「107年の謎〜プサン迫間別邸の調査記録」木津宗詮(当代)・著 - 2016.12.22 Thu
武者小路千家の宗匠筋・木津宗詮家は初代が松平不昧公に師事し、その後武者小路千家八代一啜斎の門下となったことから始まる。
一番有名なのが、のちに一代限りの宗泉名を貞明皇后から授かった三代目宗詮(聿斎・いっさい)、明治から昭和戦前に茶人としてより、むしろ数寄屋建築家・造園家として活躍した人である。
私でも知っているのは、大宮御所に貞明皇后の命で作った茶室・秋泉亭の設計。後に淡々斎が好んだ秋泉棚(楓の透かしのあるやつ)もこの茶室の名に由来して作られた。
今回当代(七代)宗詮宗匠が上梓しはったこの本によると、宗泉が設計したのはそればかりではなく、よく知っている茶臼山の住友家・慶沢園、ご近所南禅寺畔の看松居(レストラン桜鶴園の中)、奈良高畑・山田安民(ロート製薬創始者)邸棲霞園、延暦寺大書院、興福寺茶室・静観寮、四天王寺茶室・払塵亭、、、などなどなんだかすごい人だったんだ、なんで今までしらなんだ、とびっくりする。
しかも茶人としては、一時武者小路千家家元を預かっていたという功績がある。先代がなくなり当時10歳だった武者小路千家12代(後に愈好斎)が表千家にひきとられ、後に成人して再興するまでの間、家元預かりだった(大阪最後の数寄人財閥といわれる)平瀬露香・息子の露秀からさらに預かったわけである。

そんな彼が設計した数寄屋のひとつが、現在韓国・プサンにある。迫間房太郎別荘である。時代はおりしも韓国併合(1910年)直後のこと、そういう時代を背景に考えるとさらにこの数奇な運命をたどったこの建築の物語がおもしろい。
そもそも木津家に、聿斎が書いた迫間邸の図面が残っていたことから話ははじまるらしい。当代が聿斎が設計した建築の記録を残していく中で、時代に流され失われていく物、原形をとどめぬ物がいかに多いか、これは今のうちに可能な限り記録に残しておかねばと思われたそうだ。
中でも今年夏に、韓国における文化財指定をはずされ、いずれホテルに建て替えられるらしい迫間邸に関しては記録するには喫緊のタイミング、ということで急遽調査チームを組むことになり、その顛末を書かれたのが本著。

(出版記念会)
現在旧迫間邸は東菜別荘という名の宮廷レストランになっている。戦後アメリカ軍に接収され、のちに民間払い下げ、高級キーセンハウスとなったりレストランになったりしているうちに改修、改装がかさねられ、一階部分は当時の面影はないそうだが。
ちなみに迫間房太郎という人はプサンで起業し大成功を収め、朝鮮一、二の大富豪になった実業家。(残念ながら歴史的軋轢国民感情もあり、韓国では評判わるいらしいが)
その調査をするのに、当代の獅子奮迅のマンパワー集めは講演会を聞いていてすざまじいものがあり、これだけ短期間にこんな各界のプロフェッショナルを招聘できたのはご人徳のたまものに他なるまい。
建築家、都市研究家、工務店、数寄屋大工、造園家、通訳、韓国の学生、、、などなど。中には当日初めましての方もいたというから、その緊急ぶりは推して知るべし。しかし、、、すごいメンツ!よくこれだけ集まられたものだ。
東菜別荘のオーナーとの交渉も現地の学者さんなどの尽力もあったらしいが、許された時間は約4時間、(しかも30万円要求されたらしい)この時間で、敷地3000坪、建坪200坪の調査を約20人で可能な限りおこなったという。皆が、この日本から来て、彼の地に歴史に翻弄されつつ残る数寄屋建築の記録への、なみなみならぬ情熱を持って、同じ方向を向いておこなったからできた離れ業だったのではないだろうか。
本によせられた調査に加わった人たちの証言はよんでいてその濃密さや時間との戦いの緊迫感が伝わってくる。

(公演中の当代宗詮宗匠)
まず一番にしたことが棟札を発見すること。見つかった棟札(よく残ってたな〜〜)には昭和3年の上棟と書かれ、聿斎が設計した以後の増築であることがわかったらしい。(聿斎がこの建築のため渡朝したのは明治の末)
昭和3年と言えば、翌年、この屋敷が東本願寺大谷法主、数ヶ月後に閑院宮載仁親王の宿所になる晴れがましい時代の直前である。
調査内容は本著に詳しい。
撮影した文字通り無数の写真の解析で現在の建物の図面を引き、オリジナルの聿斎の設計図と現在のどこが重なり合うのか検討する。気が遠くなるような作業に思われる。
庭の植栽やこれも無数にある石造物、灯籠などの由来(日本製?朝鮮製?などもある程度判明)などもかなり専門的に記録、調査、され、かつての屋敷の姿が浮かび上がってくる様は圧巻。携わった方々の執念、情熱が熱い。

これは記念会の呈茶席でだされた韓国にゆかりのあるお菓子(鶴屋製)。
銘を「松花(まつはな)」。
中の餡に、韓国でよく食される松の実の刻みが入り、上の黄色い粉は松の花粉とか。
この調査の前後、どうしても手に入らない物があった。迫間家の人々が暮らした時代の別邸の写真だ。
いろいろ手を尽くして(韓国の資料、占領していたアメリカにまで問い合わせ)さがしたにもかかわらずでてこなかったのだそうだ。最後に住んでいた迫間家の人々も、日本に帰ってきていたときに終戦を迎え、別邸に帰ることかなわず、アルバムさえ持ち出すことができなかったのだそうだ。(戦後別邸は略奪にあい、クッション2つ以外なにも残されていなかったとか)
ところがこの本の出版の直前、房太郎の直系のお孫さんがご存命で、奇跡的に連絡がとれたこと、房太郎の弟のお孫さんとも出会えたこと、であんなに探していた写真がでてきたのだ。大谷門主と房太郎の家族が、もう一枚には閑院宮と一族が、幻の母屋の前で記念撮影した写真が!
執念が実現させた感動的な瞬間であっただろうと推察申し上げる。
かくしてそのため、出版が遅れたそうだが、かえってよかったことになる。
運命は切り開くことができるもの、、、なのかもしれない。
現在の日韓関係を思う時、複雑微妙な気持ちになるのだが、そのはざまで消えていこうとする1つの歴史におおいな餞となる一冊であった。
一番有名なのが、のちに一代限りの宗泉名を貞明皇后から授かった三代目宗詮(聿斎・いっさい)、明治から昭和戦前に茶人としてより、むしろ数寄屋建築家・造園家として活躍した人である。
私でも知っているのは、大宮御所に貞明皇后の命で作った茶室・秋泉亭の設計。後に淡々斎が好んだ秋泉棚(楓の透かしのあるやつ)もこの茶室の名に由来して作られた。
今回当代(七代)宗詮宗匠が上梓しはったこの本によると、宗泉が設計したのはそればかりではなく、よく知っている茶臼山の住友家・慶沢園、ご近所南禅寺畔の看松居(レストラン桜鶴園の中)、奈良高畑・山田安民(ロート製薬創始者)邸棲霞園、延暦寺大書院、興福寺茶室・静観寮、四天王寺茶室・払塵亭、、、などなどなんだかすごい人だったんだ、なんで今までしらなんだ、とびっくりする。
しかも茶人としては、一時武者小路千家家元を預かっていたという功績がある。先代がなくなり当時10歳だった武者小路千家12代(後に愈好斎)が表千家にひきとられ、後に成人して再興するまでの間、家元預かりだった(大阪最後の数寄人財閥といわれる)平瀬露香・息子の露秀からさらに預かったわけである。

そんな彼が設計した数寄屋のひとつが、現在韓国・プサンにある。迫間房太郎別荘である。時代はおりしも韓国併合(1910年)直後のこと、そういう時代を背景に考えるとさらにこの数奇な運命をたどったこの建築の物語がおもしろい。
そもそも木津家に、聿斎が書いた迫間邸の図面が残っていたことから話ははじまるらしい。当代が聿斎が設計した建築の記録を残していく中で、時代に流され失われていく物、原形をとどめぬ物がいかに多いか、これは今のうちに可能な限り記録に残しておかねばと思われたそうだ。
中でも今年夏に、韓国における文化財指定をはずされ、いずれホテルに建て替えられるらしい迫間邸に関しては記録するには喫緊のタイミング、ということで急遽調査チームを組むことになり、その顛末を書かれたのが本著。

(出版記念会)
現在旧迫間邸は東菜別荘という名の宮廷レストランになっている。戦後アメリカ軍に接収され、のちに民間払い下げ、高級キーセンハウスとなったりレストランになったりしているうちに改修、改装がかさねられ、一階部分は当時の面影はないそうだが。
ちなみに迫間房太郎という人はプサンで起業し大成功を収め、朝鮮一、二の大富豪になった実業家。(残念ながら歴史的軋轢国民感情もあり、韓国では評判わるいらしいが)
その調査をするのに、当代の獅子奮迅のマンパワー集めは講演会を聞いていてすざまじいものがあり、これだけ短期間にこんな各界のプロフェッショナルを招聘できたのはご人徳のたまものに他なるまい。
建築家、都市研究家、工務店、数寄屋大工、造園家、通訳、韓国の学生、、、などなど。中には当日初めましての方もいたというから、その緊急ぶりは推して知るべし。しかし、、、すごいメンツ!よくこれだけ集まられたものだ。
東菜別荘のオーナーとの交渉も現地の学者さんなどの尽力もあったらしいが、許された時間は約4時間、(しかも30万円要求されたらしい)この時間で、敷地3000坪、建坪200坪の調査を約20人で可能な限りおこなったという。皆が、この日本から来て、彼の地に歴史に翻弄されつつ残る数寄屋建築の記録への、なみなみならぬ情熱を持って、同じ方向を向いておこなったからできた離れ業だったのではないだろうか。
本によせられた調査に加わった人たちの証言はよんでいてその濃密さや時間との戦いの緊迫感が伝わってくる。

(公演中の当代宗詮宗匠)
まず一番にしたことが棟札を発見すること。見つかった棟札(よく残ってたな〜〜)には昭和3年の上棟と書かれ、聿斎が設計した以後の増築であることがわかったらしい。(聿斎がこの建築のため渡朝したのは明治の末)
昭和3年と言えば、翌年、この屋敷が東本願寺大谷法主、数ヶ月後に閑院宮載仁親王の宿所になる晴れがましい時代の直前である。
調査内容は本著に詳しい。
撮影した文字通り無数の写真の解析で現在の建物の図面を引き、オリジナルの聿斎の設計図と現在のどこが重なり合うのか検討する。気が遠くなるような作業に思われる。
庭の植栽やこれも無数にある石造物、灯籠などの由来(日本製?朝鮮製?などもある程度判明)などもかなり専門的に記録、調査、され、かつての屋敷の姿が浮かび上がってくる様は圧巻。携わった方々の執念、情熱が熱い。

これは記念会の呈茶席でだされた韓国にゆかりのあるお菓子(鶴屋製)。
銘を「松花(まつはな)」。
中の餡に、韓国でよく食される松の実の刻みが入り、上の黄色い粉は松の花粉とか。
この調査の前後、どうしても手に入らない物があった。迫間家の人々が暮らした時代の別邸の写真だ。
いろいろ手を尽くして(韓国の資料、占領していたアメリカにまで問い合わせ)さがしたにもかかわらずでてこなかったのだそうだ。最後に住んでいた迫間家の人々も、日本に帰ってきていたときに終戦を迎え、別邸に帰ることかなわず、アルバムさえ持ち出すことができなかったのだそうだ。(戦後別邸は略奪にあい、クッション2つ以外なにも残されていなかったとか)
ところがこの本の出版の直前、房太郎の直系のお孫さんがご存命で、奇跡的に連絡がとれたこと、房太郎の弟のお孫さんとも出会えたこと、であんなに探していた写真がでてきたのだ。大谷門主と房太郎の家族が、もう一枚には閑院宮と一族が、幻の母屋の前で記念撮影した写真が!
執念が実現させた感動的な瞬間であっただろうと推察申し上げる。
かくしてそのため、出版が遅れたそうだが、かえってよかったことになる。
運命は切り開くことができるもの、、、なのかもしれない。
現在の日韓関係を思う時、複雑微妙な気持ちになるのだが、そのはざまで消えていこうとする1つの歴史におおいな餞となる一冊であった。
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