清風荘〜南禅寺別荘群の百万遍飛び地とでも言おうか - 2017.02.17 Fri
学生時代のなわばり(?)百万遍。今出川を少し西に行くと行きつけだった喫茶店ミリオン(百万、、、)があった。(今もあるが当時の面影はない)

そのさらに西になんだろな〜???と思っていた塀と石垣に囲まれた広い場所があった。そのはしっこに京大女子寮があったので、寮の敷地かな〜?とも思っていたけれど、謎のまま、当時はそれ以上の興味もなかったのでワカランままだった。

後にそれが清華家の一つ、徳大寺家の別業であり、後に徳大寺から住友へ養子にはいったバロン春翠(男前!)が譲り受け、実兄であるところの西園寺家へ養子にいった公望のために控邸として整備した清風荘という広大なお屋敷+庭園であることを知ったのは比較的最近である。
公望没後、住友家が管理していたが、昭和19年京都大学に寄贈された。東京には官吏を作る大学(=東京大学)があるが、京都には研究をする大学が必要だ、と京都大学設立に、文部大臣も務めた西園寺公望が支援したゆかりである。

終戦直後にはアメリカ軍に接収されそうになったらしいが、そこは私邸ではなく大学の施設であることを盾に戦った当時の総長他のおかげでつぶされるのをまぬかれた。戦後はかなり荒廃していたらしいが、H19年から庭園の整備に入り、H24年には建物は国の重要文化財、庭園はH26年に国の名勝となった。

ちらほら名前も聞いて、一度中を見てみたいものだと思っていた。数年前から試験公開などもされていたらしいが、基本非公開、大学の教官がゼミに使ったり、外国からの賓客を接待したりにもっぱら使用。まあ、大学の一施設というスタンス。
ここには江戸時代に建てられた茶室があり、京大関係者とのコネがあれば使用できるというおいしい話もあって、この日、私ははじめてこのずっと謎だった清風荘に足を踏み入れることができた。京大の某研究室の方の茶会で\(^O^)/
記録写真はたくさん撮らしていただいたが、画像のアップは原則禁止なので、参考までに京大HPを見てくだされ。

入り口を入ると左手にお屋敷、右手の霰石の道をたどり中門をすぎるといきなり視界がひらけ、東山を借景とした見事な開けた庭園が!
第一印象としては南禅寺別荘群の中の一つ、野村碧雲荘に似てるということだった。まあ、それもそのはず作庭したのが同じく七代目小川治兵衛(植治)なのだ。私が中に入ったことがあるのは碧雲荘、無隣庵、洛翠庭園くらいだけれど。

屋敷の方は、住友家がらみの邸宅を多く手がけた大阪の大工八木甚兵衛の作、竣工が大正2年。最初玄関からはいって離れの待合まで行くのに、どれだけ廊下の角をまがったことだろう。坪庭も二つは確実に見た。ひとりだと確実に迷子になる。(実際茶会の後他のお客さまとはぐれてしまって遭難しかけた!)
内部はできるだけオリジナルに近く、しかも現代的設備もある程度兼ね備えるような改修がされているとのこと。建具などはみな古い物、待合の広い座敷からは庭園が開放的に見わたせるガラス戸はみごとに昔のなみうつなみなみガラスだったな。
茶会は客間にて。(茶室は客が多かったため使わず、残念)
ここもなみなみガラスで庭への眺望、東山までの眺望が開け、角のところに見事に扇形に開いた松の樹の一群がすばらしい。
茶会では、床にお懐かしい久松真一先生の「喫茶去」の軸。勢いのある字で大好きだ。亭主はお若い女性研究者で、大学の道具も借りながらの初々しい席であった。正客がK先生だったので、久松先生のエピソードをまたまた聞くことができてうれしかった。
学生時代、私もよく使ったところ白い刷毛目茶碗、銘を久松先生が「白牛(びゃくご・法華経譬喩品から)」とつけられた、懐かしい茶碗。それこそ昭和20年代か30年代、清水坂でウインドウに飾ってあった茶碗を見て、久松先生は「この人はまじめに茶碗を作っている。きっといいものがあるから。」といって中に入って求めた茶碗だという。当時ほとんど無名だったはずの、後に人間国宝になった清水卯一の茶碗であった。なんという鑑識眼。
茶会の後、居間(公望が主に起居した場所)にてK先生の指導の下、学生時代のようにしばし端座、その後広大な庭園と,その中にある江戸時代の茶室をみせてもらう。

茶室は広大な庭園の端の方にあって、円相窓のある袴着+腰掛け待合いは独立した建物、ここですら茶会ができそう。
茶室・保真斎は四畳半、床の反対側に付け書院みたいな場所があって、障子を開けると東山がばっちり見えるという意匠。公望はもっぱらここで書籍などをよみふけったそうだ。なんて贅沢な書斎!そういえば雰囲気が足利義政の銀閣寺・同仁斎に似てるなあ。(名前も似てるし)
う〜〜、、いつか、ここ、借りて茶会したい!
御供が待つ供待・閑睡軒まで手を抜かぬ景観。
茶室関連の建物群は、この日杮葺〜檜皮葺の屋根に白く雪を残していたのが印象深い。
庭園は琵琶湖を模した玉砂利の浅い池、苔むした石橋、庭園と屋敷をみわたせる築山、松の大群があるかと思えば、急に視界がひらけたところにひっそりと咲く、光琳の絵のような白梅、、、など、植治の庭だ。ここは南禅寺からはなれてはいるが、確かに南禅寺別荘群の飛び地だ。

蹲居をつかってふと立ち上がると目に入るように計算された大文字はこの日うっすら雪化粧であった。

そのさらに西になんだろな〜???と思っていた塀と石垣に囲まれた広い場所があった。そのはしっこに京大女子寮があったので、寮の敷地かな〜?とも思っていたけれど、謎のまま、当時はそれ以上の興味もなかったのでワカランままだった。

後にそれが清華家の一つ、徳大寺家の別業であり、後に徳大寺から住友へ養子にはいったバロン春翠(男前!)が譲り受け、実兄であるところの西園寺家へ養子にいった公望のために控邸として整備した清風荘という広大なお屋敷+庭園であることを知ったのは比較的最近である。
公望没後、住友家が管理していたが、昭和19年京都大学に寄贈された。東京には官吏を作る大学(=東京大学)があるが、京都には研究をする大学が必要だ、と京都大学設立に、文部大臣も務めた西園寺公望が支援したゆかりである。

終戦直後にはアメリカ軍に接収されそうになったらしいが、そこは私邸ではなく大学の施設であることを盾に戦った当時の総長他のおかげでつぶされるのをまぬかれた。戦後はかなり荒廃していたらしいが、H19年から庭園の整備に入り、H24年には建物は国の重要文化財、庭園はH26年に国の名勝となった。

ちらほら名前も聞いて、一度中を見てみたいものだと思っていた。数年前から試験公開などもされていたらしいが、基本非公開、大学の教官がゼミに使ったり、外国からの賓客を接待したりにもっぱら使用。まあ、大学の一施設というスタンス。
ここには江戸時代に建てられた茶室があり、京大関係者とのコネがあれば使用できるというおいしい話もあって、この日、私ははじめてこのずっと謎だった清風荘に足を踏み入れることができた。京大の某研究室の方の茶会で\(^O^)/
記録写真はたくさん撮らしていただいたが、画像のアップは原則禁止なので、参考までに京大HPを見てくだされ。

入り口を入ると左手にお屋敷、右手の霰石の道をたどり中門をすぎるといきなり視界がひらけ、東山を借景とした見事な開けた庭園が!
第一印象としては南禅寺別荘群の中の一つ、野村碧雲荘に似てるということだった。まあ、それもそのはず作庭したのが同じく七代目小川治兵衛(植治)なのだ。私が中に入ったことがあるのは碧雲荘、無隣庵、洛翠庭園くらいだけれど。

屋敷の方は、住友家がらみの邸宅を多く手がけた大阪の大工八木甚兵衛の作、竣工が大正2年。最初玄関からはいって離れの待合まで行くのに、どれだけ廊下の角をまがったことだろう。坪庭も二つは確実に見た。ひとりだと確実に迷子になる。(実際茶会の後他のお客さまとはぐれてしまって遭難しかけた!)
内部はできるだけオリジナルに近く、しかも現代的設備もある程度兼ね備えるような改修がされているとのこと。建具などはみな古い物、待合の広い座敷からは庭園が開放的に見わたせるガラス戸はみごとに昔のなみうつなみなみガラスだったな。
茶会は客間にて。(茶室は客が多かったため使わず、残念)
ここもなみなみガラスで庭への眺望、東山までの眺望が開け、角のところに見事に扇形に開いた松の樹の一群がすばらしい。
茶会では、床にお懐かしい久松真一先生の「喫茶去」の軸。勢いのある字で大好きだ。亭主はお若い女性研究者で、大学の道具も借りながらの初々しい席であった。正客がK先生だったので、久松先生のエピソードをまたまた聞くことができてうれしかった。
学生時代、私もよく使ったところ白い刷毛目茶碗、銘を久松先生が「白牛(びゃくご・法華経譬喩品から)」とつけられた、懐かしい茶碗。それこそ昭和20年代か30年代、清水坂でウインドウに飾ってあった茶碗を見て、久松先生は「この人はまじめに茶碗を作っている。きっといいものがあるから。」といって中に入って求めた茶碗だという。当時ほとんど無名だったはずの、後に人間国宝になった清水卯一の茶碗であった。なんという鑑識眼。
茶会の後、居間(公望が主に起居した場所)にてK先生の指導の下、学生時代のようにしばし端座、その後広大な庭園と,その中にある江戸時代の茶室をみせてもらう。

茶室は広大な庭園の端の方にあって、円相窓のある袴着+腰掛け待合いは独立した建物、ここですら茶会ができそう。
茶室・保真斎は四畳半、床の反対側に付け書院みたいな場所があって、障子を開けると東山がばっちり見えるという意匠。公望はもっぱらここで書籍などをよみふけったそうだ。なんて贅沢な書斎!そういえば雰囲気が足利義政の銀閣寺・同仁斎に似てるなあ。(名前も似てるし)
う〜〜、、いつか、ここ、借りて茶会したい!
御供が待つ供待・閑睡軒まで手を抜かぬ景観。
茶室関連の建物群は、この日杮葺〜檜皮葺の屋根に白く雪を残していたのが印象深い。
庭園は琵琶湖を模した玉砂利の浅い池、苔むした石橋、庭園と屋敷をみわたせる築山、松の大群があるかと思えば、急に視界がひらけたところにひっそりと咲く、光琳の絵のような白梅、、、など、植治の庭だ。ここは南禅寺からはなれてはいるが、確かに南禅寺別荘群の飛び地だ。

蹲居をつかってふと立ち上がると目に入るように計算された大文字はこの日うっすら雪化粧であった。
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