野村美術館講座〜「かなの書と墨蹟」 - 2016.03.24 Thu

野村碧雲荘よこの疏水分線のいつもの道も春めいてきた。残念ながら野村美術館脇のいつも土筆が顔出すあたり、今年は焼き払われて見つけることができない。

さて、今年度初の野村美術館講座は展示中の「書を愛でる 茶の湯の掛け物」がらみで、書家の石川九揚先生の「かなの書と墨蹟」からスタート。
小学生の時から書道がいやでいやでたまらんかったので(書く方が)、掛け物を見るのはともかく、書く方の書家の先生の話となると、、、とちょっと腰がひけておったが、お話しは現代人の鑑賞の仕方の誤解、というところから始まってたいそうおもしろかったのだ。
その誤解、というのがそれあるある、と自分にあてはまることが多くて、結論として現在の書道教育があかん、という代表的失敗例ではないかと思えるん、自分が。
誤解その1「何と書いてあるかに重点をおく」
なんと書いてあるのか、文字である以上読み取ろうとするのは人情だが(そして読めないことが多いのだが)、意味を知ったとたん、そこで終わってしまうと。何と書いてあるのか、でなくてどのように書かれたのか、を読み取るのが大切なんだと。どのような筆の速度で書かれたのか、筆のおろし方の深いか浅いか、ここの筆の角度はどのようだったのか、、、そういうことから書いた人の(多くは数百年前の人)息づかいや感情まで感じ取れることが大切なのだそうだ。
誤解その2「字の上手下手を見る」
これこそ習字教育指導の弊害とか。学校で習う習字はあくまでお手本に忠実に、そこからはずれたら下手な字(花丸もらえない)ということになる。実際墨蹟や古筆は天皇、僧侶、学者などのハイクラスの方々が書かれていたので、そういう人たちは寺子屋風習字教育は受けていないのだ。どう書いてもそれを批判する人はいないのだ。そういえば軸になった消息なんて、きったねえ字!といいたくなるようなものもあるが(^◇^;) 書いてある内容に沿って、ここは心中穏やかならざる時のものなのだな、、、などと想像しながら鑑賞するのがよいのかな。(しかしそもそも字の上手いか下手か?からしてようわからんかったりするけど、、、、)
誤解その3「字を図形としてみる」
これは外国人にあてはまることかな。私は図形としてみることは無いと思う。やはり意味をもった言葉として認識。これはたいがいの日本人ならそうかも。
、、、ということを踏まえつつ、美術館展示の書をみる。読めなくていいんだ読めなくていんだ、、、と言い訳しながら。あ、なんだかいくぶん書を見るストレスが減ったような、、、気がする。
<墨蹟について>
墨蹟とは主に臨済宗僧侶の書をさす。空海、日蓮、親鸞の書は含まないってはじめて知った。後者は漢詩・漢文が読めない庶民が対象の宗教であったため。一方禅宗は政治と結託した文官政治機構で外交交渉も漢文で僧侶が担ってたわけだから。
<かなについて>
かな文字のスタンダードとされる寸松庵色紙。これらは分かち書き、散らし書き、はては掛け字、伏せ字などのテクニックが使われて、文字の美しさをさらにグレードアップしている。このかな文字の美しさは縦書きでしか表現できない(続けられないから)、と改めていわれるとそうか、そうだった!と合点がいく。横書きでは不可能な技なのだ。
そして散らし書きなどの左右非対称は古今集のころからの日本の美意識であると。実はこれが欠けたるを美しとする侘びさびの源流かも、、、と思ったのである。
石川先生は変体仮名は中学くらいから教えるべきだとおっしゃる。漢字に比べると数ははるかに少ない。ずっといやがっていた変体仮名の勉強を苦しんで今している私からいえば、ほんに若い頃にちょっとでも勉強していればなあと大賛成。
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