伏見御香宮〜御香水の月釜 - 2016.03.22 Tue
宇治に行くときに国道24号線、いつも横目で見ながら車で素通り、でもいつか御香水いただきにいかなくちゃなあ〜と思っていた伏見・御香宮、お茶のご縁のA子様が月釜の席を掛けられるとのことでそれにかこつけ初めてお参りすることができた。

御香宮の由来は、神社のHPによると貞観4年(862年)、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。他にも筑紫の香椎宮を文霊したとの説もあり。いずれにせよ御祭神は神功皇后なので、安産の神様らしい。(神功皇后は三韓征伐から帰るまで応神天皇を産むのを神に祈ってまってもらった、、という逸話があるお方なので)

かつてもっと広かった境内を道路を通すためにゆずったらしく微妙に道にとびだしている。だから門をくぐるのにいったん車道にでないといけない。(ちょっと危険)

表門は旧伏見城大手門で、元和8年(1622年)徳川頼房(水戸黄門のとうちゃん)が賜ってのちに寄進したもの。中国二十四孝の蟇股が有名、、、、って知らなかったのでアップの写真がない。上のほう、なんとなく木彫りの人形が見えるかしら、、、(国の重文)

境内には伏見城の石垣であった石がまだごろごろところがっていて、関ヶ原の戦いの時代を今にしのぶよすがになっているみたいだ。

境内はけっこう広く、本殿のほかに摂社、末社があちこちに散在している。

おりしも薮椿が花をぼたぼた落としており、なんだか血痕のようにもみえる。この地では大きな戦いもあったしなあ。

でも現代はのどかな雰囲気で、お宮参り、安産祈願、七五三などたくさんの方がおめでたいことでお参りされている。

本殿も重文で徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進。なんとなく東照宮をおもいださせるような華麗な極彩色。(最近彩色修復されたらしい)

さてさて、御香宮といえばまず御香水。徳川歴代の産湯にも使われ、日本の名水百選の一つにも選ばれている。酒所伏見の伏水の水脈。

実際はこちらからいただく。ペットボトル持参してなかったので手ですくっていただきました。あ〜甘露。これが伏見の酒となる水脈なのね。

その御香水を使って月釜がおこなわれる九香軒。本日のお目当て。
この建物は家康が本殿を建てて400年を記念して平成になって移築された比較的新しいものらしい。
今月ご担当のA子様は私よりずいぶんお若いがご自分の社中をもっておられるお茶では大先輩、お弟子さんに点前はまかせて後見されるお姿が堂々とされていてすごいなあ、、、と感動してしまった。

御趣向は「お水取り」。なんでもその場の雰囲気を堪能されるためにお松明を見に行かれたのがくしくも私と同じ日だったそうだ。あれだけの人だからまあ、会えませんけどね。

床脇になにげに飾られた本物の糊こぼし(法会終了後に拝領されたものらしい)がうらやましい。
しかも、これから花入れにすると、東大寺関係の方がおっしゃっていたお松明の根っこの方、、これが目の前に花入として!!うわ〜〜こうなるのか、ええなあ〜これ。二重口の花入れ、裏にしっかり二月堂の焼き印があった。

こだわられたのが主菓子だそうでなんども鶴屋さんに注文されてできたのがお松明を思わせる竹の緑と火の薄紅のきんとん。なかでも緑の部分は蓬をしっかりきかせて、と注文されたそうで口の中に春の緑の香りがひろがっておいしかった。
銘が練行衆の足元を照らす「道明り」。

他にも御香水を汲み上げる閼伽桶にみたてたモールの水指、お松明の竹で作った茶杓など、先日見てきたばかりのお水取りのモチーフがあちこちにちりばめられてとてもうれしかった。
掛け物の「杓底一残水」、「汲流千億人」と本来続くが、私は香水を柄杓で賜るときにその底に残った水を連想してしまった。

A子様手ずから描かれた円相のお茶碗で一服いただいたあとは社務所の奥で点心をいただく。こちらの庭は遠州の庭とよばれる。遠州が伏見奉行に命ぜられた時、 奉行所内に作った庭園の石を戦後移して造園家中根金作氏が完成させたものとか。

こういう景色を眺めながら同じく用意された伏見のお酒も頂戴したのであった。極楽極楽。

社務所の横の自販機に「伏見の御香水」と書いてあったのでてっきり御香水をボトルに詰めて売っているのかと思ったが、、、ふつうの自販機でした(^_^;

御香宮の由来は、神社のHPによると貞観4年(862年)、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。他にも筑紫の香椎宮を文霊したとの説もあり。いずれにせよ御祭神は神功皇后なので、安産の神様らしい。(神功皇后は三韓征伐から帰るまで応神天皇を産むのを神に祈ってまってもらった、、という逸話があるお方なので)

かつてもっと広かった境内を道路を通すためにゆずったらしく微妙に道にとびだしている。だから門をくぐるのにいったん車道にでないといけない。(ちょっと危険)

表門は旧伏見城大手門で、元和8年(1622年)徳川頼房(水戸黄門のとうちゃん)が賜ってのちに寄進したもの。中国二十四孝の蟇股が有名、、、、って知らなかったのでアップの写真がない。上のほう、なんとなく木彫りの人形が見えるかしら、、、(国の重文)

境内には伏見城の石垣であった石がまだごろごろところがっていて、関ヶ原の戦いの時代を今にしのぶよすがになっているみたいだ。

境内はけっこう広く、本殿のほかに摂社、末社があちこちに散在している。

おりしも薮椿が花をぼたぼた落としており、なんだか血痕のようにもみえる。この地では大きな戦いもあったしなあ。

でも現代はのどかな雰囲気で、お宮参り、安産祈願、七五三などたくさんの方がおめでたいことでお参りされている。

本殿も重文で徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進。なんとなく東照宮をおもいださせるような華麗な極彩色。(最近彩色修復されたらしい)

さてさて、御香宮といえばまず御香水。徳川歴代の産湯にも使われ、日本の名水百選の一つにも選ばれている。酒所伏見の伏水の水脈。

実際はこちらからいただく。ペットボトル持参してなかったので手ですくっていただきました。あ〜甘露。これが伏見の酒となる水脈なのね。

その御香水を使って月釜がおこなわれる九香軒。本日のお目当て。
この建物は家康が本殿を建てて400年を記念して平成になって移築された比較的新しいものらしい。
今月ご担当のA子様は私よりずいぶんお若いがご自分の社中をもっておられるお茶では大先輩、お弟子さんに点前はまかせて後見されるお姿が堂々とされていてすごいなあ、、、と感動してしまった。

御趣向は「お水取り」。なんでもその場の雰囲気を堪能されるためにお松明を見に行かれたのがくしくも私と同じ日だったそうだ。あれだけの人だからまあ、会えませんけどね。

床脇になにげに飾られた本物の糊こぼし(法会終了後に拝領されたものらしい)がうらやましい。
しかも、これから花入れにすると、東大寺関係の方がおっしゃっていたお松明の根っこの方、、これが目の前に花入として!!うわ〜〜こうなるのか、ええなあ〜これ。二重口の花入れ、裏にしっかり二月堂の焼き印があった。

こだわられたのが主菓子だそうでなんども鶴屋さんに注文されてできたのがお松明を思わせる竹の緑と火の薄紅のきんとん。なかでも緑の部分は蓬をしっかりきかせて、と注文されたそうで口の中に春の緑の香りがひろがっておいしかった。
銘が練行衆の足元を照らす「道明り」。

他にも御香水を汲み上げる閼伽桶にみたてたモールの水指、お松明の竹で作った茶杓など、先日見てきたばかりのお水取りのモチーフがあちこちにちりばめられてとてもうれしかった。
掛け物の「杓底一残水」、「汲流千億人」と本来続くが、私は香水を柄杓で賜るときにその底に残った水を連想してしまった。

A子様手ずから描かれた円相のお茶碗で一服いただいたあとは社務所の奥で点心をいただく。こちらの庭は遠州の庭とよばれる。遠州が伏見奉行に命ぜられた時、 奉行所内に作った庭園の石を戦後移して造園家中根金作氏が完成させたものとか。

こういう景色を眺めながら同じく用意された伏見のお酒も頂戴したのであった。極楽極楽。

社務所の横の自販機に「伏見の御香水」と書いてあったのでてっきり御香水をボトルに詰めて売っているのかと思ったが、、、ふつうの自販機でした(^_^;
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● COMMENT ●
鶴屋に行けば、売ってるんですか。
しぇる様へ
御香宮と言えば、鳥羽伏見の戦いで、薩摩軍の砲兵陣地が配備され、
300mほど南下がった所にあった新撰組や会津藩が籠もる
旧伏見奉行所との間で、戦闘が繰り広げられた古戦場のイメージが
あったのですが、以前、参拝して歴史のある神社と知りました。
伏見城大手門に続く大手筋に面していますが、確か、近くに
黒田如水の屋敷があった筈。
御香宮と言えば、鳥羽伏見の戦いで、薩摩軍の砲兵陣地が配備され、
300mほど南下がった所にあった新撰組や会津藩が籠もる
旧伏見奉行所との間で、戦闘が繰り広げられた古戦場のイメージが
あったのですが、以前、参拝して歴史のある神社と知りました。
伏見城大手門に続く大手筋に面していますが、確か、近くに
黒田如水の屋敷があった筈。
ヌーチャン様
残念ながら、、、
これはこの茶会のための特注品だそうですよ。
これはこの茶会のための特注品だそうですよ。
narahimuro様
薩摩藩の屯所になったらしいですが、幸いに戦火をまぬがれたようです。
鳥羽伏見の戦いの痕跡はさがせばあちこちに残っているかも知れません。でも現在はあくまでのどかで平和な神社でありました。
如水の屋敷があったのは秀吉に移転させられたころの御香宮の近くで、現在の御香宮(家康がもとにもどした)とは少し離れているようです。
鳥羽伏見の戦いの痕跡はさがせばあちこちに残っているかも知れません。でも現在はあくまでのどかで平和な神社でありました。
如水の屋敷があったのは秀吉に移転させられたころの御香宮の近くで、現在の御香宮(家康がもとにもどした)とは少し離れているようです。
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