まもなく建て替え閉館の藤田美術館〜特別茶会 - 2017.04.03 Mon
今期の展示が終了すると大阪網島の藤田美術館は長期の建て替えの為の閉館にはいる。(2020年まで)

この戦火を免れた土蔵、ここに床を張っただけで展示室になっている美術館は今時めずらしい。照明も古くさいし、床のオイル引きの匂いもするけれど、実はその雰囲気がとても好きだったのだが。
土蔵が守ってくれたお宝を今後も天災・人災から守るためにもっと近代的装備の美術館になるのはいたしかたないか。(東大寺の暗いお堂にあった国宝仏像がミュージアムへ引っ越された如く、残念だがしかたない、、、)

その費用を捻出するのに美術館は中国古美術絵画何点かを売却したと聞いた。(数百億とか?)
ここは職場に近いこともあって何度も来ているのでお名残惜しい。よって席主=藤田美術館の特別茶会ときいてこれは行かねば!と。茶会のあとにゆっくり名残を惜しみながらここでの最後の展示「ザ・コレクション」を拝見するとしよう。

会場は美術館のお向かいにある結婚式場・宴会場の太閤園の奥にある、料亭淀川邸。
藤田傳三郎の次男の邸宅(東邸)になる。ちなみに傳三郎と長男(本邸)、三男(西邸)の邸宅もここにあったのだが、空襲で焼失、さきほどの土蔵と次男の邸宅のみが残ったのだ。この淀川邸だけでも広大なのにそれの三倍以上の敷地があったのだから藤田財閥おそるべし。
エントランスはなんどか外から見たが、中へ入ったのははじめて。

建築は大正3年だという。まあ、長い長い、、、、どこかのお城みたいだ。迷子になりそう。

たくさんの部屋を通り過ぎて奥へ奥へ。
ここらへんはお食事を楽しむ一般のお客さまも通る。新しい増築部分や改修部分もあるが、、、、

この洋間の広間は当時の面影があるのだろう。
かつてはここでパーティーなぞもおこなわれたに違いない。
そういえば傳三郎翁は長州奇兵隊の出身であったな。

まずは料亭・淀川邸の点心からいただく。場所は大広間。
まあ、見て。この折上格天井!

欄間もすごいよ。
これは松の老大木と藤の花と見た(画像で判別できないけどね)。名前が藤田だけに。

庭に面する廊下の庇がまたすごくて、アールのついた格天井にプラスしてやっと小舞天井。(画像では室内のシャンデリアがガラスに反射してみえづらくてスミマセン)

春らしい献立。これに煮物椀や刺身やらデザートまでついてうれしい美味しい。

さて、ここからは渡り廊下をわたって一般客立ち入りできない奥の奥へ。(渡り廊下は香雪記念美術館の邸宅に似てる。ちなみに画像はちがう場所)
庭園からはうらやましげに眺めたことがあるが、立ち入りははじめて。
淀川邸には現在でもいくつか茶室が残っているが、かつて傳三郎翁が三人の息子と暮らしていた頃は、一邸に10、だからかける3の30もの茶室が網島屋敷にあったという。
なんともはやすざまじい。財力をもった男たちが茶の湯を本気でやるとこうなったという、、、もはや驚嘆するしかない。

(庭園への入り口。あいにくの本格的降りとなった)
今回の茶室は残月の間・表千家残月亭写し(二畳の広い床に六畳+二畳)。障子のすぐそとが庭園の池に面しているので、雨音がここちよく聞こえる。
伝土佐光長の斎宮女御(鎌倉時代)はお顔をお見せになっている。三十六歌仙の絵では几帳の陰でお顔を隠しているというのが見慣れた姿だったので、これはめずらしい。
広い床に負けない青磁鳳凰耳の花入は小ぶりながらかえって風情があり、いまにも開きそうな白い椿がよく似合っている。

(残月の間を池側から)
お点前はF先生。
濃茶がねりあがったころ、席主のお若い現館長さんが席中にはいられた。うわさには聞いていたがたしかに男前〜!傳三郎から下ること5代だそうだ。
(お道具は別席の展覧席のものとあわせて)
茶入が漢作唐物「田村文琳」
思いの外小さくて愛らしい。箱の「田村」は遠州の筆。
日本のビール王といわれた馬越化生(恭平)所持をどうしてもゆずって欲しくて傳三郎翁が懇願し、やっと手に入れた茶入。なのになかなかお披露目の茶会をしない。なぜならこれに取り合わせるのに交趾大亀香合以外ない、それを手に入れるまでは茶会はしない、と思い定めていたから。しかしやっと落札できたときに翁は病床にあり、披露目の茶会を開くことなく亡くなった、という。
(ちなみに当時落札するために奔走した美術商のT商店さんの現店主が展覧席の説明役だった^_^;)

(楓が芽をふく)
この席のお正客さんがなんと馬越翁の故郷(岡山県現井原市)にお住まいで馬越家旧宅もお近いのだとか。これはお話しもはずむ。館長さんが傳三郎翁は岡山の児島湾開拓事業もしていた、というお話しから、そこにある藤田村は傳三郎の名前から来ているとおっしゃる。藤田村は名前知っているが(私も岡山出身なもので)そこからきていたのか〜!!といまさらながら初めて知った!(◎-◎;)

茶杓は庸軒の「花橘」
共筒に「五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする(伊勢物語)」
茶碗は大井戸「江山」わりとシンプル、灰色がかって梅花皮も控えめ、形端整。
実際にお点前につかわれたのが青井戸(銘は聞き損なった)。くすんだ枇杷色、どちらかと言えばコチラの方が好きかも。

主菓子は白餡を薄紅の求肥でくるみ、さらに薄い白い求肥で未開紅風に包んだもの。くちどけがほろっと軽くとてもおいしいお菓子だった。
続き薄の干菓子は太宰府藤丸製、味噌餡を麩の焼きでつつんでつまんで蝶の造型がステキなのと、桜のマシュマロ。こちらもさすがのセレクト。

茶碗はのんこうの赤楽「小町」。
のんこうにしてはかせた感じの鈍い赤で、横から見ると四角の形、篦目もあり、渋い。底に「楽」印あり。
実際に使われたのは桃山の黒織部、紅葉呉器「朝陽」、これも良い感じだった。
数茶碗が、茶事でごいっしょしたことのある村田浩一郎さんの絵唐津であったのはうれしかった。(ここにもT商店の影を感じつつも^_^; かつて財閥数寄者と美術商の間には独特の絆と信頼があったのだ)
菓子器の光琳芝舟蒔絵は、この上にモノ載せていいんですか???と思うくらい贅沢な、青貝をふんだんに使った蒔絵であった。

こちらは展覧席になった六畳の茶室を外から見た物。
趣向的にはこちらの茶席の方が凝っている。雪見障子をあけるとすぐそこが池で、池の点前に手を伸ばす青葉が芽吹き始めた楓。船底化粧裏天井や斜めに切り込んだ踏み込み板など。
みなさま、お茶碗や茶杓,茶入拝見に夢中で誰一人見てられませんでしたが、床にひそかにかかっていた軸は玉澗でしたぞ。(梧桐小禽)

あとは雨にも負けず、庭を散策。
残月の間の隣にあった分厚い茅葺きの茶室ものぞいてみたかったな。

(藤田の図録はA5版の冊子で安くて扱いやすくて、とてもいい)
さあ、このお蔵の美術館最後の展示、拝見しよう。
何回か見たことのある国宝曜変天目がなんといっても目玉。不思議な宇宙的な輝きは瑠璃揚羽の鱗粉にも似て、何回見ても引き込まれる。4月に東博の静嘉堂の曜変天目はまだ見たことないが、これ以上と言うから、これも楽しみである。
みなさま、6月11日までですぞ。おいそぎを!

雨の中、土の道をあるいたにも関わらず、雨コートを着ていたとはいえ、着物に泥跳ね一つなし!着物での所作がだいぶんうまくなってきたな(自画自賛)。
この季節に使いたかった友禅の数寄屋袋。知人が染めた物。

この戦火を免れた土蔵、ここに床を張っただけで展示室になっている美術館は今時めずらしい。照明も古くさいし、床のオイル引きの匂いもするけれど、実はその雰囲気がとても好きだったのだが。
土蔵が守ってくれたお宝を今後も天災・人災から守るためにもっと近代的装備の美術館になるのはいたしかたないか。(東大寺の暗いお堂にあった国宝仏像がミュージアムへ引っ越された如く、残念だがしかたない、、、)

その費用を捻出するのに美術館は中国古美術絵画何点かを売却したと聞いた。(数百億とか?)
ここは職場に近いこともあって何度も来ているのでお名残惜しい。よって席主=藤田美術館の特別茶会ときいてこれは行かねば!と。茶会のあとにゆっくり名残を惜しみながらここでの最後の展示「ザ・コレクション」を拝見するとしよう。

会場は美術館のお向かいにある結婚式場・宴会場の太閤園の奥にある、料亭淀川邸。
藤田傳三郎の次男の邸宅(東邸)になる。ちなみに傳三郎と長男(本邸)、三男(西邸)の邸宅もここにあったのだが、空襲で焼失、さきほどの土蔵と次男の邸宅のみが残ったのだ。この淀川邸だけでも広大なのにそれの三倍以上の敷地があったのだから藤田財閥おそるべし。
エントランスはなんどか外から見たが、中へ入ったのははじめて。

建築は大正3年だという。まあ、長い長い、、、、どこかのお城みたいだ。迷子になりそう。

たくさんの部屋を通り過ぎて奥へ奥へ。
ここらへんはお食事を楽しむ一般のお客さまも通る。新しい増築部分や改修部分もあるが、、、、

この洋間の広間は当時の面影があるのだろう。
かつてはここでパーティーなぞもおこなわれたに違いない。
そういえば傳三郎翁は長州奇兵隊の出身であったな。

まずは料亭・淀川邸の点心からいただく。場所は大広間。
まあ、見て。この折上格天井!

欄間もすごいよ。
これは松の老大木と藤の花と見た(画像で判別できないけどね)。名前が藤田だけに。

庭に面する廊下の庇がまたすごくて、アールのついた格天井にプラスしてやっと小舞天井。(画像では室内のシャンデリアがガラスに反射してみえづらくてスミマセン)

春らしい献立。これに煮物椀や刺身やらデザートまでついてうれしい美味しい。

さて、ここからは渡り廊下をわたって一般客立ち入りできない奥の奥へ。(渡り廊下は香雪記念美術館の邸宅に似てる。ちなみに画像はちがう場所)
庭園からはうらやましげに眺めたことがあるが、立ち入りははじめて。
淀川邸には現在でもいくつか茶室が残っているが、かつて傳三郎翁が三人の息子と暮らしていた頃は、一邸に10、だからかける3の30もの茶室が網島屋敷にあったという。
なんともはやすざまじい。財力をもった男たちが茶の湯を本気でやるとこうなったという、、、もはや驚嘆するしかない。

(庭園への入り口。あいにくの本格的降りとなった)
今回の茶室は残月の間・表千家残月亭写し(二畳の広い床に六畳+二畳)。障子のすぐそとが庭園の池に面しているので、雨音がここちよく聞こえる。
伝土佐光長の斎宮女御(鎌倉時代)はお顔をお見せになっている。三十六歌仙の絵では几帳の陰でお顔を隠しているというのが見慣れた姿だったので、これはめずらしい。
広い床に負けない青磁鳳凰耳の花入は小ぶりながらかえって風情があり、いまにも開きそうな白い椿がよく似合っている。

(残月の間を池側から)
お点前はF先生。
濃茶がねりあがったころ、席主のお若い現館長さんが席中にはいられた。うわさには聞いていたがたしかに男前〜!傳三郎から下ること5代だそうだ。
(お道具は別席の展覧席のものとあわせて)
茶入が漢作唐物「田村文琳」
思いの外小さくて愛らしい。箱の「田村」は遠州の筆。
日本のビール王といわれた馬越化生(恭平)所持をどうしてもゆずって欲しくて傳三郎翁が懇願し、やっと手に入れた茶入。なのになかなかお披露目の茶会をしない。なぜならこれに取り合わせるのに交趾大亀香合以外ない、それを手に入れるまでは茶会はしない、と思い定めていたから。しかしやっと落札できたときに翁は病床にあり、披露目の茶会を開くことなく亡くなった、という。
(ちなみに当時落札するために奔走した美術商のT商店さんの現店主が展覧席の説明役だった^_^;)

(楓が芽をふく)
この席のお正客さんがなんと馬越翁の故郷(岡山県現井原市)にお住まいで馬越家旧宅もお近いのだとか。これはお話しもはずむ。館長さんが傳三郎翁は岡山の児島湾開拓事業もしていた、というお話しから、そこにある藤田村は傳三郎の名前から来ているとおっしゃる。藤田村は名前知っているが(私も岡山出身なもので)そこからきていたのか〜!!といまさらながら初めて知った!(◎-◎;)

茶杓は庸軒の「花橘」
共筒に「五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする(伊勢物語)」
茶碗は大井戸「江山」わりとシンプル、灰色がかって梅花皮も控えめ、形端整。
実際にお点前につかわれたのが青井戸(銘は聞き損なった)。くすんだ枇杷色、どちらかと言えばコチラの方が好きかも。

主菓子は白餡を薄紅の求肥でくるみ、さらに薄い白い求肥で未開紅風に包んだもの。くちどけがほろっと軽くとてもおいしいお菓子だった。
続き薄の干菓子は太宰府藤丸製、味噌餡を麩の焼きでつつんでつまんで蝶の造型がステキなのと、桜のマシュマロ。こちらもさすがのセレクト。

茶碗はのんこうの赤楽「小町」。
のんこうにしてはかせた感じの鈍い赤で、横から見ると四角の形、篦目もあり、渋い。底に「楽」印あり。
実際に使われたのは桃山の黒織部、紅葉呉器「朝陽」、これも良い感じだった。
数茶碗が、茶事でごいっしょしたことのある村田浩一郎さんの絵唐津であったのはうれしかった。(ここにもT商店の影を感じつつも^_^; かつて財閥数寄者と美術商の間には独特の絆と信頼があったのだ)
菓子器の光琳芝舟蒔絵は、この上にモノ載せていいんですか???と思うくらい贅沢な、青貝をふんだんに使った蒔絵であった。

こちらは展覧席になった六畳の茶室を外から見た物。
趣向的にはこちらの茶席の方が凝っている。雪見障子をあけるとすぐそこが池で、池の点前に手を伸ばす青葉が芽吹き始めた楓。船底化粧裏天井や斜めに切り込んだ踏み込み板など。
みなさま、お茶碗や茶杓,茶入拝見に夢中で誰一人見てられませんでしたが、床にひそかにかかっていた軸は玉澗でしたぞ。(梧桐小禽)

あとは雨にも負けず、庭を散策。
残月の間の隣にあった分厚い茅葺きの茶室ものぞいてみたかったな。

(藤田の図録はA5版の冊子で安くて扱いやすくて、とてもいい)
さあ、このお蔵の美術館最後の展示、拝見しよう。
何回か見たことのある国宝曜変天目がなんといっても目玉。不思議な宇宙的な輝きは瑠璃揚羽の鱗粉にも似て、何回見ても引き込まれる。4月に東博の静嘉堂の曜変天目はまだ見たことないが、これ以上と言うから、これも楽しみである。
みなさま、6月11日までですぞ。おいそぎを!

雨の中、土の道をあるいたにも関わらず、雨コートを着ていたとはいえ、着物に泥跳ね一つなし!着物での所作がだいぶんうまくなってきたな(自画自賛)。
この季節に使いたかった友禅の数寄屋袋。知人が染めた物。
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● COMMENT ●
しぇる様へ
藤田男爵の別邸(次男邸宅)に行かれたのですね。
私も、現役時代にこの別邸での宴会に参加したことがありますが、広大で、部屋の高価な
材木をふんだんに使用されているのに驚いた事を思い出します。
本邸は空襲で焼け落ちましたが、仕事で何回か立ち入ったことがあります。
正門はほぼ完全にが残存していますが、庭は荒廃しています。唯、石組と石灯篭が分解状態で集積されていて、これの本来の姿を取り戻せれば、素晴らしい文化財になるのにと残念に思いました。
幸い、石組みや灯篭は散逸部分があまりなく、いつか、復元されるこ事を祈っています。
何しろ、当時でも高価な石材で作られていたものですから。
藤田男爵の別邸(次男邸宅)に行かれたのですね。
私も、現役時代にこの別邸での宴会に参加したことがありますが、広大で、部屋の高価な
材木をふんだんに使用されているのに驚いた事を思い出します。
本邸は空襲で焼け落ちましたが、仕事で何回か立ち入ったことがあります。
正門はほぼ完全にが残存していますが、庭は荒廃しています。唯、石組と石灯篭が分解状態で集積されていて、これの本来の姿を取り戻せれば、素晴らしい文化財になるのにと残念に思いました。
幸い、石組みや灯篭は散逸部分があまりなく、いつか、復元されるこ事を祈っています。
何しろ、当時でも高価な石材で作られていたものですから。
高兄様
いやいや、うれしいお言葉。おはずかしい。
一眼レフで撮るときは気合いをいれるのですが、コンデジとの相性がいまいちで(使い方がわからんだけなんですが)最近はスマホ画像も多いのです。
そろそろ桜おっかけにお互い忙しい季節になりましたね!がんばろう!
一眼レフで撮るときは気合いをいれるのですが、コンデジとの相性がいまいちで(使い方がわからんだけなんですが)最近はスマホ画像も多いのです。
そろそろ桜おっかけにお互い忙しい季節になりましたね!がんばろう!
narahimuro様
本邸あとの公園に私も行ったことあります。
荒れ果て方がひどかったですが、へんな建物がたたなくてよかった。いずれ復元のチャンスもあるやもしれません。問題は財源ですが。今回改築に当たって所蔵品を売却しなければならなかったというのが残念です。
東京の椿山荘も一時藤田家のものだったそうで、あちらはお蔵も焼失してしまったそうです。中にどれだけお宝があったのかと思うと、、、、(涙)
荒れ果て方がひどかったですが、へんな建物がたたなくてよかった。いずれ復元のチャンスもあるやもしれません。問題は財源ですが。今回改築に当たって所蔵品を売却しなければならなかったというのが残念です。
東京の椿山荘も一時藤田家のものだったそうで、あちらはお蔵も焼失してしまったそうです。中にどれだけお宝があったのかと思うと、、、、(涙)
こんばんは
太閤園はずっと昔から一度行かねば、と思っているところでした。
そういう背景のある場所だったのですか。
お道具の数々はもちろんですが、凝らした天井や欄間など建築の素晴らしさも圧巻ですね。
本当にこの頃の人の財力は桁違いで圧倒されます。
そういう背景のある場所だったのですか。
お道具の数々はもちろんですが、凝らした天井や欄間など建築の素晴らしさも圧巻ですね。
本当にこの頃の人の財力は桁違いで圧倒されます。
cox様
太閤園は表は現代建築ですが、奥にある淀川邸はすばらしいですね。庭園もすばらしい。
今回初めて数ある茶室の一つに入れてうれしかったです。
大阪にこられることがありましたら是非。京橋の近くです。
藤田美術館はしばらく閉館なのが残念ですが。
今回初めて数ある茶室の一つに入れてうれしかったです。
大阪にこられることがありましたら是非。京橋の近くです。
藤田美術館はしばらく閉館なのが残念ですが。
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だんだんと、春らしく
京都にも桜の季節、やって参りましたね
桜を愛でながらの御茶も、愉しい季節になってまいりました^^
しぇるさん、
御写真の、お手前も
ますます、上達されていますね
構図の安定感が、素晴らしい^^