さっと一筋刷毛目がはいるところが渋い。
時代背景や当時の大西家の内側を知って見ると、兄弟展というのはなかなかおもしろいな。表千家九代の了々斎が、浄雪に「伯夷」、了保に「叔斉」という銘の茶杓をそれぞれ贈っている。(伯夷のみ展示)
伯夷叔斉といえばなつかしい漢文で思いだした方もおられるだろうが、古代中国・殷の国の兄弟王子で、儒教では聖人ということになっている。まさに兄弟に与えるにぴったりの銘なのだ。昔の人の教養ってすごいな。

(同じく釜座に釜師として現在まで続く高木治良兵衛家。初代は浄雪の弟子でのち独立した)
7Fの展示室は茶室弄鋳軒。もと浄雪が表千家・吸江斎からたまわった「弄鋳軒」の号を茶室にし、茶の湯を楽しんだのを現代に写した茶室。
ここにかかる碌々斎の画賛がとてもよかった。
柴の戸を指さして、ここでお茶を飲もうよと友人をさそっている隠者のような二人連れの絵。
賛にいう
のむ阿弥陀 釜の湯をたし 友どちの
あけてやまいる くれてもまいる
ああ、一日ひがな、年がら年中、行く先々でお茶がのめたらいいのに、、、。うらやましい境地ですこと。

(近くの町家の花屋さん。建物の雰囲気がいいので載せときます)
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● COMMENT ●
どうでもいいことですが
論語にも出てくる有名な兄弟ですが、キツネであるという説もあります。
N様
え?狐ですか?それは初めて聞きました。有名な聖人君子でありながら、末路がちょっと哀れすぎですよね。従容として餓死したわけではないみたいだし。
孤竹国の王子さま
兄弟は孤竹国の王子様でした。そのため孤をキツネと書き間違えた本もありますが、多分「史記会注考証」の割注に、伝として兄弟はキツネと明記してあったと思います。
楚の始祖である禹は熊の姿で現れることがあるので、そうした類と思います。
楚の始祖である禹は熊の姿で現れることがあるので、そうした類と思います。
N様
そうでしたか。全然知りませんでした、、、、というより、伯夷叔斉からして久々に古い記憶からよみがえったようなもので、そんないわれがあるところまではいきませんでしたわ。
かつてはまって、また最近読み直している「十二国記」(小野不由美)にでてくる半獣(ときに人の姿、ときに獣のすがたになる)を思い出しました。
かつてはまって、また最近読み直している「十二国記」(小野不由美)にでてくる半獣(ときに人の姿、ときに獣のすがたになる)を思い出しました。
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