能「隅田川」〜大津市伝統芸能会館 - 2016.06.16 Thu
三井寺のほんそばにある大津市伝統芸能会館、二回目である。

味方 玄師の能、演目は押しも押されぬ名曲「隅田川」。
能のジャンルとして、子別れ狂女物というのがあるが(子どもと離れ離れになった母が、狂乱して子を尋ね歩く)その代表作。ただし「桜川」のようにだいたいが子供と再会できハッピーエンドに終わるのに、この「隅田川」だけは悲しい結末になっている。
都の北白川に住する梅若丸という12,3歳の少年が、両親とはぐれたときに人買いにさらわれてしまう。母親は子供を捜し、はるばる東下り、隅田川の渡しへたどりつく。
人からは物狂いといわれるが、これは子をさらわれた母親の尋常でない様子をしめすことば。ほんまの病気じゃないよ。渡しでは船頭が女物狂いのうわさを聞き、興味を持ってこれを見たい、と思う。
そこへあらわれる母親。
一説には「班女」の花子(はなご・吉田少将にすてられた我が身を秋の扇にたとえる狂女もの)の後日譚とよばれるのは、会話の中で梅若丸の父親は吉田某、住んでいたのは北白河(少将と再会するのは下鴨神社、、、まあ近いと言えば近い)、という言葉があるかららしい。
黒塗りの丸笠に水衣というふわっとした上衣、手に狂い笹という物狂いをあらわす笹の枝。これを見たら「隅田川」、というくらい定型になった衣裳。下の縫箔(袿のような着物)には蛇篭が縫い取りされてあって、ああ、隅田川なんだな、と。
舟にのせてくれるようたのむ母に「おもしろく舞い狂うてみせれば舟にのせよう。」という船頭。そこは都人の女、しかもなにやら芸事を身につけているような風情。「伊勢物語」の東下りに我が身をになぞらえて、当意即妙の受け答え。
、、、、なうその詞はこなたも耳に留るものを 彼の業平も此渡にて 名にしおはば いざ言問はん都鳥 我が思ふ人は有りやなしやと、、、
(思う人、、、子を思う心なのですよ)
さらに
、、、なう舟人 あれに白き鳥の見えたるは 都にては見馴れぬ鳥なり あれをば何と申し候ふぞ
船頭はあれは沖の鴎だと答える。
、、、、うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ など此隅田川にて白き鳥をば 都鳥とは答へ給はぬ
(あらいやだ、沖にいれば千鳥とも鴎とも言っていいけれど、なぜこの隅田川で都鳥と答えないの?伊勢物語の風流をわからない人ね)
と、船頭をやりこめるのである。ここも見所。
すっかり感心した船頭は女を舟に乗せる。
おりしも対岸ではなにやら大念仏がおこなわれている。聞けば1年前の今日人買いに伴われた幼い子が、ここで病気になり、先へ進めなくなったところを、残忍な人買いたちに捨てられて、ついに息絶えた。それを憐れんで近隣の人たちが塚をつくり念仏供養をしているのだ、と。
その子はいまわの際に、懐かしい都人も通るであろうこの隅田川の岸に葬って柳の木を植えて欲しいと願ったのだ。
女はその話を聞きながら、すでに片手を目の上にかざす。(泣きのポーズ)
それはいつの話か? 昨年の3月15日
その子の歳は? 12歳
その子の名は? 梅若丸
父の名字は? 吉田某
その亡くなった子こそ、たずねる我が子梅若丸であった。葬られた柳の下の塚の土を掘ろうとまでして嘆き悲しむ女に、船頭は「嘆いてばかりでは甲斐もない。せめて念仏をとなえてあげなされ。」と鉦をわたす。
ずっと抑えに抑えた動きで、発声もいつもより高く、かつ音楽的で梵唄のようにも聞こえるシテのせりふ。すでに宗教的ですらある。先日平安神宮薪能で勇壮で激しい神舞(「養老」)を舞ったのと同じ人とは思えない。
女は鉦をうちながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、」と唱える、その声が地謡の「南無阿弥陀仏、、、」と絶妙のハーモニーを奏でる。ほぼ聖歌といってよい。宗教的トランス状態がつくられているような感じ。
そこへ一声、子供の声で(子方の声)「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、」が重なる。これがクライマックスである。
(子方は姿をあらわす演出もあるが、世阿弥とその息子元雅(作者)とのディスカッションでどちらがよいか決着をみなかったとも)
今一声、きかせておくれ
南無阿弥陀仏、、南無阿弥陀仏、、、
あれは我が子か?
母にておわしますか、、、
おもわず涙がにじむ場面である。しかしそれもひとときの幻、
、、、、我が子と見えしは塚の上の 草茫々として 唯しるしばかりの浅茅が原となるこそあはれなりけれ
母は、まるで我が子の頭をなでていつくしむように、手をそっと塚の上にのせるのであった。
このシーンがこのパンフレットの場面。

うう、、泣けるわ。

味方 玄師の能、演目は押しも押されぬ名曲「隅田川」。
能のジャンルとして、子別れ狂女物というのがあるが(子どもと離れ離れになった母が、狂乱して子を尋ね歩く)その代表作。ただし「桜川」のようにだいたいが子供と再会できハッピーエンドに終わるのに、この「隅田川」だけは悲しい結末になっている。
都の北白川に住する梅若丸という12,3歳の少年が、両親とはぐれたときに人買いにさらわれてしまう。母親は子供を捜し、はるばる東下り、隅田川の渡しへたどりつく。
人からは物狂いといわれるが、これは子をさらわれた母親の尋常でない様子をしめすことば。ほんまの病気じゃないよ。渡しでは船頭が女物狂いのうわさを聞き、興味を持ってこれを見たい、と思う。
そこへあらわれる母親。
一説には「班女」の花子(はなご・吉田少将にすてられた我が身を秋の扇にたとえる狂女もの)の後日譚とよばれるのは、会話の中で梅若丸の父親は吉田某、住んでいたのは北白河(少将と再会するのは下鴨神社、、、まあ近いと言えば近い)、という言葉があるかららしい。
黒塗りの丸笠に水衣というふわっとした上衣、手に狂い笹という物狂いをあらわす笹の枝。これを見たら「隅田川」、というくらい定型になった衣裳。下の縫箔(袿のような着物)には蛇篭が縫い取りされてあって、ああ、隅田川なんだな、と。
舟にのせてくれるようたのむ母に「おもしろく舞い狂うてみせれば舟にのせよう。」という船頭。そこは都人の女、しかもなにやら芸事を身につけているような風情。「伊勢物語」の東下りに我が身をになぞらえて、当意即妙の受け答え。
、、、、なうその詞はこなたも耳に留るものを 彼の業平も此渡にて 名にしおはば いざ言問はん都鳥 我が思ふ人は有りやなしやと、、、
(思う人、、、子を思う心なのですよ)
さらに
、、、なう舟人 あれに白き鳥の見えたるは 都にては見馴れぬ鳥なり あれをば何と申し候ふぞ
船頭はあれは沖の鴎だと答える。
、、、、うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ など此隅田川にて白き鳥をば 都鳥とは答へ給はぬ
(あらいやだ、沖にいれば千鳥とも鴎とも言っていいけれど、なぜこの隅田川で都鳥と答えないの?伊勢物語の風流をわからない人ね)
と、船頭をやりこめるのである。ここも見所。
すっかり感心した船頭は女を舟に乗せる。
おりしも対岸ではなにやら大念仏がおこなわれている。聞けば1年前の今日人買いに伴われた幼い子が、ここで病気になり、先へ進めなくなったところを、残忍な人買いたちに捨てられて、ついに息絶えた。それを憐れんで近隣の人たちが塚をつくり念仏供養をしているのだ、と。
その子はいまわの際に、懐かしい都人も通るであろうこの隅田川の岸に葬って柳の木を植えて欲しいと願ったのだ。
女はその話を聞きながら、すでに片手を目の上にかざす。(泣きのポーズ)
それはいつの話か? 昨年の3月15日
その子の歳は? 12歳
その子の名は? 梅若丸
父の名字は? 吉田某
その亡くなった子こそ、たずねる我が子梅若丸であった。葬られた柳の下の塚の土を掘ろうとまでして嘆き悲しむ女に、船頭は「嘆いてばかりでは甲斐もない。せめて念仏をとなえてあげなされ。」と鉦をわたす。
ずっと抑えに抑えた動きで、発声もいつもより高く、かつ音楽的で梵唄のようにも聞こえるシテのせりふ。すでに宗教的ですらある。先日平安神宮薪能で勇壮で激しい神舞(「養老」)を舞ったのと同じ人とは思えない。
女は鉦をうちながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、」と唱える、その声が地謡の「南無阿弥陀仏、、、」と絶妙のハーモニーを奏でる。ほぼ聖歌といってよい。宗教的トランス状態がつくられているような感じ。
そこへ一声、子供の声で(子方の声)「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、」が重なる。これがクライマックスである。
(子方は姿をあらわす演出もあるが、世阿弥とその息子元雅(作者)とのディスカッションでどちらがよいか決着をみなかったとも)
今一声、きかせておくれ
南無阿弥陀仏、、南無阿弥陀仏、、、
あれは我が子か?
母にておわしますか、、、
おもわず涙がにじむ場面である。しかしそれもひとときの幻、
、、、、我が子と見えしは塚の上の 草茫々として 唯しるしばかりの浅茅が原となるこそあはれなりけれ
母は、まるで我が子の頭をなでていつくしむように、手をそっと塚の上にのせるのであった。
このシーンがこのパンフレットの場面。

うう、、泣けるわ。
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